あの日、出勤前にJR平塚駅近くの立ち食いそば屋に寄った。朝飯を食べたあとだったのに、なぜまた食べたのか分からない。後にも先にもあのそば屋に行ったのはあの日だけだ。
店の中でテレビかラジオが流れ、刻々と変わる状況を伝えていた。被害の様子は最初は小さく、全体像が少しずつ把握できるようになるにつれて大きくなっていくものだから、これはどこまで被害が広がるのかと思った。
現地に行ったのは1カ月くらい経ったころだろうか。当時『週刊金曜日』編集部にいた私は、震災の連載を黒田ジャーナルにやってもらう企画を立てた。ゴーサインが出たので大阪の黒田ジャーナルを訪ねることにし、その前に現地に立ち寄ったのだった。
カメラを持って行ったものの1枚も撮ることができなかった。報じるには時期がずれていたし、撮った写真を載せる予定もなかった。カメラを持って行ったのに撮らなかったのは後にも先にもこのときだけだ。
あれはどこだったか、福島時代の同業他社だった共同通信の福ちゃんにばったり出くわし、その場にいた共同の先輩に福ちゃんと一緒に昼飯をごちそうになった。その人の名前を覚えていないだけに、時々思い出す。
大阪読売社会部で腕をふるった黒田さんと大谷さんをはじめとする黒田ジャーナルの皆さんと打ち合わせをして、といっても黒田さんが指揮する原稿だから編集者としての私は特に何をするでもない。その連載が本になって、私は1冊持っている。
もう本屋には並んでいないけれど、読み継がれるべき本である。
店の中でテレビかラジオが流れ、刻々と変わる状況を伝えていた。被害の様子は最初は小さく、全体像が少しずつ把握できるようになるにつれて大きくなっていくものだから、これはどこまで被害が広がるのかと思った。
現地に行ったのは1カ月くらい経ったころだろうか。当時『週刊金曜日』編集部にいた私は、震災の連載を黒田ジャーナルにやってもらう企画を立てた。ゴーサインが出たので大阪の黒田ジャーナルを訪ねることにし、その前に現地に立ち寄ったのだった。
カメラを持って行ったものの1枚も撮ることができなかった。報じるには時期がずれていたし、撮った写真を載せる予定もなかった。カメラを持って行ったのに撮らなかったのは後にも先にもこのときだけだ。
あれはどこだったか、福島時代の同業他社だった共同通信の福ちゃんにばったり出くわし、その場にいた共同の先輩に福ちゃんと一緒に昼飯をごちそうになった。その人の名前を覚えていないだけに、時々思い出す。
大阪読売社会部で腕をふるった黒田さんと大谷さんをはじめとする黒田ジャーナルの皆さんと打ち合わせをして、といっても黒田さんが指揮する原稿だから編集者としての私は特に何をするでもない。その連載が本になって、私は1冊持っている。
もう本屋には並んでいないけれど、読み継がれるべき本である。