その昔、「一流ジャーナリスト」と言われた本多勝一さんと仕事をした時の話である。本多氏の盟友が社内でセクハラ騒動を起こし、それが月刊誌で記事になった。

 月刊誌にセクハラ騒動を伝えたのは誰だ? 真っ先に疑われ、最後まで疑われたのが私だった。

 あの時、私は声高に「私ではない」と主張しなかった。「だったら真犯人は誰だ」という展開になるからである。

 このような濡れ衣の場合、あえてそのままにしておく。胸を張って、あえてそのままにしておく。疑われても屁でもない。「犯人」と疑われた私はその真偽を知っているのだから。

 推測で人を「犯人」と決めつけた「一流ジャーナリスト」の質の低さを見て、私は落胆した。本多氏は上司の器ではなかった。

 真犯人は誰かって? そんなこと、どうでもいいのだ。月刊誌に記事が載るような騒動があったのは紛れもない事実なのだから。そっちのほうが問題ではないか。

 本多氏が私を犯人と決めつけて騒いだのは、肝心の問題をそらす意図があったのかもなぁ。