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 ヤクオフで見つけたそれは通常より1万円安かった。あることの“前祝い”として、手に入れようと思った。いつもなら競争相手が値をつり上げてくるのだが、夏休みなのか、競争相手が出て来ない。おかげで落札することができた。

 車谷長吉さんの署名と押印がついて100部限定の古本『抜髪』である。もちろん『抜髪』は『車谷長吉全集』に収録されているので何度も読んでいる。何度も読んでいるけれど、車谷長吉さんの署名押印つきの100部限定本なら持っていなければならない。

『新潮』1994(平成6)年8月号に掲載され、白州正子が「敢えて言うなら神さまに対して書かれたものだ」と論評するなど話題を呼んだ作品である。母親が飾磨の方言で息子の勘違いと増長を窘める、そんな作品なのだが、読んだ瞬間に「これだっ!」と思うた(車谷さん風)。

 こんな書き出しだ。

《「あのな。ええことおせちゃる。」
「あんた阿呆(アホン)なっとんなえ。ぼけとんなえ。人の前でわが身が偉い、いうような顔、ちらとでも見せたら、負けやで。それでしまいやで。」》

 母親の窘めは続く。

《「世ン中見てみな。みな自慢しとうて、しとうて、うずうずしとってやが。あれは最低の顔やで。みな自分をよう見せかけたいん。舌(ベロ)まかしたいん。やれプライドじゃ、へちまじゃ言うて、ええ顔したいん。あんたも、ええ顔したいんやな。ほう。」》

 奇妙な光景を見てずっと感じてきた違和感が溶けた瞬間だった。零細企業経営者とその家族が破滅に至る、全く救いのない『三笠山』とこの作品は車谷長吉文学の双璧を成す。

 というわけで、“前祝い”は準備できた。

 ところが、困ったことになった。祝い事が生じなかったのだ。「あれ?」と肩すかしを食らった感じ。

 しかし、長年求めてきたこの本が手に入ったのである。よしとすべきであるな。

 などと書いていると、
「いつも何かにつけて“前祝い”だの“せっかくだから”だのといって散財してますよね」
 鋭いツッコミを受けてしまった。

 祝い事がないのに、“前祝い”で2万円(笑い)。