
今から思うと非常に幸運だった。取材で寂聴さんに電話をかけたらすぐに取り次いでもらえたのである。偶然ご自宅におられたわけで、忙しい寂聴さんを何の苦労もなく電話口まで引っ張り出せた僥倖は今だからこそ分かる。
四国八十八カ所巡りがブームになっていたことへのコメントをもらい、1997(平成9)年11月11日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)特集ワイド面で掲載した。
数年前だったか寂聴文学の愛読者である友人にこのことを話したらずいぶん羨ましがられたが、当時の私はその重みが全く分かっていない阿呆だった。徳島が生んだ大先輩という親近感を抱いていた程度で、のちに己の浅はかさを何度悔やんだことか。今も覚えているが、電話口の寂聴さんは本当に気さくだった。
その友人の影響で遅ればせながら寂聴文学を読みはじめ、凄まじさに圧倒された。以来愛読者の末席を汚している。
愛読者になったころヤクオフで瀬戸内寂聴さんの晴美時代の生原稿12枚を見つけた。「絶対に落札してやる」と決めたら勝負はついたも同然だ。事実私が競り勝った。20〜30万円くらいまでなら出すつもりだった。寂聴さんの魂のこもったお守りとして見れば安すぎる。調べたところ、この原稿は『ミセス』の1964年4月号掲載だ。私が生まれて半年ほど経ったころの執筆である。
午後からのニュースで寂聴さんの死去が報じられる中、黒柳徹子さんの「みんなの味方だった」という温かいコメントが的を射ていた。今夜は日本中が寂聴さんを偲んでいるに違いない。