同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ひと

西部邁さんの自殺の背景

 野坂昭如さんは妹を死なせた責めを負い続けたし、瀬戸内寂聴さんは自分の思うままに生きて若いころに周囲を巻き込んだ責めを負い続けてきた。西部邁さんにもそういうものがあった。

《彼は泣かないことを自らに課していた。お互いに古希の年齢に達した時に、二人で午後の六時から深夜まで六、七時間、あれこれと話し合ったことがあった》《その時、私は彼が涙ぐむのを初めて見た。妹の交通事故について話した時であった。自分の不注意だったんだよというのだ。僕が道の外側を歩くべきなのに、内側を歩くなんてと繰り返した》=『波』9月号掲載の連載「昭和史の陰影」(保阪正康)

 保阪さんは1歳年上の西部さんと少年時代の一時期、一緒に通学していたという。その保阪さんは《私は西部の自決は近代への異議申立てだと思っている》と記しているのだが、上記のエピソードからは妹さんを交通事故死させたのは自分のせいだとして西部さんが人知れず悶え苦しんできたことが窺える。

 そうと決めつけることは亡き妹さんにとって悲しいことだろう。しかし、自分が死なせてしまったという責め苦から脱するのはなかなか難しいだろうし、誠実な魂であればあるほど責め苦を負い続けることで自分を罰しようとするように思う。



金ピカ先生の死に方

 代ゼミの人気英語講師だった金ピカ先生こと佐藤忠志さんがなくなった。私は駿台派だったし、私が大学に入ったあと世に出てきた先生なので参考書を読む機会は一度もなかったが、名前くらいは知っている。

『朝日新聞』は《都内の自宅で遺体が見つかっていたことが25日、わかった。警視庁は遺体は佐藤さんの可能性が高いとみている。関係者によると、佐藤さんは都内で一人暮らしをしていたが、以前から糖尿病などを患い体調を崩していた。24日、地域包括支援センターの職員が訪問したが返事がなかったため、警察に通報し、遺体が見つかった》と報じた。

 脳梗塞や心筋梗塞に何度も倒れ、にもかかわらず現役時代並みに車に莫大なお金をかける金ピカ先生に配偶者は愛想を尽かして家を出た。生活保護を受けながら酒とたばこの生活を続けた様子から、緩慢な自殺を目指したように見える。

 こころに闇を抱えていたとしか思えない。

 年収2億円を稼いでいた金ピカ先生の貧困孤独死を美しいと感じるのは私だけではないだろう。死ねばあちらに何も持って行けないのである。

 享年68。

田辺聖子さんの思い出

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 芥川賞作家の田辺聖子さんが近くにいるのを見つけて声をかけた。

「あの、記念写真を一緒に撮りたいんですが、あそこに動いていただけますか」

「いやや」

 そう来たか(笑い)。

「ほな私たちがここに動いて来てええですか」

 無事に許可をもらい、みんなを移動させて撮った1枚がこれ。一緒に踊っていた国立音大の女の子たちが画面の多くを占めたのは、カメラマンをさせていた弟(当時高1くらいか)が色気に目を奪われたせいだろう。

 1984(昭和59)年8月だから、私は21歳直前か。若いなぁ(しみじみ)。

 当時の田辺さんは「かもかのおっちゃん連」とかいうのを作って毎夏踊りに来ていたはずだ。

 享年91。ご冥福をお祈りいたします。


 

「先生」と呼ばれることを嫌う五木寛之さん

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 川端康成や井伏鱒二、稲垣足穂、深沢七郎、カシアス・クレイ、ヘンリー・ミラー、フランソワーズ・サガン、フランシス・コッポラらの名を挙げ、新潮社の中瀬ゆかりさんが五木寛之さんにこう言う。

「今日はわたくし如きで申し訳ないのですが、先生は……」

 遮って五木寛之さんが言う。

「あの、ぼくはどんな方と対談しても<さん付け>なんですけど。(略)できれば「中瀬さん」「五木さん」でお願いします。>

 新潮社の『波』11月号に載った記念対談のひとこまである。

 五木さんを見直した(と私如きが言うのだが)。五木さんの考え方が分かる人はすぐに分かる。分からない人にはいくら説明しても恐らく腑に落ちないだろう。先生と呼ばれることに快感を感じる人もいれば、五木さんのような人もいる。ワタシのように「先生と呼ばれるほどの莫迦でなし」と思っている底意地の悪い人間もいる。

 某大手建設会社では1級建築士を先生と呼んでいて、先生と呼ばれる1級建築士たちはまんざらでもなさそうな顔をしているのだが、社員の大半が内心「この薄ら莫迦め」と嗤っている。医者や教師同士がお互いに「先生」と呼び合って疑問を抱かないのは脳みそが爛れているのだろうなぁ。小説家を先生と呼ぶのも激しい違和がある。ヨイショの裏声が聞こえてくるのは私だけだろうか。

『鉄の暴風』を書いた沖縄タイムス社の牧港篤三さんとは沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会でお目にかかり、以来長くお付き合いさせていただいたが、相手がどんな人であっても「先生」と呼ばなかった。大田昌秀・琉球大教授(当時)にも「大田さん」だった。五木さんと同じ「さん」付け。そういう敬意の示し方があるのである。固有の名前を呼ぶほうがどれだけ敬意が込もるか、やってみれば分かるはずなのだが。

 先生と呼んでいいのはお世話になった学校の教師くらいだろう。高校生くらいになると教師をあだ名で呼ぶけれど。

 先生と呼ばれている人は考え直してみるほうがいいだろうし、先生と呼んでいる人は「さん」付けで呼ぶほうが敬意を込めることができると気づくはずだ。と書いている私も時々「先生」と呼ぶけれど、その人の名字が出て来なくて焦ることがある(笑い)。


   

彼女の予定

 私の教え子が言う。「定年退職したら私の経験をもとに相談のボランティアをしたい」

 彼女は非情な経験をしており、だからこそ経験者として相談に乗ることができるというのだ。ふだんから人と濃密な人間関係を築いて世話を焼く仕事をしているし、自分を突き放して笑いを取るなど意思疎通をする能力に長けているし、そういう相談は普通の人には絶対にできないし、彼女は適材であり逸材である。

 彼女がそのボランティアを始め、なおかつ諸条件が整えば、彼女は顔を出すことをためらわないだろう。そうなれば私が取材して発表しよう。彼女の歩みがどれほど大勢の人の魂を救うことか。

 彼女を育てた恩師(ワタシね)は偉いなぁ。というお約束の冗談はさておき、こういう人にまれに出会うと、そのたびに私は自分を見てしまう。で、お前は何をするのか、と。

 結局聞いて書いて光を当てることしかできそうにないか。相変わらず全然成長がないなぁ。

新潮社写真部撮影の小説家たち

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 ものの5分もあれば見終わるが、1時間でも2時間でもゆっくり見たい写真展、それが「新潮社写真部のネガ庫から」である。東京・神楽坂のラカグ2階で開催中だ。

 北杜夫さんがお嬢さんの由香さんとくつろいでいる写真。お嬢さんは2〜3歳くらいか。顔が今と同じなのですぐに分かった。

 遠藤周作さんは慶應病院のベッドで座っている。なぜ慶應病院と分かったかというと、ベッドのシーツに慶應のマークが印刷されているからだ。慶應のマークをシーツにわざわざ印刷してある辺りが慶應らしいというか、普通の病院ではあり得ないのではないか。

 買い物かごを持って買い物をしているのが檀一雄さん。思わずナットク。

 純白のスーツでポーズを取っているのが筒井康隆さん。いかにも。

 港でギターを肩に決めポーズしているのは五木寛之さん。案外ええかっこしいだったのか。

 山崎豊子さんは大阪のおばちゃんの風貌だし、瀬戸内寂聴は缶ビール3本を窓側に並べた電車内でくつろいでいるし、何と言うか、そのまんま。

 25歳当時の阿川佐和子さんは実にかわいい。理知的な表情で、私の好み。もうひとり私を魅了した女性作家は向田邦子さん。49歳当時の写真だそうだが、聡明さが目に宿る。

 新潮社の創業120年記念写真展だそうだが、写真展で終わらせずに写真集を出してほしいぞ。

藤田修一師の写真集『浅草慕情』

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 あの藤田修一師から写真集『浅草慕情』を送っていただいた。かつて駿台予備学校の現代文講師として独自の読解法を編み出し、受験生から絶大な支持を得た人である。三つ揃えのスーツにロマンスグレーの頭部、銀ぶちのメガネ、官能的な声。男から見てもかっこいい先生だった。

 何度も書いていることだが、高校3年の時の夏期講習で藤田先生と関谷浩先生の「早大国語」を受講し、どうにもこうにも伸び悩んでいた現代文が秋以降に一気に開花した。早稲田大学法学部のあのややこしい現代文を解く私に藤田先生が乗り移ってくださった。藤田先生の読解法は今日まで受験現代文の世界で受け継がれている。

 その藤田先生が自由の身になって取り組んだのが写真だった。国際写真サロン入選やキヤノンコンテスト準グランプリなど、写真家としての名声をすでに確立している。写真集はこれで3冊目だ。どれも被写体に真正面から向き合い、美のはかなさや壊れやすさをいとおしむかのようにシャッターを切り続けた。

 浅草を舞台にしたのは「異郷」だからという。異郷ゆえに檀一雄の『火宅の人』や永井荷風の『すみだ川』、川端康成の『浅草紅団』などが生まれたという。肖像権を主張しない人が多いのも異郷だからだろうという。

 異郷浅草の何を撮るか、異郷浅草の人間をどう撮るかといった藤田先生の目線を語った文章も、人間の一瞬を永遠に捉えた写真の数々も、人間の味わい方とでも言うべきものを教えてくれる。

 藤田師の3冊の写真集から吸収することがたくさんある。というわけで、私は藤田師の教え子を今も自称する。


 

 

ショーンKさん是々非々

 賛否両論ある話題で、私の中にも賛否両論ある。どうでもいい話なのだが、面白いので思いつくままに。

・整形について……私は「ありのまま」が一番いいと思っているので、こういう行為をする人を痛々しく思うし、好きではない。高校時代の同級生が誰も気づいていなかったそうで、そこまで整形したのは不都合な過去を完全に消すためだろう。かつらをかぶっていると公言している「とくダネ!」の小倉智昭さんと整形手術を隠していたショーンKさんとどっちが“悪質”か、私には判断できない。

・学歴詐称について……「ありのまま」では這い上がれなかったのだろうけれど、痛々しい。ついでに言っておくと、病院で医者と同じ白衣を着る事務さんも痛々しい。ありのままで胸を張ってろっちゅうの。一方で安倍さんと麻生さんの学歴疑惑が出てきたようで、こっちは看過できない。

・男もやっぱり顔でしょ……ショーンKさんが人気を集めたのは顔でしょ。なんやかんや言っても顔がいいほうがモテるのだ。これは私のヒガミね。でも、ほらっちょと呼ばれていた高校時代のショーンKさんの顔はまるで漫画「いなかっぺ大将」の大左衛門のようだなぁ。

・英語……たいそう努力したのだろう。あるいたテンプル大学日本校の英語の授業がよほど素晴らしいのか。「10カ月で英語ができるようになるのなら、テンプル大学日本校に行きたい」と希望する大学生が続出中(?)。私はショーンKさんから英語を学びたい。

・コメント……何度かテレビで聞いたことがあるけれど、顔の割には実に平凡なことを言うなぁと私は思った。顔で持っているんだろうとも思った(私のヒガミですよーだ)。

・服装……典型的な詐欺師の服装である。事件記者の大先輩に連れられて、東京・八重洲の某喫茶店に行ったことがある。大先輩が言った。「ほら、あの連中の顔を見てみろ。詐欺師の顔だ」。彼らはぴしっとした服装をしていたが、そろって顔が下品だった。詐欺師は服装でごまかそうとするのだそうで、しかし、顔はごまかせない。ショーンKさんは整形手術をすることでごまかすことができた。

・優しい……後ろめたさがあるから、そりゃ人に優しかろう。本当に優しいのか演技なのかそうせざるを得ない立場だと自覚していたのか(そもそも原形をとどめないくらい整形した人だからね)私には分からない。

女優とのツーショット写真

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 先日彼女とのツーショット写真をここに載せたところ、大きな反響があった。「きれいな女性ですね!」というのである。

 えっへん(←私が威張ってどうする)。

 彼女は女優である。伊丹十三監督の映画に出たりしているのだ。

 ぶっちゃけて言えば、私のふるさと徳島のご近所さんで、親同士も知り合い、小学3年の時から同級生で、幼なじみみたいなカンケーである。

 片や女優、片やおっさん。

 先日に続いてまた会う機会があり、ツーショットと相成った。撮影したのは高校の同級生・寺田社長室長(長いなこれ)である。寺田社長室長ありがとうね。

 何だか昔からの友達が懐かしい。私がそんな年齢になってきたということか。なんまんだぶなんまんだぶ。

かっこいい「とくし丸」住友さん

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 今日付の『朝日新聞』Be版フロントランナーで、移動スーパー「とくし丸」の住友達也さんがどかーんと取り上げられている。徳島で知らない人はいない(76歳の私の母も知っている)タウン誌『あわわ』を創刊し、吉野川可動堰建設反対の運動を先導し、今では「とくし丸」である。

 どれも無関係に見えるが、地べたを這いずり回って人の声に耳を澄ます仕事であるという点で共通している。かっこいいなぁ。

 住友さんにお目にかかったのは2回目の沖縄移住の前だから2000年ごろだったか。私の記憶では当時の住友さんはオールバックで黒い背広をビシッと着こなし、やんちゃなエネルギーが顔からも体からもあふれていた。

 地べたを這いずり回る仕事をかっこいいと思うのは「太陽にほえろ!」の影響かも知れない。チョウさん(下川辰平)が捜査で確か秋吉台を炎天下大汗を垂らしながら歩き回る姿に私は惚れた。のちに新聞記者になって、これもまた地べたを這いずり回る仕事だったので私は大満足だった。

 年齢のせいにして私は最近地べたを這いずり回っていない。私より6歳年上の住友さんがしているのだから、年齢のせいにはできないぞ。

 糖質を控えめにしているし、糖尿病ではないのだが、ワタシは自分に甘いのである。

佐木隆三さん死去

 私が1回目の沖縄暮らしをしていたころだから1987(昭和62)年2月〜1989(平成元)年3月までだが、佐木隆三さんに会ったことがある。確か1フィート運動の会の取材に来られたように記憶している。

 私が用事で東京に出て、新宿の紀伊國屋書店本店で友人を待っているところに佐木さんがいて、あいさつしたのが2回目だった。それだけの交錯でしかないが、著書はいろいろ読んだ。

 お会いしたころの佐木さんは、ちょうど今の私の年齢(52歳)辺りだった計算だ。私の残り時間が感覚的に把握できるなぁ。


 

「藤本義一の書斎」訪問

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 高校時代に友人から「藤本義一に似とる」と言われて以来ずっと親近感と憧れを抱いてきた。「イレブンPM」という大人の番組の司会をしている歯切れのいい大阪弁を話す、上品な白髪のおしゃれでカッコいい直木賞作家に似ているのなら望外の喜びというものだ。

 残念なことについぞお目にかかる機会はなかったが、芦屋市にできた記念館「藤本義一の書斎」を訪ねる機会がようやくやってきた。藤本義一さんの晩年から今日までお手伝いをされている芸術家さんと次女のフジモト芽子さんにお会いでき、おもてなしに甘えて何と4時間以上もお話をうかがうことができた。

 話の詳細はもったいないのでここには書かないが、お聞きした話のすべてにオチがついているので爆笑してしまう。特に藤本義一さんのいまわの際の言葉を聞いた途端に思い切り吹き出してしまった。

 藤本義一さんの魅力を語る人が今も大勢いる。本にまとめられないものか。藤本流の生き方指南は含蓄に富み、その価値は全く衰えていない。


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あす沖縄慰霊の日

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 NHKが「あの人に会いたい」が中村文子先生を先日取り上げた。沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長である。

 1987(昭和62)年2月から89(平成元)年3月まで沖縄で暮らした私は1フィート事務局で上映活動のボランティアをした。事務局に行くたびに中村先生と顔を合わせ、話をうかがった。貧相な私の昼飯(金ちゃんラーメンなど)をご覧になったせいか、お手製のお弁当のおすそ分けにあずかったことが何度もある。

 感情を抑え、淡々と、かんで含めるように話す。面倒見がいい。本当に事務局の要だった。中村先生が顔になったからこそ1フィート運動は説得力を持った。

 沖縄には2つの柱がある。1つは沖縄戦、もう1つは米軍基地問題。米軍基地問題と違って沖縄戦に関しては県民に意見の相違は見当たらない。日本軍による住民虐殺や強制集団自決など、すさまじい世界があった。いつだって住民が命を奪われた。

 私の義父は沖縄戦当時海軍の軍属だった。沖縄戦の様子が伝わってきて「南風原町の家族はダメだろう」と覚悟した。敗戦後沖縄に戻ったが、やはり全員亡くなっていた。口数の極端に少ない人だったので詳細は聞けなかったが、諦念の表情が今も私の脳裏に焼き付いている。

 そんな沖縄戦の組織的抵抗が終わった日が6月23日である。とはいえ何も終わらなかった。軍司令官が「生きて虜囚の辱しめを受くべからず、悠久の大義に生くべし」などと無責任な言葉を残して自殺したため、6月23日以降の沖縄戦は泥沼化する。

 あす沖縄慰霊の日。沖縄に浅からぬ縁のある私は毎年この日は厳粛に過ごす。

『不毛地帯』『二つの祖国』主人公の共通点

 山崎豊子さんの小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正と『二つの祖国』の主人公・天羽賢治の「筋の通し方」が似ている。私の目には、この2人の主人公はそろって風見鶏のような日和見のように見えることがある。

 例えば、権力にすり寄ることを潔しとしないという筋の通し方は黒白が明快なので、ほかの人が見ても大変分かりやすい。しかし、壹岐正も天羽賢治も「権力」だの「反権力」だのといったモノサシを持っていない。その時その時に自分で考えて判断した方向に行動する。そこには本人には一貫性があるのだが、世間一般の、あるいは私の一貫性とズレているので、その行動が分かりにくい時がある。

 大きな流れに抗わないという風にも見える。しかし主人公たちはそれぞれ自分の中では筋が通っている。このために周囲から誤解を受けたり恨まれたりするのだが、それにも抗わない。したがって、行動規範が分かりにくい時がある。

 しかし、そもそも人間はたいていそういう生き方をしている。自分の生まれや育ち、環境などが形成した個別具体的な影響をそれぞれが受けているので、他人が完璧に理解するのは不可能だ。

 山崎豊子さんが主人公の性格を設計する際にこういうことまで考えていたのだろうか。

ぶっきらぼうな猪瀬直樹さんの真実

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 猪瀬直樹さんご自身が自覚しているかどうかは別として、相当リベラルと言っていいのではないか。日垣親分の学習会に来てくれた猪瀬さんを見て、そう思った。

 猪瀬さんが叩かれていた頃、けっこう著名なライターが『毎日新聞』夕刊で猪瀬さんを否定的に書いていた。確か「上から目線」だか「威張っている」だか、そんな内容だった。

 ところが日垣さんによると「NHK会長にも同じ調子で言う」そうだ。猪瀬さんご自身、この件についての自覚がないようだ。

 私の目には威張っているというよりぶっきらぼうな感じに見えた。

 上にぺこぺこ下に横柄ならよくある話だが、上にも下にも威張っている(あるいはぶっきらぼうな)人はきわめて珍しい(笑い)。裏表がないという一点で、私なら前者より後者を信用する。

 猪瀬さんのぶっきらぼうな感じの話を聞き、ぶっきらぼうな雰囲気を自分で感じた限りでは、5000万円の問題に何か裏の意図があったとは思えなくなった。威張っているように見えてしまう人のようなので、感情的な反感を買ってしまい、ことが大きくなってしまった可能性はないだろうか。いろいろな改革をしようとしていただけに既得権を持つ側がここぞとばかりに作為的に足を引っ張った可能性はないだろうか。

 惜しい人を都知事から降ろしてしまった。

東日本大震災で津波から逃げ切った漁師さんの話を聞く

 仙台市の私立大学で授業をしたあと、名取市閖上(ゆりあげ)で津波から逃げ切った漁師さんの話を聞く機会があった。名取市では津波による死者が970人、そのうち760人が閖上地区の住人だった。海辺の漁師町である。

「亡くなった人は誘導していた人。誘導せずに逃げること」

「地震のあと海を見ろと言われていた。海を見たら水が引いている。これは大きな津波が来ると分かった」

「逃げるための車が前後の隙間がないくらい渋滞していた。その横の反対車線を突っ走った。対向車は来なかった。後ろから真っ黒い水が追いかけてきているのがバックミラーに見えて、アクセルを踏み続けた。渋滞で動けない車から逃げ出して走ってくる人が見えたが、自分はどうすることもできず、結局津波にやられた。前後の隙間なく渋滞しているから、私が走っている反対車線に車を出したくても出せなかったようだ」

「車の中で亡くなった人はきれいだった」

「隣近所顔見知りなので、遺体安置所で遺体を見て、家族に知らせた。最初はウッとなったが、140〜150人は家族のもとに戻せた」

「ボランティアで来る人には『1回しか来ないんだったら冷やかしみたいなもんだから来なくていい』と言う。そうすると返事がない」

「丹波や広島の人にはお世話になった。土砂災害を知って、仮設住宅のみんなで募金を集めて持って行った。少しでも恩返しをしたいから。黙って見ているわけにはいかない」

「自分たちが助けてもえったからお返しをしようと思った。自分たちが大変な経験をしていなかったら、災害はひとごとだっただろう」

「仮設住宅に180世帯360人が住んでいた。どうすればこの人たちを助けられるのかと考え、自治会を立ち上げた。自治会費300円を集め、芋煮会や花見などをした」

「住人はうわさ話を聞いてきてあれこれ言う。『あんたら、うわさ話で行ったり来たりしているのか。うちらはうちらで自立していけばいい』と話した。うわさ話を聞いてくる人もしゃべる人もいなくなった」

「軽自動車で逃げている最中に、自転車で逃げている友人に会った。車に乗れと言ったんだが、大丈夫だって。でも津波に巻き込まれた。夢に何度も出てくるけれどニコニコしているから、『お前だけ生き延びやがって』とは思ってないはず」

「半年前に母親が亡くなった。もし生きてたら、動けないから、私も母親と一緒に津波で死んでいただろう」


 

小学1年の時の担任の伊藤貞子先生死す

 ああ。来た。ため息が漏れた。はがきの差出人が「伊藤」なのだ。

 私の小学1年の時の担任だった伊藤貞子先生が90歳で10月に亡くなっていた。今年の年賀状をいただいていなかったので、もしかするとと気になっていたのだが、やっぱり。

 私は大阪市東住吉区の矢田小(現在の矢田西小)1期生である。今から45年ほど前に遡る。年賀状を40年以上交わしてきた計算だ。

 今も忘れられない伊藤先生の言葉が2つある。

「黒板を一生懸命に見ていればどこかに100点と書いてある」

 本当に100点の文字が見えてくると勘違いした当時の(今もか)私は阿呆だが、おかげで黒板をきちんと見る習慣がついた。

 もう1つ、これは幼心ながら染みた。おぼろげながらこんな話だった。

「私の子供は柔道をしていて、ケガをしたのに、親を心配させまいとして我慢して、死んでしまった。みんなは痛い時や苦しい時は必ず親に話すように」

 当時伊藤先生は44歳前後。クラス集合写真を見ると、何となく、本当に何となくだが、少し沈んだような表情に見える。お子さんを亡くした悲しみが垣間見えるような気がする。

 伊藤先生のこの言葉を守り、私は体調の不調があれば必ず親に伝える子供になった。もともと我慢弱い性格だったのだろうが、「親に伝えなければ」という意識を持たせてくれたのは伊藤先生である。

 伊藤先生が亡くなったことを知らせるはがきの文章を読むと、お子さんも教師かもしれない。大阪市のご在住である。会いに行ってみよう。

 とはいえ、本当に悔やむ。大阪に行く機会や通過することは何度もあったのに。伊藤先生に会っておきたいと何度も思っていたのに。先生不孝をしてしまった自分を呪う。

カシオの高山さん

 大学入学と同時に山のサークルに入った私は大学1年の夏に北アルプスを縦走した。そのときのリーダーが当時4年だった高山さんである。

 山歩きの拙い私に対してせかすことなく、ゆっくりゆっくり後ろを来てくれた。リーダーかくあるべしと初めて思ったので今まで忘れられない。

 その高山さんを知る人に出会った。カシオでの勤務歴がある人なので、まさか知るわけがないと思いつつも念のために名前を挙げたら、ご存じだった。出世している人なので名前を知っているという。

 おお。高山さんがカシオで出世している! 北アルプス縦走で垣間見せたリーダーとしての資質はやっぱり本物だったのだ。お世話になった先輩がカシオで認められている。後輩として大変うれしい。

 カシオの快進撃に期待しよう。高山さんがいる限り大丈夫だ。 

 

 

フロリダにいた岡部さん

 岡部さんが米フロリダで暮らしている。配偶者と一緒にアメリカ人相手に日本料理店を経営している。

 おかべあきこ? 誰? よく分からんけど、坂尾さんの知り合いなら変なのではないだろう。そう思ってフェイスブックの友達申請のOKを出したのがきっかけで、徳島市立高3のときの同級生・岡部さんだと判明した。ひらがなで「おかべあきこ」と書いてあるから分からなかった。漢字ならすぐに分かる。名前に使われている水晶の「晶」の字がきれいだなと高校時代に思ったことがあるけんね。

 Kazu’s2.0という店である。

 毎日アメリカ人と英語で話しているわけだ。想像するとワクワクするぞ。

 2浪中の次女に話したら目を輝かせた。「すごいね」。うん、すごい。

 こうなったら岡部さんの店に行かなければなるまい。

 いつ行くか? 

 今でしょ! ……って調子にのってはいけない。やるべきことを完遂してから行くぞフロリダ!

 

新垣隆さんに活躍の場を!

 佐村河内守さんに広島公演でスタンディングオベーションをしてしまった私ではある。しかし、あの音楽が舞台から消えていくのはあまりにも惜しい。

 ゴーストライターとして名乗り出た新垣隆さんが明かしたように、「交響曲第1番HIROSHIMA」は広島とは無関係に作曲されたのだろう。しかし、いい音楽はいい音楽なのだ。私は「影武者」にも震えた。

 新垣隆さんの作品として蘇らせるべきではないか。

 記者会見を見ると、「今どきこんな人が」と感嘆するくらい謙虚で誠実な人のようだ。新垣さんに任せていたら、せっかくの名作が消えてしまう。誰かが音頭を取って新垣さんの作品として復活させるべきである。

 新垣さんが著作権料を辞退するなら、それは広島や東北に寄付すればいいではないか。

 佐村河内さんのオモロイ人格の追及はぜひ週刊誌にやってもらって、それとは別に新垣隆さんにはもっともっと自由自在に活躍してもらおうではないか。逸材を埋もれさせるのはもったいない。

佐村河内守さんの芝居に一杯食わされた(呵々大笑)

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 佐村河内守さんの堂に入った役者ぶりは絶賛に値する。東京大先端科学技術研究センター特任教授などの肩書きで虚偽のiPS細胞移植騒動を“名演”した森口尚史さんに比肩しうる。あるいは旧石器捏造事件を引き起こした“ゴッドハンド”こと藤村新一さんに勝るとも劣らない“名優”ぶりである。怪優として本物の役者になれるかもしれない。

 去年12月末に広島市で開かれた広島交響楽団の演奏会には本人が登場し、長い長いスタンディングオベーションが起きた。実に堂々としたものだった。80分の演奏の間、何も聞こえないのは退屈ではないだろうかとは思ったが。

 私も熱い熱い拍手を送った1人である。あの場にいて私と同じようにスタンディングオベーションをした人たちの大半がずっこけたに違いない(笑い)。

『中国新聞』を読むと、広島をダシにした佐村河内さんへの落胆がにじみ出ている。被爆という大変重い経験を軽々しく使われたいまいましさや腹立たしさもあるだろう。少々深刻ではある。

 しかし私にはさほど実害はない。端的に言えば「一杯食わされた」程度でしかない。その上で呵々大笑である。

『週刊金曜日』名デスク宮越壽夫さんが亡くなっていた

 喪中はがきがを見て立ち尽くした。宮越壽夫さんが1月に74歳で亡くなっているのだ。

 20年前の週刊金曜日時代に大変お世話になったデスクの1人で、リベラルであることを私たち社員に身をもって教えてくれた人である。社員の羅針盤となり、労働組合の良心的支柱となり、大勢から慕われ、頼られ、信頼され、愛された。熱くて、温かくて、面倒見のいい人だったので、宮越さんの退社後も、私の退社後も、高円寺などの喫茶店でよくお話をうかがった。ご迷惑をおかけしたこともある。

 この10年くらい年賀状だけのお付き合いをしていたことを私は激しく悔やみ、ご無沙汰し続けてしまった自分を呪う。

山崎豊子さんとやなせたかしさんの共通点

 相次いで亡くなった山崎豊子さんとやなせたかしさんには共通点がある。戦争に対する姿勢だ。

 山崎豊子さんの訃報に10月2日付『毎日新聞』の「余録」はこう記した。<「小さい山も、大きな山脈も、断崖絶壁もあった」。そう振り返る作家生活の底に流れていたのは、戦争で亡くなった同世代の友への思いだったという。「今も友達の顔が浮かぶ。生き残った者として何をなすべきか。書くものの根幹にはいつもその問いがあった」>

 やなせたかしさんの訃報を受けた10月16日付『毎日新聞』朝刊は、やなせさんのこんな言葉を紹介している。 「聖戦と思っていたのが実は違った。正義の味方はすぐに逆転する。ひもじい人を助けるアンパンマンはどこへ行っても正義の味方です」

 戦争の深い闇を経験し、ずうっと引きずってきたのだった。作品を読むのであれば、この重い経験の何分の1でも感じ取れるようにしたい。

快男児マック赤坂さんの快書『何度踏みつけられても「最後に笑う人」になる88の絶対法則』

 東京・渋谷で偶然目の前にいた。思わず笑ってしまった。政見放送で見たとおり、「スマイル!」とやってくれたからだ。

 伊藤忠本社前で演説するのを見たこともある。絶対に変な人だと思っていた。しかし選挙の供託金はバカにならないはずで、いったい資金はどうやって回しているのだろうと不思議に思っていた。こうした疑問が本書『何度踏みつけられても「最後に笑う人」になる88の絶対法則』(幻冬舎)を読むと氷解する。

 京都大の吉田寮でバンカラと反骨精神を育み、伊藤忠商事で40代後半までトップ営業マンとして働き、今や年商50億円企業の経営者なのである。
 
 はちゃめちゃぶりに圧倒される。そうか、ここまで行動しても許されるのかと目からウロコが落ちる。京大の先輩である大島渚監督の葬儀会場でマック赤坂さんが展開したパフォーマンス(瞬間芸?)は後世に残るだろう。すさまじいというか、人生にブレーキがない人だ。

 思えば、極真空手創始者の大山倍達や作家の日垣隆さん、先日亡くなった山崎豊子さんらもブレーキがない人なのだろう。

 私のような凡人はブレーキが最初から完全装備されていて、外そうとすると一苦労だ。しかし、マック赤坂さんらは最初からブレーキがないに違いない。「我が輩の辞書にブレーキの文字はない」人たちなのである。

 少なくとも私はこの本を読んでマック赤坂さんを見る目が変わった。

作家・ギャンブラー・戦う男・日垣隆さんインタビュー3〜4

 日垣さんの著書『「松代大本営」の真実』((講談社現代新書)の巻末にある参考文献リストに実は私の記事が挙げられている。これは私のヒソカな自慢であーる。




作家・ギャンブラー・戦う男・日垣隆さんインタビュー1〜2

 私は日垣さんの本をたぶんすべて買って読んでいる。単行本も文庫本も。最近は電子出版物も読み出している。『敢闘言』(大田出版)に絶句してからずっと日垣さんの本だけは読んできた。

 





作家・ギャンブラー・戦う男・日垣隆さんインタビュー予告編

 鬼才と言っていいだろう。日垣隆さんである。ユーチューブにアップされた日垣さんのインタビューを紹介しよう。

追悼・中村文子先生

 沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会事務局長だった中村文子先生が27日、99歳で亡くなった。

 教師経験ゆえか柔らかい語り口に面倒見のよさ、事務さばきの的確さ、千客万来のお客さんへの対応など、今振り返ると中村先生あっての1フィート事務局だった。1フィート運動の顔として中村先生ほどぴったりな人はいない。

 私が上映手伝いとして事務局に出入りしていたころ、中村先生のお弁当を数え切れないほどお裾分けしていただいた。几帳面な性格のとおり丁寧な料理だった。

 明るくて、誠実で、周囲への気配りが万全で、教え子をはじめとして多くの人から頼りにされ、慕われていた。器の大きな人だった。人を包み込む温かさにあふれた人だった。もともと天真爛漫な女性なのだと私は思う。

 1フィート運動が3月に終わり、中村先生が6月に亡くなり、沖縄の私の“古里”はこれで完全に消えてしまった。

 長い長い療養生活を送っておられるのだろうと私は勝手に思い込んでいたのだが、新聞報道を読むとごく最近までお元気だった様子だ。ああ。沖縄に帰った際中村先生のご自宅をどうして訪ねなかったのか。あるいは消息を誰かに聞かなかったのか。

 1フィート時代はかわいがっていただいた。ただただご冥福をお祈りするほかない。 

追悼中沢啓治さん

 中沢啓治さんが亡くなった。広島市内の病院で19日に亡くなったという。73歳だからまだまだ若い。

 中沢さんにお目にかかったのは1994年11月12日である。当時『週刊金曜日』編集部にいた私は、表紙に使う絵を描いていただこうと所沢市内に住む中沢さんを訪ねた。

 もちろん『はだしのゲン』は小学生時代に読んでいる。しかし訪ねる前に10巻すべて買って通読した。何度読んでもこころが震える作品である。

 中沢さんとの雑談は今も鮮明に覚えている(忘れられない)。

 原爆が広島に落とされ、家族が死んでゆく描写について、「締め切った部屋で、泣きながら書いた」と語ってくれた。世の中を圧倒した作品はそんな状況で生まれたのだった。

 広島に縁ができた私は今年9月以降3回も広島を訪ねている。そのたびに原爆ドームを見て、『はだしのゲン』を思い出してきた。

『はだしのゲン』を年末年始に読み返してみようと思う。

真珠湾攻撃の日

 真珠湾攻撃の日である。この日が来るたびに、21年前に取材させてもらったハワイ在住日系人のみなさんの顔が浮かぶ。戦争に突然巻き込まれ、異国の地でどんな思いを抱いて生き抜いてきたか、その一端をうかがい、『毎日新聞』福島版に13回連載した。貴重なオーラルヒストリーを忘れないよう、連載をサイト真珠湾攻撃が始まった ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後にまとめた。

 取材させてもらった人の大半が亡くなっていると思う。しかし、私が聞かせてもらった話は今も鮮やかに覚えている。私には後世にバトンタッチする義務がある。

 しかし、戦争経験の伝承は難しい。活字にまとめるか、現地にある記念館を訪ねるか、くらいだろうと思っていた。

 ところがもう1つあった。物に語らせる方法である。

 東京芸術大美術館で「尊厳の芸術展」が9日まで開催されている。物理の専門家であるにもかかわらず、自然科学から食べ物まで恐ろしく広い分野に詳しい青木先生に教えてもらったので、訪ねてきた。

 日米開戦で収容所送りされた日系人が収容所で創造した「物」が展示されている。いすやそろばんなどの生活必需品から木の彫り物や貝殻を使ったブローチなどの装飾品、仏壇や日本人形などの日本文化関連まで、実物を見ることができる。

 日本はいま意気消沈している。だからだろうか、苦難の道を歩んだ先輩日本人たちが物を通して「頑張れ。誇りを持て。日本人はすごいんだぞ」と励ましてくれるし、「生きるとはこういうことなのだ」と物が静かに語りかけてくれる。

孫正義さんの「正義」

 ひがし東北大震災の被災者支援としてソフトバンク社長の孫正義さんが100億円以上を寄付することを発表した。

 やれ携帯がつながらないだの技術力が劣るだのソフトバンクへの批判はいろいろ聞いてきた私が、自宅の固定電話にヤフーBBを使い、iPhoneを使っている理由は、ソフトバンクが電話料の値下げに驚くべき影響を与えたことを高く評価しているからである。

 殿様商売をしてきたドコモとauだけでは価格は下がらなかった。ソフトバンクが思い切った低価格競争を仕掛けたからこそ、日本の電話代は恐ろしく下がった。この恩に私は報いたい。

 そこへさらに100億円以上の寄付である。在日だの何だのとどうでもいいことで揶揄されてきた孫正義さんだが、私はソフトバンクを応援し続けることで、孫正義さんの「正義」を支持する。

徳島の鬼才と意気投合

 私の名前を検索してこのブログにたどり着き、ご連絡くださった徳島市内の多田さんにお会いした。

 東映の中島貞夫監督を師と仰ぎ、日本の古いアクション映画からテレビ番組、その裏側まで網羅している博覧強記ぶりと映画界などの広い人脈に、私はただただ圧倒された。

 私が創刊から関わった『週刊金曜日』の元読者で、徳島市内で開かれた本多勝一さんの講演会に出席していたり、私が在籍していた『サンデー毎日』に詳しかったり。それでいて繊細な男なのである。

 徳島の鬼才とひそかに命名した。私はかなわない。

比嘉光龍さんと私と方言

「アメリカ系うちなーんちゅ」の比嘉光龍(ふぃじゃ・ばいろん)さんからメールが届いた。8年くらい前に沖縄で出会い、私が運営する「インターネットタウンマガジン沖縄王」で紹介して以来、たまにメールを交わす仲だ。

 メールによると、比嘉光龍さんのホームページができたという。

 そしてもう1つ、イギリスのBBCのサイトで紹介されている。

 父親はアメリカ人、母親は沖縄人という状況で、自分のアイデンティティーを模索してたどり着いた過程を知ると、のほほんと生きている私は勝てないなぁと思う。でも、生まれ育った地域の言葉を大事にする辺りは私も共通する。

 私の場合、小学生から中学生にかけて徳島市→大阪市→徳島市→岸和田市と引っ越しし、徳島の方言を否応なく意識する状況に立たされた経験から徳島弁に対する愛着が大きい。

<ふるさとの なまりなつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きに行く>とうたった石川啄木も比嘉光龍さんも私も、古里を強烈に意識する経験が共通している。人生の半分以上を関東で過ごしている私は最近生粋の徳島弁が消えつつある。徳島の友人や同級生に会った時くらいは徳島弁を駆使しなければとあらためて思う。

小林には勝てない

 大学1年の夏休み、大阪・八尾市内に住む徳島市立高2年の同級生・小林の下宿に友人たちと泊まりに行った。電気を赤々とつけて夜中まで友人たちとワイワイ話している中、部屋の主・小林はいつの間にか寝ていた。

 目覚まし時計が鳴り、小林がむっくり起き上がった。午前3時だ。「行ってくる」と言い置き、さっさと出て行く。読売新聞奨学生として、朝刊夕刊の配達をしているのだ。

 親の仕送りで何不自由なく学生生活を送っていた私には小林の姿が大きく見えた。このときの光景は今でも思い出す。

 大学生が午前3時と午後3時から数時間ずつ新聞配達をするのは、かなり大変だ。1日の流れを2回寸断されるのだから。当時は女子大生ブームのころで、世の中がバブル経済に踊っていた。

 そんな時代に新聞配達をして自分で金を稼いで、自分の力で生きているヤツがいた。小林には勝てないな。そう思った。

 あろうことか、のちに私は大学卒業に6年もかかることになる。

 小林の爪の垢を煎じて飲んでおくべきだった。

和の村上

 高校2年の同級生・村上は「和の村上」と自称していた。

 修学旅行最終日は東京の自由行動だった。数人のグループで動いたのだが、私は自分の行きたいところに行くために単独行動したりしていた。当時から自分勝手だったわけである。

 そんな中、みんなの希望に合わせていたのが村上だった。村上も行きたいところがあったのに、それを抑えて、ほかの連中(私を含む)の行きたいところに付き合っていた。

 自分勝手が治らない私は「和の村上」をよく思い出す。

川崎には頭が上がらない

 高校2年の同級生・川崎は、小学2年からの友人で、一番古い付き合いだ。

 あれは鬼押し出しの辺りだったと思う。修学旅行でバスに長時間乗っているうちに私は酔ってきた。

 私の隣の窓際の席に座っているのは川崎だ。ヤツも酔っている。

 耐えきれず、川崎に嘔吐しそうなので窓際の席を譲ってほしいとお願いした。ヤツは酔って死にそうな表情のまま、すぐに席を替わってくれた。そのおかげで私は吐かずに済んだ。

 私が川崎の立場だったら「ワシも吐きそう」とか何とか言って窓際の席を死守したに違いない。

吉田に助けられた話

 高校2年の同級生・吉田に助けられたことがある。助けられたと知ったのはずいぶんあとのことだったが。

 そのころ私は高校でワイワイ楽しくやっていたので、気に食わないオニーチャンたちがいたらしい。で、「ニシノを殴ったる」という不穏当な声が出ていたらしい。

 それを聞いた吉田は「ニシノを知らんけん、そんなことを言うんじゃ。ええやつやぞ」と取りなしてくれたらしい。当時の吉田は野球部の主将である。私と違って人望が厚い。

 吉田のおかげで私はオニーチャンどもに殴られずに済んだ。吉田は私の命の恩人である。

人の何を見るか

 セミナーで先生に言われた。

「信頼できる人とお付き合いすることが大事だ」

 信頼できる人? 私は基本的に最初は疑わないので、この基準ではほぼ全員が当てはまる。

「信頼の基準って何ですか?」

 私の問いに先生は即答した。

「約束を守る人だよ西ちゃん」

 ああ。目からウロコが落ちてゆく。この基準に引っかかってしまう人の顔が相次いで浮かぶ。と同時に、逆にドカーンと浮かび上がってくる人たちがいる。私はいったい人の何を見ていたのだろう。

 続いて疑問は私に向かう。で、私は「約束を守る人」なのか、と。口約束だからとないがしろにしたことはなかったか、と。口に出したことを100%守ってきたか、と。

川村哲夫さんを偲ぶ

 今日は川村哲夫さんの命日である。私の『週刊金曜日』時代にお世話になったデスクだ。

 雑誌創刊間もないころにデスクとして着任され、私は大変かわいがっていただいた。元朝日新聞外報部記者として海外赴任歴が長い国際派だった。そんな川村デスクの指導の下、私は海外ネタの原稿を連発した。

 夜遅く会社を出たあとも「ニシノくん、いる?」と編集部に電話をかけてきて、「あのタイトルだけどね」などと仕事の話を振ってこられることが多く、周囲の部員から「川村さんに本当にかわいがられているね」と羨ましがられたものだ。

 忙しかったけれど楽しかった。いろいろな意味で社内が一番安定していた時期でもあった。

 ひょうひょうとしていて、淡々としていて、でも人のこころをきちんとご覧になっていて、今も私の脳には川村さんに呼ばれた「ニシノくん」の声とにこやかなお顔が残っている。 

その日を迎えるために

「浦和電車区事件」というえん罪に巻き込まれ、あろうことか有罪判決を受け、JR東日本を解雇された運転士の小黒さんは私の友人だ。

 小黒さんらはいま最高裁で闘っている。松川事件などのえん罪事件を手がけてきた後藤昌次郎弁護士や元外務官僚の佐藤優さんらが支援しているので実質無罪なのだが、最高裁の裁判官がどの程度頭がいいのか分からない。変な判断をする恐れがあり、油断できない。

 小黒さんの希望は、「電車の運転台に再び座ってハンドルを握りたい」、これだけなのだ。邪魔をする国家権力に人間を見る目はないのか。

 その日が来たら私は万難排して駆けつけ、小黒さんの再スタートの初電車に乗ることに決めている。

 小黒さんのブログを読んで、最高裁での勝利を目指して臥薪嘗胆である。
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