ああ。来た。ため息が漏れた。はがきの差出人が「伊藤」なのだ。
私の小学1年の時の担任だった伊藤貞子先生が90歳で10月に亡くなっていた。今年の年賀状をいただいていなかったので、もしかするとと気になっていたのだが、やっぱり。
私は大阪市東住吉区の矢田小(現在の矢田西小)1期生である。今から45年ほど前に遡る。年賀状を40年以上交わしてきた計算だ。
今も忘れられない伊藤先生の言葉が2つある。
「黒板を一生懸命に見ていればどこかに100点と書いてある」
本当に100点の文字が見えてくると勘違いした当時の(今もか)私は阿呆だが、おかげで黒板をきちんと見る習慣がついた。
もう1つ、これは幼心ながら染みた。おぼろげながらこんな話だった。
「私の子供は柔道をしていて、ケガをしたのに、親を心配させまいとして我慢して、死んでしまった。みんなは痛い時や苦しい時は必ず親に話すように」
当時伊藤先生は44歳前後。クラス集合写真を見ると、何となく、本当に何となくだが、少し沈んだような表情に見える。お子さんを亡くした悲しみが垣間見えるような気がする。
伊藤先生のこの言葉を守り、私は体調の不調があれば必ず親に伝える子供になった。もともと我慢弱い性格だったのだろうが、「親に伝えなければ」という意識を持たせてくれたのは伊藤先生である。
伊藤先生が亡くなったことを知らせるはがきの文章を読むと、お子さんも教師かもしれない。大阪市のご在住である。会いに行ってみよう。
とはいえ、本当に悔やむ。大阪に行く機会や通過することは何度もあったのに。伊藤先生に会っておきたいと何度も思っていたのに。先生不孝をしてしまった自分を呪う。
私の小学1年の時の担任だった伊藤貞子先生が90歳で10月に亡くなっていた。今年の年賀状をいただいていなかったので、もしかするとと気になっていたのだが、やっぱり。
私は大阪市東住吉区の矢田小(現在の矢田西小)1期生である。今から45年ほど前に遡る。年賀状を40年以上交わしてきた計算だ。
今も忘れられない伊藤先生の言葉が2つある。
「黒板を一生懸命に見ていればどこかに100点と書いてある」
本当に100点の文字が見えてくると勘違いした当時の(今もか)私は阿呆だが、おかげで黒板をきちんと見る習慣がついた。
もう1つ、これは幼心ながら染みた。おぼろげながらこんな話だった。
「私の子供は柔道をしていて、ケガをしたのに、親を心配させまいとして我慢して、死んでしまった。みんなは痛い時や苦しい時は必ず親に話すように」
当時伊藤先生は44歳前後。クラス集合写真を見ると、何となく、本当に何となくだが、少し沈んだような表情に見える。お子さんを亡くした悲しみが垣間見えるような気がする。
伊藤先生のこの言葉を守り、私は体調の不調があれば必ず親に伝える子供になった。もともと我慢弱い性格だったのだろうが、「親に伝えなければ」という意識を持たせてくれたのは伊藤先生である。
伊藤先生が亡くなったことを知らせるはがきの文章を読むと、お子さんも教師かもしれない。大阪市のご在住である。会いに行ってみよう。
とはいえ、本当に悔やむ。大阪に行く機会や通過することは何度もあったのに。伊藤先生に会っておきたいと何度も思っていたのに。先生不孝をしてしまった自分を呪う。