同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ひと

死去記事が各紙に出た編集者・坂本忠雄さん

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 石原慎太郎さんの死去(2月1日)の前、1月29日に編集者が亡くなっていた。新潮社の坂本忠雄さんである。編集者の死去が新聞で報じられることは珍しい。

 訃報を伝える2月9日付朝刊各紙によると、1981年から95年まで『新潮』編集長を務めた。川端康成や小林秀雄、石原慎太郎らを担当した。

 私は数年前に評判を聞いて『文学の器』(扶桑社)を古本で手に入れ、少しずつ少しずつ読み進み、つい最近読み終えたところだったので、訃報を知って腰を抜かしそうになった。瀬戸内寂聴さんに始まり、石原慎太郎さん、西村賢太さんと来て、坂本忠雄さんである。私が仰ぎ見る人たちがこうも相次いで亡くなると、人を仰ぎ見ないほうがいいのではないかとジンクスを考えてしまう。逆に、早く死んで欲しい人を仰ぎ見るか(笑い)。

 この本は坂本さんがインタビュアーとして石原慎太郎や長部日出雄、吉井由吉、高樹のぶ子、車谷長吉、黒井千次ら蒼々たる小説家を迎え、読むべき文庫本について論じ合った希有の書評本と言うことができるだろう。扶桑社の季刊文芸誌『エンタクシー』に連載し、扶桑社が出版した。あの扶桑社がこんな優れた仕事をしていたことに敬意を表する。

興味深く読んだ酒井法子さんインタビュー記事

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 覚醒剤の所持と使用、そのうえ逃亡と派手な事件を起こした酒井法子さんのインタビュー記事=2022年1月28日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)2面「コロナ時代の幸福論」=は、響いてくるものがあった。それは酒井さんの本音と素顔を引き出したところにある。建て前やよそ行きの顔を紹介する記事だったら酒井さんに対する印象はよくならなかったはずで、本音と素顔に紙幅を割いたのは酒井さんにとって良いことになった。取材した記者に誠実な姿勢があったのだろう。

 酒井さんは事件と今を行きつ戻りつしながら率直に語り、図らずも苦悩を垣間見せた。そこがとても良い。人間誰でもいろいろな失敗をするもので、間違って人を死なせてしまうこともある。恥辱としか言いようのない過去の経験を自ら舐める酒井さんを見ると、私はのりピーのファンでも何でもなかったが、応援したくなる。

 敢えて1つだけ注文をつけるとすれば、福祉や介護の仕事をしなかったことについての説明が弱い。もう少し説得力のある内容にすべきだろう。正直に率直に語ればいいのである。そして謝ればいい。批判を浴びるかもしれないが、これ以上墜ちることはあるまい。周囲で支える人たちの力を借りて、説明を紡ぎ上げればいいのである。正直に語る人ほど強い人はいない。


 

 

追悼・瀬戸内寂聴さん

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 あー! 瀬戸内寂聴さん死去のニュースを朝日新聞のLINEで見てヘナヘナヘナ。たまたま2日前に「寂聴さん大丈夫かな」と心配したばかりだったので、その日に亡くなっていたと知り、納得というのか、ああやっぱりというのか、しかし残念極まり、仕事にならず(これはいつものことか)、追悼の日を過ごした。

 今から思うと非常に幸運だった。取材で寂聴さんに電話をかけたらすぐに取り次いでもらえたのである。偶然ご自宅におられたわけで、忙しい寂聴さんを何の苦労もなく電話口まで引っ張り出せた僥倖は今だからこそ分かる。

 四国八十八カ所巡りがブームになっていたことへのコメントをもらい、1997(平成9)年11月11日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)特集ワイド面で掲載した。

 数年前だったか寂聴文学の愛読者である友人にこのことを話したらずいぶん羨ましがられたが、当時の私はその重みが全く分かっていない阿呆だった。徳島が生んだ大先輩という親近感を抱いていた程度で、のちに己の浅はかさを何度悔やんだことか。今も覚えているが、電話口の寂聴さんは本当に気さくだった。

 その友人の影響で遅ればせながら寂聴文学を読みはじめ、凄まじさに圧倒された。以来愛読者の末席を汚している。

 愛読者になったころヤクオフで瀬戸内寂聴さんの晴美時代の生原稿12枚を見つけた。「絶対に落札してやる」と決めたら勝負はついたも同然だ。事実私が競り勝った。20〜30万円くらいまでなら出すつもりだった。寂聴さんの魂のこもったお守りとして見れば安すぎる。調べたところ、この原稿は『ミセス』の1964年4月号掲載だ。私が生まれて半年ほど経ったころの執筆である。

 午後からのニュースで寂聴さんの死去が報じられる中、黒柳徹子さんの「みんなの味方だった」という温かいコメントが的を射ていた。今夜は日本中が寂聴さんを偲んでいるに違いない。


 

 

立花隆さんを見たことがある

 立花隆さんが亡くなった。大学時代から本や雑誌で接してきたので、40年近い一方的な“お付き合い”だった。つい数カ月前も立花さんの本を買ったばかりだ。

 一度だけ見たことがある。25年くらい前のことだ。平日の昼間だったと思う。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅→後楽園駅で進行方向の左側に向かって吊革を持って立っていた。ふと右を見たら、吊革を1つ置いたところに立花さんが立っているではないか。なぜか周囲をキョロキョロ見回していてけっこう挙動不審だったが、紛れもなく立花さんだった。

 終活の一環で本をどんどん捨てているけど、立花さんの本は1冊も捨てていない。読み返す可能性があるからだ。

 NHKスペシャルあたりで追悼番組を組むといいなぁ。

階戸瑠李さんが残した文章から垣間見た感覚や考え方、視点

 早逝した女優の階戸瑠李さんが書き綴ったノートの中の「痛いということば」を読んで「おっ!」と感じた。彼女と私は話が噛み合う。

 彼女は文章を書く仕事もしていこうと思っていたようで、「痛いということば」を書いたこの感覚や考え方、視点の持ち主なら伸びたに違いない。

 8月5日にアップした「痛いということば」が絶筆である。後世に残したい。

 階戸瑠李「痛いという言葉」





 

階戸瑠李さんを悼む

 階戸瑠李という名前に見覚えはなかったが、死亡記事で『全裸監督』で監督の妻の役を演じたという一文を見て、「あの子か!」。

 ネットフリックスで上映された『全裸監督』で階戸瑠李さんが演じた場面を私は2回見た。2回目はその美しさを確かめるためである。妖艶な美しさを備えた階戸さんの濡れ場に見入りながら、プロだなと感心した。あの演技で「いい女優さんがいるじゃないか」と注目されて『半沢直樹』に出演したのではないかな。

 濡れ場を演じた理由を私は知らないので単なる想像だが、『全裸監督』の撮影は29歳か30歳のころだから、女優としての自分の未来に不安がなかったわけではあるまい。『全裸監督』に声がかかって短い時間の濡れ場に一か八か賭けたのではないか。

 彼女はてんかんの持病があったそうだ。20年くらい前だったか渋谷を歩いていたら後ろでバチーンという激しい音がして、振り返ったら人が仰向けに倒れていた。あれがてんかんの発作で、近くの派出所からお巡りさんが駆けつけていたので私はその後を見ていないが、てんかんと聞くとあの音を思いだす。後頭部が地面に打ち付けられたすさまじい音だった。

 てんかんは薬の服用で統制できると聞く。いったい何があったのか。

 ここでどんな結論を書けばいいのかよく分からないが、持病がある人は薬を軽視してはいけないとは言える。

 

尊敬するのは志村けん

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 私は「あーっ!」と声が出た。都内のクリニックでは患者さんたちから悲鳴が上がったという。志村けん死去の速報である。主演映画を辞退したときからこの日が来るかもしれないとは思っていたが。

 かつて毎日新聞社に入社したとき社報に寄せた自己紹介で《尊敬するのは志村けん》と書いたのは、お笑いを追究する姿に職人の凄みを感じたからだ。

 いくら酒が好きとはいえ、病気をしたあとも夜通し飲んでいたという。お笑い芸人が謹厳実直な生活をするようではおしまいだと思っていたのではないか。芸人道とでもいうべき「道」を歩いていたのが志村けんだった。

 関西の人間にとって笑いが取れる人は人気者である。人を笑うのではなく自分を笑わせるのは自分に自信があるからできることだ。

 お笑いの先頭を走った志村けんが流行中の新型コロナウイルスに倒れ、最後までトップランナーであることを示した。合掌。

 と書いても坊主姿の志村けんのギャグを思い出す。志村なら重々しい顔をして「合掌」と手を合わせたあと合唱するんだろうな。カラスの勝手でしょーと。

 

 

根本先生『毎日新聞』に登場!

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 根本先生をひとことで言うと、古今東西の小説の世界地図が頭に入っている編集者、ということになるだろうか。その世界地図に当てはめるから、出てきた小説が斬新なのか二番煎じ三番煎じなのかすぐに区別がつく。編集者でも小説家でも対等にできる人はいないのではないか。

 原稿用紙500枚分を1時間だか2時間だかで読むことができると言っていた。この特異な才能が編集者として大きな“武器”になったのは間違いない。

 半可通をかなり嫌う。よく知りもしないことを知った風に言うなと叱責する姿を何度か見たことがある。恥を知れということなのかもしれない。半可通の世界に片足を置く私など犯罪者並みである。恥知らずなのだろう。いやそもそも恥知らずでなければ表現できるわけがないではないか。などと開き直ったらおしまいだな。

 さて、そんな根本先生が2月21日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)2面に登場した。根本先生の言葉(考え、思い、感じ、などが昇華した模糊としたもの)の海から何らかの塊を引き出そうとインタビューしたのは藤原さんだ。開高健ノンフィクション賞受賞の記者で、言葉や表現に対して人一倍腐心してきた。そういう藤原さんが周到な準備をして、根本先生に何を投げかけて、どんなことを引っ張り出して、そこからどれをすくい上げて、どんな反応を示しながら記事にするか。読みどころがここにある。

 仲間に配るため、毎日新聞社5階の販売局に行ってとりあえず10部買った。1部たったの50円。10部買っても500円。何と安いのだろう。
 

 
 

 

『いのちの初夜』と徳島

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 北條民雄が日本占領下の京城で生まれ、その後徳島県阿南市下大野町で育ったとは。私は徳島生まれなのに迂闊にも知らなかった。というわけで慌てて『いのちの初夜』をアマゾンの青空文庫で買った。昭和の最後2年を沖縄で暮らしていたとき伊波敏男さんの『花に逢はん』などを読んだ際『いのちの初夜』を読んでいないわけがないのだが、全く記憶にない。というわけで、ここは潔く買うことにした。アマゾンの青空文庫はありがたい。

 一度聞いたら忘れられない峻烈な美しさを持つ『いのちの初夜』という題名は川端康成の命名だそうで、あの当時であるにもかかわらず川端康成は癩への偏見を持たなかったという。孤独な幼少期を過ごした川端は偏見のおぞましさと屈辱を知っていたのかもしれない。もちろん北條民雄の文学を高く評価したからこそだろうが。

 私は友人と話すとき川端康成を「康成」と呼び捨てにすることがあるけれど、北條民雄を「民雄」とは言えないなぁ。


 

 

 

中村哲さんはなぜ逃げなかったのか

 ペシャワール会の中村哲さんが狙われているという情報を日本政府は掴み、中村さんに伝えていた。中村さんはかなり用心したようだが殺された。

 なぜ中村さんは灌漑水利の工事現場に固執したのか。中村さんがいなくても工事は進むだろうに。

 私の完全な推測だが、2008年8月にペシャワール会メンバーの伊藤さん(31歳)がタリバンに拉致されて殺された事件が最大の理由ではないか。中村さんを慕って現地で働いていた若者を死なせてしまったことで、どうにも解きほぐせない負い目を中村さんは感じ続けていたに違いなく、「危険です」と言われて「はいそうですか」と現場から離れる選択肢は中村さんの生き方としてあり得なかったのではないか。

 どう死ぬかはどう生きるかと陸続き。死に方には個性が出るのだなぁ。


 

 

 

西部邁さんの自殺の背景

 野坂昭如さんは妹を死なせた責めを負い続けたし、瀬戸内寂聴さんは自分の思うままに生きて若いころに周囲を巻き込んだ責めを負い続けてきた。西部邁さんにもそういうものがあった。

《彼は泣かないことを自らに課していた。お互いに古希の年齢に達した時に、二人で午後の六時から深夜まで六、七時間、あれこれと話し合ったことがあった》《その時、私は彼が涙ぐむのを初めて見た。妹の交通事故について話した時であった。自分の不注意だったんだよというのだ。僕が道の外側を歩くべきなのに、内側を歩くなんてと繰り返した》=『波』9月号掲載の連載「昭和史の陰影」(保阪正康)

 保阪さんは1歳年上の西部さんと少年時代の一時期、一緒に通学していたという。その保阪さんは《私は西部の自決は近代への異議申立てだと思っている》と記しているのだが、上記のエピソードからは妹さんを交通事故死させたのは自分のせいだとして西部さんが人知れず悶え苦しんできたことが窺える。

 そうと決めつけることは亡き妹さんにとって悲しいことだろう。しかし、自分が死なせてしまったという責め苦から脱するのはなかなか難しいだろうし、誠実な魂であればあるほど責め苦を負い続けることで自分を罰しようとするように思う。



金ピカ先生の死に方

 代ゼミの人気英語講師だった金ピカ先生こと佐藤忠志さんがなくなった。私は駿台派だったし、私が大学に入ったあと世に出てきた先生なので参考書を読む機会は一度もなかったが、名前くらいは知っている。

『朝日新聞』は《都内の自宅で遺体が見つかっていたことが25日、わかった。警視庁は遺体は佐藤さんの可能性が高いとみている。関係者によると、佐藤さんは都内で一人暮らしをしていたが、以前から糖尿病などを患い体調を崩していた。24日、地域包括支援センターの職員が訪問したが返事がなかったため、警察に通報し、遺体が見つかった》と報じた。

 脳梗塞や心筋梗塞に何度も倒れ、にもかかわらず現役時代並みに車に莫大なお金をかける金ピカ先生に配偶者は愛想を尽かして家を出た。生活保護を受けながら酒とたばこの生活を続けた様子から、緩慢な自殺を目指したように見える。

 こころに闇を抱えていたとしか思えない。

 年収2億円を稼いでいた金ピカ先生の貧困孤独死を美しいと感じるのは私だけではないだろう。死ねばあちらに何も持って行けないのである。

 享年68。

田辺聖子さんの思い出

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 芥川賞作家の田辺聖子さんが近くにいるのを見つけて声をかけた。

「あの、記念写真を一緒に撮りたいんですが、あそこに動いていただけますか」

「いやや」

 そう来たか(笑い)。

「ほな私たちがここに動いて来てええですか」

 無事に許可をもらい、みんなを移動させて撮った1枚がこれ。一緒に踊っていた国立音大の女の子たちが画面の多くを占めたのは、カメラマンをさせていた弟(当時高1くらいか)が色気に目を奪われたせいだろう。

 1984(昭和59)年8月だから、私は21歳直前か。若いなぁ(しみじみ)。

 当時の田辺さんは「かもかのおっちゃん連」とかいうのを作って毎夏踊りに来ていたはずだ。

 享年91。ご冥福をお祈りいたします。


 

「先生」と呼ばれることを嫌う五木寛之さん

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 川端康成や井伏鱒二、稲垣足穂、深沢七郎、カシアス・クレイ、ヘンリー・ミラー、フランソワーズ・サガン、フランシス・コッポラらの名を挙げ、新潮社の中瀬ゆかりさんが五木寛之さんにこう言う。

「今日はわたくし如きで申し訳ないのですが、先生は……」

 遮って五木寛之さんが言う。

「あの、ぼくはどんな方と対談しても<さん付け>なんですけど。(略)できれば「中瀬さん」「五木さん」でお願いします。>

 新潮社の『波』11月号に載った記念対談のひとこまである。

 五木さんを見直した(と私如きが言うのだが)。五木さんの考え方が分かる人はすぐに分かる。分からない人にはいくら説明しても恐らく腑に落ちないだろう。先生と呼ばれることに快感を感じる人もいれば、五木さんのような人もいる。ワタシのように「先生と呼ばれるほどの莫迦でなし」と思っている底意地の悪い人間もいる。

 某大手建設会社では1級建築士を先生と呼んでいて、先生と呼ばれる1級建築士たちはまんざらでもなさそうな顔をしているのだが、社員の大半が内心「この薄ら莫迦め」と嗤っている。医者や教師同士がお互いに「先生」と呼び合って疑問を抱かないのは脳みそが爛れているのだろうなぁ。小説家を先生と呼ぶのも激しい違和がある。ヨイショの裏声が聞こえてくるのは私だけだろうか。

『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムス社の牧港篤三さんとは沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会でお目にかかり、以来長くお付き合いさせていただいたが、相手がどんな人であっても「先生」と呼ばなかった。大田昌秀・琉球大教授(当時)にも「大田さん」だった。五木さんと同じ「さん」付け。そういう敬意の示し方があるのである。固有の名前を呼ぶほうがどれだけ敬意が込もるか、やってみれば分かるはずなのだが。

 先生と呼んでいいのはお世話になった学校の教師くらいだろう。高校生くらいになると教師をあだ名で呼ぶけれど。

 先生と呼ばれている人は考え直してみるほうがいいだろうし、先生と呼んでいる人は「さん」付けで呼ぶほうが敬意を込めることができると気づくはずだ。と書いている私も時々「先生」と呼ぶけれど、その人の名字が出て来なくて焦ることがある(笑い)。


   

彼女の予定

 私の教え子が言う。「定年退職したら私の経験をもとに相談のボランティアをしたい」

 彼女は非情な経験をしており、だからこそ経験者として相談に乗ることができるというのだ。ふだんから人と濃密な人間関係を築いて世話を焼く仕事をしているし、自分を突き放して笑いを取るなど意思疎通をする能力に長けているし、そういう相談は普通の人には絶対にできないし、彼女は適材であり逸材である。

 彼女がそのボランティアを始め、なおかつ諸条件が整えば、彼女は顔を出すことをためらわないだろう。そうなれば私が取材して発表しよう。彼女の歩みがどれほど大勢の人の魂を救うことか。

 彼女を育てた恩師(ワタシね)は偉いなぁ。というお約束の冗談はさておき、こういう人にまれに出会うと、そのたびに私は自分を見てしまう。で、お前は何をするのか、と。

 結局聞いて書いて光を当てることしかできそうにないか。相変わらず全然成長がないなぁ。

新潮社写真部撮影の小説家たち

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 ものの5分もあれば見終わるが、1時間でも2時間でもゆっくり見たい写真展、それが「新潮社写真部のネガ庫から」である。東京・神楽坂のラカグ2階で開催中だ。

 北杜夫さんがお嬢さんの由香さんとくつろいでいる写真。お嬢さんは2〜3歳くらいか。顔が今と同じなのですぐに分かった。

 遠藤周作さんは慶應病院のベッドで座っている。なぜ慶應病院と分かったかというと、ベッドのシーツに慶應のマークが印刷されているからだ。慶應のマークをシーツにわざわざ印刷してある辺りが慶應らしいというか、普通の病院ではあり得ないのではないか。

 買い物かごを持って買い物をしているのが檀一雄さん。思わずナットク。

 純白のスーツでポーズを取っているのが筒井康隆さん。いかにも。

 港でギターを肩に決めポーズしているのは五木寛之さん。案外ええかっこしいだったのか。

 山崎豊子さんは大阪のおばちゃんの風貌だし、瀬戸内寂聴は缶ビール3本を窓側に並べた電車内でくつろいでいるし、何と言うか、そのまんま。

 25歳当時の阿川佐和子さんは実にかわいい。理知的な表情で、私の好み。もうひとり私を魅了した女性作家は向田邦子さん。49歳当時の写真だそうだが、聡明さが目に宿る。

 新潮社の創業120年記念写真展だそうだが、写真展で終わらせずに写真集を出してほしいぞ。

藤田修一師の写真集『浅草慕情』

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 あの藤田修一師から写真集『浅草慕情』を送っていただいた。かつて駿台予備学校の現代文講師として独自の読解法を編み出し、受験生から絶大な支持を得た人である。三つ揃えのスーツにロマンスグレーの頭部、銀ぶちのメガネ、官能的な声。男から見てもかっこいい先生だった。

 何度も書いていることだが、高校3年の時の夏期講習で藤田先生と関谷浩先生の「早大国語」を受講し、どうにもこうにも伸び悩んでいた現代文が秋以降に一気に開花した。早稲田大学法学部のあのややこしい現代文を解く私に藤田先生が乗り移ってくださった。藤田先生の読解法は今日まで受験現代文の世界で受け継がれている。

 その藤田先生が自由の身になって取り組んだのが写真だった。国際写真サロン入選やキヤノンコンテスト準グランプリなど、写真家としての名声をすでに確立している。写真集はこれで3冊目だ。どれも被写体に真正面から向き合い、美のはかなさや壊れやすさをいとおしむかのようにシャッターを切り続けた。

 浅草を舞台にしたのは「異郷」だからという。異郷ゆえに檀一雄の『火宅の人』や永井荷風の『すみだ川』、川端康成の『浅草紅団』などが生まれたという。肖像権を主張しない人が多いのも異郷だからだろうという。

 異郷浅草の何を撮るか、異郷浅草の人間をどう撮るかといった藤田先生の目線を語った文章も、人間の一瞬を永遠に捉えた写真の数々も、人間の味わい方とでも言うべきものを教えてくれる。

 藤田師の3冊の写真集から吸収することがたくさんある。というわけで、私は藤田師の教え子を今も自称する。


 

 

ショーンKさん是々非々

 賛否両論ある話題で、私の中にも賛否両論ある。どうでもいい話なのだが、面白いので思いつくままに。

・整形について……私は「ありのまま」が一番いいと思っているので、こういう行為をする人を痛々しく思うし、好きではない。高校時代の同級生が誰も気づいていなかったそうで、そこまで整形したのは不都合な過去を完全に消すためだろう。かつらをかぶっていると公言している「とくダネ!」の小倉智昭さんと整形手術を隠していたショーンKさんとどっちが“悪質”か、私には判断できない。

・学歴詐称について……「ありのまま」では這い上がれなかったのだろうけれど、痛々しい。ついでに言っておくと、病院で医者と同じ白衣を着る事務さんも痛々しい。ありのままで胸を張ってろっちゅうの。一方で安倍さんと麻生さんの学歴疑惑が出てきたようで、こっちは看過できない。

・男もやっぱり顔でしょ……ショーンKさんが人気を集めたのは顔でしょ。なんやかんや言っても顔がいいほうがモテるのだ。これは私のヒガミね。でも、ほらっちょと呼ばれていた高校時代のショーンKさんの顔はまるで漫画「いなかっぺ大将」の大左衛門のようだなぁ。

・英語……たいそう努力したのだろう。あるいたテンプル大学日本校の英語の授業がよほど素晴らしいのか。「10カ月で英語ができるようになるのなら、テンプル大学日本校に行きたい」と希望する大学生が続出中(?)。私はショーンKさんから英語を学びたい。

・コメント……何度かテレビで聞いたことがあるけれど、顔の割には実に平凡なことを言うなぁと私は思った。顔で持っているんだろうとも思った(私のヒガミですよーだ)。

・服装……典型的な詐欺師の服装である。事件記者の大先輩に連れられて、東京・八重洲の某喫茶店に行ったことがある。大先輩が言った。「ほら、あの連中の顔を見てみろ。詐欺師の顔だ」。彼らはぴしっとした服装をしていたが、そろって顔が下品だった。詐欺師は服装でごまかそうとするのだそうで、しかし、顔はごまかせない。ショーンKさんは整形手術をすることでごまかすことができた。

・優しい……後ろめたさがあるから、そりゃ人に優しかろう。本当に優しいのか演技なのかそうせざるを得ない立場だと自覚していたのか(そもそも原形をとどめないくらい整形した人だからね)私には分からない。

女優とのツーショット写真

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 先日彼女とのツーショット写真をここに載せたところ、大きな反響があった。「きれいな女性ですね!」というのである。

 えっへん(←私が威張ってどうする)。

 彼女は女優である。伊丹十三監督の映画に出たりしているのだ。

 ぶっちゃけて言えば、私のふるさと徳島のご近所さんで、親同士も知り合い、小学3年の時から同級生で、幼なじみみたいなカンケーである。

 片や女優、片やおっさん。

 先日に続いてまた会う機会があり、ツーショットと相成った。撮影したのは高校の同級生・寺田社長室長(長いなこれ)である。寺田社長室長ありがとうね。

 何だか昔からの友達が懐かしい。私がそんな年齢になってきたということか。なんまんだぶなんまんだぶ。

かっこいい「とくし丸」住友さん

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 今日付の『朝日新聞』Be版フロントランナーで、移動スーパー「とくし丸」の住友達也さんがどかーんと取り上げられている。徳島で知らない人はいない(76歳の私の母も知っている)タウン誌『あわわ』を創刊し、吉野川可動堰建設反対の運動を先導し、今では「とくし丸」である。

 どれも無関係に見えるが、地べたを這いずり回って人の声に耳を澄ます仕事であるという点で共通している。かっこいいなぁ。

 住友さんにお目にかかったのは2回目の沖縄移住の前だから2000年ごろだったか。私の記憶では当時の住友さんはオールバックで黒い背広をビシッと着こなし、やんちゃなエネルギーが顔からも体からもあふれていた。

 地べたを這いずり回る仕事をかっこいいと思うのは「太陽にほえろ!」の影響かも知れない。チョウさん(下川辰平)が捜査で確か秋吉台を炎天下大汗を垂らしながら歩き回る姿に私は惚れた。のちに新聞記者になって、これもまた地べたを這いずり回る仕事だったので私は大満足だった。

 年齢のせいにして私は最近地べたを這いずり回っていない。私より6歳年上の住友さんがしているのだから、年齢のせいにはできないぞ。

 糖質を控えめにしているし、糖尿病ではないのだが、ワタシは自分に甘いのである。

佐木隆三さん死去

 私が1回目の沖縄暮らしをしていたころだから1987(昭和62)年2月〜1989(平成元)年3月までだが、佐木隆三さんに会ったことがある。確か1フィート運動の会の取材に来られたように記憶している。

 私が用事で東京に出て、新宿の紀伊國屋書店本店で友人を待っているところに佐木さんがいて、あいさつしたのが2回目だった。それだけの交錯でしかないが、著書はいろいろ読んだ。

 お会いしたころの佐木さんは、ちょうど今の私の年齢(52歳)辺りだった計算だ。私の残り時間が感覚的に把握できるなぁ。


 

「藤本義一の書斎」訪問

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 高校時代に友人から「藤本義一に似とる」と言われて以来ずっと親近感と憧れを抱いてきた。「イレブンPM」という大人の番組の司会をしている歯切れのいい大阪弁を話す、上品な白髪のおしゃれでカッコいい直木賞作家に似ているのなら望外の喜びというものだ。

 残念なことについぞお目にかかる機会はなかったが、芦屋市にできた記念館「藤本義一の書斎」を訪ねる機会がようやくやってきた。藤本義一さんの晩年から今日までお手伝いをされている芸術家さんと次女のフジモト芽子さんにお会いでき、おもてなしに甘えて何と4時間以上もお話をうかがうことができた。

 話の詳細はもったいないのでここには書かないが、お聞きした話のすべてにオチがついているので爆笑してしまう。特に藤本義一さんのいまわの際の言葉を聞いた途端に思い切り吹き出してしまった。

 藤本義一さんの魅力を語る人が今も大勢いる。本にまとめられないものか。藤本流の生き方指南は含蓄に富み、その価値は全く衰えていない。


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あす沖縄慰霊の日

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 NHKが「あの人に会いたい」が中村文子先生を先日取り上げた。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長である。

 1987(昭和62)年2月から89(平成元)年3月まで沖縄で暮らした私は1フィート事務局で上映活動のボランティアをした。事務局に行くたびに中村先生と顔を合わせ、話をうかがった。貧相な私の昼飯(金ちゃんラーメンなど)をご覧になったせいか、お手製のお弁当のおすそ分けにあずかったことが何度もある。

 感情を抑え、淡々と、かんで含めるように話す。面倒見がいい。本当に事務局の要だった。中村先生が顔になったからこそ1フィート運動は説得力を持った。

 沖縄には2つの柱がある。1つは沖縄戦、もう1つは米軍基地問題。米軍基地問題と違って沖縄戦に関しては県民に意見の相違は見当たらない。日本軍による住民虐殺や強制集団自決など、すさまじい世界があった。いつだって住民が命を奪われた。

 私の義父は沖縄戦当時海軍の軍属だった。沖縄戦の様子が伝わってきて「南風原町の家族はダメだろう」と覚悟した。敗戦後沖縄に戻ったが、やはり全員亡くなっていた。口数の極端に少ない人だったので詳細は聞けなかったが、諦念の表情が今も私の脳裏に焼き付いている。

 そんな沖縄戦の組織的抵抗が終わった日が6月23日である。とはいえ何も終わらなかった。軍司令官が「生きて虜囚の辱しめを受くべからず、悠久の大義に生くべし」などと無責任な言葉を残して自殺したため、6月23日以降の沖縄戦は泥沼化する。

 あす沖縄慰霊の日。沖縄に浅からぬ縁のある私は毎年この日は厳粛に過ごす。

『不毛地帯』『二つの祖国』主人公の共通点

 山崎豊子さんの小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正と『二つの祖国』の主人公・天羽賢治の「筋の通し方」が似ている。私の目には、この2人の主人公はそろって風見鶏のような日和見のように見えることがある。

 例えば、権力にすり寄ることを潔しとしないという筋の通し方は黒白が明快なので、ほかの人が見ても大変分かりやすい。しかし、壹岐正も天羽賢治も「権力」だの「反権力」だのといったモノサシを持っていない。その時その時に自分で考えて判断した方向に行動する。そこには本人には一貫性があるのだが、世間一般の、あるいは私の一貫性とズレているので、その行動が分かりにくい時がある。

 大きな流れに抗わないという風にも見える。しかし主人公たちはそれぞれ自分の中では筋が通っている。このために周囲から誤解を受けたり恨まれたりするのだが、それにも抗わない。したがって、行動規範が分かりにくい時がある。

 しかし、そもそも人間はたいていそういう生き方をしている。自分の生まれや育ち、環境などが形成した個別具体的な影響をそれぞれが受けているので、他人が完璧に理解するのは不可能だ。

 山崎豊子さんが主人公の性格を設計する際にこういうことまで考えていたのだろうか。

ぶっきらぼうな猪瀬直樹さんの真実

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 猪瀬直樹さんご自身が自覚しているかどうかは別として、相当リベラルと言っていいのではないか。日垣親分の学習会に来てくれた猪瀬さんを見て、そう思った。

 猪瀬さんが叩かれていた頃、けっこう著名なライターが『毎日新聞』夕刊で猪瀬さんを否定的に書いていた。確か「上から目線」だか「威張っている」だか、そんな内容だった。

 ところが日垣さんによると「NHK会長にも同じ調子で言う」そうだ。猪瀬さんご自身、この件についての自覚がないようだ。

 私の目には威張っているというよりぶっきらぼうな感じに見えた。

 上にぺこぺこ下に横柄ならよくある話だが、上にも下にも威張っている(あるいはぶっきらぼうな)人はきわめて珍しい(笑い)。裏表がないという一点で、私なら前者より後者を信用する。

 猪瀬さんのぶっきらぼうな感じの話を聞き、ぶっきらぼうな雰囲気を自分で感じた限りでは、5000万円の問題に何か裏の意図があったとは思えなくなった。威張っているように見えてしまう人のようなので、感情的な反感を買ってしまい、ことが大きくなってしまった可能性はないだろうか。いろいろな改革をしようとしていただけに既得権を持つ側がここぞとばかりに作為的に足を引っ張った可能性はないだろうか。

 惜しい人を都知事から降ろしてしまった。

東日本大震災で津波から逃げ切った漁師さんの話を聞く

 仙台市の私立大学で授業をしたあと、名取市閖上(ゆりあげ)で津波から逃げ切った漁師さんの話を聞く機会があった。名取市では津波による死者が970人、そのうち760人が閖上地区の住人だった。海辺の漁師町である。

「亡くなった人は誘導していた人。誘導せずに逃げること」

「地震のあと海を見ろと言われていた。海を見たら水が引いている。これは大きな津波が来ると分かった」

「逃げるための車が前後の隙間がないくらい渋滞していた。その横の反対車線を突っ走った。対向車は来なかった。後ろから真っ黒い水が追いかけてきているのがバックミラーに見えて、アクセルを踏み続けた。渋滞で動けない車から逃げ出して走ってくる人が見えたが、自分はどうすることもできず、結局津波にやられた。前後の隙間なく渋滞しているから、私が走っている反対車線に車を出したくても出せなかったようだ」

「車の中で亡くなった人はきれいだった」

「隣近所顔見知りなので、遺体安置所で遺体を見て、家族に知らせた。最初はウッとなったが、140〜150人は家族のもとに戻せた」

「ボランティアで来る人には『1回しか来ないんだったら冷やかしみたいなもんだから来なくていい』と言う。そうすると返事がない」

「丹波や広島の人にはお世話になった。土砂災害を知って、仮設住宅のみんなで募金を集めて持って行った。少しでも恩返しをしたいから。黙って見ているわけにはいかない」

「自分たちが助けてもえったからお返しをしようと思った。自分たちが大変な経験をしていなかったら、災害はひとごとだっただろう」

「仮設住宅に180世帯360人が住んでいた。どうすればこの人たちを助けられるのかと考え、自治会を立ち上げた。自治会費300円を集め、芋煮会や花見などをした」

「住人はうわさ話を聞いてきてあれこれ言う。『あんたら、うわさ話で行ったり来たりしているのか。うちらはうちらで自立していけばいい』と話した。うわさ話を聞いてくる人もしゃべる人もいなくなった」

「軽自動車で逃げている最中に、自転車で逃げている友人に会った。車に乗れと言ったんだが、大丈夫だって。でも津波に巻き込まれた。夢に何度も出てくるけれどニコニコしているから、『お前だけ生き延びやがって』とは思ってないはず」

「半年前に母親が亡くなった。もし生きてたら、動けないから、私も母親と一緒に津波で死んでいただろう」


 

小学1年の時の担任の伊藤貞子先生死す

 ああ。来た。ため息が漏れた。はがきの差出人が「伊藤」なのだ。

 私の小学1年の時の担任だった伊藤貞子先生が90歳で10月に亡くなっていた。今年の年賀状をいただいていなかったので、もしかするとと気になっていたのだが、やっぱり。

 私は大阪市東住吉区の矢田小(現在の矢田西小)1期生である。今から45年ほど前に遡る。年賀状を40年以上交わしてきた計算だ。

 今も忘れられない伊藤先生の言葉が2つある。

「黒板を一生懸命に見ていればどこかに100点と書いてある」

 本当に100点の文字が見えてくると勘違いした当時の(今もか)私は阿呆だが、おかげで黒板をきちんと見る習慣がついた。

 もう1つ、これは幼心ながら染みた。おぼろげながらこんな話だった。

「私の子供は柔道をしていて、ケガをしたのに、親を心配させまいとして我慢して、死んでしまった。みんなは痛い時や苦しい時は必ず親に話すように」

 当時伊藤先生は44歳前後。クラス集合写真を見ると、何となく、本当に何となくだが、少し沈んだような表情に見える。お子さんを亡くした悲しみが垣間見えるような気がする。

 伊藤先生のこの言葉を守り、私は体調の不調があれば必ず親に伝える子供になった。もともと我慢弱い性格だったのだろうが、「親に伝えなければ」という意識を持たせてくれたのは伊藤先生である。

 伊藤先生が亡くなったことを知らせるはがきの文章を読むと、お子さんも教師かもしれない。大阪市のご在住である。会いに行ってみよう。

 とはいえ、本当に悔やむ。大阪に行く機会や通過することは何度もあったのに。伊藤先生に会っておきたいと何度も思っていたのに。先生不孝をしてしまった自分を呪う。

カシオの高山さん

 大学入学と同時に山のサークルに入った私は大学1年の夏に北アルプスを縦走した。そのときのリーダーが当時4年だった高山さんである。

 山歩きの拙い私に対してせかすことなく、ゆっくりゆっくり後ろを来てくれた。リーダーかくあるべしと初めて思ったので今まで忘れられない。

 その高山さんを知る人に出会った。カシオでの勤務歴がある人なので、まさか知るわけがないと思いつつも念のために名前を挙げたら、ご存じだった。出世している人なので名前を知っているという。

 おお。高山さんがカシオで出世している! 北アルプス縦走で垣間見せたリーダーとしての資質はやっぱり本物だったのだ。お世話になった先輩がカシオで認められている。後輩として大変うれしい。

 カシオの快進撃に期待しよう。高山さんがいる限り大丈夫だ。 

 

 

フロリダにいた岡部さん

 岡部さんが米フロリダで暮らしている。配偶者と一緒にアメリカ人相手に日本料理店を経営している。

 おかべあきこ? 誰? よく分からんけど、坂尾さんの知り合いなら変なのではないだろう。そう思ってフェイスブックの友達申請のOKを出したのがきっかけで、徳島市立高3のときの同級生・岡部さんだと判明した。ひらがなで「おかべあきこ」と書いてあるから分からなかった。漢字ならすぐに分かる。名前に使われている水晶の「晶」の字がきれいだなと高校時代に思ったことがあるけんね。

 Kazu’s2.0という店である。

 毎日アメリカ人と英語で話しているわけだ。想像するとワクワクするぞ。

 2浪中の次女に話したら目を輝かせた。「すごいね」。うん、すごい。

 こうなったら岡部さんの店に行かなければなるまい。

 いつ行くか? 

 今でしょ! ……って調子にのってはいけない。やるべきことを完遂してから行くぞフロリダ!

 

新垣隆さんに活躍の場を!

 佐村河内守さんに広島公演でスタンディングオベーションをしてしまった私ではある。しかし、あの音楽が舞台から消えていくのはあまりにも惜しい。

 ゴーストライターとして名乗り出た新垣隆さんが明かしたように、「交響曲第1番HIROSHIMA」は広島とは無関係に作曲されたのだろう。しかし、いい音楽はいい音楽なのだ。私は「影武者」にも震えた。

 新垣隆さんの作品として蘇らせるべきではないか。

 記者会見を見ると、「今どきこんな人が」と感嘆するくらい謙虚で誠実な人のようだ。新垣さんに任せていたら、せっかくの名作が消えてしまう。誰かが音頭を取って新垣さんの作品として復活させるべきである。

 新垣さんが著作権料を辞退するなら、それは広島や東北に寄付すればいいではないか。

 佐村河内さんのオモロイ人格の追及はぜひ週刊誌にやってもらって、それとは別に新垣隆さんにはもっともっと自由自在に活躍してもらおうではないか。逸材を埋もれさせるのはもったいない。

佐村河内守さんの芝居に一杯食わされた(呵々大笑)

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 佐村河内守さんの堂に入った役者ぶりは絶賛に値する。東京大先端科学技術研究センター特任教授などの肩書きで虚偽のiPS細胞移植騒動を“名演”した森口尚史さんに比肩しうる。あるいは旧石器捏造事件を引き起こした“ゴッドハンド”こと藤村新一さんに勝るとも劣らない“名優”ぶりである。怪優として本物の役者になれるかもしれない。

 去年12月末に広島市で開かれた広島交響楽団の演奏会には本人が登場し、長い長いスタンディングオベーションが起きた。実に堂々としたものだった。80分の演奏の間、何も聞こえないのは退屈ではないだろうかとは思ったが。

 私も熱い熱い拍手を送った1人である。あの場にいて私と同じようにスタンディングオベーションをした人たちの大半がずっこけたに違いない(笑い)。

『中国新聞』を読むと、広島をダシにした佐村河内さんへの落胆がにじみ出ている。被爆という大変重い経験を軽々しく使われたいまいましさや腹立たしさもあるだろう。少々深刻ではある。

 しかし私にはさほど実害はない。端的に言えば「一杯食わされた」程度でしかない。その上で呵々大笑である。

『週刊金曜日』名デスク宮越壽夫さんが亡くなっていた

 喪中はがきがを見て立ち尽くした。宮越壽夫さんが1月に74歳で亡くなっているのだ。

 20年前の週刊金曜日時代に大変お世話になったデスクの1人で、リベラルであることを私たち社員に身をもって教えてくれた人である。社員の羅針盤となり、労働組合の良心的支柱となり、大勢から慕われ、頼られ、信頼され、愛された。熱くて、温かくて、面倒見のいい人だったので、宮越さんの退社後も、私の退社後も、高円寺などの喫茶店でよくお話をうかがった。ご迷惑をおかけしたこともある。

 この10年くらい年賀状だけのお付き合いをしていたことを私は激しく悔やみ、ご無沙汰し続けてしまった自分を呪う。

山崎豊子さんとやなせたかしさんの共通点

 相次いで亡くなった山崎豊子さんとやなせたかしさんには共通点がある。戦争に対する姿勢だ。

 山崎豊子さんの訃報に10月2日付『毎日新聞』の「余録」はこう記した。<「小さい山も、大きな山脈も、断崖絶壁もあった」。そう振り返る作家生活の底に流れていたのは、戦争で亡くなった同世代の友への思いだったという。「今も友達の顔が浮かぶ。生き残った者として何をなすべきか。書くものの根幹にはいつもその問いがあった」>

 やなせたかしさんの訃報を受けた10月16日付『毎日新聞』朝刊は、やなせさんのこんな言葉を紹介している。 「聖戦と思っていたのが実は違った。正義の味方はすぐに逆転する。ひもじい人を助けるアンパンマンはどこへ行っても正義の味方です」

 戦争の深い闇を経験し、ずうっと引きずってきたのだった。作品を読むのであれば、この重い経験の何分の1でも感じ取れるようにしたい。

快男児マック赤坂さんの快書『何度踏みつけられても「最後に笑う人」になる88の絶対法則』

 東京・渋谷で偶然目の前にいた。思わず笑ってしまった。政見放送で見たとおり、「スマイル!」とやってくれたからだ。

 伊藤忠本社前で演説するのを見たこともある。絶対に変な人だと思っていた。しかし選挙の供託金はバカにならないはずで、いったい資金はどうやって回しているのだろうと不思議に思っていた。こうした疑問が本書『何度踏みつけられても「最後に笑う人」になる88の絶対法則』(幻冬舎)を読むと氷解する。

 京都大の吉田寮でバンカラと反骨精神を育み、伊藤忠商事で40代後半までトップ営業マンとして働き、今や年商50億円企業の経営者なのである。
 
 はちゃめちゃぶりに圧倒される。そうか、ここまで行動しても許されるのかと目からウロコが落ちる。京大の先輩である大島渚監督の葬儀会場でマック赤坂さんが展開したパフォーマンス(瞬間芸?)は後世に残るだろう。すさまじいというか、人生にブレーキがない人だ。

 思えば、極真空手創始者の大山倍達や作家の日垣隆さん、先日亡くなった山崎豊子さんらもブレーキがない人なのだろう。

 私のような凡人はブレーキが最初から完全装備されていて、外そうとすると一苦労だ。しかし、マック赤坂さんらは最初からブレーキがないに違いない。「我が輩の辞書にブレーキの文字はない」人たちなのである。

 少なくとも私はこの本を読んでマック赤坂さんを見る目が変わった。

作家・ギャンブラー・戦う男・日垣隆さんインタビュー3〜4

 日垣さんの著書『「松代大本営」の真実』((講談社現代新書)の巻末にある参考文献リストに実は私の記事が挙げられている。これは私のヒソカな自慢であーる。




作家・ギャンブラー・戦う男・日垣隆さんインタビュー1〜2

 私は日垣さんの本をたぶんすべて買って読んでいる。単行本も文庫本も。最近は電子出版物も読み出している。『敢闘言』(大田出版)に絶句してからずっと日垣さんの本だけは読んできた。

 





作家・ギャンブラー・戦う男・日垣隆さんインタビュー予告編

 鬼才と言っていいだろう。日垣隆さんである。ユーチューブにアップされた日垣さんのインタビューを紹介しよう。

追悼・中村文子先生

 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長だった中村文子先生が27日、99歳で亡くなった。

 教師経験ゆえか柔らかい語り口に面倒見のよさ、事務さばきの的確さ、千客万来のお客さんへの対応など、今振り返ると中村先生あっての1フィート事務局だった。1フィート運動の顔として中村先生ほどぴったりな人はいない。

 私が上映手伝いとして事務局に出入りしていたころ、中村先生のお弁当を数え切れないほどお裾分けしていただいた。几帳面な性格のとおり丁寧な料理だった。

 明るくて、誠実で、周囲への気配りが万全で、教え子をはじめとして多くの人から頼りにされ、慕われていた。器の大きな人だった。人を包み込む温かさにあふれた人だった。もともと天真爛漫な女性なのだと私は思う。

 1フィート運動が3月に終わり、中村先生が6月に亡くなり、沖縄の私の“古里”はこれで完全に消えてしまった。

 長い長い療養生活を送っておられるのだろうと私は勝手に思い込んでいたのだが、新聞報道を読むとごく最近までお元気だった様子だ。ああ。沖縄に帰った際中村先生のご自宅をどうして訪ねなかったのか。あるいは消息を誰かに聞かなかったのか。

 1フィート時代はかわいがっていただいた。ただただご冥福をお祈りするほかない。 

追悼中沢啓治さん

 中沢啓治さんが亡くなった。広島市内の病院で19日に亡くなったという。73歳だからまだまだ若い。

 中沢さんにお目にかかったのは1994年11月12日である。当時『週刊金曜日』編集部にいた私は、表紙に使う絵を描いていただこうと所沢市内に住む中沢さんを訪ねた。

 もちろん『はだしのゲン』は小学生時代に読んでいる。しかし訪ねる前に10巻すべて買って通読した。何度読んでもこころが震える作品である。

 中沢さんとの雑談は今も鮮明に覚えている(忘れられない)。

 原爆が広島に落とされ、家族が死んでゆく描写について、「締め切った部屋で、泣きながら書いた」と語ってくれた。世の中を圧倒した作品はそんな状況で生まれたのだった。

 広島に縁ができた私は今年9月以降3回も広島を訪ねている。そのたびに原爆ドームを見て、『はだしのゲン』を思い出してきた。

『はだしのゲン』を年末年始に読み返してみようと思う。

真珠湾攻撃の日

 真珠湾攻撃の日である。この日が来るたびに、21年前に取材させてもらったハワイ在住日系人のみなさんの顔が浮かぶ。戦争に突然巻き込まれ、異国の地でどんな思いを抱いて生き抜いてきたか、その一端をうかがい、『毎日新聞』福島版に13回連載した。貴重なオーラルヒストリーを忘れないよう、連載をサイト真珠湾攻撃が始まった ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後にまとめた。

 取材させてもらった人の大半が亡くなっていると思う。しかし、私が聞かせてもらった話は今も鮮やかに覚えている。私には後世にバトンタッチする義務がある。

 しかし、戦争経験の伝承は難しい。活字にまとめるか、現地にある記念館を訪ねるか、くらいだろうと思っていた。

 ところがもう1つあった。物に語らせる方法である。

 東京芸術大美術館で「尊厳の芸術展」が9日まで開催されている。物理の専門家であるにもかかわらず、自然科学から食べ物まで恐ろしく広い分野に詳しい青木先生に教えてもらったので、訪ねてきた。

 日米開戦で収容所送りされた日系人が収容所で創造した「物」が展示されている。いすやそろばんなどの生活必需品から木の彫り物や貝殻を使ったブローチなどの装飾品、仏壇や日本人形などの日本文化関連まで、実物を見ることができる。

 日本はいま意気消沈している。だからだろうか、苦難の道を歩んだ先輩日本人たちが物を通して「頑張れ。誇りを持て。日本人はすごいんだぞ」と励ましてくれるし、「生きるとはこういうことなのだ」と物が静かに語りかけてくれる。
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