IMG_1479

 毎日新聞東京本社での2週間の研修を終え、福島支局を訪ねた私を待っていたのが支局のドアの内側に張ってあった「熱烈歓迎! 新同人」だった。園木宏志支局長の文字である。

 一緒に福島県に赴任した同期の憲ちゃんと私が社報に書いた自己紹介を切り抜いて張りつけた「熱烈歓迎!」はうれしかった。

 以来2年ほど厳しくも温かい指導を受けた。園木支局長は目に魅力があり、人を射すくめるときの鋭い目と破顔したときの愛らしい目の落差が、本人は無自覚だろうがとんでもないほど人垂らしなのだった。

 社会人野球の関係者が「おっかねぇ支局長だねぇ」と私に声をかけてきたことがあり、大きくうなずいた記憶がある。

 確かにおっかない支局長だった。私が全く回っていない福島県警本部長を回ってネタを仕入れているのだから、当時の県警担当には深刻だった(笑い)。数え切れないくらい叱られた。

 夜中の3時ごろ支局から私に叱責の電話をかけ、泊まり番の西尾記者がさすがに止めたという話を後日西尾記者から聞き、「あのとき電話が数回鳴ったのは支局長だったのか」と震えたこともある(笑い)。

 しかし、おっかないだけではなかった。

 社長が福島市に来たのに支局に立ち寄らないのはどういうことだと怒って、どういうふうに交渉したのか知らないが、連れてきた。

 今では珍しくない新聞カラー写真だが、県版レベルで積極的に進めたのは毎日新聞社で園木支局長が嚆矢ではないか。

 支局長が担当する県版の連載は、福島県内で必ず取材して書いていた。頭で書くなと範を示した。

 当時の支局には泊まりがあり、園木支局長は必ず「今日は誰だ」と確認した。記者1年目の8月、私が泊まり番だった夜、大災害が起きた。台風13号がもたらした豪雨で大倉川の橋が流されて橋を渡っていた車も流された、一部地域が孤立している、などのニュースをつけっぱなしのNHKが報じ、慌てて県警などに片っ端から電話を入れている支局(2階)に血相を変えて3階(支局長住宅)から飛び込んできた。

「支局員全員を集めろ」と指示し、集まった支局員に配置を示し、泊まり番の私には「電話帳を見て、現地周辺の人に電話をかけろ。車が流された様子の目撃者を探せ」と言うのだ。

 時計の針は午前2時か3時を回っていたはずだ。躊躇する私に、「こういう夜は誰も寝てない。かけろ」と言って支局のソファに寝転んだ。支局長に指示されたらやるしかないのである。

 どれだけ電話をかけたことか。確かに誰も寝ていなかった。少しして「見た」という人につながった。「いま警察に話しているところです」。警察も動いているのだった。

 たどたどしく質問する私に、ソファで寝転がっていた園木支局長が追加質問を投げてきた。そのまま夕刊向けの原稿を書き、ゲラをチェックし、昼間の記憶が全くないのだが、ずっと支局にいて休みなしで朝刊向け原稿をチェックしたはずだ。夜の8時か9時ごろに支局員全員が戻ってきて、今回の取材に関する支局会をしているときに私はコックリコックリ。そんな私を見て園木支局長は早々に散会した。

 園木支局長が泊まり番を毎晩確認していたのは意味があったのだと今なら分かる。4年生記者なら安心して任せることができる。しかし駆け出し西野の泊まり番の夜は園木支局長自身が事件事故の警戒をそれとなくしていたのではないか。だからあの夜血相を変えて飛び込んできたのではないか。

 アントニオ猪木が会津で狙われて入院したとき、当時の会津若松通信部の山本記者に「猪木の独占取材をしろ」と無理難題を命じていた。それは締切時間まであきらめるなという意味があったのだろうと今なら分かる。

 福島支局の警察担当の2年間、私は背広を着なかった。完全に普段着で仕事をした。しかし園木支局長は何も言わなかった。園木支局長が都庁担当時代にお酒を飲んで回って特ダネを取っていたそうで、「お前は酒を飲んで仕事をしていいと先輩に言われたから、酔っ払って取材して回ったもんだ」と話してくれたことがある。その経験から記者は自由にさせるのが一番だと思っていたのかも知れない。

 地方部長に出世した園木さんが、そのあと福島支局からサンデー毎日編集部に異動した私に「仕事はどうだ?」と聞いてきたことがある。「面白いです」と答えた私にものすごくうれしそうな笑顔を見せた――。





 園木さんが亡くなった。広島出張から戻って、たまった新聞を読んでいたら、社会面に訃報が出ていて、「ああ」と声が出た。ステージ4の末期がんだと聞いていたから来年の年賀状大丈夫かなと思っていたところだったので、驚きというより「来たか」と受け止めた。

 葬式には当時の福島支局員の大半が駆けつけた。みんな頭に白いものがずいぶん増えた。あれから約30年だもんね。あのころ園木さんは40代後半だったようで、今の私より若いのだった。

 最近よくテレビで見かける横綱審議委員会委員長(元社長)や毎日新聞OBの鳥越俊太郎さんの顔もあった。

 喪主のあいさつで、園木さんが昔から「やんちゃ」だったこと、のちに誰かから「イケイケおじさん」などと呼ばれていたと知った。確かに(笑い)。

 数年前、JR横浜駅の地下通路で偶然お目にかかった際、お茶に誘ってくださったのに私は取材に向かっていて、ゆっくり話すことができなかった。去年だったか福島会をしたときにお目にかかったけれど、あのとき横浜でお茶をご一緒していれば。

 支局長は死なないものだと思っていた。ましてややんちゃでイケイケの園木さんががんに負けるとは思いたくなかった。

 享年76。イケイケおじさんだからって、何もそんなに早く逝かなくても。