
《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と書く近藤さんは高給取りの朝日新聞記者である。社会的地位も賃金も非常に高い朝日新聞社を辞めてから言うべきセリフだと気付いていないのだろうなぁ。本物の百姓・猟師に失礼だと思わないのだろうなぁ。「百姓」という『朝日』でも不快語と指定されているはずの単語を意図して使うあざとさにも気付いていないのだろうなぁ。自分の小賢しさに気づいていないとしたら書き手としては致命的である。
《文才は確かにあったけれど、人間としては尊敬出来なかったな》という自分への評価を紹介して、《人物眼は、ある》とおどけてみせたが、文才は否定していない(笑い)。どんな文才なのか、私には分からない。自分を持ち上げる誰が書いたか分からない文章を新聞に紹介するのが果たして文才なのだろうか。朝日新聞記者のくせに、それを読者が分かっている場所で、恥ずかしげもなく《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と嫌らしい書き方をするのが文才なのだろうか。まさかと思うが《であるからして》が文才なのか。だとすると、文才の定義を私は全面的に変えなければならない。
新聞社に勤めて高給をもらいながら自社の新聞に書くコラムは非常に難しい。私がブログに地味に書き綴る自分を落とすネタや下ネタは新聞に書くネタではない。記者より知識も経験も豊富な読者が多いから中途半端なネタなら失笑を買う。そこで取材したネタに落ち着く。無難なのである。もちろん書き方で差がつくけれど。
近藤さんのこのコラムは確か6月5日付け朝刊だったと思うが、他社の記者にも文章の書き方を教えているという話だった。自分の技術を抱え込むのではなく後輩や同業者に広めていこう、親切にしよう、という姿勢はいい。しかし、自分のことを例に挙げるのはどうだろう。恥ずかしくないのだろうなぁ。《百姓》だから我田引水はお手の物なのかな。私なら他人に親切にしている人を探してきて紹介するけどね。