
大田昌秀さんが亡くなった。思い出すのは大田さんが沖縄県知事になって代理署名を拒否したころである。当時私は『週刊金曜日』編集部にいた。
5月だか6月だかに企画書を沖縄県庁に送ったところ、単独インタビューを受けていただいた。代理署名問題が今後どう展開するのか、報道各社が大田知事を追いかけていた。あの筑紫哲也さんでさえ単独インタビューできなかったので、誌面を見て「よく取ったなぁ」と褒めていたそうな。えっへん。
種明かしすると、私は「慰霊の日の特集をするのでお話をうかがいたい」と申し込んだ。代理署名の話で取材を申し込んでもあの時期の大田さんが受けるわけがないのである。でもインタビューで代理署名について質問すると前のめりになって答えてくれた。たまたま政治家をしていたけれど、率直な学者なのだ。
その根底にあるのは沖縄戦である。鉄血勤皇隊であの沖縄戦を奇跡的に生き残った大田さんは沖縄戦や慰霊の日に格別の深い思いを抱いていた。戦後ずっと沖縄戦を背負い続けた。
知事室でのインタビューは予定を大幅にオーバーした。同席した秘書の顔を見てもすまし顔なので、こっちがかえって気になった。沖縄戦の話が止まらない。
ゲラを送ると、あふれるほどの書き込みをして戻ってきた。誌面に入らない。秘書課だか知事室だかに電話をかけて相談したら、任せるという。というわけで、私が独断でまとめた。
記事に添えた大田さんの略歴に『醜い日本人』を著書の1冊として挙げたのだが、大田さんはそれを削除してきた。本土に対しての気づかいを感じた。沖縄の基地問題は日本全体の問題なのに、ほとんどの政治家が見て見ぬふりをする。沖縄戦の惨劇を生き抜いた大田さんは本土の日本人に対して切なくて苦しい思いを抱いていた。それが著書から垣間見えるのである。
琉球大で大田さんの後輩に当たる宮城悦二郎先生によると、米国の国立公文書館に大田さんが資料集めに行くと、朝は開館前から立って待ち、閉館まで粘っていたという。体力というより鬼気迫る精神力だろう。沖縄戦体験が影響しているとしか思えない。
その沖縄戦下の首里で大田さんが泣きながら歩いているのを見たという人がいた。この話を聞いたのは1988(昭和63)年ごろである。沖縄市だったか浦添市だったかに住む男性を訪ねて沖縄戦の話をうかがっているときに、こぼれ出た。この男性も鉄血勤皇隊だった。この目撃談を私が聞いた当時の大田さんは琉球大教授だった。沖縄戦研究者として県内では知らない人がいない有名人だが、地元の新聞やテレビに連日出る県知事ほど目立つ存在ではない。したがって、私はこの男性の目撃談を信じた。
もう1つ記しておこう。大田さんに資料を借りるために朝日の那覇支局記者が1989(平成元)年ごろ琉球大に大田さんを訪ねた。ところが資料は有料だと言われた。写真1枚が確か5000円だったか。当時新聞記者を目指していた私は「お金を取るのか」と驚いた。しかし、今なら「そりゃ有料にするわな」と納得する。新聞は公器と自分で言っているけれど実際は商売をしているのだし、米国の国立公文書館に通う旅費宿泊費に少しでも充てたいと思うのは当然だ。
野坂昭如さんが妹を餓死させた負い目を背負い続けたのと同じように、大田さんは沖縄戦で奇跡的に生き残ったことの意味を問い続けてきたはずで、心中を察すると切ない。死を迎えてようやく解放されたのではないか。
宮城悦二郎先生が逝き、牧港篤三さんが逝き、中村文子先生が逝き、大田さんが逝き、本土で暮らす私にはこんなしょぼい追悼を書くしか能がない。自分を糞だと認める瞬間である。