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 川端康成や井伏鱒二、稲垣足穂、深沢七郎、カシアス・クレイ、ヘンリー・ミラー、フランソワーズ・サガン、フランシス・コッポラらの名を挙げ、新潮社の中瀬ゆかりさんが五木寛之さんにこう言う。

「今日はわたくし如きで申し訳ないのですが、先生は……」

 遮って五木寛之さんが言う。

「あの、ぼくはどんな方と対談しても<さん付け>なんですけど。(略)できれば「中瀬さん」「五木さん」でお願いします。>

 新潮社の『波』11月号に載った記念対談のひとこまである。

 五木さんを見直した(と私如きが言うのだが)。五木さんの考え方が分かる人はすぐに分かる。分からない人にはいくら説明しても恐らく腑に落ちないだろう。先生と呼ばれることに快感を感じる人もいれば、五木さんのような人もいる。ワタシのように「先生と呼ばれるほどの莫迦でなし」と思っている底意地の悪い人間もいる。

 某大手建設会社では1級建築士を先生と呼んでいて、先生と呼ばれる1級建築士たちはまんざらでもなさそうな顔をしているのだが、社員の大半が内心「この薄ら莫迦め」と嗤っている。医者や教師同士がお互いに「先生」と呼び合って疑問を抱かないのは脳みそが爛れているのだろうなぁ。小説家を先生と呼ぶのも激しい違和がある。ヨイショの裏声が聞こえてくるのは私だけだろうか。

『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムス社の牧港篤三さんとは沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会でお目にかかり、以来長くお付き合いさせていただいたが、相手がどんな人であっても「先生」と呼ばなかった。大田昌秀・琉球大教授(当時)にも「大田さん」だった。五木さんと同じ「さん」付け。そういう敬意の示し方があるのである。固有の名前を呼ぶほうがどれだけ敬意が込もるか、やってみれば分かるはずなのだが。

 先生と呼んでいいのはお世話になった学校の教師くらいだろう。高校生くらいになると教師をあだ名で呼ぶけれど。

 先生と呼ばれている人は考え直してみるほうがいいだろうし、先生と呼んでいる人は「さん」付けで呼ぶほうが敬意を込めることができると気づくはずだ。と書いている私も時々「先生」と呼ぶけれど、その人の名字が出て来なくて焦ることがある(笑い)。