同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

沖縄

私は人を見る目がある

 5月24日付『毎日新聞』朝刊を読んでいたら、某県の新聞社社長就任の記事が目に留まった。社長の名前を見てびっくり。『週刊金曜日』時代に担当した沖縄特集で何度か寄稿してもらった記者なのである。私が取材で沖縄に行ったときは晩飯に付き合ってくれた。

 新社長の経歴を見ると同じ大学ではないか。私は大学にほとんど足を踏み入れなかった(ので卒業に6年もかかった)が、もしかするとどこかですれ違っていたかもしれない。

 沖縄特集で同じように寄稿してもらったこの新聞社のもう一人の記者はその後日本新聞協会賞を2回も受賞している。

 あらためて思う。私は人を見る目があるなぁと。女性を見る目もあるのがワタシの自慢であるが、優れた人を見つけたり見極めたりする才能だけは人並み以上にあるのは間違いない。

 本土復帰50年。まずはおめでとうございます。


 

 

「だからよー」に笑ってしまうNHK朝ドラ『ちむどんどん』

 ヒロインの兄・比嘉賢秀の子供時代を演じる男の子の「だからよー」に何度も噴きだした。場面場面に応じた微妙な違いをしっかり発声に反映させているのだ。

 演じているのは沖縄の子ではなく、横浜出身の浅川大治さん(13歳)。方言指導は「ちゅらさん」に出演と方言指導をした沖縄の名優・藤木勇人さんなので、その指導がよかったのかもしれないが、私は何度も浅川さんの「だからよー」に笑ってしまった。

 効果的に「だからよー」を盛り込んだ脚本家・羽原大介さんはツボを押さえている。

 というのが本土の人間である私の感想なのだが、さて沖縄の人は「だからよー」をどう見たか。

 この「だからよー」を使う場面だが、私の理解ではこういうときに使う。

「金城さん。大遅刻ですよ。もう13時です。今まで何をしていたの!」
「だからよー」

「あんた熱発したという理由で学校を休んでいるのに、なんでサーフィンやってるの!」
「だからよー」

「西野君。お金ないのに何でそんな高価な本を買ってるの!」
「だからよー」 

元ひめゆり学徒宮城喜久子さんを思う沖縄慰霊の日


 何年か何十年か経って「ああ!」と気づくことがある。私はこのことに気づくのに30年以上かかってしまった。

 このことというのは元ひめゆり学徒宮城喜久子さんのこころの中である。お会いしたのは昭和の終わり。私が沖縄に移住した1987(昭和62)年の、あれは何月だったか。『歩く見る考える沖縄』という本が地元の出版社から発売され、それをもとにしたフィールドワークの1つとして宮城喜久子さんに初めてお目にかかったと記憶する。

 場所は荒崎海岸だった。迫る米兵を前にひめゆり学徒が手榴弾で自決を強いられた岩場である。岩場に小さな碑がはめ込まれ、その場と分かるが、私一人でもう一度行こうとしてもたぶんたどり着くことはできない。そういう現場で宮城喜久子さんはそのときの状況を、まるで目の前に見えているかのように話してくれた。

 1フィート運動のボランティアをしていた関係でその後何度かお目にかかることがあり、ひめゆり平和祈念資料館を当時の家族で訪ねたときもお目にかかった。宮城さんが亡くなるまで年賀状を交わしてきた。

 それなのに、今ごろなのである。ああと気づいたのは。

 友人たちが自決を強いられた場所で、生き残った宮城さんに語らせることは、宮城さんにとって拷問ではなかったか。友人たちの遺影が飾られたひめゆり平和祈念資料館で、生き残った宮城さんが入館者に語ることは、宮城さんにとって塗炭の苦しみではなかったか。

 もちろん、戦争経験者としての使命感をお持ちだったのは間違いない。それでも、ふとした瞬間に亡くなった友人たちと生き残った自分の落差をじっと見て、自分を責めてしまったことがあるのではないか。

 そんなことを思いながら過ごす6・23。

 
 

 

コザ暴動50年に思う

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 沖縄で2回計4年少々暮らし、コザの交差点を10回くらいはバイクか車で通ったことがあるはずなのにコザ暴動の現場がどこなのか把握していない。気になっていたのに確認しないままになってしまった。

 確かビーンさんは翌朝に現場を見たと言っていたような。にもかかわらず現場に連れて行ってもらおうとしなかった私はどうしたことか。那覇からコザはちょっと遠いもんなぁ。いや、ビーンさんの車でゲート通りに行ってアメリカ兵が集まる店でお茶したのに。

 NHKの夜9時のニュースでコザ暴動を取り上げていて、「抜かった」と反省している。諸事情から沖縄に足を踏み入れることができないのだが、死ぬまでに1回くらいは。寒いのが苦手な私は60歳くらいから沖縄で暮らすつもりが私のせいでおじゃんになった。

 おじゃんって何だろうと思って『広辞苑』第7版を引くと《火事の鎮火の時に打つ半鐘の音》らしい。おじゃんと鳴るのか。ほぉ。

 というわけで、今度沖縄に行くことがあればビーンさんよろしくねー。

首里城炎上をけっこう早く知ったワケ

 首里城が焼け落ちて1年。あの日わたしはずいぶん早い時間に首里城の炎上を神奈川県の自宅で知った。

 その理由はラジオである。NHKラジオが「沖縄放送局から首里城の炎が見えます」と放送するのを聞いた。時計を見ていないので何時か分からないが外は真っ暗だった。

 なぜにラジオで聞いたかというと、怖いからである。夜中に目が覚めて、シーンとしていたら怖い。何か物音がしていても怖い。夜一人で寝るのが怖いのである。自宅でも出張先の宿でも怖いものは怖い。

 シーンという無音も何かの物音も怖いので、出張先ではテレビを付けっぱなし、自宅ではラジオを付けっぱなしで寝る。

 夜中にふと目が覚めてラジオから聞こえてくる音楽が私のよく知る時代だったりすると5曲くらい続けて頭の中で一緒に歌ってしまうことがある。

 戦(おのの)きつつ ひとり寝る夜の NHK いかに楽しき ものとかは知る

那覇高等予備校で同僚だった女性の名前が

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 おぼろげな記憶なのだが、私が那覇高等予備校で講師をしていたころだから1987年2月から89年3月までだが、講師室で先生たちから祝いの言葉を受けている小柄な女性がいた。何かの文学賞をもらったのだと聞いたような気がする。当時私はその方面に全く興味がなく、立ち入らず、お祝いの言葉さえかけなかった。

 その光景を時々思い出してきたのだが、あの女性講師の肝心の名前が出て来ない。私は人の顔と名前を覚えるのが苦手なので、この女性に限ったことではないのだが。

 それが6月20日付『朝日新聞』読書面を見て「あ、この人だ」。崎山多美さんである。

 今も小説を書いているのだった。検索してみると、パソコンに崎山さんの顔写真が出てきて、私の記憶とほぼ重なる。

 ウィキペディアによると、《1979年「街の日に」で新沖縄文学賞佳作、1988年「水上往還」で九州芸術祭文学賞受賞、1989年「水上往還」で第101回芥川賞候補、1990年「シマ籠る」で第104回同候補。2017年、『うんじゅが、ナサキ』で第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞》ということだから、私が予備校で見たのは88年の九州芸術祭文学賞を受賞したときだったのだろう。

 その後芥川賞の候補に2回という実力ある書き手なのだった。すごいじゃいないですか崎山さん! 
 それが今回の芥川賞は本土の小説家が沖縄を舞台に書いた『首里の馬』。前回だか前々回だかの直木賞の『宝島』も沖縄が舞台で、本土の小説家が書いていた。

 受賞したから偉いとか受賞しないから偉くないとかそういうことでは全くなく、沖縄でずっと書いている崎山さんの小説が受賞を機に内外で広く読まれることになればいいなぁと元同僚は思うわけである。

 そうかー。崎山さん頑張って書いているんだなぁ。そのことに私はこころ動かされた。

6・23は沖縄戦終結ではない

 モンパチことモンゴル800の「himeyuriーひめゆりの詩ー」の音楽映像の冒頭、《1945年6月23日 沖縄戦終結。》と文字が出る。

 モンパチは沖縄のロックバンドだから知らないはずがないのだが、6月23日は沖縄戦の《終結》ではない。第三十二軍司令官(大将)の牛島満と参謀長(中将)の長勇が自殺し、にもかかわらず「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と無謀な指示を残したため、日本軍の組織的抵抗は終わったものの狭い沖縄本島での大混乱や住民の死が続いた。

 昭和のおわりの2年を沖縄で暮らしていたとき、何かの集まりで徳島の出身だとあいさつしたら「赤松隊長のところですね」と老婆に言われて慌てた。久米島の住民を虐殺した赤松隊長のことは知っていたけれど、脊髄反射のように返されたことに根の深さを感じざるを得なかった。

 そういうのも含めて沖縄戦である。

 

 

首里城焼失に敢えて祝いを

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 たまたま午前3時40分に目が覚めて便所に行き、寝床に戻ったのになぜか寝つけず、すると付けっ放しのNHKラジオから「首里城から炎が上がっているのが沖縄放送局からも見えます」という速報が流れた。

 朝のテレビで燃える首里城を見ていると悲しくなってきたが、同時にこれは好機ではないかとも思った。お祝いしようではないか。

 かつて沖縄で暮らしていたとき本土から友人が来るたびに首里城を「現代建築の粋を集めた建造物」と説明し、嫌がられた(笑い)。沖縄戦で消失し(その前の10・10空襲でも無傷だったとは思えない)、1992(平成4)年に“復元”された。私が住むマンションより新しい建物なのである。

 しかも「復元」とはいうものの元祖首里城の設計図など残っていないので厳密な復元では全くない。相当程度想像が入っているし、今回消失した築30年弱の2代目首里城と先日燃えたノートルダム大聖堂とは歴史的古さが比べようがないくらい違う。2代目首里城が世界遺産に入っていないのはそういうわけさね。

 幸いなことに2代目首里城の設計図はある。時間はかかるかもしれないが、再建できる。

 もう1つ幸いなのは、死者がゼロなのだ。元祖首里城が焼失した沖縄戦では夥しい県民が犠牲になったが、2代目首里城焼失では人の命が奪われていない。誰ひとり死んでいない。これ、特に沖縄ではものすごく大事なことではないか。

 さらに言えば、3代目首里城の建築に向かう沖縄県内では建設業を中心にお金が動く。沖縄経済が活発になるわけだ。悪い話ではないだろう。

 火災保険がどれだけ出るか分からないが、県民を中心に募金活動を始めるに違いない。基地問題はいつも分裂するけれど、これなら沖縄が久しぶりに1つにまとまる。

 というわけで、私は祝いたい。灰燼に帰した沖縄で人々を励まして回った小那覇舞天さんと照屋林助さんの「ぬちぬぐすーじさびら」を今ここに再び。

これがうまかったセブンイレブン沖縄出店記念

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 セブンイレブンが沖縄出店記念の弁当などを本土で売り出した。沖縄県民歴4年少々で沖縄料理が大好きな私が3種類食べてみての結論は。

 ゴーヤチャンプルーは味つけが今ひとつ違う。なお、地元では「ゴーヤ」ではなく「ゴーヤー」と言う。セブンの「ゴーヤチャンプルー」は沖縄の本来の「ゴーヤーチャンプルー」とは別ものということかもしれないな。「ゴーヤ」は沖縄県産ではなさそうだし。

 沖縄県産もずくのつるりんサラダ。これは微妙だった。沖縄県産のもずくが商品としてすでにあるので、それを食べるほうがいい。

 豚角煮チャーハン。これは私の口に合った。また買うとしたらこれ。


沖縄県慰霊の日の『琉球新報』特報と1フィート運動

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 iPadでニュースを見ていて「おー!」と声が出た。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会が制作した記録映画『沖縄戦・未来への証言』に写っていたぶるぶる震える子供が誰か分かったというのである。

 昭和の終わりの2年ほどを沖縄で暮らした私は1フィート運動の会に出入りし、上映活動を手伝った。会場からため息や悲鳴などの反応が出る場面の1つがこれ、不安げな表情でぶるぶる震えている子供のシーンだった。

 那覇市小禄在住の女性(81歳)が私ですと名乗り出たという。那覇市小禄なら友人が住んでいる。

 報じた『琉球新報』によると女性が名乗り出たと書いてある。しかし『沖縄タイムス』には載っていない。『新報』の記者に女性が何かで出会って話したのか。いずれにしても特報である。

 1フィートの『未来への証言』には米軍によって井戸から子供らが助け出されるシーンがあり、その場所はどこかと探していた記者もいた。30年以上前の話だが、場所が特定できたという話はまだ聞かない。

 ジグゾーパズルであればピースをすべて埋めることができるのだが。

 今日は6・23。沖縄県慰霊の日。

普天間基地撤去の方法

 
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 衆院沖縄3区補欠選挙で争う屋良朝博さんと島尻安伊子さん。屋良朝苗の血を引く屋良さんが勝つのは間違いない(島尻さんは沖縄の名字だが本土出身のいわゆるウチナー嫁)。私は屋良さん支持である。

 その上での話だが、争点になっている普天間基地の撤去については島尻さんの方に分がある。沖縄島のど真ん中の住宅密集地にある普天間基地を、大きな事故が起きる前に移転させるのが政治としては正しい。

 普天間いらん辺野古いらんと言い続ける限り、普天間は動かない。動かないということは大きな事故が起きたら住民が巻き込まれる危険性がさらに続く。沖縄国際大に普天間基地のヘリコプターが墜ちてけが人がいなかったのは奇跡であり、奇跡は何度も起きない。

 そもそも「最低でも県外移設」などと口走ってしまった宇宙人鳩山由紀夫が混乱の発端なのだが、総理大臣を降りたので空手形だけが残った。

 もちろん新基地辺野古にも私は反対だが仕方ない。辺野古に移しながら、県外の移設先を探すという手順が政治的に妥当である。

 仕方ないという言葉を使いたくないのだが、この状況を見る限り仕方ない。でも、私は屋良さんを支持する。

米軍普天間飛行場問題はしょせんひとごと

large-14aa4dfcb05190644a25783b1d721d08 こうなることは最初から分かっていた。辺野古問題の沖縄県民投票である。投票結果も最初からみんな分かっていたし、事態が何も動かないことも最初からみんな分かっていた。

 沖縄の知人が先日教えてくれた話だが、『琉球新報』が3月3日付朝刊で46都道府県知事にアンケート結果を掲載した。米軍普天間飛行場の受け入れを検討するかと投げかけたのだが、その結果はこれも予想されるとおりではある。

 ほかの都道府県にとって「しょせんひとごと」なのだ。恥を知れと私がここで喚いたところで何もならないのだが。

 本来このような報道は全国に配達網を持つ本土紙が率先してやるべきではないか。日米安保条約の必要性の有無から始め、米軍基地をどうするか、どこに置くか、という侃々諤々喧々囂々の紙面を展開するくらいでないと「うちは沖縄報道やってます」とは言えないぞ。そういう自負がある『朝日新聞』には特に期待しておく。

 今後総理大臣になった人の都道府県に漏れなく米軍基地がついてくるというのはどうだろう。自分が傷つかないと痛みは分からないものである。

衆院沖縄3区補選は屋良さんが制する

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 屋良朝博さんが野党候補になる。自由党にしてはやるじゃないか。最適の人だ。沖縄の一定年齢以上の人なら「屋良朝」でピンと来る。琉球政府主席や県知事を務めた屋良朝苗さんの末裔だと。

 屋良さんが沖縄タイムスの基地担当記者時代に私は『週刊金曜日』編集者で、沖縄特集の原稿を依頼した。確か英語がペラペラで、それなら米軍基地取材もお手の物だと羨ましく思った記憶がある。残っていれば間違いなく編集幹部になったのにその後フリーに転じて基地問題を取材し続けた。屋良朝苗さんのDNAなのだろう。

 屋良さんなら間違いない。

来春の衆院沖縄3区補選で自民党が島尻さんを出してきたけど

 島尻さんに貧乏くじを引かせるのだな。

 よほど状況が変わらない限り、自民党への逆風は収まらない。誰が出ても落ちるとなると、最も傷が浅い人を出すことになる。これで落ちれば島尻さんも納得するだろう。

 という程度のことは自民党県連などが考えたはずだ。

 もともと本土の人間だし、沖縄の通奏低音が分かっていない人が沖縄から選出されることが私には不思議だった。というわけで、来春の衆院沖縄3区補選は島尻さんの墓場になるというのが私の見立てである。

辺野古への土砂投入は確かに問題だが

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 この手の報道、よく分かる。よく分かるのだが、うーんと唸ってしまうのはなぜだ。政府批判は簡単なのだが、新聞が批判すべきは見て見ぬふりをする都道府県の姿勢と、その前提である日米安保の議論がないことではないか。

 そんなことしたら地方で部数が減る? ごもっとも。でもね。

 沖縄の米軍基地問題はそもそも日米安保に始まる。踏みにじられてきた沖縄にまだ米軍基地を押しつけるのかと沖縄は政権を批判しているように見えるけれど、「ほかの自治体は無視かよ」「私らを放置プレーかよ」と思っている。事実沖縄県知事だった大田昌秀さんは「ちむぐりさ」という沖縄の方言を使ってやんわりとそういう意味の発言をしていた。

 私が思うに第一候補は鹿児島県。次は熊本県辺りか。いずれにしても九州の県が他人事のように動かないのは問題である。「いや、沖縄にお願いするしかない」というのなら、政見も都道府県もそういう発言をしなければ。もちろん日米安保についての議論も含めて。

 いじめられ続けている沖縄君を政見先生も各都道府県同級生もだまーって見て、知らんふりしている教室が今の日本だな。

翁長沖縄県知事の死去で

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 翁長雄志沖縄県知事が亡くなった。4月に膵がんの手術を受けたが、肝臓に転移しており、7日に急変、8日に亡くなった。思いつくままに3つ。

『鉄の暴風』の著者で沖縄タイムス社相談役だった牧港篤三さんがご存命のころいただいた年賀状に、保守系政治家でも基地反対を唱えるところが沖縄らしい、という趣旨のことを書いてあって、時折思い出す。翁長知事もそうだった。マキャベリストという批判を浴びながら米軍基地と闘った。落ちたらただの人になってしまう政治家の真意は分からないけれど、言葉と行動で推し量るのが妥当だろう。とすれば、翁長知事はまさしく牧港さんが指摘したとおりの、沖縄の歴史を背負った政治家だった。辺野古沿岸部の埋め立てを承認した仲井真弘前知事と違って沖縄の歴史に名前を残す。

 翁長知事の死去を伝える9日付『毎日新聞』朝刊(東京本社版)14新版3面の見出しに私は違和感を抱かざるを得なかった。「移設反対派 絶句」だって。

 どういう意味の絶句か知らないが、翁長知事が長くないことは地元の誰でも分かっていた。「翁長さんでは知事選が危ういけれど、弔い合戦になったら勝てる」という不届きな声が県内にあったことを本土に住む私は沖縄の数人から聞いている。本土の私に届く程度の声だから、よほど世情に疎いか無関心な人でない限り沖縄の人はどこかから何度も聞いたはずだ。というわけで、いくら本土の新聞で沖縄の世情に疎いとはいえ、今さら「絶句」ではあるまい。いや、亡くなって悲しくて言葉が出ないという趣旨の「絶句」なら認めるが、人が亡くなって悲しいのは当たり前やんけ。

 4月に膵がんの手術をしたことの効果を知りたい。恐らく末期だったはずで、にもかかわらず手術をしたのかしなかったのか、どんな治療をしたのかしてないのか、延命に影響を与えたのか与えてないのか、知りたい。黄疸が出ていたとか何か症状があったのだろうか。政治的な意味でしか語られないけれど、末期がんの手術と効果を知りたい。健康ヲタ君の私はね。

 と書いたあと分かったのは、膵がんはステージ2だったそうな。早期発見だったということだが、退院後ガリガリになっていて私はびっくりした。真相は?

 琉球大附属病院に入院していたら結果は違っていた、なんてことはないだろうか。

沖縄戦と黄金森の思い出

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 私の子供たちの母親の生まれた集落が6月23日付『朝日新聞』朝刊be版の「みちものがたり」で紹介された。6・23に合わせた記事である。

 この記事で取り上げられた黄金森(くがにむい)には陸軍病院壕がある。ここでの阿鼻叫喚を元ひめゆり学徒の宮城喜久子さんから初めて聞いたのは30年も前に遡る。南風原文化センターなどには、足手まといになった負傷兵を軍医が殺した証言がいくつも残っている。住民をスパイ視して殺したり、避難壕を追い出したりした証言は腐るほど残っている。沖縄戦の話はこんなんばっかり。沖縄でこうなのだ。中国大陸で陸軍が中国人相手にどう振る舞ったか容易に想像できる。

 さて。

 黄金森には地元集落民の亀甲墓がある。私の子供たちのオジイとオバアもそこで眠っている。納骨というのか、そういうのを一族郎党が集まって儀式の手順に基づいてやった際私も一員として参加したのは貴重な経験になった。ビデオを回しておくべきだったと反省するのは罰当たりか。

 鬱蒼と生い茂る雑木の奥に亀甲墓があり、昼間のこととはいえ木の上からハブが落ちてくるのではないかなどと心配して本土の人間である私は落ち着くことができなかった。夜になったらハブの大宴会が亀甲墓の前で開かれていそうだった。そういう森に陸軍病院の壕があったのだ。ハブを心配する私の戯言など一顧だにされない状況だっただろう。

 記事には知り合いが2人登場しており、私の子供たちはその母親から沖縄のDNAを引き継いでいるだけに「記事をしっかり読め」とLINEで念を押した。

 既読スルー。ま、こんなもんか。

沖縄慰霊の日と『私の沖縄現代史』

 今日は沖縄慰霊の日である。本来は沖縄戦や1フィート運動にでも触れるべき日なのだろう。そこで1フィート運動つながりとして新崎盛暉先生の遺作(になるかな?)『私の沖縄現代史――米軍支配時代を沖縄で生きて』(岩波現代文庫)を書こう。東京生まれの新崎先生が米軍支配下の古里沖縄に関心を深めていく過程を縦糸に、沖縄や世界の動向を横糸に、紡いだ。

 沖縄戦研究の第一人者として大田昌秀先生がいて、日米安保と沖縄の最前線には世論をリードする新崎先生がいたのである。その新崎先生、若いころは新聞記者になろうかと思っていたそうだ。しかし沖縄には新崎先生が必要だった。新崎先生がいなければ反基地闘争は迷走した可能性が大きい。

 新聞記者の夢はご子息が叶えている。よほどうれしかったのだろう、2回目の移住をした2011(平成23)年ごろ沖縄大の学長室を訪ねた私に「息子が新聞記者なんだ」と破顔して教えてくれたことを思い出す。当時これといった肩書きを持っていなかった私に「沖縄大学地域研究所研究員の肩書き、使っていいよ」と言ってくださった。お言葉に甘えておくんだった。

 以前も書いたが、『週刊金曜日』で沖縄の特集を組むたびに新崎先生に巻頭論文をお願いした。精緻で力強い原稿を毎回いただいた。著者略歴に「東京生まれ」と私がいつも記していたのだが、あるとき新崎先生から「それ、外せない?」と笑いながら言われたことがあった。周囲は新崎先生を沖縄生まれだと思っているはずで、事情を聞かれるたびに説明するのが面倒だったのだろう。

 私のおじの都庁勤務時代、同僚だった新崎先生とお付き合いがあり、本書に登場している。巻末の人名索引にはカストロと加藤一郎、加藤周一に挟まれて名前が載っている。

 沖縄に静かに流れる通奏低音たる沖縄戦の上に流れる基地問題は不快音が大きくなる一方だ。沖縄世論を引っ張る強力なリーダーシップと明快緻密な理論を積み重ねた新崎先生にはもっともっと活躍していただきたかった。


  

米軍機の超低空飛行映像で

 日米地位協定で米軍機の飛行高度は人口密集地300メートル、それ以外は150メートルと定められているという。ところが岩手県一戸町に立つ風力発電所の支柱(高さ78メートル)の辺りを飛んでいるように見える映像があると4月27日付『毎日新聞』(東京本社版)朝刊が第2社会面で報じた。

 さっそく見てみた。記者が気づいて問題視したのは見事だが、5月2日夜の時点でも映像は削除されていない。批判されても屁でもないのだろうなぁ。

 F16戦闘機のコックピットから見る光景は普通見ることがないだけにとっても興味深いし、操縦うまいなぁと思ってしまうし、無機質な高い音だけが聞こえるので静かだなぁと思い込んでしまうのだが、地上では爆音が響いているはずだし墜落の心配をする人もいるはずだ。

 地上の民間人の視点がないことにこの映像を見た人のどれだけが気づいたか。こんなふうに思うのは沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局で牧港篤三さん(『鉄の暴風』の筆者であり、元沖縄タイムス社相談役)に記録映画『沖縄戦・未来への証言』を「戦場の映像は沖縄の人の視点ではないですからね」とかつて言われたことが頭に残っているからだろう。

 岩手上空の米軍機映像を見ながら沖縄の空を思い出してしまった。そういえばかつて家庭教師をした沖縄市の女の子のひとりは「空がゴロゴロ言うのは空の音だと思ってた」と言っていた。戦闘機の爆音は今や完全に沖縄の「空の音」になってしまっている。

追悼・新崎盛暉先生

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 東京都内で買った今日付『朝日新聞』の社会面をJR東海道線で読んでいて「あ」と声が出た。何ということだ、沖縄大学長だった新崎盛暉先生が亡くなっているではないか。

 私が『週刊金曜日』で沖縄問題の特集を組むたびに巻頭論文をお願いした。それまで新崎先生の論考を読んだことがなかったらしい編集部員が初めて読んで「ニシノさん、新崎先生の原稿、すごいですね」と言いに来てくれた。うれしくて、思わず胸を張った記憶がある。

 新崎先生は沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会の運営委員だった。私は以前そこで上映活動のボランティアをしていた。

 あるときの新崎論文でその1フィート運動の会の正式名称を大雑把に書いてきたことがあり、私が正式名称を入れてゲラにして送ったところ、編集部に電話をかけてきて「西野君が正確な名称を入れてくれると思ってた」と言って笑っておられた。

「居酒屋独立論」で新崎先生が批判を浴びた時、私も全く同じ意見だったのでそうお伝えしたら『けーし風』に原稿をと依頼された。拙稿ごときが新崎先生を援護できたかどうか心もとないが、今も自分の飯のタネでしかない沖縄独立論を唱える“学者”センセーに私は首をかしげる。居酒屋独立論と大同小異である。いや、オノレの飯のタネであることを隠しているだけ居酒屋独立論者よりタチが悪い。

 沖縄の近現代史に関する精緻で明快な著書を数々出版し、最も新しいのが『私の沖縄現代史』(岩波現代文庫)ではないか。今年の年賀状に私は「読んでいるところです。続編を読みたいです」などと記したのだが。

 新崎先生は長年にわたって沖縄の平和運動の理論的指導者だった。残念という言葉しか浮かばない。


 

 

「魂魄の塔」をカット写真で使うのなら

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『毎日新聞』の沖縄報道は質量ともに安定していないというより低い。3月25日付朝刊(東京本社版)3面に「沖縄慰霊塔 遺骨調査へ」という記事に添えられた写真は誰が見ても「魂魄の塔」であるにもかかわらず「沖縄戦戦没者の遺骨が納められていた慰霊塔」という説明文だ。

 散骨する遺骨を集めて1946年2月に建立された。約3万5000柱あったが、国立沖縄戦没者墓苑に移された=『沖縄コンパクト辞典』(琉球新報社)参照。

 3万5000柱という数は県内最大で、「平和の礎」ができるまではこの「魂魄の塔」に大勢の県民が6月23日に訪れて花や線香などを手向けた。「うちかび」というあの世で使うお金を燃やしている遺族もいた。

 沖縄県内の全自治体に慰霊塔がある中で「魂魄の塔」はその代表という位置づけだ。そんな塔を「沖縄戦戦没者の遺骨が納められていた慰霊塔」はないだろう。むろん間違いではないが、魂魄の塔の写真を使うのなら、これでは全く血が通っていない。「沖縄を代表する慰霊塔『魂魄の塔』には3万を超える遺骨があった」や「3万超の遺骨を納めた沖縄を代表する慰霊塔の『魂魄の塔』」などと書くことができなかったのか。


 

石川真生さんの写真の魅力は

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 おー。真生さんが出てる。今日付『朝日新聞』Be版を見て声が出た。おー。

 真生さんは写真もいいけれど、本人そのものに魅力がある。こんな真生さんの魅力が写真に個性を招くのは当然だろう。

 かつて地元紙で人生相談の回答者をやっていたが、それを読んだ私の友人が「真生さんの回答は役に立たない」と笑っていた。例えば仮に彼に振られて悲しいという相談があるとすると、真生さんは「そんなの気にするな」や「悲しんでも仕方ないさ」と答える。気になるから相談しているのに気にするなって……というわけだ。

 考え方が柔軟というか、話が分かるというか、脳みそが固まっていないというか。沖縄に軸足を置いて米軍基地反対運動を撮りながらも米兵一人ひとりに対しては批判の目を向けない。記事にあるように、その基本には<私は運動家じゃないからさ。写真家だから>ということだろう。

 この記事で、埼玉・東松山市で開催中の「大琉球写真絵巻」の来場者が増えるといいなぁ。地元沖縄でもっと評価されるべきなのだが、沖縄より本土で評価される写真家だと思う。でも、それでいいのである。沖縄のことを本土の人間がもっと知らないと。
 

石川真生さんの大琉球写真絵巻@丸木美術館

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 石川真生さんに初めて会ったのは沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局(那覇市久茂地)だったから1988(昭和63)年ごろだろう。その後、『週刊金曜日』編集者になった私は真生さんに沖縄の写真をどんどん発表してもらった。

 虚飾の対局に位置する考え方と生き方をしている飾り気のない人なので、虚飾や欺瞞を軽く見破る。持って生まれた魂でもあるだろうし、ファインダーを通していろいろな人を見て寄り添ってきたから“視力”が鍛えられた面もあるだろう。そんな真生さんが被写体として選んだのは虚飾や欺瞞から遠く離れて生きる人たちだ。

 日の丸の旗を使って自由に演技をさせるシリーズが一段落し、次に取り組んだのがこれである。すなわち、琉球時代から現在までの沖縄の歴史のひとこまを地元沖縄の人たちが演じる「大琉球写真絵巻」である。

 さっそく丸木美術館に見に行った。欺瞞を引っぺがして皮肉をよく効かせた創造写真もあれば、米軍基地とさまざまな関わりをしてきた人たちをそのまま登場させた写真もある。琉球王国時代の歴史を私はほとんど知らないので、その時代の創造写真は歴史の断片の習得になった。

 丸木美術館には「原爆の図」のほか「水俣の図」もあり、あらためて石牟礼道子さんを追悼した。

 大琉球写真絵巻は今のところ全4部。1〜2部の前半(2月21日まで)と3〜4部の後半(3月4日)に分かれる。というわけで、後半もう1回行く。この琉球写真絵巻は見たかったから。

 NHKで特集されるなど真生さんも全国区になった。ステージ4のがんを抱えているけれど、これからだよ魔王の真生さん。

「沖縄差別」というより

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「山口県にも米軍基地があるけど、沖縄みたいな反対運動はない。沖縄はおかしい」と山口県出身者が言う。阿呆めと一蹴するのは簡単だが、何の解決にもならない。

 沖縄戦は通奏低音だが、基地問題は不協和音である――というのが私の長年の見立てで、実際基地問題は一筋縄ではいかない。

「米海兵隊普天間基地での航空機離着陸の即時全面停止を求める」という声明の記者会見が那覇市であったようだが、賛同する市民の名前と肩書きを見ると大半が大学の先生なのだ。世間とかなり離れている大学業界なので、いわゆる市井の人々とは言いがたい。残念だが、市井の人々は聞き流すというか耳に入らないというか、ああまたやってる程度の受け止めだろう。

 私に妙案があるわけではない。しかし、1つだけ思う。沖縄戦という原点に立つべきではないか、と。

 冒頭の暴言は沖縄の歴史を知らないからだろう。新聞の見出しの「沖縄差別」は私に言わせればズレていて、見出しには長すぎるが「沖縄の歴史への無知と無関心」と言うべきである。

 琉球王国まで歴史を戻る必要はない。県民が巻き添えになった地上戦である沖縄戦のことを繰り返し繰り返し発信すべきなのである。沖縄戦記録フイルム1フィート運動の会を解散したのは間違いだったと今も思っている理由はそこにある。


 
 

沖縄の若者よ沖縄を離れろ

 沖縄の教え子から電話がかかってきて少し話した。職業を書くと迷惑が及ぶ可能性があるので書けない。めちゃくちゃ面白い仕事をしている。

 その教え子が言うのである。

「沖縄の若者は本土に出るべきだ」

「広い場所に出れば視野も考え方も広くなる」

「沖縄にいたら成長できない」

 私も全く同感で、仕事がないと言う沖縄の若者を見るたびに「本土に出ればええがな。ワシの古里徳島の同級生の多くが京阪神や関東に出とるで」と思ってきた。

 親が子供を手放さず、子供も内弁慶になって仕事がない沖縄にしがみつく。どっちが悪いかというと親だろう。「出ていくのが当たり前」や「帰って来る場所ないで」とけしかけるのが親の務めだと私は確信しているから自分の子供にはそう言ってきた。

 そもそも「出るな」というのは大半が親の都合ではないか。老後は子供にしがみつくぞ、とかね。しかし手元に子供を置いておくことで、子供は大きく羽ばたく機会を逸する。親が我が子を去勢するようなもんだ。子供に子供の人生の本番を与えてやらないで、それでも親か。

 この教え子は沖縄生まれ沖縄育ち。100パーセントオキナワンが「沖縄にいたら駄目になる」と言うほど本土は刺激とチャンスと仕事に満ち溢れているのだ。

ナーベラは俺のことかとナーベーラー言い

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 東京・御茶ノ水駅そばで見つけた看板にイツワリあり。

「ナーベラ」と記したのは沖縄の人ではないだろう。沖縄の人なら「ナーベーラー」と記すはずだ。実際「ナーベラ」の下に「ナーベーラー」の文字が見える。こっちが正しい、

 私は「ナーベーラー」についてウルサイ。那覇高等予備校で教えていたころ(1987年から88年)、私は「ナーベラ−」と発音していた。そのたびに「西野さん、違う。ナーベーラー。はい、言ってみて」と教え子に繰り返し指導してもらった。

 というわけで、今度は私が指導する側に回っているのであった。

沖縄県慰霊の日に

 6月23日を新聞各紙は日本軍の組織的戦闘が終わった日と記す。表面的には確かにその通りだが、違和感がある。

 実際は牛島満中将や長勇参謀長らがその日(22日という説がある)摩文仁で自殺して後は野となれ山となれ。「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」と戦闘続行を指示し、鉄血勤皇隊千早隊には「軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任スヘシ」と命じ、泥沼化させた。

「組織的戦闘が終わった」という平和的な状況ではなく、「司令官が勝手に自殺して沖縄戦をさらに泥沼化させた初日」という説を私は支持する。

 この慰霊の日の根拠は「沖縄県慰霊の日を定める条例」=1974(昭和49)年10月21日=に遡る。沖縄県の本土復帰から2年後の制定である。わずか2条で成る。

第1条 我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める。

第2条 慰霊の日は、6月23日とする。

 沖縄戦という通奏低音が流れ続けているのが沖縄なのである。沖縄戦 → 戦争反対 → 基地反対 → 辺野古への新設反対、という流れは当然だろうし、私は理解できる。
 
 ところが、だ。辺野古沖への基地新設に抗議する行進をしていた沖縄県内各地の自治体の首長たちに「売国奴売国奴」の声が飛ぶ映像をNHKが報じた。売国奴となじる連中がいることに私はがく然とした。沖縄戦を知らないのか何らかの思い込みか愉快犯か。

 NHKがとてもいいものを公開している。売国奴と的外れなことを叫ぶ連中こそ見るべきなのだが、そういうのに限って見ないんだよなぁ。NHKスペシャル「沖縄戦全記録」

大田昌秀さん評伝

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 大田昌秀さんが亡くなった。思い出すのは大田さんが沖縄県知事になって代理署名を拒否したころである。当時私は『週刊金曜日』編集部にいた。

 5月だか6月だかに企画書を沖縄県庁に送ったところ、単独インタビューを受けていただいた。代理署名問題が今後どう展開するのか、報道各社が大田知事を追いかけていた。あの筑紫哲也さんでさえ単独インタビューできなかったので、誌面を見て「よく取ったなぁ」と褒めていたそうな。えっへん。

 種明かしすると、私は「慰霊の日の特集をするのでお話をうかがいたい」と申し込んだ。代理署名の話で取材を申し込んでもあの時期の大田さんが受けるわけがないのである。でもインタビューで代理署名について質問すると前のめりになって答えてくれた。たまたま政治家をしていたけれど、率直な学者なのだ。

 その根底にあるのは沖縄戦である。鉄血勤皇隊であの沖縄戦を奇跡的に生き残った大田さんは沖縄戦や慰霊の日に格別の深い思いを抱いていた。戦後ずっと沖縄戦を背負い続けた。

 知事室でのインタビューは予定を大幅にオーバーした。同席した秘書の顔を見てもすまし顔なので、こっちがかえって気になった。沖縄戦の話が止まらない。

 ゲラを送ると、あふれるほどの書き込みをして戻ってきた。誌面に入らない。秘書課だか知事室だかに電話をかけて相談したら、任せるという。というわけで、私が独断でまとめた。

 記事に添えた大田さんの略歴に『醜い日本人』を著書の1冊として挙げたのだが、大田さんはそれを削除してきた。本土に対しての気づかいを感じた。沖縄の基地問題は日本全体の問題なのに、ほとんどの政治家が見て見ぬふりをする。沖縄戦の惨劇を生き抜いた大田さんは本土の日本人に対して切なくて苦しい思いを抱いていた。それが著書から垣間見えるのである。

 琉球大で大田さんの後輩に当たる宮城悦二郎先生によると、米国の国立公文書館に大田さんが資料集めに行くと、朝は開館前から立って待ち、閉館まで粘っていたという。体力というより鬼気迫る精神力だろう。沖縄戦体験が影響しているとしか思えない。

 その沖縄戦下の首里で大田さんが泣きながら歩いているのを見たという人がいた。この話を聞いたのは1988(昭和63)年ごろである。沖縄市だったか浦添市だったかに住む男性を訪ねて沖縄戦の話をうかがっているときに、こぼれ出た。この男性も鉄血勤皇隊だった。この目撃談を私が聞いた当時の大田さんは琉球大教授だった。沖縄戦研究者として県内では知らない人がいない有名人だが、地元の新聞やテレビに連日出る県知事ほど目立つ存在ではない。したがって、私はこの男性の目撃談を信じた。

 もう1つ記しておこう。大田さんに資料を借りるために朝日の那覇支局記者が1989(平成元)年ごろ琉球大に大田さんを訪ねた。ところが資料は有料だと言われた。写真1枚が確か5000円だったか。当時新聞記者を目指していた私は「お金を取るのか」と驚いた。しかし、今なら「そりゃ有料にするわな」と納得する。新聞は公器と自分で言っているけれど実際は商売をしているのだし、米国の国立公文書館に通う旅費宿泊費に少しでも充てたいと思うのは当然だ。

 野坂昭如さんが妹を餓死させた負い目を背負い続けたのと同じように、大田さんは沖縄戦で奇跡的に生き残ったことの意味を問い続けてきたはずで、心中を察すると切ない。死を迎えてようやく解放されたのではないか。

 宮城悦二郎先生が逝き、牧港篤三さんが逝き、中村文子先生が逝き、大田さんが逝き、本土で暮らす私にはこんなしょぼい追悼を書くしか能がない。自分を糞だと認める瞬間である。

儀間比呂志さん94歳で死す

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 お会いしたのは『週刊金曜日』編集部時代だから25年ほど前だ。大阪のご自宅に伺って、仕事をご快諾いただいた。

 そもそもはパレットくもじで儀間さんの版画展を見て1枚買ったのがきっかけだった。女性の独特の表情やたくましさ、色合いに一目惚れした。以来ずっと玄関に飾ってある。

 芸術家は亡くなっても、魂を吹き込んだ作品は生き続けるのだなぁ。

 あらためて惚れ惚れと見つめている。


 

撃墜されるワシ?

私「いろんな土地を見てきたけど、沖縄が一番魅力があるよなぁ」

次女「お父さん、沖縄に着く前に沖縄から発射されたミサイルで撃墜されるよ」

私「ワシが乗った飛行機が? みんな巻き添えで死ぬのか。ひどいなぁ」

次女「沖縄の地は踏ませないって」

私「お前も言うねぇ」

次女「代わりに私が行ってあげるからお金ちょうだい」

沖縄実況中継

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 沖縄のビーンさんがライン電話をかけてきた。映像を実況中継できるので、沖縄の景色を見せてくれた。

 ああ、この空だ。光がいっぱいで、まぶしい空。モクモクと立ち上る雲。空気感が蘇る。ああ沖縄だ。

 ラインの映像は快調で、懐かしい景色を堪能できた。これが無料なのだからすごい。あらためて感動した。私の小学生時代はトランシーバーで十分ワクワクしていた。トランシーバーは数十メートルも離れたら通じない。隔世の感がある。

 ライン映像があれば沖縄に行かなくても沖縄を楽しめるな。違うか。

氷水より白湯を

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 寒い冬に喫茶店も飲食店も氷水を出してくる。寒いがな! 体が冷えるがな! 健康オタ君の私は首をかしげざるを得ない。ほうじ茶くらい出せないものか。それが無理なら白湯でいい。

 何も考えずに氷水を出す店は、あるいは客に「寒いですけど」と言いながら氷水を出す店は、残念ながら脳みそが凍死状態にある。お客さんから高い評価を得るのは簡単なのに、その一歩が踏み出せないのはどういうことだ。

 私が敬愛する沖縄のラブホテル経営者(女性)は客のふりをして自分のホテルに泊まり、従業員の対応や掃除の状況などを詳細に確認している。従業員はたまらない(笑い)。しかし、細やかな配慮が行き届いたホテルは客の支持を得て、多額の借入金をすごい勢いで返済した。

 客になってみれば分かることがたくさんあるのに。

那覇マラソン完走の感想および備忘録兼弥縫録

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 完走記念にベトナム製の“琉球ガラス”のメダルをもらって、私の那覇マラソンは幕を閉じた。5時間38分。4月の徳島マラソンが6時間だったのでいちおう自己新である。

 亜熱帯地方のマラソン大会は私にとって意外が相次いだ。当日の那覇の最高気温は28度。以下思いつくままに。

・徳島マラソンは募集1万5000人。那覇マラソンは3万人

・徳島マラソンの記録(6時間で完走)を申告したので、那覇マラソンでは最後のグループに入れられた

・那覇マラソンはランナーが多すぎるうえ、最後のグループはゆっくり走る人が多く、ペースを上げることができない

・給水所が左側にしかないうえ、短いので、気づかず通り過ぎたり、気づいても遅かったことたびたび。徳島マラソンは給水所が長かったからこんなことはなかった

・本土言葉のランナーが「32回も開催しているのに、給水所が右側にないとは」と呆れている

・給水所には水しかない(涙)

・20キロ辺りまで快調

・11時ごろから日差しが強くなり、日焼けしていると感じる

・25キロ辺りから頭が鈍く重い感じ。あれ? 熱中症? まずいかも。慌てて帽子を脱いで頭に風を当てる

・給水所で水を含むと吐き出しそうになる。スポーツ飲料がほしい

・徳島マラソンは大塚工場のおかげで全ての給水所にポカリなどがあった。これが当たり前だと思っていた私は迂闊だった

・「自分が飲みたいときに飲めるようにしておくほうがいい」というアドバイスが耳に残り、エヌエヌ生命からもらったリストバンドに念のために小銭を1000円分入れておいたのが本当に役に立った。ひめゆりの塔の前の自販機でダイドーの冷たいスポーツ飲料を飲み、生き返る

・このアドバイスをしてくれたのは前日ビーンさんと訪ねた北谷町のフロントマンズカフェの平山さん。彼女のアドバイスに助けられた

・27キロ辺りで吐いているランナーがいた。脱水症状だ。顔をしかめて倒れているランナーなどもいた

・給水所で受け取ったコップはすべて頭からかぶって頭と体を冷やし続けた

・水だと思って頭からかぶったらスポーツ飲料。ああ、飲みたかった。目に入ってしみる。頭も顔もべたつく。以来、コップを取ったらひとくち飲んで確認することに

・30キロ辺りにあった日清のチキンラーメンスタンド。熱々のチキンラーメンと塩味の汁が最高にうまい。これで元気が出て最後までノンストップで走ることにつながったと感じる

・スポーツ飲料を再び自販機で買ったが、全く冷えていなかった。そのほうが体にはいいのかもしれない

・給水所のスポンジ。スポンジはあるのに水が足りなくなっているところがあり、参った

・アクエリアスを飲むことができたのは中間地点付近の琉球銀行応援ブースとどこかの子供が提供してくれたとき。感謝感激

・フロントマンズカフェの平山さんから「サーターアンダーギーやちんすこうをランナーに配る人がいるけど、唾液を一気に持って行かれる」とアドバイスをもらっていた。試してみたら実際そのとおりだった(笑い)

・沿道の応援は聞きしに勝るもので、ランナーと応援者に一体感がある

・ヤクルトを2回、ミカンの房を数回受け取った。ランナーにはヌチグスイ

・ゴール近くで女性ランナーから声をかけられた。「ずっと後ろをついて走りました。助かりました」だって。「ペースメーカーとしてお役に立てたのならうれしいです」と走りながら言葉を交わす。静岡から来たという

・エヌエヌ生命の「チャリティーランナー」として走ったのは誇りであった。完走したランナー1人につき1万円をエヌエヌ生命が沖縄県社会福祉協議会に寄付する仕組みだ。誰かの役に立つために走っているという矜持を持ちながら走ることができた。素晴らしい企業活動であることを繰り返し強調しておく

・主催者は熱中症対策をもっと重視するべきである。スポーツ飲料の用意は必須。スポンジの水が足りないのは笑えない

・顔と手足が日焼けした。日焼け止めは必要かもしれないが、沖縄の太陽相手に果たして役に立つかどうか

・大会前の体重は59キロ台。大会から1日後の体重は61.2キロ。なぜ太った?(苦笑い)

那覇そば、どこ行った?

 那覇そばを食べようと思って国際通りに出た。看板を見上げたら「名護そば」だって。いつの間に?!

 1987(昭和62)年だったか、沖縄で金城さんに連れられて行き、私が初めて食べたのが奥武山公園の隣にあった那覇そばだった。その刷り込みによって「那覇そばが一番うまい」と私は思ってきた。その那覇そばが絶滅危機に瀕している?

 奥武山公園隣の大型店舗ではいつも大勢のお客さんが食べていた。そこが消え、国際通りに小さな店を出店したかと思ったらそこも消えた。残るは金城店だけだ。交通が不便なんだよなぁ。

 一方名護そばは勢力を拡大しているように見えた。

 那覇そばに一体何が起きたのか。経営がうまくいっていないのか。後継者がいないのか。ファンとしては残念でならない。

誤字だけど気持ちは分かる

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 これも那覇市内で見つけた誤字である。誤字なのだが、気持ちは伝わってくる。

沖縄の誤字

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 期待しているせいか、看板を見た瞬間に誤字が目に付く。

 沖縄銀行本店(那覇市久茂地)の前に置いてあった看板である。

 日本人が書き言葉としての日本語を間違うと莫迦に見られると何かで読んで以来、私もよく莫迦の仲間入りをしてしまうことを自覚しているとはいえ、こんな看板をたくさん設置された沖縄の子供たちの未来を憂う。


那覇マラソン案内届く

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 大人気の那覇マラソンを私が走ることができるのは、協賛枠を持っているエヌエヌ生命とその枠に申し込んでくれた広島の信治さんのおかげである。最初に謝意を伝えたい。

 このエヌエヌ生命は協賛枠で参加する私のようなランナーが完走したら1人につき1万円を沖縄県社会福祉協議会に寄付するという。ランナーがお金を出すのではない。エヌエヌ生命が出すのである。立派なことをする生命保険会社であることを顕彰しておく。

 その代わりというか、ランナーはエヌエヌ生命が提供するシャツを着て走ることになる。それで完走したらエヌエヌ生命が1万円寄付するのだから私は何枚でも着ていいぞ。

 私が今度生命保険に入るとしたらエヌエヌ生命だな。全く知らない保険会社だったが、今では最も親近感を抱いている。相変わらず現金なワタシではあることは大いに認めるが、人間そんなもんよ。恩には報いる。「律儀」と言われて38年。うーんマンダム。

機動隊員の「土人」発言再び

 NHKの夜9時のニュースまでが重要部分(大阪府警の機動隊員が制止しているのに、こちら側の人が金網を揺らしたり押したりし続けているところ)の映像をカットをしているので、もう1つ書いておく。

 金網を揺らしたり押したりしているのはこちら側の人である。で、「やめなさい」と機動隊員が言ってもやめない。ここで怒り心頭に発して「土人」が出た。

 若い機動隊員は誰に「土人」と言ったのか。

 沖縄県民すべてに対する発言ではない。金網を揺らしたり押したりしている目の前の人に対して言ったのである。機動隊員の「やめなさい」という日本語が全く通じないので「土人」と思ったのかも知れないし、その金網揺らし人間はもしかすると日焼けして肌が土色だったのかも知れないな。

 そもそも発言の妥当性はそれが飛び出た流れを見た上で判断すべきなのに、NHKでさえ怠ったのか意図的にカットしたのか。

 警察は平身低頭で謝罪した。これは大人の対応である。沖縄県側が「あれは、金網を揺すったりしていた当事者に向けて言った言葉ですから、県民は気にしていません」と言うわけにはいかないだろうが、沖縄県も報道も調子をこくのはいいかげんにしなさい。流れを見た上で妥当性を判断するという当たり前のことができないようでは、大勢の信用をなくすぞ。

若い機動隊員に同情を禁じ得ない



 最初見たときは「この機動隊員ひどい」と思ったが、何度か見ているうちに「機動隊員ひどくない」に変わり、違和感が芽生えた。「土人」と発言した大阪府警の若い機動隊員がやり玉に挙げられた件である。

 この映像を見る限り、金網を叩いたり揺さぶったりしているこちら側の動きに対して堪忍袋が切れての捨て台詞だ。私がこの機動隊員ならもっと的確な別の言葉を吐くだろうな。

 そもそもこのような状況での言葉尻を捉えて糾弾するのは大概にするほうがいい。

 警察側はとりあえず謝罪した。とりあえずね。私は違和感が残った。

 私の違和感の原因を思いつくままに挙げてみる。

・もう亡くなったけれど、阿波根昌鴻さんならこんな闘い方はしないだろうな。晩年お目にかかったが、相手が「うぅ」とうなる論理やツッコミがあった

・この若い機動隊員は命令されて来ただけだ。サラリーマンなのである。本来の敵ではない

・大阪府警本部長など幹部の発言ならまだしも若い機動隊員の言葉尻を一時的に糾弾したところでどうなる

・この若い機動隊員のような人にこそ沖縄の状況を少しでも理解してもらえるよう尽くすべきなのに、こっち側が短兵急。これでは沖縄嫌いを生むだけだ

・私は上品ではないので、ストレスがたまると「阿呆め」だの「白痴め」だの「インポ野郎」だの「ウンコ女め」などと口にする。「土人」という単語は私の脳にないので使わないが、腹が立てば暴言が出る。こんな私には若い機動隊員を責める資格など全くない

・沖縄に縁が深い私でさえ若い機動隊員を気の毒に思ってしまった。沖縄に甘い私にしてこうなのだ。沖縄に興味のない世の中の大勢を納得させる闘い方をしないと広い共感を得られない

・若い機動隊員を挑発して得られるものは何もない

・私がこちら側なら「あんたも相当土人色だな。大阪にも土人がいるのか。ワシら親戚かもな」とでも返すかな

・こちら側は闘い方の再考を。こんなやり方では共感は広がらない。こちら側は毅然と、節度を保って、丁寧に、できればユーモアを持って

那覇マラソン出場決定

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 那覇マラソン協会事務局から封筒が届いた。なんだろなーと思って中の書類を読むと9月15日までに参加費を送れと書いてある。

 なんとなんとなーんと、那覇マラソンを走ることになった。協賛社の枠である。

 制限時間は6時間15分。全ての給水所で一服しながら走ったとくしまマラソンは約6時間だったから大丈夫だろう。沖縄まで行って制限時間に引っかかったらいくら私でも笑えない。

 というわけで、週に数日のランニングがあしたから那覇マラソン対策になる。うれしいなぁ。

 機会を与えてくださった広島の偉大なる信治さん、ありがとうございます!
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