IMG_0234

 一般的に記者は検察に対する無謬性の神話を抱いている。検察が起訴すれば、そういう前提で取材してしまう。取材合戦になるので、検察が描いた物語に沿って情報を得ようと動く。検察は間違っているのではないかと考える余裕はない。万一そんな報道をしたら、ただでさえ難関の検察から完全に閉め出されるという不安を無意識に抱いている。このような構造が冤罪を生む原因の1つではないか。

 ドキュメンタリー映画『「知事抹殺」の真実』を見終えて想像したのは、佐藤栄佐久さん逮捕時に私が福島県政や警察の担当記者だったらどうするだろうか、ということだった。検察に対する無謬性の神話を壊すことなど考えもせず、検察に追従したに違いない。冤罪に加担するわけで、それは前述したように構造上避けがたい。しかし、冤罪を生んでしまったら責任を負う。その責任をどう果たすか。

 佐藤栄佐久さんは私の福島県政担当時代の知事で、正直に言うと当時の私は佐藤知事に全く興味がなかった。もともと私は権力から距離を置く癖があるうえ、東北の知事が集まった会議の場で佐藤知事の発言に面白みがなかったので、「佐藤知事もその辺の政治家と同じだろう」という先入観と誤解をしていたのである。

 そんな佐藤知事が2006(平成18)年に収賄容疑で逮捕されたことは知っていたが、それ以上興味を持っていなかった。木村守江に続いて佐藤栄佐久か、という程度の貧しい“理解”しかしていなかった。

 このドキュメンタリー映画が福島で頻繁に上映され、高い評価を集めているらしいと知り、ようやく東京で上映されたので見に行き、自分の不明を深く恥じた。

 思えば佐藤優さんも検察の犠牲になった。JR東労組の友人小黒さんもそうだ。やりたい放題の検察ファッショがあることを知る。これが第一歩だろう。福島の報道機関はその後どう自己検証しているのか。頬被りを決め込んでいるとしたら検察のポチだよなぁ。

 1つ驚いたことがある。佐藤知事が収賄容疑で逮捕される端緒になった雑誌が『AERA』なのだ。記事を書いたのはあの長谷川熈さんである。徹底的な取材で批判記事を書く記者で、長谷川さんが1989(平成元)年ごろ福島市で小さな講演会をしたとき私は聞きに行ったことがある。その長谷川さんがミスリードした可能性があるわけで、長谷川さんはどう片を付けるのか。ジャーナリストならこれまた頬被りを決め込んでいる場合ではない(だから下村満子が映画を推薦しているのか?)。

 福島県民以外は佐藤栄佐久さんに興味を持つのは難しいかもしれない。しかし、日本の検察ファッショがどういうものか、その一端を知るために必見のドキュメンタリー映画である。