同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

立花隆さんを見たことがある

 立花隆さんが亡くなった。大学時代から本や雑誌で接してきたので、40年近い一方的な“お付き合い”だった。つい数カ月前も立花さんの本を買ったばかりだ。

 一度だけ見たことがある。25年くらい前のことだ。平日の昼間だったと思う。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅→後楽園駅で進行方向の左側に向かって吊革を持って立っていた。ふと右を見たら、吊革を1つ置いたところに立花さんが立っているではないか。なぜか周囲をキョロキョロ見回していてけっこう挙動不審だったが、紛れもなく立花さんだった。

 終活の一環で本をどんどん捨てているけど、立花さんの本は1冊も捨てていない。読み返す可能性があるからだ。

 NHKスペシャルあたりで追悼番組を組むといいなぁ。

元ひめゆり学徒宮城喜久子さんを思う沖縄慰霊の日


 何年か何十年か経って「ああ!」と気づくことがある。私はこのことに気づくのに30年以上かかってしまった。

 このことというのは元ひめゆり学徒宮城喜久子さんのこころの中である。お会いしたのは昭和の終わり。私が沖縄に移住した1987(昭和62)年の、あれは何月だったか。『歩く見る考える沖縄』という本が地元の出版社から発売され、それをもとにしたフィールドワークの1つとして宮城喜久子さんに初めてお目にかかったと記憶する。

 場所は荒崎海岸だった。迫る米兵を前にひめゆり学徒が手榴弾で自決を強いられた岩場である。岩場に小さな碑がはめ込まれ、その場と分かるが、私一人でもう一度行こうとしてもたぶんたどり着くことはできない。そういう現場で宮城喜久子さんはそのときの状況を、まるで目の前に見えているかのように話してくれた。

 1フィート運動のボランティアをしていた関係でその後何度かお目にかかることがあり、ひめゆり平和祈念資料館を当時の家族で訪ねたときもお目にかかった。宮城さんが亡くなるまで年賀状を交わしてきた。

 それなのに、今ごろなのである。ああと気づいたのは。

 友人たちが自決を強いられた場所で、生き残った宮城さんに語らせることは、宮城さんにとって拷問ではなかったか。友人たちの遺影が飾られたひめゆり平和祈念資料館で、生き残った宮城さんが入館者に語ることは、宮城さんにとって塗炭の苦しみではなかったか。

 もちろん、戦争経験者としての使命感をお持ちだったのは間違いない。それでも、ふとした瞬間に亡くなった友人たちと生き残った自分の落差をじっと見て、自分を責めてしまったことがあるのではないか。

 そんなことを思いながら過ごす6・23。

 
 

 

『朝日』近藤康太郎さんのコラム再び

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《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と書く近藤さんは高給取りの朝日新聞記者である。社会的地位も賃金も非常に高い朝日新聞社を辞めてから言うべきセリフだと気付いていないのだろうなぁ。本物の百姓・猟師に失礼だと思わないのだろうなぁ。「百姓」という『朝日』でも不快語と指定されているはずの単語を意図して使うあざとさにも気付いていないのだろうなぁ。自分の小賢しさに気づいていないとしたら書き手としては致命的である。

《文才は確かにあったけれど、人間としては尊敬出来なかったな》という自分への評価を紹介して、《人物眼は、ある》とおどけてみせたが、文才は否定していない(笑い)。どんな文才なのか、私には分からない。自分を持ち上げる誰が書いたか分からない文章を新聞に紹介するのが果たして文才なのだろうか。朝日新聞記者のくせに、それを読者が分かっている場所で、恥ずかしげもなく《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と嫌らしい書き方をするのが文才なのだろうか。まさかと思うが《であるからして》が文才なのか。だとすると、文才の定義を私は全面的に変えなければならない。

 新聞社に勤めて高給をもらいながら自社の新聞に書くコラムは非常に難しい。私がブログに地味に書き綴る自分を落とすネタや下ネタは新聞に書くネタではない。記者より知識も経験も豊富な読者が多いから中途半端なネタなら失笑を買う。そこで取材したネタに落ち着く。無難なのである。もちろん書き方で差がつくけれど。

 近藤さんのこのコラムは確か6月5日付け朝刊だったと思うが、他社の記者にも文章の書き方を教えているという話だった。自分の技術を抱え込むのではなく後輩や同業者に広めていこう、親切にしよう、という姿勢はいい。しかし、自分のことを例に挙げるのはどうだろう。恥ずかしくないのだろうなぁ。《百姓》だから我田引水はお手の物なのかな。私なら他人に親切にしている人を探してきて紹介するけどね。

 

『性慾』は誤解なのか

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 東京・笹塚の十号通り商店街で昼飯を食べて店を出たところで、声をかけられた。
「落としましたよ」

 店を出たところに本が落ちている(上の写真のように落ちていた)。あれ? 店を出るときに左肘で挟んでいた私の本である。

 取ろうとしたら、さっと手を伸ばして拾い、私に渡してくれるではないか。

「あ、ありがとうございます」

 深い感動に包まれながら、万感の思いを込めて感謝の言葉をフルオーケストラの声で伝えた。

 清楚で美しい、若い人であった。目元が涼しい。軽く会釈して駅に向かうその人の後ろ姿を呆然と見送った私の手元の本をあらためて見ると『谷崎潤一郎 性慾と文学』。

 げげげ。この本の題名を見られたかもしれない。汗が噴き出す。

「いや、違うんです。誤解です。ひーん」

 叫んで追いかけそうになった。何が違うのか、何が誤解なのか、ワタシにも分からない。



あのNHKがUFOを報じるとは

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 正午と夜7時のニュースでNHKはUFOを報じた。米国家情報長官室という公の機関が米議会向けの報告書を公表したことを受けて報じただけだが、映像付き(すでにインターネット上で見ることができる映像だ)である。厚遇ではないか。子供のころにUFOに関する本やテレビを半信半疑で読んでいた私は、NHKが正午と夜7時のニュースで報じたのが嬉しかった(笑い)。

 米国にしてUFOの解明は全くできていない。しかし存在を公に認めたのだから放置プレーを続けるわけにはいかないだろう。ただし、ホーキング博士は確か「宇宙人と接触すべきではない。なぜなら善意の生命体か悪意の生命体か分からないからだ」という趣旨の見解を残している。どうすればいいのだろう(と私が真面目に言うのも何だが)。

 機密指定になっている情報も米国は公開して、対策を国連で検討すべきではないか。地球上で戦争や内戦をやっている場合ではないと目が覚めるかもしれない(それはそれで恐ろしいことだが)。

 米国がUFOを認めたという点で、矢追純一さんは先見の明があった。その矢追さんはご存命なのか。ネットで検索してみたら、宇宙塾とかいう催しをやっている。宇宙塾? よく分からないが、NHKも新聞も矢追さんのコメントを取って欲しかったなぁ。日本テレビは矢追純一さんをキャスターに、機密指定の情報を追いかける番組をつくってはどうだろう。

 

  

江藤淳の随想解説だから少しは理解できた『小林秀雄の眼』


 40年ほど前に大学受験生だったとき、小林秀雄の小論で苦しんだ、というより内容が半分i以上理解できず、よくある例えだが、トンネルを出たかと思ったらまたトンネルに入る列車のような、暗闇から出て少し見えたと思ったらまた暗闇に入るという程度の理解で、途切れ途切れに少し見えた光景をつないで全体を無理矢理把握しようとした。小林秀雄の何がいいのか皆目理解できず、新潮社から出ている小林秀雄全集も3巻目で止まっている。

 それなのに、いや、それだからこそ、というべきなのだろうか、買ってしまった『小林秀雄の眼』(中央公論新社)である。この本は小林秀雄の小論の理解を深く手助けしてくれた。著者の江藤淳のおかげだ。小林秀雄の文章が短く載り、その数倍の江藤淳の随想解説があるから、「ほー。そういうことか」と頷く。江藤淳の文章がなければ、40年前と変わらずトンネルの中の暗闇で身動き取れなくなっていたのは間違いない。

 江藤淳の文章を読んでようやく「ほう、小林秀雄はええこと書いとるがな」と少しだけ思う。江藤淳の文章は小林秀雄から大きくはみ出していて、私には江藤淳のほうがいいのではないかという結論になった。

 結果として数ページおきに赤線を引きページの角を折った。これほど唸らせてもらった本は久しぶりかもしれない。最低でも赤線を引いたところは読み返して脳みそに沈めたいのでこの本は読み返す。

 いつものようにカバーを外し、東海道線で読んでいたら、少し離れたところにいた初老の男性が(って私も初老だよな)私の本をじっと見ていて、背表紙に記された題名を読み取ったらしい瞬間満足そうな顔をした。大船駅で降りたので、誰か関係者だったりして。

 そういえば小林秀雄の墓を友人と一緒に鎌倉の寺で探し回ったのはいつだったか。日暮れとの競争だった。ようやく見つけたのは小さな小さな墓石で、ああさすがだと感嘆した。

 もう一つそういえば、江藤淳はわが車谷長吉さんを高く評価していた。『江藤淳は甦る』を読まんといかん流れになってきた。文庫本になってくれるとありがたいのだが。


 

家を買うか借りるかという問題はそもそも

 家(マンション)を買うべきか借りるべきかという話題がインターネットに時々出てくる。

 若いうちは賃貸でいいかもしれない。しかし、だ。例えば東京・新宿区の地下鉄早稲田駅の辺りで見てみると、20平米程度で月額8〜9万円はかかる。年間ざっと100万円である。8年も借りれば800万円だ。2年に1回の更新料を加えると、もっと増える。

 8年暮らして800万円以上使って、何も残らない(笑い)。

 ごく一部の金持ちは別として、年齢が上がるにつれて普通はローンを組みにくくなる。例えば45歳で30年ローンを組むと、75歳まで支払うことになる。そこまで仕事と健康を維持できるかどうか。

 というわけで、可能なら早めに買うほうがいい。ただし、大震災で倒壊したら“資産”が吹っ飛ぶ。私が買うなら(もう買えないけれど)、国が公表している地盤データをよく見て危険地帯を最大限避ける。もう1つは富士山が噴火した際の火山灰がどう流れるかも見る。火山灰が20センチも積もる三鷹市は避けるだろうなぁ(買えないけれど)。

 もっとも、田舎に家があるという人は、そこにいずれ住むことができるなら、都会で賃貸生活をしていいかもね。

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(新潮文庫)

 確か『毎日新聞』の書評面で取り上げられていた本である。アマゾンで買って長い間積ん読にしていた本書をようやく読んだ。ピュリツァー賞文学部門を受賞したり、『ニューヨーカー』に掲載されたりして、注目を集めているインド系作家の小説だ。

 9編の中で私が最も共感した作品は本の題にもなっている『停電の夜』である。引き戻せないところまでの亀裂が走った若い夫婦の物語は読ませる。物静かで繊細な記述に引き込まれた。全体に移民系文学とでも言えばいいのか、そういう点で米国人に新鮮な視点を提供したのではないか。評判の『三度目で最後の大陸』は米国人が好みそうな物語だと私は思った。

 私の小説吟味力ではこれ以上は何も書けない。私の限界である。

 

 

 

本棚の基本は著者別とテーマ別

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 本があふれ、床に積み上げた未読本に足をひっかけて転倒しそうになるキケンな事態が何度も起き、意を決した。本を捨てるぞ捨てるぞ捨てるぞ。(1)あくまでも今の時点で、(2)将来読み返すことはない、という条件で本をふるいにかけて、捨てまくる。

 本の整理をしていて出てきたのが、同じ本を複数買っていることだった。高橋源一郎さんの『小説教室』は3冊もある(笑い)。うち1冊は敬愛する女性からのプレゼントなので自分が買ったのは2冊だが、ほかの本と違って深刻度が大きい。というのはこの本を私は読んでいる。読んでいるのにまた買ってしまったのは、読んだことを忘れてしまっているからだ。

 同じ本を複数買った事例はほかにもあるけれど、ほかの本はまだ読んでいない。本棚に入らないのでその辺に適当に置いてしまい、買ったことを忘れてまた買ってしまうわけだ。わけだって、おい!

 こういう事態を避ける方法で私の頭に浮かんだのは1つだった。著者別テーマ別に置くしかない。あっちこっちにバラバラに置くから、チェックできないし、頭に残らないのである。

 もちろん私の頭が腐ってきているというのが最大の原因だが、ドライアイスで冷やすわけにもいかない。

 というわけで、本棚から本を全部出し、不要な本は捨て、あとは著者別テーマ別に並べていく。長倉洋海さんの場合大型写真集と新書があり、大きさが全く異なるのだが「著者別テーマ別」のルールに従うと並べるしかない。こうして集約していけば、同じ本を複数買う失敗は今後避けることができる、のではないだろうか。

 この集約整理に問題があるとすれば、いったん全部出した本をルールに基づいて本棚に並べるのは時間がかかるということである。取り組んで数カ月経つのに未だに本棚に収まっていない本が多い。パズルのように並べ替えをしなければならないので時間がかかるのである。何をやってんだか。

終活の片付けで見つけたもの

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 やり始めると徹底してしまう悪いクセがあり、終活の一環で始めた片付けが止まらない。綿ぼこりと戦いながら、片っ端からゴミに出し、粗大ゴミは市の施設に運び、という作業を地道にしていると、ダイハッケンがあったりする。

 その1つがこれ。IIJのマイクロSDカードの契約書類一式である。IIJの文字を見た瞬間クレジットカード決済の明細のIIJと繋がった。それまでは何かの費用(って何の費用だ?)だと思い、月額1000未満なので首を傾げながらも何かの費用だ何だか分からんけどと思って放置してきた。それに違いない。

 徳島の親にタブレットを渡し(たような記憶がないわけではない)、その通信用のマイクロSDカードだ。こう断定できるのは几帳面な舎弟1号のメモが入っていたからである。そこには私の母の名前が記されているので、そういうことなのだろう。

 ユーザーIDやパスワードなども記されているので念のためIIJのサイトにログインしてみたら、まさしく。《解約可能2016/9/1〜いつでも》というメモも残っていて、IIJにずいぶん寄付してしまったようだ。遅ればせながら解約して、年間1万円ほどの無駄を解消できた。

 片付けをしていなければ見つけることができず、つまり気づかないままお金がIIJに流れ続けたわけで、片付けの御利益であるな。

 ところで、あのタブレット(を親に渡していたとしたら)はどうなったんだ?

ああ阿波銀行

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 太陽光発電関連会社テクノシステムズ(横浜市)の詐欺被害に遭った金融機関として阿波銀行が挙がっている。融資額は約7億5000万円。

 バブル経済のときにも一切踊らず、堅実な経営をしていたとしてかつて『毎日新聞』経済面のコラム「経済観測」で誉められていた銀行である。もっといえば私の父が勤め上げた銀行で、私はその給料で東京の大学に行かせてもらった。

 その阿波銀行がこういうところで名前が出るとは。不名誉と思うのは私が当事者ではないからで、融資した横浜支店や本店の当事者は不名誉どころの話では済むまい。

 阿波銀行は5月28日付でサイトに「一部報道について」という題名で文書を載せている。

・・・・・・・・・・
 このたび、報道されております当行に対する融資金詐取事件につきましては、現在捜査中であり、捜査に協力する立場から、当行からのご説明は差し控えさせていただきますので、ご了承ください。
 なお、本事案につきましては、既に前年度決算において処理を終えており、当行の今年度業績に影響を及ぼす懸念はございません。お客さま、関係者のみなさまに多大なご心配をおかけしましたことを心よりお詫び申しあげます。
【本件に関するお問い合わせ先】あわぎんお客さまサポートセンター(以下略)
・・・・・・・・・・

「一部報道」という書き方が泣かせる。新聞もテレビも阿波銀行の名前を出しているのに「一部報道」って。

児童相談所職員の性暴走について

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 一時保護されていた女子中学生をホテルに誘ってセックスした男性職員23歳、女子高生をホテルに誘って猥褻な行為をした男性職員27歳。どちらも逮捕されて新聞に名前が載った。彼らを擁護するつもりは毛頭ないけれど、魔が差したのだろう。若い男の性欲は暴れ馬のようなもので、手綱を取り損ねて“落馬”する男を私は「阿呆め」とは思うものの一分も同情しないわけではない。

 児童相談所で女の子を担当するのは女性職員にしてはどうだろうか。あるいは80歳以上の爺様にするとか。高齢化の時代に高齢男性(性的妄想は旺盛だが性的能力が皆無になっているはず)を雇用するのは時代の要請にも合う。

 どれだけ教育をしても人間には魔が差すことがある。だってにんげんだもの。いずれまた似たようなことが起きる。

 態勢を見直すほうがいい



山田詠美さんの連載が始まる期待と

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 長年不思議だった。昭和の終わりごろから平成にかけて、『毎日新聞』の日曜版が断トツで面白かったからだ。部数を減らし続けていた新聞社が、他社に比べて給料の少ない新聞社が、なぜここまで日曜版を充実させることができるのか理解できなかった(笑い)。

 それがようやくというべきか、ここ最近の日曜版は毎日新聞社の体力相応に貧相な内容に落ち着き、手抜き紙面に私は愛想が尽きていた。いくら貧乏でもここまで読者を馬鹿にするのかと。夕刊だってそうだが、武士の情けでここでは触れない。

 ところがだ。あの山田詠美さんの小説連載が日曜版で6月から始まるという。しかも宇野千代さんの「生きて行く私」を意識して書いていくという。これは楽しみだ。落陽の紙価を高めるとはこのことだろう。

 社員記者が書く面白くも何ともないコラムが夕刊に目立つ『毎日』は、コラムも手練れの小説家に書いてもらうほうがいい。

 

おもしろうてやがて悲しき『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』(森功・幻冬舎)


『週刊新潮』の見出しが独特の味を出している理由がよく分かった。ひと味もふた味も捻った見出しを読むたびに、いったいどれほどの時間をかけて単語と表現を生み出しているのだろうかと思ってきた。週刊誌の見出しは編集長権限だと思っていたが、『週刊新潮』の場合は齋藤十一が長年その権限を握っていたのだった。

 その齋藤十一は『週刊新潮』で文学をやりたかったらしい。

《キミは何を言ってるんだっ、小説家というものは、自分の恥を書き散らかして銭をとるもんだ。それがわからないで小説を書くバカがいるかっ》と瀬戸内晴美さんを叱りつけた齋藤十一は、『週刊新潮』で「カネ・女・権力」に狂奔する人間を取り上げ、例の捻りに捻った見出しをつけた。なるほど文学である。

 本書では齋藤十一の離婚と再婚にもしっかり触れていて、齋藤十一の「カネ・女・権力」を遠慮なく描いた。齋藤十一への最高の敬意ではないか。

 知性あふれる人が斜に構えるから「俗物」と自称できたのだろう。《筆という武器を手にする物書きが、司法の場に訴えでて身を立てるという手段を嫌った》という辺りにも覚悟を決めた俗物性を垣間見ることができる。

 テレビ局のインタビューに応じた映像を見て「老醜だ、もう死ぬべきだ」とつぶやいた翌朝、お茶を飲んで意識を失い亡くなる美しい終焉よ。

《誰だって人殺しの顔を見たいだろ》

《僕は忙しいんだ。毎日音楽を聴かなくちゃならないから》

《キミたちは、僕が読みたい本をつくればいいんだよ》

《僕の墓は漬物石にしておくれ》

 破格と言うべき齋藤十一の語録には斜が見え隠れする。

 そのとおり、漬物石を墓にしたというから、鎌倉の建長寺で探してみるか。


箱根駅伝アンカー逮捕への疑問

 箱根駅伝を走った大学生(21歳)が18歳未満の少女と性交したとして東京都青少年健全育成条例違反(反倫理的な性交等)などの疑いで逮捕された。大学生は「18歳と思っていた」と供述しているそうな。

 SNSで出会ったそうで、私が若いころにSNSがあれば私だって同じことをしていた可能性は十分ある。若い男の性欲は暴れ馬なのである。乗ったことはない。あくまでもイメージね。ヒヒン。

 50や60のおっさんが同じことをしたらアウトだし同情の余地は全くない。しかし21歳の元気な若者である。私は深く同情する。彼が箱根駅伝など関係のない普通の大学生なら全国に報じられることなどなかっただろう。

 金銭の授受はなかったそうだから、純粋な(純粋な?)性欲の処理である。有名税にしては重すぎないか。

 私が大学生のころそんな条例はなかったから、女子高生とセックスしても何の問題もなかった。それだけになおさら今回の逮捕と実名報道は解せない。

 胸を張ってきれいごとを言うことのできる男が一体どれだけいるだろうか。


ワクチン接種は薬剤師の仕事から遠い

 なんで薬剤師が出てきたのかワケが分からない。新型コロナワクチンの打ち手が足りないということで薬剤師が挙がっているというのだ。

 注射を打ったことのない人間に打たせるのか? 無謀と言うほかない。

 薬剤師より適役はいくらでもいる。すでに試行されてるように、まず歯医者だ。歯ぐきに注射を打つことができるのである。私など想像するだけで卒倒する。その辺の医者より能力が高いのではないか。

 次は獣医師である。動物相手に注射を打ったり採血したりしているので、経験豊富と言える。

 さらに検査技師を忘れてはならない。注射は打つことができないが、採血はしている。そのそも注射器を持ったことのない薬剤師より圧倒的に信頼できる。

 というわけで、薬剤師は本業をやってもらえばいい。温度管理を失敗してワクチンを駄目にしてしまう事例が発生しているが、薬剤師が管理していればこんなことにはならないはずだ。大病院ではダブルチェックやトリプルチェックをしているようなので、ワクチンも複数で管理する態勢を取らせよう。

 基本は適材適所である。

私はゴミ屋敷に住んでいたのか

 終活は容易に終わらない。ゴミに出すにしても分別しなければならない。ため込んだ資料類を1つ1つ見ていくと、「これは今後使うかもしれない」と思うものがあったり、「こんなところにあったか!」と思わず喜ぶダイハッケンがあったりして、匍匐前進三歩進んで二歩下がるである。

 大敵は綿ぼこりだ。一軒家は風通しがいいだろうが、機密性の高いマンションは綿ぼこりが外に出る機会が少ない。書類に積もり、CDに積もり、押し入れの奥に積もり、部屋の角に積もり、ふわふわふわふわ舞い上がる。

 書類やCD、100円ショップで買ったプラスチックケースなどなどを片っ端から50リットルほどのビニール袋に放り込んでいくと、ビニール袋の山ができた。それでも終活は道半ば(笑い)。

 必要だと思って残しておいたものや必要だと思って買ったものばかりなのに、その大半は時間が経てば単なるゴミになってしまう。私も生ゴミみたいなものだからゴミだらけということになる。

 今後20年わたしに必要なものは何だろうという目で見ていくと、ほとんどないことに気づく。いや本当に。かろうじて挙げれば36回ローンで買ったレッツノートとアイフォン、ガラケーがあれば間に合う。恐ろしいことである。


 

今日は車谷長吉さんの飆風忌

 5月17日は車谷長吉さんの飆風(ひょうふう)忌である。

 先日たまたま読んだ『週刊現代』に高橋順子さんのインタビューが載っていて、これから車谷さんの全集に取り組むという話だった。全集は3巻まで出版されているので、第4巻である。車谷さんらしい筆禍を招いた数々の小説が積み残されているらしい。関係者の了解を取って出版できるのは高橋順子さんしかいない。

 確か4年後に姫路文学館で車谷長吉展が開かれる。それをメドに出版にこぎつく計画なのかもしれない。車谷長吉命の読者には待ち遠しい。

 代表作『赤目』は年中持ち歩き、爪を立てて読んだ。読むたびに目から血が迸った。『三笠山』の救いのなさに私は救われた。姫路市にある生家の前の狭い道を何度も言ったり来たりしたのはストーカーと言うべきかもしれない。車谷さんが散歩した東京の根津神社を一時期死ぬほど通ったのもストーカー的かもしれない。

 というわけで、飆風忌である。


 

 

綿ジゴク変

「はやったん」というのは徳島市の助任小学校時代の同級生林君のあだ名である。そのはやったんの家は綿の生産をしていたように思う。大きな倉庫があり、綿を詰めた巨大な球体が転がっていて、そこで何度遊んだことか。しばらく飛び跳ねていると鼻や喉に綿が詰まってきた。今思うと、自由に遊ばせてくれたはやったんのご家族にはただただ感謝である。

 さて。

 終活の1つとして寝袋の処理をした。市役所に問い合わせると、30センチ四方に切って可燃ゴミで出していいという。さっそくハサミを入れた。その瞬間綿らしきものがこぼれ出て、舞い上がった。掻き寄せようとしたがふわふわふわふわ。

 こうなるともう自棄(やけ)である。切り刻み、ふわふわふわふわ。切り刻み、ふわふわふわふわ。

 教訓。寝袋を自宅で切り刻んではいけない。

無理のある言い訳

 高齢者優先なのに新型コロナワクチンを茨城県城里町の町長(42歳)や兵庫県神河町の町長(62歳)が受けた。

 スギ薬局の会長夫婦も抜け駆けしようと横車を押して発覚、謝罪に追い込まれた。

 何と言うか、こういう時に育ちの悪さが出るように見える。お里が知れるというやつである。逆に言えば生命力がある。船が沈むとなれば、こういう人は他人を蹴落としても生き残ろうとするだろう。

 私はスギ薬局で買い物をしてきたが、今後一切買わない。私ひとりの不買運動である。河野太郎さんではないが、ごまめの歯ぎしりである。

 上記の自治体の選挙権がないので何もできないが、次回の選挙結果を見る楽しみはできた。

 さて。こういう情けない人たちを見るたびに思い出すのが船長である。船長と言っても船が沈むときに最後まで残るという条件がつく。裏を取っていないので実際はどうなのか分からないがブータンの若い国王は「最後に接種する」と言っているとか。

 組織のトップに立つ資格のない人たちがトップに立つ組織は不幸だな。

 当たり前のことを当たり前に書いてしまった。オモロない。

 

 

東京・江東区医師会のワクチン接種混乱の愚

 新型コロナワクチン接種を東京・江東区の医師会で受ける医療従事者に混乱が生じている。

 2回目の接種は1回目の接種のちょうど3週間後がいいと言われているのに、その2回目の接種の予約が3週間後以降でないと確保できない人が出ているのだ。2日ズレのほか6日ズレの人までいる。

 何でそうなるのか? 6日もズレた接種で効果はあるのか?

 1回目の接種のときにその場で2回目の接種の予約を受ければ済むのに、翌朝9時からネットで申し込むしかない。

 何でそうなるのか?

 朝の9時ちょうどにネットにログインすると、1回目の接種をしたことが反映されておらず、2回目の予約ができない。

 何でそうなるのか?

 アレルギー症状などがある医療従事者は希望すれば総合病院で接種することができ、前もって2回分まとめて予約できる。さらに言えば江戸川区などは一般の人でも2回分まとめて予約できる。

 医療従事者を対象とした医師会でさえこれである。地域差や組織差の運不運があるようだ。先が思いやられる。

 なお、江東区で接種を申し込むための電話がつながらず、1日に300回近くかけ続けてようやく予約できた人がいる。江東区の人はタイヘンだ。


 

 

まずくないのかTBS?

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 5月10日のTBS「あさチャン!」のクイズ、まずくないのか?

 母とパパで家族という図式である。父親か母親のどちらかと暮らしている子供にとっては心痛む設問のはずで、あるいは同性婚で子育てをしている家族にとっても。

 こういうことに繊細になっている時代にこの設問は無神経と言うべきではないのか。しかしその後どこも問題にしていないようだ。もともと問題ないのか、私が過敏なのか、視聴率が低い番組だから見逃されたのか。

 よく分からないが、TBSがこれではまずかろう。というわけで記録しておく。

若い人ほど出るらしいワクチン2回目の副反応

 30過ぎの男、30前の女。どちらも全然違う医療機関で働く医療従事者である。ワクチン接種を2回受けたこの2人の共通した副反応は、2回目の接種の翌日39度台の高熱が出たことだ。

 高熱が出ると聞いていたので、休日の前の日に接種したというから、その休日は事実上の出勤日だな。お疲れさまと言うほかない。

 ほかの医療従事者からも同じような話を聞いている。

「若いほど高熱になるようで、西野さんなら大丈夫ですよ」

 喜んでいいのか?

仕事に使えるリュック

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 普通のリュックサックがなぜ不便かというと縦長だからである。物を入れるとすべて下に落ちて(当たり前)、上の空間がガラガラ。そこでプラスチックケースに物を詰め込んで上下2段にして収容するなどの工夫をしなければならない。

 この問題を解決するのがカメラ用のリュックサックである。最初から上と下に分かれている(取り外せる仕切りが入っている)のが味噌だ。上にはカメラとレンズ、下にはバッテリーチャージャーや小物、背中のところには15型パソコン、という具合に収容できる。

 必ずカメラを入れなければならないわけではないので、私は上に本や手帳、コーヒーが3杯分入った保温水筒サーモス、下にパソコンの電源コードやイヤホンを入れた小型のプラスチックケース、眼鏡拭き一式、財布、背中には14型ノートパソコンや書類を入れて普段の仕事で使っている。

 ただし問題が2つある。私が持っているのは約5000円と安いぶんパーツが貧弱で、特にジッパーが壊れやすい。高価なカメラリュックより軽いが、リュックの材料が頑丈というほどではない。寿命は5年くらいか。このリュックは2代目である。

 もう1つの問題は、詰め込めば詰め込むほど重くなる。自分が背負うことを前提に、詰め込むものを選ばなければならない。重いコンダラを引っ張る星飛雄馬のような若さがあれば別だが、ぎっくり腰の恐怖を抱える私はほどほどに。それでも手放せない。


 

 

「医療崩壊」は病院の外で起きている

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 医療現場が危機だとか極限状態だとか報じられているが、大阪では入院できない人が10人以上自宅で亡くなっているのに「医療崩壊」ではないのか。医療を受けることができずに亡くなる人が出ているのに「医療崩壊」と言わないとしたら、「医療崩壊」という言葉は欺瞞である。

 病院が「もう受け入れる余裕がない」と新規の患者を断っていれば、その病院では表面上は「医療崩壊」は起きていないことになる。しかし入院できず医療を受けることができずに死ぬ人がいるまさしくそこを見れば、「医療崩壊」は病院の外で起きている。

 必要な人に必要な医療が受けられない状態を「医療崩壊」とすべきである。



 
 

紀州ドンファン殺人事件でNHKの取材力っ

 紀州のドンファン殺人事件で和歌山県警が容疑者の自宅マンション(東京・品川)を“急襲”したのが午前5時ごろだった。

 民放を見た限り、容疑者が連行される場面は羽田空港が多かった。そんな中、NHKはしっかりと自宅マンションから連行される場面を押さえていた。NHK映像を見るとフラッシュが何度も焚かれていたのでどこかの新聞社(毎日新聞社ではなかった)も待ち構えていたようだ。

 総合すると、NHKかどこかの新聞の速報を見て慌てた各社が何とか羽田空港での撮影に間に合った、という構図だろう。

 NHKすごいなぁ。自宅からの連行の場面を押さえるのがどれだけ大変なことか。福島時代、地元紙に抜かれた経験しか記憶にない私はただただ脱帽するのである。



 
 

自分に酔った都知事が「人流」と言うのは勝手にどうぞだが

「人流」という表現に違和感を持つ人が一定数いて、ほっとする。私の把握が正しければ東京都知事が言い出した。都知事のことだ、「じんりゅうって言い方をする私、かっこいいわん」と自賛して酔っているのだろう。

 それをあろうことかNHKが使い、新聞も使い、私は「この阿呆どもめ」と毒づかざるを得ない。特にNHK。目の不自由な人が「じんりゅう」という音を聞いて「人の流れ」だと分かると思うか?

 知事が使おうが誰が使おうが、明らかに変な言葉は“訳する”のが報道機関の仕事の1つではないか。垂れ流しなら小学生でもできる。これでは誇りも脳みそもない。

 正気に戻って「人の流れ」と言い換える報道機関がいずれ出てくるだろう。それがどの社なのか、ヒマではないので注目しないが、さっさとしなさい。

本のカバー裏に生じたシミだかカビだかの退治法

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 書籍のツルツルしたカバーを何と言うのか私は知らない。そのカバーの裏側に茶色いシミだかカビだかが生えているので、退治法をネットで探した。

 紙やすりで研ぐとか消しゴムを使うとか出てきたので試してみたが、カバーの紙がポロポロこぼれる。あかん。これでは穴が開いてしまうがな。エタノールで拭くという方法も試したが全く効果がない。無水エタノールは1000円もしたのにどないしてくれる!

 最後に思いついたのが台所用漂白剤の泡キッチンハイターである。茶色いシミだかカビだかに噴射して、しばらく置く。

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 泡が消えると、シミだかカビだかも消えているではないか。泡のあとが残っているので、濡れシートで拭う。これできれいさっぱり。

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 カバーとはいえ紙だから多少ふやけるけれど、衛生上も精神衛生上もよくなる。

 以上の写真は『告白の記 逢いたい』(石原まき子・主婦と生活社、1993年7月)のカバー裏。

 下の写真は『ザ・フォトグラフス』(日経BP出版センター、1997年)のカバー裏と表である。泡を拭かなかったせいか、カバー裏にはおねしょのあとのような色が残っている。薄い茶色なので溶け出したシミかカビの色か? しかしカバー表には何の影響も出ていない。

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『朝日』近藤康太郎さんのコラムは面白いのだが

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 書評面が乗る土曜付『朝日新聞』だけは欠かさず買う。そこに近藤康太郎さんのコラムが時々載っているので読んできた。これが面白い。面白い理由を考えてきて、4月17日付の「ドブさらいで考えた『隣人』になる心地よさ」でああそうかと分かった。

 実際に猟師の免許を取って猟をするなど、近藤さんの珍しい(一般人には縁のない)経験談は面白い。これは当たり前のことで、それなりに考える力があって、理屈をこねくり回し、文章を丁寧に書くことができる記者なら、珍しい経験を書けば面白い記事になるに決まっている(『毎日新聞』が弱いのはここ)。

 しかし、脇の甘さも見えた。棚田の溝をさらう経験を通して地域の人間関係の密さを喜ぶ4月17日付の記事を本当の地方出身者はどう読むだろう。田舎の人間関係の密さがいやで福島のド田舎から出てきた人を私は知っている。

 近藤さんは東京の都会出身であり、朝日の記者という社会的には上に置かれる職業であり、自分の見解を全国に発表することができ、数年だけ住む転勤族である。そんな人を周囲がどう扱うか。

 狭い狭い地域に骨を埋める覚悟を決めて、実際にそこに家を建て、墓をそこに準備してから語らなければ、都会から地方に来た人が面倒な人間関係など知らないまま地方バンザイを叫ぶ内容に陥ってしまう。

 というわけで、近藤さんの「田舎生活」は“田舎生活”であると指摘しておく。

 それでも期待はしている。ましてや4月の異動先はあの天草だというではないか。水俣に行ったらぜひついでに立ち寄りたいと私は常々願っている場所なので、そんなところに高給を得ながら住むことができるとは羨ましい。どんな記事が出てくるか楽しみだが、田舎の悪さを知っている人さえ納得する記事を期待したい。例えばね、骨を埋めると決めた田舎で、そこからよそに引っ越すお金もなく、そこで村八分にあってみればどんな記事を書くことができるだろうか。

 

夏目漱石『こころ』の「軽蔑」


 大学時代に読んだような記憶がある。それなりに恐ろしかった。今読み返し、全く別のところに戦慄した。いろいろな読み方ができることが名作の条件の1つと言われていて、今回読み返して新しい発見をした『こころ』は私ごときが言うまでもないのだが名作なのである(エラソーなことを書いてしまって漱石先生ごめんなさい)。

 今回の私の発見は、先生について《他(ひと)を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた》という記述があることだ。わが車谷長吉さんの『盬壺の匙』を思い出した。車谷さんの自殺した叔父を弔う作品である。この小説の中で叔父は和辻哲郎の『ニイチェ研究』の余白に青インキで「俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている」と記していた。

『こころ』の先生と『盬壺の匙』の叔父の共通点がここにある。と、ここで書いて気づいた。どちらも主題は「自分の軽蔑」なのである。『こころ』の先生も『盬壺の匙』の主人公も最後に同じ一点に向かうのは当然なのだ。

「自分の軽蔑」は恐ろしいことだが、人間に深みを与える。そこが文学のテーマになるということか。

 つい先日、大学時代の友人K(偶然にもK)に会ったときのことだ。『こころ』に「自分を軽蔑」と書いていると話したところ、Kは「そういえば、あったな」と即座に反応したので私は驚いた。私は読んだばかりなのでこの小説の話ができるのは当然として、Kが読んだのは昔昔である。ほー。Kを見る私の目が変わった。私と同じ阿呆だと思っていたら、いやいやとんでもない。それにしてもK(笑い)。

 

 
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