打越正行さんの『ヤンキーと地元』が話題になっているると知って、数年前に土門拳賞を受賞した写真集『新宿迷子』を思い出し、さらに本多勝一さんの極限の民族三部作が頭に浮かんだ。すべて同じジャンルとして串刺しにできる。そのジャンルは“極限”である。「極限」ではなく“極限”ね。

 内部のことを外に向けて発信することなど考えたこともない人々が棲む狭い世界がある。その狭い世界に棲む人々は外に向けて伝える言葉やカメラなどの手段を持っていない。持っていたとしても外に向けて伝えようとは思わない。

 その狭い世界に外部から言語やカメラなどの手段を持った人が入っていき、そこから記事や本、写真にして外に向けて発信したのが上記の作品に共通する。

 その狭い世界に棲む人たちは「え? わしらの日々が珍しいんか?」とびっくりする。「これ、わしらには普通なんやけど」と言ってこちらを不思議そうに見る。

 狭い世界は知識教養嗜好階層の餌あるいは慰み物になる。

 本多さんの極限の民族三部作の現場に今では誰でも行けるぶん価値が落ちてしまった。知識教養嗜好階層は日々に飽きるのが早いので、いつも新しい“極限”を探す。その網に引っかかったのが『新宿迷子』や『ヤンキーと地元』などが見せてくれる狭い世界なのである。

 これは小説の世界にも当てはまる。書くべき対象はもうほぼ書き尽くされている。古くは『太陽の季節』がそうだ。あの時代の最先端の湘南の若者の世界に慎太郎が入って行って「こんな若者いてまっせー」と小説にして向かって発信した。

 次はどの世界が餌食になるのか。

 表現者は日々探している。自分のために。