同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

文章力の時代

 文章力が求められる時代に突入した。電脳情報網での情報発信も電子手紙でのやりとりも、すべて文章で行われている。

 ということは、文章力のない人は、自分の意思を相手に十分伝えることができない恐れがある。

 私の友人が仕事相手に送った言葉足らずの電子手紙が仕事相手を困惑させたことがある。たまたま私が双方を知っていたので、間に入って友人に真意を聞き、それを仕事相手に分かりやすく伝えて一件落着させた。

 私が双方を知っていたからよかったものの、そうでなければ誤解を解くのは難しかった可能性がある。友人同士なら「おい、どういう意味だ?」と気軽に直接聞けるが、仕事上の関係しかない者同士なら遠慮が働くから、途端に解決が難しくなる。

 文章力不足で誤解を招く恐れのある人は従来通りの手段、例えば会って話したり電話を使ったりするほうが無難だ。

 しかし、子供なら文章力を養うことは可能だ。

 その方法は簡単である。新聞を読ませるのだ。私が自分の子供で実験して効果を上げた方法を具体的に言うと、小学生には『毎日小学生新聞』、中学生には『毎日中学生新聞』を読ませる。もちろん自宅で定期購読する。

 小学生でも5年生ぐらいになれば本紙を読む力はそれなりにあるから、『毎日新聞』も読ませる。読むべき記事のいくつかは私が指示する。そして、読んだ記事を色鉛筆か色マジックで囲ませる。こうすれば、子供が読んだ記事は印がつくので、私は必ず追いかけて読み、子供との会話の話題にしてみたりするのである。

 電脳情報網の登場で新聞は不要だと知ったふうなデタラメを言う人が時々いるけれど、新聞の利用法や読み方を知らないだけである。

アジア

 欧米人の顔を見るたびに思う。日本人とは根っこが違う、と。

 彫りの深い顔立ち。高い鼻。くぼんだ目。黒色ではない瞳の色。背の高さ。肌の色。ABCDEFG……という文字。

 一方、アジア人を見ると、「ああ、仲間だなぁ」と思う。私の顔立ちと何も変わらない。違和感がない。

 それだけの理由だが、日本人はアジア人とこそ仲良くしなければと思う。

大京管理の“仕事”ぶり

 マンションの屋上防水がまだ大丈夫かどうか、集合住宅管理組合センター(集住センター)の1級建築士に診断してもらった。

 1級建築士は10分ほど見て、「あと10年以上大丈夫です」と太鼓判を押してくれた。「これなら、築20〜30年は持ちます」というありがたい診断である。

 最上階に住む住人にとって、屋上防水は気になるものである。そういうことを管理会社である大京管理に相談したら、総額700万だか800万だかする防水工事の見積もりを出してきた。ご丁寧にも、草が生えていたりヒビが入っていたりする屋上の写真を何枚も添えて。

 しかし、私たちが加入している集住センターに相談し、お金を払って1級建築士に診断に来てもらったら、やっぱり「大丈夫」という判断だった。

 管理会社は自前の1級建築士を連れて診断に来ず、工事の見積もりを安易に出してきた。私たちマンション住民が管理会社に求めるサービスは、そういうことではないのだが。

 管理会社は管理組合から金をとることしか考えていないと批判されれも仕方ない。こうして、信頼を落としていく。

渡辺淳一「愛の流刑地」冬香に似た女性

 渡辺淳一が『日経』に連載中の小説「愛の流刑地」に、男にとって“理想的”な冬香という女性が登場する。この冬香とぴったり重なる女性を私は知っている。

 川端康成の自伝的小説「日向」に登場する「娘」がそれである。語り口や言葉の使い方、恥じらい方などが非常に似ているのだ。

 男性作家が描く“理想的”な女性像は類似性があるということかもしれない。辛口で言うならば、想像力の限界ということか。

 ただし、大勢の読者の共感を得られる登場人物のほうが小説の人気は高まりやすいから、営業政策的には正しいと言っていい。

西山太吉さんが目指すこと

 元毎日新聞記者の西山太吉さんが国に損害賠償を求めて提訴した訴訟の第1回口頭弁論が5日に東京地裁であった。西山さんは沖縄返還交渉に関する日米間の密約を“暴いた”腕っこきの記者だった。

 ただ、どう見てもこの裁判で西山さんに勝ち目はない。

 その理由の第1は、国側が主張するように、除斥期間を過ぎていることが挙げられる。

 第2は、1978年5月31日の最高裁判例が示すように、西山さんが公務員から情報を得た“取材”方法は国家公務員法に定める「そそのかし」罪の構成要件に該当することは、依然として揺るがない。

 第3は、極端な仮定として、除斥期間などが万万万一問題にならないとしても、密約について米国側が存在を認めたのだからという論法は、訴訟では通用しない。憲法訴訟の「板まんだら事件」の判例ふうに言えば、米国側が認めた密約について裁判所はその正否を判断する立場にないから「法律上の争訟に当たらない」となるに違いないからである。

 訴訟上勝ち目がないことくらい西山さんは分かっているのではないか。

 西山さんが言いたいのは、密約文書の存在を“暴いた”自分の仕事は記者として間違っていなかったというこの1点に尽きると私は思う。記者としての誇りを主張しているのである。訴訟にはなじまないが、気持ちは理解できる。

 なお、密約事件について『密約』(澤地久枝・中公文庫)が詳しい。

「湘南ひらつか七夕まつり」の正しい買い物の方法

 神奈川県平塚市で開催中の「しょーもない平塚テキ屋祭り」の歩き方を書いておこう。 

 というのは、100円200円を大事に握ってやって来る子供たちから、あこぎな方法でお金を巻き上げる悪質な露天商が散見されるからである。

 射的に挑戦した小学生が、狙ったものを倒して大喜びした。しかし、露天商は「棚から落とさないとダメ」。

 カメすくいで、子供には水につけると即座にふやける容器を渡す一方、露天商自身は特別製の容器をこっそり使って「ほら簡単だろう」と抜かす。これはかつて私が長男(当時幼稚園児)の耳元で実況中継してカラクリを教えてやったことがあり、高校生になった今も「あれはショックだった」と言う。子供をだます大人の存在がショックなのである。

 1等から100等までのくじ引きで、露天商自身はいつも5等を当てて見せ、子供がくじを引くと外ればかり。

 崩れかけのバナナにチョコを塗って子供に売りつけるチョコバナナ売り。

 およそ良心のかけらも教養の片鱗も常識の「じ」の字もない露天商が子供をだまして稼いでいるのが「しょーもない平塚テキ屋祭り」なのである。子供のがっかりした表情を見て心がみじんも痛まない連中に1円たりとも稼がせるべきではない。

 それにしても人間がここまで落ちたらいかんね。誇りも自意識も美も内面の輝きもあったもんじゃない。クソと同じだ。

 クソを踏まないようにするにはどうすればいいか。地元の人がやっている出店で買えばいい。例えば、平塚駅前のファーストキッチンのかき氷は良心的価格である。地元の商店街の人たちがそれぞれ自分の店の前で売っているものであれば基本的にひどくはない。

 こんな小手先のことより、根本的な解決策を探る時期である。

 市民主役の祭りとはどんなものなのか、徳島の阿波踊りや青森のねぶた祭り、大阪・岸和田市のだんじり祭りなどを関係者が視察して学びなさい。「テキ屋祭り」の現実に疑問を抱かず、改革せずに何十年も続けている関係者もクソ野郎と同罪である。

「湘南ひらつか七夕まつり」はテキ屋祭り

 神奈川県平塚市に住む私にとって憂鬱な時期になった。「湘南ひらつか七夕まつり」が始まったのである。

 「七夕まつり」は、道路の両側にテキ屋がずらりと並び、ビニル製のけばけばしい飾りの下を歩くしかない“祭り”である。楽しいのか、これが? 

 私は「しょーもない平塚テキ屋祭り」と呼んでいる。

 阿波踊りの本場・徳島生まれの私には、悲惨な光景にしか見えない。

 阿波踊りで「踊らにゃソンソン」と踊り、青森のねぶたで「らっせらー」と飛びはね、大阪・岸和田のだんじり祭りで「そーりゃー」と綱を引き、沖縄県内でエイサーを見物し、福島市のわらじ祭りや福島県相馬市の野馬追いなどなどを取材してきた。

 いずれも、そこで暮らす人々が祭りの主役だった。市民不在の「ひらつか七夕まつり」は祭りではない。

 「特設会場を設置して市民がフラダンスなどを披露して楽しんでいるし、市内の小学生が七夕音頭に合わせて踊っているではないか」という反論が出てきそうだが、う〜む、一般的にそういうのは「演芸会」や「学芸会」と言うんだよ。

威張るな自転車

 歩道で後ろから来た自転車にベルを鳴らされることが多い。

 道路交通法は自転車を軽車両と規定しおり、歩道と車道の区別のある道路では自転車は車道を通行しなければならないと定めている(17条)。

 いや、そんなことより、「そこのけそこのけ自転車が通る」「人より自転車が優先だ」と言わんばかりにベルを鳴らす無神経さに腹が立つ。

 私の場合、自転車に乗っていてベルを鳴らしたことがない。前に人がいれば自分から避けて進むし、前の人がゆっくり歩いていて追い抜くことができない状況ならそのあとを私は自転車でゆっくり進む。

 歩行者に気を遣うのが自転車に乗る者の態度だと思っていただけに、最近の威張る自転車には首をかしげざるを得ない。

渡辺淳一「愛の流刑地」のオチは

 渡辺淳一が『日本経済新聞』に連載中の小説「愛の流刑地」のオチを予測しておこう。

 主人公の男がセックスの最中に最愛の女性を絞殺して茫然自失となる――。このあと男が女の後を追うか否かは分からないし、私にはどうでもいい。肝心なのは、セックスの最中に男が女を誤って絞殺してしまう点にある。

 実は60年前にそのような連続殺人事件があった。1945年5月から46年8月にかけて、東京で小平義男が起こした7件の婦女強姦殺人事件である。48年11月16日に最高裁が上告を棄却し、死刑が確定、49年10月5日に刑が執行された。

 この事件は猟奇的犯罪とされている。というのは、小平が女性の首を締める際に快感を得ていたからである。この点を渡辺淳一が小説に取り入れているのは間違いない。

 まさかとは思うが、渡辺先生は「愛と死は紙一重だ」と言いたいのかもしれないなぁ(笑い)。

お話しにならない塾

 塾に通う高校生や中学生が、同じ塾に通う小学生を教えていることがある。

 塾の経営者は本来なら自分が先頭に立って教えるべきだし、いい講師を確保する努力をするのが当たり前だ。にもかかわらず、子供に子供を教えさせて平気なのは、塾経営者として教育者として失格である。

 教える側の子供がバイト代をもらえるからいい、という問題ではない。

 こんな手抜き塾に通わせないよう、親は塾の内容を把握しておかなければならない。

実力差が広がる構図

 笑顔のかわいい、美しい女性を撮影した。美に十分恵まれているにもかかわらず、彼女は肌の美しさをも追求している。こうして実力差は広がる。

 勉強ができる人はさらに勉強して成績を上げていく。運動ができる人はさらに努力して運動能力を高めていく。この構図は芸術の世界でも仕事の世界でも変わらない。

 最初から力のある人がさらに努力するのだから、そんな人にかなうわけがないのである。凡人はこの厳然たる事実を踏まえて、何倍も努力するしかない。

藤田師へのラブレター

 駿台で大活躍した現代文読解の神様・藤田修一師に話を聞いてまとめた記事を2回に分けて下記の電子住所に掲載した。

 400字詰原稿用紙換算で14枚ほどになってしまった。仲間に言われた。「これはラブレターですね」

 私もそう思う。ラブレターにおけるイイタイコトは「あなたを愛しています」に尽きる。愛する人や思いを伝えたい人がいるのは人生の幸せである。

インタビュー:現代文読解の神様・藤田修一さん(上)――70歳で再開したカメラ
http://www.anti-ageing.jp/show/d200507010001.html

インタビュー:現代文読解の神様・藤田修一さん(下)――「一生懸命」という生き方
http://www.anti-ageing.jp/show/d200507020001.html

読書と視力悪化

 私の娘たち(中1と小5)は1日に1冊の割合で本を読んでいる。私の仕掛けがまんまと成功したのだ。

 このことを知ったお母さんから聞かれることがある。「視力が悪くなるのが心配で」

 私の子供3人は全員視力がよくない。活字の読み過ぎが原因だろう。しかし、やむを得ない。だから、質問にはこう答える。

「視力が悪くなっても死ぬことはありませんし、メガネやコンタクトレンズをつければ解決します。ただ、脳みそが悪くなったら、解決できません。視力は矯正できても、脳みそは矯正できませんよね」

 これでいいのだ(って私はバカボンパパか)。

 

『ワルの「奥の手」』という本

 今日付の『毎日新聞』朝刊に、幻冬舎の『ワルの「奥の手」』という本の広告が載っている。

 「仕事と人間関係・賢くしたたかに生きるヒント」だそうで、「メールの返信は短くする」や「通したい企画は売り込まない」「ミスの報告は電話ですませる」「強く印象に残すにはそっけなく立ち去る」などなど、驚きの“ヒント”が並ぶ。

 こういうのを真に受けて実行できてしまう人は、ワルにはなれない。

 ――ということが理解できない人が買うんだろうなぁ。いいのかね?! そんな律儀な人をだまして。

クールビズに反対する3つの理由

 クールビズとやらを悪いとは言わない。ただし、押しつけには反対する。

 そもそも服装は「精神の自由」を体現する道具である。それを、お上の趣味で押しつけられてはかなわない。

 「精神の自由」などと高邁なことを言う前に、ネクタイやシャツはおしゃれの小道具だったりするのである。クールビズはおしゃれを放棄せよと言うに等しく、無粋である。

 3つめに礼儀の問題がある。

 私には苦い記憶がある。何年前だったか、真夏の暑い昼間のことだ。一緒に昼飯を食べようということで、スポニチ社会部長と三和総研理事と東京・新橋で待ち合わせた。

 あまりに暑い日だったので、いつものブレザーを着ずに待ち合わせ場所に行った私は、恥ずかしさのあまりもだえ死にたくなった。私より年上で大先輩のおふたりがそろって上着を着用していたからだ。その場でお詫びしながら、2度とこういう不作法はするまいと誓った。おふたりからは何のおとがめもなかったが、目上の先輩たちへの礼儀の欠如は暑さ以上にこたえた。

ネスレ日本の対応は×××××

 私の仲間がネスレの東京オフィスに電話で取材を申し込んだところ、神戸にあるネスレ日本で対応すると言われた。

 電話をかけた仲間に対して、大崎という人は「電話取材には応じられない」「担当が外国人なので取材は英語で」などと言ってきた。要するに、神戸に来て英語でやれ、ということである。

 仲間は呆れ果て、「もうけっこうです」と取材を断った。すると、大崎という人は「東京で取材の対応ができる」と言ってきた。

 今までのやり取りは何だったんだ?

 不誠実に不誠実を重ねたネスレ日本の対応と違いの分かる広報担当者の不在を、ドトールコーヒーを飲むたびに私は思い出す。

 ここまで不誠実な対応を私は聞いたことがない。4月の話である。

TUMI

 TUMIのかばんを使うようになって9年くらい経つ。私の場合、ノートパソコンや本、手帳、MDプレーヤー、ヘッドフォン、そして時には一眼レフカメラとストロボ、着替えまで入れるから、大きく膨らむかばんが必要だった。この点TUMIはいい。購入後の苦情に対するTUMIの誠実な姿勢もよかった。

 しかし、使うのを止めようかと最近迷っている。理由は簡単、あまりにも大勢が持つようになってきたからだ。

 私が使い出した当時はTUMIの利用者は少なかった。それがあなた(って誰だ)、こんにちでは猫もシャクシも持っている。一番がっくり来たのは、2年前の正月に、70歳のわが父親がTUMIのかばんを持って徳島からやって来た時だった。

 TUMIが強気の価格設定をしているのも気にくわない。たかがナイロンのくせに。

沖縄県慰霊の日

 今日は沖縄県の慰霊の日である。戦後60年という節目だからだろうが、『毎日新聞』は興味深い沖縄企画を朝刊でも夕刊でも連発した。

 来年以降もこのような精力的な企画が続けば素晴らしいのだが、持続力や一貫性のなさが毎日新聞社の社風だから、全く期待しないでおこう。

渡辺淳一と小池真理子

 『日本経済新聞』は渡辺淳一の「愛の流刑地」を連載し、『毎日新聞』は小池真理子の「虹の彼方」を連載している。どちらも愛を描く小説だ。

 にもかかわらず、大きな差がある。

 前者を端的に言うと、単なる中年オヤジの夢物語の域を出ていない。間延びした記述は陳腐で雑ぱくとしか言いようがない。一方、後者はひたひたと迫る人生の流転を精緻かつ丁寧に描写している。

 『日経』もずいぶんなめられたものである。いや、なめられたのは『日経』の読者か。同じ方法論を繰り返すずさんさが社内で問題にならなかったのかとさえ思う。

 というわけで、文句なしに「虹の彼方」が面白い。

 恋愛小説を書く女性作家なら高樹のぶ子が最右翼だと思っていたが、小池真理子の息詰まる筆致は読ませる。

上司が部下を評価する際の問題点

 上司が部下を評価する制度で最大の問題は何か。

 それは、無能な上司に評価される場合である。「お前がワシを評価できるんかい」という根本的な疑問を部下が上司に対して抱く場合である。

 上司だからといって必ずしも有能とは限らない。

 どうすればいいか。

 「あの人になら評価されてもいい」と思える上司を部下が指名できる仕組みを取り入れることだろう。少しは改善できる。

駿台・藤田師を通して「愛」を考える

 現代文の神様とうたわれた駿台のカリスマ講師・藤田修一師にお目にかかって一夜明け、興奮冷めやらぬ状態にある。余韻を楽しんでいると言ってもいい(A=A’)。

 この心地よさは何なのだろう。

 藤田師や三木賢治・毎日新聞論説委員と愉快に歓談できたからでもなければ、藤田師から「純粋だね」と言われたからでもない。

 私が藤田師の講義から学んだことをまっすぐ伝え、それを師がまっすぐ受け止めてくださったからではないか。

 言い換えれば(A=A’)、これは愛の告白なのである。

 アイシテイルという気持ちがまっすぐ相手に伝わることが、どれほど心を豊かに満たしてくれるか。

 一方(A←→B)、愛の拒絶は心が破壊される。地獄である。

 心が破壊されることを覚悟してまで伝える価値があるのが、アイシテイルという感情なのである。人生においてそれほど軽く口にできるものではない。

駿台の藤田修一師

 あの藤田修一師にお目にかかった。かつて駿台予備学校で現代文を教えた名物中の名物講師である。その斬新な読解法と時折触れる人生や青春についての語りが受験生の圧倒的支持を集めた。今風に言えば「超カリスマ講師」である。

 藤田師との出会いは約23年前にさかのぼる。私が高校3年の夏休み、四国の徳島から上京し、駿台の夏期講習「早大国語」で藤田師の講義を初めて受けた。合計してもわずか6時間ほどの講義だったが、正解を導く鮮やかな読解法に目からウロコがボロボロ落ち、ただただ感嘆した。

 藤田師に魅せられた私は、講師室を訪ねて話しかけたいと何度も思った。しかし、話しかける内容が浮かばない。講義を聞けばすべての疑問が氷解してしまい、何か質問したくても質問事項がないのである。

 徳島に帰った私は講義を録音したカセットテープを何度も何度も聞き直し、自分の脳に藤田師を乗り移らせた。藤田師になり切って現代文を読むと、不思議なことに正解が見えてくるのだ。もちろん藤田師の参考書は片端から熟読した。こうして、伸び悩んでいた現代文の点数が秋以降に急上昇し、第1志望に合格できた。

 以来、藤田師に“片思い”をしてきた。

 東京・渋谷の東急百貨店本店玄関前でお目にかかり、すぐに「先生のおかげで合格できました。ありがとうございました」と頭を下げ、20年ほど前のお礼を伝えた。

 この藤田師と私の大先輩で座談の名手である三木賢治・毎日新聞論説委員という豪華な顔ぶれで晩飯を食べた。

 藤田師にお酌していただくという夢のような状況で、「私は下戸ですから」とはもったいなくて言えない。ウーロン茶を飲みながら何度もおちょこを口にした。そして握手握手握手。81歳とは思えぬ握力である。

 張りのあるお声も柔和な目も、語り口も昔と同じだった。

 憧れの藤田師に、私は思いの丈を必死に語った。講義を通して学んだ「いかに生きるか」を真剣に伝えた。師は「涙が出るくらいうれしい」と喜んでくださった。

 藤田師が私を見てほほえんでくださるたびに、幸せのあまり気絶しそうになる。
 
 藤田師と三木さんが都立高校時代の学級担任と教え子という関係でもあることから盛り上がりに盛り上がり、歓談は午前0時前まで続いた。こんな愉快なひとときはこれが初めてだ。こんな愉快な夜はもう2度とないのではないか。

 私は放心状態である。

東京建物

 建設会社に勤める知人が教えてくれた。「東京建物の物件は非常にいい」

 どんな点がどういいのか。

 建設現場に突然やってきて品質の点検をする組織が東京建物の社内にあり、この組織が実に厳しく点検するのだそうだ。「東京建物の指示通りにやっていないとやり直しをさせられる。やり直しで工期が遅れれば損害賠償の対象になるから、工期を遅らせられない」

 「打ち合わせ内容は必ず文書にして来る。齟齬が生じても、文書を示して『こういう合意をしましたよね』と迫ってくる」

 同業者に一目置かれる企業は一流である。いい商品を作るための努力が、企業を一流にする。

博多の女子高生

 出張先の博多で信号待ちをしている私に女子高生が声をかけてきた。さすが博多の女子高生はお目が高い。

 彼女は少し恥ずかしそうにほほえみながら、「これ」と私に紙片差し出す。出会ったばかりの私に道端でラブレターを渡すとは、博多の女子高生は大胆だなぁ。

 紙片にはこんな文字が。

 あなたは真光の業をご存じですか?

博多の5つ星「なぎの木」

 出張先の福岡・博多で晩飯を食う店を探して歩いていたら、「自然料理屋なぎの木」という看板を見つけた。

 落ち着いたたたずまいで、一見すると高そうである。しかし、店の前には料理と金額を明記した表示がある。2000円くらいで食える。

 結論を言うと、実にいい店だった。

 料理に工夫がある。地元の食材を使っている。食材の生産者の顔が見える。そして、店の人たち全員が丁寧で温かい対応をしてくれた。

 これほど居心地のいい店は珍しい。

 私の評価の基準は「自腹でまた行きたいかどうか」である。この店は何度でも通いたい店だ。そして、大切な人を連れていきたくなる店である。

 博多の西中州にある「なぎの木」を自信を持って推す。

JR東日本はタコである

 JR西日本もJR九州も当たり前のことができていた。にもかかわらず、JR東日本はできていない。

 新大阪駅から新幹線に乗って博多に着き、この目で確認した。お客さんが新幹線の切符を窓口で購入する際の方法である。

 西日本も九州も、複数の窓口を用意しておき、その前にお客さんを一列に並べ、空いた窓口に順次誘導している。

 一方、東日本は窓口ごとに列を作らせているので、どの列に並ぶかで早い遅いが生じうる。事実、私が昨日東京駅構内の窓口で並んだ際、ほかの列はすいすい発券作業が進むのに、私の列は全く進まない。気の短い私はイライラした。

 整列購入はファストフードの店や銀行などで広く導入されている。その程度のことがなぜJR東日本にはできないのか。

恋愛とバイト

 <恋愛とバイトは、たくさんしといたほうがいい。>

 急募ドットコムという会社の広告文句である。これを考え出した人のお粗末な労働観や恋愛観が垣間見える。

 恋愛とバイトは同等に扱うものではないし、<たくさんしといたほうがいい>ものでもない。<恋愛とバイト>を<たくさん>するのは単に腰が軽いというか尻が軽いというか浅はかというか、そういう人でしかない。

 バイトや恋愛で重要なのは「質」である。「量」ではない。

元凶はどっちだ?!

 二子山親方が亡くなり、新聞に載る週刊誌の広告を注目していたら、『週刊新潮』は<若貴不仲の「元凶」と批判された「景子さん」>、『週刊文春』は<貴乃花衝撃告白3時間「全ての元凶はオフクロなんです」>と出た。

 「元凶」は「景子さん」なのか、はたまた「オフクロ」か。どっちだ?!

 結論の違いを見ると、『週刊新潮』も『週刊文春』も読みたくなってしまう。両誌の陰謀だったりしてね。

 ふと横の『女性セブン』の広告を見ると、連載「新われらの時代に」で<歴史に翻弄されながら米兵との愛に賭けた女たちの記録・恋文屋が見続けたコザ(沖縄市)の恋50年>という見出しである。ずいぶん使い古されたネタだなぁ。

 新聞を読む面白さの1つは、このような雑誌広告にある。

 

クールビズというより

 クールビズという横文字を小泉さんが率先垂範している。しかし、クールビズは風邪を引く恐れがある。

 私が毎日乗るJR東海道線は冷房がよく効いている。半袖では鳥肌が立つ。

 社会が足並みをそろえない限り、アロハシャツやかりゆし服を導入しようとしても効果は上がるまい。

 クールというより、フール(fool=ばか)というべきだろう。

無粋

 古里から仕事で上京した友人を誘って、奮発して新宿の串揚げの店に行った。

 カウンターに並んで座る。

 料理人の手元を見て楽しみ、食べて楽しみ、料理人と話して楽しみ、友人と話して楽しむのが基本である。

 ところが、である。仕事のことが頭から離れないのか、友人は仕事のことばかり話す。

 アスパラガスの揚げものが出てきた。料理人が素手で持っていたので、私も手にしてみたが、熱くて持てない。「こんな熱いのを持てるんですね」「油の中に指先を突っ込んだこともあるんですよ」。料理人との話が広がりかけた時である。

 友人がアスパラガスを触って、こう言った。「これくらいならうちの嫁も持つぞ」

 気絶しそうになりつつ、揚げアスパラを食べる。うまそうに食べていたところ、「アスパラが珍しいんか?」と友人は言う。私は殺意を抱いた。

 無粋人にはマクドナルドで十分だったのかもしれない。
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