同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

徳島県立文学書道館で思う「最初で最後」

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 全く興味のなかった徳島県立文学書道館を訪ねたのは瀬戸内寂聴さんの小説を読むようになったからだろう。寂聴さん専用にひと部屋設けられていて、初版本が壁いっぱいに飾られているほか、托鉢していたときの衣類などが陳列されている。時間があればビデオを見るところなのだが、計80分はさすがに。

 驚いたのは、この徳島県立文学書道館が文庫本を何冊か出版していることだった。記念に4冊買ったほか、ポストカードも何種類か買った。「瀬戸内寂聴便箋」とかいう便箋も買った。

 実家から歩いて10分くらいのところにあるとはいえ、実家に帰る機会がそうそうないので、「これが最初で最後」と思っておかないと悔いが残る。だから買う。

「これが最初で最後」と思って取り組むことが増えていくのだろうなぁ。そんなことを思うお年頃になったということである。めでたしめでたし。


 

 

そこまでして阿波踊りをしたいのか(笑い)

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 今年は徳島に帰って阿波踊りを踊るぞーと思っていたのに、(1)会場は「あわぎんホール」、(2)出演者も観客も徳島県内在住者限定、だそうな。新型コロナ対策だと言われると仕方ない。踊り子は声を出すからたちまち感染する。

 これに対して、毎年踊りに来ているホリエモンが「そこまでして阿波踊りをしたいのか」と呆れた。

 確かに。屋内で踊ることができるのは有名連に限られるだろう。大学や企業の連はお呼びではない。有名連の踊りを見るより、私は自分が踊りたい。踊ってなんぼの阿波踊りなのである。徳島の街全体に鳴り物の音が響かない阿波踊りなんて。

 というわけで、ホリエモンが茶々を入れる気持ちは非常によく分かる。

 その一方で、阿波踊りが完全に中止になるよりはましかな、とも思う。音は響いてこないけれど、阿波踊りをやっていると思えば、少しは気が晴れるかもなぁ。

 来年こそ踊りに帰るぞ。


 

酔っ払いとパナソニック

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 酔っ払ってろれつが回らない人が作ったに違いない。

 ついでに「かんれんち」と書いてあればもっとよかったなぁ。

レッツノートが7分の6!

 東京・霞が関の某省記者クラブで会見に出た記者7人のパソコンの6台が何とパナソニックのレッツノートだった。

 おー。カスタマイズ版41万円を36回払いで買った私としてもウレシイ光景であった。

 こういうのをパナソニックがPRできればいいのだが、できないだろうから、代わりに私がここに載せておく。

『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ・文春文庫)は平成文学の名著の1冊


 2016年に報じられた東大生による強制猥褻事件をヒントにした100パーセント想像の小説である。

 姫野さんが文庫版あとがきで書いているように、世の一般的な東大生を普遍化した小説ではない。強制猥褻事件を起こした5人の若い男が学歴に基づく勘違いをそれぞれ持っていて、それが強制猥褻事件の根っこにあるという見立てで、加害者の男5人の家系まで描いてある(もちろん100パーセント想像)ので説得力がある。加害者の歪みは親の歪みの発露であることがひしひしと伝わってくる。

 被害者の女性ももちろん100パーセント想像の人物だが、どこにでもいるという前提の普通の家庭で育った若い女性で、そういう女性が強制猥褻の被害に遭ったという設定は共感を呼ぶ。

 多目的便所でお手軽セックスをした結果芸能人生命を絶たれた男がいたが、東大だの芸能人だの収入だのというところで何か勘違いする阿呆の話として読むべきだろう。

 姫野カオルコさんは神の視点で登場人物を描き、どちらかに加担することはない。絶妙のバランス感覚に私は驚いた。だからなのか、抑えた筆致から被害女性の哀しみが突き刺さる。

五輪観戦を楽しみにしていた人の怒り?

 五輪の中止(延期含む。補償あり)派の私なので、それみたことかの感染急拡大と4回目の東京緊急事態宣言である。

 緊急事態宣言によって無観客開催になりそうだという報道の中に、チケットを手に入れている人の「腹が立ちます」という声がある。うーん。そこか? そこを言うか? それを報じるか?  

 感染急拡大に伴う緊急事態宣言で死ぬ思いをしている人たちがいるのに、そんな人の「腹が立ちます」って何だ? もちろん「腹が立ちます」自由はある。いろんな立場の人がいるから、そこはそれぞれの思いがあっていい。

 しかし、私なら敢えてそこは報じない。「腹が立ちます」の人を守るためにも。

吉田健一さんの格調高い日本語訳『ハワーズ・エンド』(世界文学全集・河出書房新社)


 吉田健一さんの翻訳である。原文を非常に丁寧に日本語に置き換えていると思われ、まどろっこしい部分がないわけではないが、誤読をしたくても絶対にできない。主語述語修飾語をかっちりと、置くべき位置に置いているからだろう。

 英国が植民地を持っていた時代の“支配層”の考え方や行動が描かれている。彼らが浮世離れしているのは、高等遊民が出てくる夏目漱石の小説と同じか。

 そんな中で経済苦に喘ぐレオナードが小説の定石通りに出てきて光る。光るのだが、解説にあるように、もし著者のフォースターに遺産がなく、もっと生活の苦労をしていれば、深い洞察を持ってレオナードを描いただろう。

 この小説は吉田健一さんの格調高い和訳を楽しむ本なのかもしれない。

オモロい『危険な旅路』(冒険の森へ 傑作小説大全・集英社)

 「冒険の森へ 傑作小説大全」シリーズの魅力はいろいろな作家のいろいろな小説を読むことができるからだ。視野が広がるというか、読まないだろう小説を読む機会を与えられることだ。

 私はこの本で船戸与一さんの小説を初めて読んだ。片岡義男さんも、逢坂剛さんも、初めてである。名前は知っていても、読んだことがなかった。もったいないことをしていたのである。

 1人の小説家の全集もいいけれど、幅広い小説家の作品を強制的に読む機会を得られるこのシリーズのような全集は勝るとも劣らない。



【長編】
船戸与一「夜のオデッセイア」
矢作俊彦「リンゴォ・キッドの休日」

【短編】
石川淳「金鶏」
森詠「わが祈りを聞け」
片岡義男「ミス・リグビーの幸福」
谷克二「サバンナ」
逢坂剛「幻影ブルネーテに消ゆ」

【掌編・ショートショート】
川端康成「顔」
坪田譲治「森の中の塔」
河野典生「かわいい娘」
眉村卓「帰途」
半村良「酒」
阿刀田高「笑顔でギャンブルを」
星新一「もたらされた文明」

さすまたは難しいのか

 鉄パイプを振り回す上半身裸男を捕らえようとした神奈川県警警察官の1人がさすまたを持っていた。どう使うかと期待して見ていたところ、鉄パイプ男の足元に転んでしまった。

 なぜに? 

 さすまたを持っていながら、なぜに接近戦になって、しかも転んだのか。市民に映像をバッチリ撮影されてその映像をテレビ各社が放送したからさぞかし肩身の狭い思いをしているだろうが、なぜさすまたを活用できなかったのか知りたい。

 対象者の背後から盾で押し倒すワザに違和感はなかったが、初めて知った警察の逮捕ワザは「倒れた対象者の足を持ち上げる」だった。そこまでやるんだなぁ。

 で、さすまたは? それなりの接近戦を強いられるので、捕捉できないと逆に命取りになるのではないかという疑問を持っているので、なぜに失敗したかを知りたい。


 

  

文庫本で復刊された『チッソは私であった』(緒方正人・河出文庫)

 もともとあの渡辺京二さんが編集し、あの葦書房で出版された本だ。ほんの少し前までは古本で買うしかなく、しかし価格が高騰していて、さすがに手を出せなかった。それが昨年末に文庫本として復刊された。河出書房新社に拍手である。名著の復刊は出版社として大事な仕事の1つである。

 緒方さんは漁師である。水俣病で狂死した父親の敵討ちとして始めた水俣病闘争から降りる目線は、魚をはじめとする人間の“食べ物”たる生き物に対しても優しく降り注ぐ。

 私の福島時代に取材で大変お世話になった小野賢二さんが重なる。小野さんは南京虐殺に関わった会津六十五連隊の元兵士を訪ね歩き、いくつもの日記を掘り起こした人である。一級資料として本になっている。その小野さんは常々「私があの時代に兵隊であの場所にいたら同じことをしていた」と語っていた。

 一人ひとりの人間を奪う仕組みは形を変えて今も随所にある。アイヒマンはいたるところで生まれているに違いない。

 本書ではいろいろな問題の提起があり、そのどれも深く深く頷く。本当にいい本だ。名著の復刊を深く喜ぶ。


 






 

部屋の真ん中に置く本棚としては

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 終活の一環で本の整理をしている。問題は本棚だ。私の“奇策”はラックである。これを部屋の真ん中に置いた。両側から入れることができるし、風通しがいいからカビは生えにくい(たぶん)。棚の間が高いので大型本から文庫本まで収容できる。問題は両端に衝立がないことだ。私は荷造り用のラップを巻いて衝立代わりにしている。ラックにラップ。

 すでに部屋の壁際には本棚を置いてあるのでラックを真ん中に置くしかなかったのだが、そもそも両側から取り出すことができる利点を生かすには部屋の真ん中が定位置だろう。

 ラックはいろいろなメーカーが作っているが、五島さんお勧めのアイリスオーヤマ製を選んだ。以前買った「錆びない」と謳うドウシシャの製品を買って、予想通り見事に錆びたので、ドウシシャは絶対に買わない。

 というわけで、本棚がぎゅっと詰まったこの部屋で死んでいけるといいなぁと思いながら、終活を進めている。


 

 

ヨドバシドットコムが意外にいい

 アマゾンで買い物をすることが多いが、最近買い物が増えてきたのがヨドバシドットコムだ。例えば、ふくれんの豆乳。楽天で売り切れていてもヨドバシドットコムなら手に入る。アマゾンや楽天ほど注目されていないせいかもしれないが、価格が妥当で、品ぞろえがいい。都内で午前4時40分ごろ注文したら当日夕方届いた。

 特にいいのが電気製品だ。アマゾンはデタラメな業者が出品していて評価が荒れていたりする。しかしヨドバシドットコムはさすが電器屋なので(電器屋なのか?)万一の場合は返却ができるし、カメラ屋なので(カメラ屋?)アマゾンで時々見られるカメラやレンズの中途半端な商品は売られていない。そういう点で安心できる。

 と思っていたら、何かのサイトにヨドバシドットコムの評判が上がってきたとあった。アマゾン独走を放置してなるものかということだろう。商機もある。あとはビックカメラのように、無金利60回払いOKのサービスが備われば鬼に金棒である。

日本文学全集24巻『石牟礼道子』(河出書房新社)

 世界文学全集に収録された石牟礼道子さんの『苦海浄土』(河出書房新社)を読んで私の天地がひっくり返った。その石牟礼さんのほかの小説のいくつかを集めたのが本書だ。

 非常に読み応えがある。というか、すらすら読むことができない。音読するのがいいのではないかと思いつき、しばし音読してみたところ、これがちょうどいいのである。手応えのある文章なので黙読では消化不良を起こす。不思議なことに音読すると消化にいい。

 読み通すのに時間がかかったが、石牟礼文学はそういう読み方が適切なのではないか。

 この本も何カ所も赤色のボールペンで線を引いたが、その中から1つ挙げるとすると、これ。

《片耳じゃの、片目じゃの、ものの言えない者じゃの、どこか、人とはちがう見かけの者に逢うたら、神さまの位を持った人じゃと思え》=『水はみどろの宮』

立花隆さん愛用のシャーペンを買ってみた

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 徹底して選ぶ人だったそうだから、優れものに違いない。というわけで、立花隆さんが仕事部屋のあちらこちらに置いていたとうシャーペンを買ってみた。

 ぺんてるのタフ0.9ミリ(2B)である。

 田舎の文具店で買ったので100円くらい高い値だったが、普通は300円くらいで買うことができる。

 これまで私はプレスマンを愛用してきた。私にとって唯一の欠点は細いことだった。一方このタフは太いから持ちやすい。芯が軟らかいので書きやすい。悪くない。

 というわけで、あと2本くらい買うことにする。ただしアマゾンか大手文具店か、300円ほどの定価で売っている店で買う。


 

 

立花隆さんを見たことがある

 立花隆さんが亡くなった。大学時代から本や雑誌で接してきたので、40年近い一方的な“お付き合い”だった。つい数カ月前も立花さんの本を買ったばかりだ。

 一度だけ見たことがある。25年くらい前のことだ。平日の昼間だったと思う。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅→後楽園駅で進行方向の左側に向かって吊革を持って立っていた。ふと右を見たら、吊革を1つ置いたところに立花さんが立っているではないか。なぜか周囲をキョロキョロ見回していてけっこう挙動不審だったが、紛れもなく立花さんだった。

 終活の一環で本をどんどん捨てているけど、立花さんの本は1冊も捨てていない。読み返す可能性があるからだ。

 NHKスペシャルあたりで追悼番組を組むといいなぁ。

元ひめゆり学徒宮城喜久子さんを思う沖縄慰霊の日


 何年か何十年か経って「ああ!」と気づくことがある。私はこのことに気づくのに30年以上かかってしまった。

 このことというのは元ひめゆり学徒宮城喜久子さんのこころの中である。お会いしたのは昭和の終わり。私が沖縄に移住した1987(昭和62)年の、あれは何月だったか。『歩く見る考える沖縄』という本が地元の出版社から発売され、それをもとにしたフィールドワークの1つとして宮城喜久子さんに初めてお目にかかったと記憶する。

 場所は荒崎海岸だった。迫る米兵を前にひめゆり学徒が手榴弾で自決を強いられた岩場である。岩場に小さな碑がはめ込まれ、その場と分かるが、私一人でもう一度行こうとしてもたぶんたどり着くことはできない。そういう現場で宮城喜久子さんはそのときの状況を、まるで目の前に見えているかのように話してくれた。

 1フィート運動のボランティアをしていた関係でその後何度かお目にかかることがあり、ひめゆり平和祈念資料館を当時の家族で訪ねたときもお目にかかった。宮城さんが亡くなるまで年賀状を交わしてきた。

 それなのに、今ごろなのである。ああと気づいたのは。

 友人たちが自決を強いられた場所で、生き残った宮城さんに語らせることは、宮城さんにとって拷問ではなかったか。友人たちの遺影が飾られたひめゆり平和祈念資料館で、生き残った宮城さんが入館者に語ることは、宮城さんにとって塗炭の苦しみではなかったか。

 もちろん、戦争経験者としての使命感をお持ちだったのは間違いない。それでも、ふとした瞬間に亡くなった友人たちと生き残った自分の落差をじっと見て、自分を責めてしまったことがあるのではないか。

 そんなことを思いながら過ごす6・23。

 
 

 

『朝日』近藤康太郎さんのコラム再び

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《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と書く近藤さんは高給取りの朝日新聞記者である。社会的地位も賃金も非常に高い朝日新聞社を辞めてから言うべきセリフだと気付いていないのだろうなぁ。本物の百姓・猟師に失礼だと思わないのだろうなぁ。「百姓」という『朝日』でも不快語と指定されているはずの単語を意図して使うあざとさにも気付いていないのだろうなぁ。自分の小賢しさに気づいていないとしたら書き手としては致命的である。

《文才は確かにあったけれど、人間としては尊敬出来なかったな》という自分への評価を紹介して、《人物眼は、ある》とおどけてみせたが、文才は否定していない(笑い)。どんな文才なのか、私には分からない。自分を持ち上げる誰が書いたか分からない文章を新聞に紹介するのが果たして文才なのだろうか。朝日新聞記者のくせに、それを読者が分かっている場所で、恥ずかしげもなく《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と嫌らしい書き方をするのが文才なのだろうか。まさかと思うが《であるからして》が文才なのか。だとすると、文才の定義を私は全面的に変えなければならない。

 新聞社に勤めて高給をもらいながら自社の新聞に書くコラムは非常に難しい。私がブログに地味に書き綴る自分を落とすネタや下ネタは新聞に書くネタではない。記者より知識も経験も豊富な読者が多いから中途半端なネタなら失笑を買う。そこで取材したネタに落ち着く。無難なのである。もちろん書き方で差がつくけれど。

 近藤さんのこのコラムは確か6月5日付け朝刊だったと思うが、他社の記者にも文章の書き方を教えているという話だった。自分の技術を抱え込むのではなく後輩や同業者に広めていこう、親切にしよう、という姿勢はいい。しかし、自分のことを例に挙げるのはどうだろう。恥ずかしくないのだろうなぁ。《百姓》だから我田引水はお手の物なのかな。私なら他人に親切にしている人を探してきて紹介するけどね。

 

『性慾』は誤解なのか

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 東京・笹塚の十号通り商店街で昼飯を食べて店を出たところで、声をかけられた。
「落としましたよ」

 店を出たところに本が落ちている(上の写真のように落ちていた)。あれ? 店を出るときに左肘で挟んでいた私の本である。

 取ろうとしたら、さっと手を伸ばして拾い、私に渡してくれるではないか。

「あ、ありがとうございます」

 深い感動に包まれながら、万感の思いを込めて感謝の言葉をフルオーケストラの声で伝えた。

 清楚で美しい、若い人であった。目元が涼しい。軽く会釈して駅に向かうその人の後ろ姿を呆然と見送った私の手元の本をあらためて見ると『谷崎潤一郎 性慾と文学』。

 げげげ。この本の題名を見られたかもしれない。汗が噴き出す。

「いや、違うんです。誤解です。ひーん」

 叫んで追いかけそうになった。何が違うのか、何が誤解なのか、ワタシにも分からない。



あのNHKがUFOを報じるとは

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 正午と夜7時のニュースでNHKはUFOを報じた。米国家情報長官室という公の機関が米議会向けの報告書を公表したことを受けて報じただけだが、映像付き(すでにインターネット上で見ることができる映像だ)である。厚遇ではないか。子供のころにUFOに関する本やテレビを半信半疑で読んでいた私は、NHKが正午と夜7時のニュースで報じたのが嬉しかった(笑い)。

 米国にしてUFOの解明は全くできていない。しかし存在を公に認めたのだから放置プレーを続けるわけにはいかないだろう。ただし、ホーキング博士は確か「宇宙人と接触すべきではない。なぜなら善意の生命体か悪意の生命体か分からないからだ」という趣旨の見解を残している。どうすればいいのだろう(と私が真面目に言うのも何だが)。

 機密指定になっている情報も米国は公開して、対策を国連で検討すべきではないか。地球上で戦争や内戦をやっている場合ではないと目が覚めるかもしれない(それはそれで恐ろしいことだが)。

 米国がUFOを認めたという点で、矢追純一さんは先見の明があった。その矢追さんはご存命なのか。ネットで検索してみたら、宇宙塾とかいう催しをやっている。宇宙塾? よく分からないが、NHKも新聞も矢追さんのコメントを取って欲しかったなぁ。日本テレビは矢追純一さんをキャスターに、機密指定の情報を追いかける番組をつくってはどうだろう。

 

  

江藤淳の随想解説だから少しは理解できた『小林秀雄の眼』


 40年ほど前に大学受験生だったとき、小林秀雄の小論で苦しんだ、というより内容が半分i以上理解できず、よくある例えだが、トンネルを出たかと思ったらまたトンネルに入る列車のような、暗闇から出て少し見えたと思ったらまた暗闇に入るという程度の理解で、途切れ途切れに少し見えた光景をつないで全体を無理矢理把握しようとした。小林秀雄の何がいいのか皆目理解できず、新潮社から出ている小林秀雄全集も3巻目で止まっている。

 それなのに、いや、それだからこそ、というべきなのだろうか、買ってしまった『小林秀雄の眼』(中央公論新社)である。この本は小林秀雄の小論の理解を深く手助けしてくれた。著者の江藤淳のおかげだ。小林秀雄の文章が短く載り、その数倍の江藤淳の随想解説があるから、「ほー。そういうことか」と頷く。江藤淳の文章がなければ、40年前と変わらずトンネルの中の暗闇で身動き取れなくなっていたのは間違いない。

 江藤淳の文章を読んでようやく「ほう、小林秀雄はええこと書いとるがな」と少しだけ思う。江藤淳の文章は小林秀雄から大きくはみ出していて、私には江藤淳のほうがいいのではないかという結論になった。

 結果として数ページおきに赤線を引きページの角を折った。これほど唸らせてもらった本は久しぶりかもしれない。最低でも赤線を引いたところは読み返して脳みそに沈めたいのでこの本は読み返す。

 いつものようにカバーを外し、東海道線で読んでいたら、少し離れたところにいた初老の男性が(って私も初老だよな)私の本をじっと見ていて、背表紙に記された題名を読み取ったらしい瞬間満足そうな顔をした。大船駅で降りたので、誰か関係者だったりして。

 そういえば小林秀雄の墓を友人と一緒に鎌倉の寺で探し回ったのはいつだったか。日暮れとの競争だった。ようやく見つけたのは小さな小さな墓石で、ああさすがだと感嘆した。

 もう一つそういえば、江藤淳はわが車谷長吉さんを高く評価していた。『江藤淳は甦る』を読まんといかん流れになってきた。文庫本になってくれるとありがたいのだが。


 

家を買うか借りるかという問題はそもそも

 家(マンション)を買うべきか借りるべきかという話題がインターネットに時々出てくる。

 若いうちは賃貸でいいかもしれない。しかし、だ。例えば東京・新宿区の地下鉄早稲田駅の辺りで見てみると、20平米程度で月額8〜9万円はかかる。年間ざっと100万円である。8年も借りれば800万円だ。2年に1回の更新料を加えると、もっと増える。

 8年暮らして800万円以上使って、何も残らない(笑い)。

 ごく一部の金持ちは別として、年齢が上がるにつれて普通はローンを組みにくくなる。例えば45歳で30年ローンを組むと、75歳まで支払うことになる。そこまで仕事と健康を維持できるかどうか。

 というわけで、可能なら早めに買うほうがいい。ただし、大震災で倒壊したら“資産”が吹っ飛ぶ。私が買うなら(もう買えないけれど)、国が公表している地盤データをよく見て危険地帯を最大限避ける。もう1つは富士山が噴火した際の火山灰がどう流れるかも見る。火山灰が20センチも積もる三鷹市は避けるだろうなぁ(買えないけれど)。

 もっとも、田舎に家があるという人は、そこにいずれ住むことができるなら、都会で賃貸生活をしていいかもね。

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(新潮文庫)

 確か『毎日新聞』の書評面で取り上げられていた本である。アマゾンで買って長い間積ん読にしていた本書をようやく読んだ。ピュリツァー賞文学部門を受賞したり、『ニューヨーカー』に掲載されたりして、注目を集めているインド系作家の小説だ。

 9編の中で私が最も共感した作品は本の題にもなっている『停電の夜』である。引き戻せないところまでの亀裂が走った若い夫婦の物語は読ませる。物静かで繊細な記述に引き込まれた。全体に移民系文学とでも言えばいいのか、そういう点で米国人に新鮮な視点を提供したのではないか。評判の『三度目で最後の大陸』は米国人が好みそうな物語だと私は思った。

 私の小説吟味力ではこれ以上は何も書けない。私の限界である。

 

 

 

本棚の基本は著者別とテーマ別

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 本があふれ、床に積み上げた未読本に足をひっかけて転倒しそうになるキケンな事態が何度も起き、意を決した。本を捨てるぞ捨てるぞ捨てるぞ。(1)あくまでも今の時点で、(2)将来読み返すことはない、という条件で本をふるいにかけて、捨てまくる。

 本の整理をしていて出てきたのが、同じ本を複数買っていることだった。高橋源一郎さんの『小説教室』は3冊もある(笑い)。うち1冊は敬愛する女性からのプレゼントなので自分が買ったのは2冊だが、ほかの本と違って深刻度が大きい。というのはこの本を私は読んでいる。読んでいるのにまた買ってしまったのは、読んだことを忘れてしまっているからだ。

 同じ本を複数買った事例はほかにもあるけれど、ほかの本はまだ読んでいない。本棚に入らないのでその辺に適当に置いてしまい、買ったことを忘れてまた買ってしまうわけだ。わけだって、おい!

 こういう事態を避ける方法で私の頭に浮かんだのは1つだった。著者別テーマ別に置くしかない。あっちこっちにバラバラに置くから、チェックできないし、頭に残らないのである。

 もちろん私の頭が腐ってきているというのが最大の原因だが、ドライアイスで冷やすわけにもいかない。

 というわけで、本棚から本を全部出し、不要な本は捨て、あとは著者別テーマ別に並べていく。長倉洋海さんの場合大型写真集と新書があり、大きさが全く異なるのだが「著者別テーマ別」のルールに従うと並べるしかない。こうして集約していけば、同じ本を複数買う失敗は今後避けることができる、のではないだろうか。

 この集約整理に問題があるとすれば、いったん全部出した本をルールに基づいて本棚に並べるのは時間がかかるということである。取り組んで数カ月経つのに未だに本棚に収まっていない本が多い。パズルのように並べ替えをしなければならないので時間がかかるのである。何をやってんだか。

終活の片付けで見つけたもの

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 やり始めると徹底してしまう悪いクセがあり、終活の一環で始めた片付けが止まらない。綿ぼこりと戦いながら、片っ端からゴミに出し、粗大ゴミは市の施設に運び、という作業を地道にしていると、ダイハッケンがあったりする。

 その1つがこれ。IIJのマイクロSDカードの契約書類一式である。IIJの文字を見た瞬間クレジットカード決済の明細のIIJと繋がった。それまでは何かの費用(って何の費用だ?)だと思い、月額1000未満なので首を傾げながらも何かの費用だ何だか分からんけどと思って放置してきた。それに違いない。

 徳島の親にタブレットを渡し(たような記憶がないわけではない)、その通信用のマイクロSDカードだ。こう断定できるのは几帳面な舎弟1号のメモが入っていたからである。そこには私の母の名前が記されているので、そういうことなのだろう。

 ユーザーIDやパスワードなども記されているので念のためIIJのサイトにログインしてみたら、まさしく。《解約可能2016/9/1〜いつでも》というメモも残っていて、IIJにずいぶん寄付してしまったようだ。遅ればせながら解約して、年間1万円ほどの無駄を解消できた。

 片付けをしていなければ見つけることができず、つまり気づかないままお金がIIJに流れ続けたわけで、片付けの御利益であるな。

 ところで、あのタブレット(を親に渡していたとしたら)はどうなったんだ?

ああ阿波銀行

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 太陽光発電関連会社テクノシステムズ(横浜市)の詐欺被害に遭った金融機関として阿波銀行が挙がっている。融資額は約7億5000万円。

 バブル経済のときにも一切踊らず、堅実な経営をしていたとしてかつて『毎日新聞』経済面のコラム「経済観測」で誉められていた銀行である。もっといえば私の父が勤め上げた銀行で、私はその給料で東京の大学に行かせてもらった。

 その阿波銀行がこういうところで名前が出るとは。不名誉と思うのは私が当事者ではないからで、融資した横浜支店や本店の当事者は不名誉どころの話では済むまい。

 阿波銀行は5月28日付でサイトに「一部報道について」という題名で文書を載せている。

・・・・・・・・・・
 このたび、報道されております当行に対する融資金詐取事件につきましては、現在捜査中であり、捜査に協力する立場から、当行からのご説明は差し控えさせていただきますので、ご了承ください。
 なお、本事案につきましては、既に前年度決算において処理を終えており、当行の今年度業績に影響を及ぼす懸念はございません。お客さま、関係者のみなさまに多大なご心配をおかけしましたことを心よりお詫び申しあげます。
【本件に関するお問い合わせ先】あわぎんお客さまサポートセンター(以下略)
・・・・・・・・・・

「一部報道」という書き方が泣かせる。新聞もテレビも阿波銀行の名前を出しているのに「一部報道」って。

児童相談所職員の性暴走について

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 一時保護されていた女子中学生をホテルに誘ってセックスした男性職員23歳、女子高生をホテルに誘って猥褻な行為をした男性職員27歳。どちらも逮捕されて新聞に名前が載った。彼らを擁護するつもりは毛頭ないけれど、魔が差したのだろう。若い男の性欲は暴れ馬のようなもので、手綱を取り損ねて“落馬”する男を私は「阿呆め」とは思うものの一分も同情しないわけではない。

 児童相談所で女の子を担当するのは女性職員にしてはどうだろうか。あるいは80歳以上の爺様にするとか。高齢化の時代に高齢男性(性的妄想は旺盛だが性的能力が皆無になっているはず)を雇用するのは時代の要請にも合う。

 どれだけ教育をしても人間には魔が差すことがある。だってにんげんだもの。いずれまた似たようなことが起きる。

 態勢を見直すほうがいい



山田詠美さんの連載が始まる期待と

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 長年不思議だった。昭和の終わりごろから平成にかけて、『毎日新聞』の日曜版が断トツで面白かったからだ。部数を減らし続けていた新聞社が、他社に比べて給料の少ない新聞社が、なぜここまで日曜版を充実させることができるのか理解できなかった(笑い)。

 それがようやくというべきか、ここ最近の日曜版は毎日新聞社の体力相応に貧相な内容に落ち着き、手抜き紙面に私は愛想が尽きていた。いくら貧乏でもここまで読者を馬鹿にするのかと。夕刊だってそうだが、武士の情けでここでは触れない。

 ところがだ。あの山田詠美さんの小説連載が日曜版で6月から始まるという。しかも宇野千代さんの「生きて行く私」を意識して書いていくという。これは楽しみだ。落陽の紙価を高めるとはこのことだろう。

 社員記者が書く面白くも何ともないコラムが夕刊に目立つ『毎日』は、コラムも手練れの小説家に書いてもらうほうがいい。

 

おもしろうてやがて悲しき『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』(森功・幻冬舎)


『週刊新潮』の見出しが独特の味を出している理由がよく分かった。ひと味もふた味も捻った見出しを読むたびに、いったいどれほどの時間をかけて単語と表現を生み出しているのだろうかと思ってきた。週刊誌の見出しは編集長権限だと思っていたが、『週刊新潮』の場合は齋藤十一が長年その権限を握っていたのだった。

 その齋藤十一は『週刊新潮』で文学をやりたかったらしい。

《キミは何を言ってるんだっ、小説家というものは、自分の恥を書き散らかして銭をとるもんだ。それがわからないで小説を書くバカがいるかっ》と瀬戸内晴美さんを叱りつけた齋藤十一は、『週刊新潮』で「カネ・女・権力」に狂奔する人間を取り上げ、例の捻りに捻った見出しをつけた。なるほど文学である。

 本書では齋藤十一の離婚と再婚にもしっかり触れていて、齋藤十一の「カネ・女・権力」を遠慮なく描いた。齋藤十一への最高の敬意ではないか。

 知性あふれる人が斜に構えるから「俗物」と自称できたのだろう。《筆という武器を手にする物書きが、司法の場に訴えでて身を立てるという手段を嫌った》という辺りにも覚悟を決めた俗物性を垣間見ることができる。

 テレビ局のインタビューに応じた映像を見て「老醜だ、もう死ぬべきだ」とつぶやいた翌朝、お茶を飲んで意識を失い亡くなる美しい終焉よ。

《誰だって人殺しの顔を見たいだろ》

《僕は忙しいんだ。毎日音楽を聴かなくちゃならないから》

《キミたちは、僕が読みたい本をつくればいいんだよ》

《僕の墓は漬物石にしておくれ》

 破格と言うべき齋藤十一の語録には斜が見え隠れする。

 そのとおり、漬物石を墓にしたというから、鎌倉の建長寺で探してみるか。


箱根駅伝アンカー逮捕への疑問

 箱根駅伝を走った大学生(21歳)が18歳未満の少女と性交したとして東京都青少年健全育成条例違反(反倫理的な性交等)などの疑いで逮捕された。大学生は「18歳と思っていた」と供述しているそうな。

 SNSで出会ったそうで、私が若いころにSNSがあれば私だって同じことをしていた可能性は十分ある。若い男の性欲は暴れ馬なのである。乗ったことはない。あくまでもイメージね。ヒヒン。

 50や60のおっさんが同じことをしたらアウトだし同情の余地は全くない。しかし21歳の元気な若者である。私は深く同情する。彼が箱根駅伝など関係のない普通の大学生なら全国に報じられることなどなかっただろう。

 金銭の授受はなかったそうだから、純粋な(純粋な?)性欲の処理である。有名税にしては重すぎないか。

 私が大学生のころそんな条例はなかったから、女子高生とセックスしても何の問題もなかった。それだけになおさら今回の逮捕と実名報道は解せない。

 胸を張ってきれいごとを言うことのできる男が一体どれだけいるだろうか。


ワクチン接種は薬剤師の仕事から遠い

 なんで薬剤師が出てきたのかワケが分からない。新型コロナワクチンの打ち手が足りないということで薬剤師が挙がっているというのだ。

 注射を打ったことのない人間に打たせるのか? 無謀と言うほかない。

 薬剤師より適役はいくらでもいる。すでに試行されてるように、まず歯医者だ。歯ぐきに注射を打つことができるのである。私など想像するだけで卒倒する。その辺の医者より能力が高いのではないか。

 次は獣医師である。動物相手に注射を打ったり採血したりしているので、経験豊富と言える。

 さらに検査技師を忘れてはならない。注射は打つことができないが、採血はしている。そのそも注射器を持ったことのない薬剤師より圧倒的に信頼できる。

 というわけで、薬剤師は本業をやってもらえばいい。温度管理を失敗してワクチンを駄目にしてしまう事例が発生しているが、薬剤師が管理していればこんなことにはならないはずだ。大病院ではダブルチェックやトリプルチェックをしているようなので、ワクチンも複数で管理する態勢を取らせよう。

 基本は適材適所である。
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