同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

本を買わなくなったら私は終わりだな

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 『風流夢譚』事件のときの編集者だった京谷さんとお付き合いがあり、晩年にいただいた年賀状が忘れられないというか私の指針の1つになっている。京谷さんは昔の本を読んでいますとお書きになっていた。

 新しい本ではなくかつて読んだ本を読み返す――。ここが1つの転換点になるのだろう。

 新刊が普通に手に入るのに安いという理由で古本を買うのはあまりにもケチくさく、しみったれている。興味があるのに新刊本を買うのを見送ったら私の目はもはや未来を見ていないというか、私の晩年になりそうだ。

 いずれ私はかつて読んだ本に戻るのだろう。そのときが来るのを無理に遅らせることもないけれど、読みたい本が多い。お金ないのに買ってしまう。

谷崎潤一郎の署名本

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 私がひれ伏す車谷長吉さんの署名と押印がある本を、熱に浮かされたように買い集めてきた。署名には魂が吹き込まれているに違いないからである。

 それが、ああ、谷崎潤一郎の署名本をヤフオクで見つけてしまった。谷崎を変態仲間として尊敬しているし小説は当然読んできた。その谷崎の署名本は私が知る限り非常に少ない。あったとしても「著者」と書いてあったり(何じゃそりゃ、でしょ)、「潤」を崩し字で書いてあったり(面倒くさがり屋なのかな)。谷崎潤一郎の5文字の署名の本はないこともないけれどその横には配偶者の松子さんの代筆という断り書きがあったりする(自分で書けよw)。

 で、この谷崎潤一郎の署名本である。

 谷崎が『毎日新聞』紙上に1939(昭和14)年から40年(昭和15)年にかけて連載した『少将滋幹の母』の単行本で、敗戦後の1950(昭和25)年8月の発行だ。発行元は、おお、毎日新聞社(大阪)ではないか。新聞連載時の挿絵も収録した限定本なので巻末には「限定版一千部ノ中第八百七十五番」と記されている。

 価格は900円。1950年の900円は破格だ。『昭和史全記録』(毎日新聞社)によると盛りそば15円、上野の地下街に浮浪者がまだ住んでいる時代なのである。

 というわけで、谷崎が収入を得るための豪華限定本なのだろう。であれば、谷崎が1000部くらい署名するのを嫌がるわけがない。とすれば、この谷崎潤一郎の5文字は谷崎本人が書いたに違いないと私は信じているのである。

読む本の幅を広げるために池澤夏樹さん編集の世界文学全集と日本文学全集と、さらには集英社の「冒険の森へ 傑作小説大全」を

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 死ぬまでに読み終えることができるかどうか自信がないので1冊ずつ買うことにした。池澤夏樹さん編集の『世界文学全集』(全30巻)と『日本文学全集』(全30巻)、それから集英社の『冒険の森へ 傑作小説大全』(全20巻)である。

 いずれも1巻から順番に買っていく。計80冊になるので、1年に10冊読むことができるとすれば8年くらいか。8年で読み終えることができるなら63歳くらいに読み終わっていることになる。遅くとも65歳という目処が立つ。まだ生きているかもしれないな。さっそく3冊同時に読み始める。

 舎弟3人のうちの1人が文学好きなので、私が死んだら喜んで全部かっさらっていくだろう。


 

 

 

名著『昭和史全記録』のあとの駄作『平成史全記録』

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『昭和史全記録』(毎日新聞社)は重宝した。事実を詳細に網羅しており、なおかつ編集が上手だった。私は原稿を書くときの確認などに使ったほか、ぱらぱらと読んでも面白かった。昭和という時代をいろいろな角度から掴み上げようとした名著である。

 というわけで、続編『平成史全記録』に期待した。期待した私が阿呆だった。

 いくつか挙げておこう。

(1)索引がない。資料本としてあり得ない失態だ

(2)出来事の網羅性が低い

(3)出来事の記述が素っ気ない

(4)どうでもいいコラムを多用しての水増し。この手の本はコラムを読むために買うのではない。事実を確認するために当たる本なのである

 毎日新聞社には『昭和史全記録』という名著があるのに、なぜこれを踏襲しなかったのか。紙質も悪い。出版までに十分な時間があったにもかかわらず、こんな駄作しか出版できなかったことに呆れる。

 昭和の63年余をまとめた『昭和史全記録』が1万2000円。平成の30年余をまとめた『平成史全記録』なら6000円でいいのに、3200円だって。

 読者を舐めているのか。編集者が莫迦なのか。手抜きなのか。予算がなかったのか。やる気もなかったのか。

 あーあと言うほかない。『平成史全記録』で例えばシャープや三洋電機、カルロスゴーンについて調べたい思った私はどうすればいいんだ? 1ページずつめくれってか?

 令和決定の号外を縮小して挟み込むくらいの知恵さえなく、『昭和史全記録』から何も受け継いでいない。毎日新聞社のDNAである継続性のなさ出たとこ勝負がそのまま反映されてしまった。

 数十年に1回しか出版する機会がない、しかもあとあと使い続けられる資料本だという自覚のない人たちがつくったんだろうなぁ。


現代の“極限の民族”

 打越正行さんの『ヤンキーと地元』が話題になっているると知って、数年前に土門拳賞を受賞した写真集『新宿迷子』を思い出し、さらに本多勝一さんの極限の民族三部作が頭に浮かんだ。すべて同じジャンルとして串刺しにできる。そのジャンルは“極限”である。「極限」ではなく“極限”ね。

 内部のことを外に向けて発信することなど考えたこともない人々が棲む狭い世界がある。その狭い世界に棲む人々は外に向けて伝える言葉やカメラなどの手段を持っていない。持っていたとしても外に向けて伝えようとは思わない。

 その狭い世界に外部から言語やカメラなどの手段を持った人が入っていき、そこから記事や本、写真にして外に向けて発信したのが上記の作品に共通する。

 その狭い世界に棲む人たちは「え? わしらの日々が珍しいんか?」とびっくりする。「これ、わしらには普通なんやけど」と言ってこちらを不思議そうに見る。

 狭い世界は知識教養嗜好階層の餌あるいは慰み物になる。

 本多さんの極限の民族三部作の現場に今では誰でも行けるぶん価値が落ちてしまった。知識教養嗜好階層は日々に飽きるのが早いので、いつも新しい“極限”を探す。その網に引っかかったのが『新宿迷子』や『ヤンキーと地元』などが見せてくれる狭い世界なのである。

 これは小説の世界にも当てはまる。書くべき対象はもうほぼ書き尽くされている。古くは『太陽の季節』がそうだ。あの時代の最先端の湘南の若者の世界に慎太郎が入って行って「こんな若者いてまっせー」と小説にして向かって発信した。

 次はどの世界が餌食になるのか。

 表現者は日々探している。自分のために。

谷崎潤一郎のモデル死去

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 谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』のモデルだった渡辺千萬子さんが89歳で亡くなった。という事実より、訃報記事を見て「生きとったんか」と驚いた。

 谷崎から見て義妹の息子の配偶者が千萬子さんである。

 谷崎76歳のころ千萬子さんに書き送った手紙が残っていて、創作力があるのはあなたのおかげと絶賛している。ミューズというところだろう。

 生きる意欲や仕事に向かう熱は何から生まれるのか、谷崎が分かりやすく見せてくれた。枯れてはいけないという示唆である。と我田引水。

 千萬子さんとの出会いのおかげで私たちは『瘋癲老人日記』を読むことができる。ミューズ千萬子さんの死去を悼む。

芥川賞の選評が笑える

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『文藝春秋』3月号は芥川賞受賞作を2つ載せた。大変面白いのは選評である。とりわけ『平成くん、さようなら』に対する酷評は芸の域を超えている。

 山田詠美さんなんかは<やれやれ……平成くん、さようなら>だって。著者はは小説家志望ではない学者だから何と言われても傷は浅いだろうが、木っ端みじんの感がある。

 この号で面白く読んだのは清武英利さんが書いた糸川英夫のノンフィクションと養老孟司先生のAIにまつわる原稿だ。糸川博士の生き方には「そこまでやっていいのか」とたじろいだ。私なんかまだまだかわいいもんだ。

本を贈りあう

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 車谷長吉さんの『赤目四十八瀧心中未遂』と日垣隆親分の『脳梗塞日誌』『折れそうな心の鍛え方』を差し上げたら、お返しにこの3冊をもらった。

『コルシア書店の仲間たち』は読みたいと思っていた本なので歓喜したし、ふるさと徳島出身の瀬戸内晴美寂聴さんの小説も関心を持っていたところ。本を選ぶのも才能と相性がある。

 女性と本のプレゼントをしあうのは1つの夢だった。と日記には書いておこう(←古いな)。

車谷長吉さんに始まり車谷長吉さんで終わった2018年

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 一時期狂ったように車谷長吉さんの署名本を漁った結果がこれ。同じ本でも構わず落札したり買ったりした。ざっと20冊。

 車谷さんに首根っこをつかまれて連れて行かれるのは賽の河原か奈落か。

 さかしらに反吐が出る私には阿呆がよく似合う。2019年は愚かしさを追求して、阿呆を極めるノダ。

麻原彰晃の最期を伝える記事

 麻原彰晃こと松本智津夫はどんな最期を迎えたのか。

 巷間伝えられているのは概ねこんな内容だ。以下は『AERA dot.』から。

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 (前略)死刑執行を告げた。

「麻原元死刑囚は、暴れたり、声を発することはなかった。だが、前室で目隠しをされ、両足を固定されたときには死刑が現実のものとわかったのか、顔がやや紅潮してみえたそうです」(前出・法務省関係者)

 そして、麻原元死刑囚は刑場へと消えたという。
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 新聞各紙も当時似たような内容を報じていた。そんなに粛々と消えていったのだろうか、信者への影響を考えると麻原がもし暴れていたとしても当局はこう言うしかないだろう、などと疑問を抱いたが、それ以上の報道はなかった。

 ここに来てようやくと言うべきか、麻原の全く異なる最期を伝えた記事が出た。

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 「何をする。バカやろう」と泣き叫ぶなど動揺著しい麻原の身体を、刑務官が後ろから羽交い締めにしてアイマスクで目隠しし、後ろ手に手錠をかけた。四人がかりで抱き上げるように死刑台の上に立たせ、ロープを首に巻き付け、足をひざ下で縛る。
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 一橋文哉さんの連載「もう時効だから、すべて話そうか」である。小学館の『本の窓』の10月号だったか9月号だったか。

 これが本当の話だとしたら、麻原らしい最期なのだが、意外なくらい話題になっていないのが不思議。

車谷長吉さんを追いかけて見つけた『とい』と『三田文学』

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 いろいろな単語で検索すると、それまで未発見のものを見つけることがある。その1つが『とい』第5巻第1号(書肆とい・1991年3月発行)である。奈良の古本屋にあったので送ってもらった。

 この数カ月前(1990年12月31日)に高橋順子さんは車谷長吉さんの訪問を受け、曙橋駅近くの喫茶店で向き合っている。何も語らず不気味だった車谷長吉さんと店を出たとき「こんな澄んだ目の人は見たことがないと思った」のだった。車谷長吉さんの存在を明確に意識した時期の『とい』である。

 もう1冊は車谷長吉さんの没後1年過ぎての『三田文学』127号(2016年11月発行)だ。三田文学会のサイトで注文した。慶應義塾大で車谷さんの後輩だった前田富士男さんと新潮社編集者として育てた前田速夫さんの対談は車谷長吉さんの死が事故かそうでないかというすさまじい話から始まる。私は前田富士男さんの見解に近い。

 というわけで、車谷長吉さんと高橋順子さんを追いかける読書が続く。

『評伝小室直樹』の著者に敬意を表する理由

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 外連味があるせいかそういう見方をしていたけれど、私の先入観が間違いだった。正真正銘の学者だったのだ小室直樹さんは。

 その評伝を書いた村上篤直さんは弁護士。小室さんの本を古本屋で買い漁ったそうだ。同じ本でも買い集め、同じ本が20冊くらいに達したこともあるとか。

 そこに私はうなった。そこまでやるかと。執念だ。

 私は車谷長吉さんの署名本を買い漁ってきて、署名本だけでいつの間にか20冊近くになっているけれど、同じ本は3冊計6冊しかない。同じ本は買わないようにしているからだ。

 しかし本書の著者は同じ本でも買い集めた。ということは(というのも変だが)私も見ならう、ことになるのか?

中村文則さんと又吉直樹さんのトーク

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 中村文則著『あなたが消えた夜に』(毎日文庫)創刊記念の又吉直樹さんとのトークに行って驚いたのは会場の男女比である。ざっと見た感じだが女性が85〜90%を占めた。先日の村西とおる監督の比率の逆である。

 これだけ大勢の女性のお目当ては中村文則さんなのか又吉直樹さんなのか? あるいは両方なのか?

 この2人を見た瞬間に私の脳に浮かんだのは車谷長吉さんだ。芥川賞候補になること2回。圧倒的な小説なのに落とされ、こころを病んだ。『赤目四十八瀧心中未遂』で直木賞をもらったのは53歳ごろだった。『赤目』はもとより、車谷さんの芥川賞候補作2編が中村又吉作品より劣っていたとはどうしても思えない。車谷長吉派(派なのか?)としては「あんたらラッキーやったね」という複雑な思いで2人を見た。

 さて。質疑応答の時間である。つい「はい!」と元気な声を出して手を上げたのは私だけだった。ほかの人は黙って手を上げている。手を上げるとき「はい!」と声が出てしまう私は小学生並みの頭なのかもしれないな。

 司会の女め、私を指さなかった。4〜5人指されたのは通路側に座っていてマイクを渡しやすい座席にいた人ばかり。私は20人席の真ん中だったので、マイクの受け渡しの時間を考えて避けたのだろう。

「登場人物にどれくらい実在のモデルがいますか。自分の経験をどれくらい使いますか」「新潮社や文藝春秋に比べると毎日新聞社には文芸の編集者がほとんどいないと思うのですが、新聞連載で編集者が役立たずで困るのではありませんか」「又吉さんの連載『人間』は観念論に陥っていると思うのですが、又吉さんはそう思っていないのですか」。この3つを聞きたかったんだがなぁ。

読書の秋に積ん読本を数えてみたら

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 次女が怒っている。「何で畳の上に本の山ができてるの!」「何で食卓に本の山ができてるの!」

 知らんがなと言いたいところだが、まだ読み終えていない本を置いてあるだけである。

「読み終えてから買えばいいのに」とご立腹の次女。

 読書の秋という惹句があるけれど、読書は一年中するものであって、秋の特権ではない。だから本がたまる。「読み終える本」より「読みたい本」が多いからこうなる。

 念のために(?)積ん読本を数えてみた。雑誌類を除くとたぶん80冊くらい。古本を加えたら100冊を超えることが分かった。げげげ。そんなにあるのか。数えてよかった。数字で把握するのは大事だなぁ。

 読む時間が足らないのもたまる原因である。

「お父さん、火をつけたらこの部屋はよく燃えるよ」

 <父親の積ん読本を嫌悪><娘が放火><父親焼死>。こんな見出しの記事が目に浮かぶ。読書週間に放火すれば社会面トップか?

古本で買った車谷長吉『妖談』に挟まれていた詩

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 止まらなくなってしまって車谷長吉さんの古本をヤクオフなどでバタバタと買い漁ったら、別々のところから『妖談』が2冊届いた。ありゃりゃ。

 ページをめくっていたら紙片が2枚。逝った男への愛が強い筆圧で記されている。

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 本物か創作か。筆圧を見ると本物かなと思ってしまうが、そこは罠だろうというのが私の見立てである。車谷長吉さんの単行本を読む女は恐らく一筋縄ではいかない。その前提で見ると、誰かが買って読むことを想定したお遊びだろう。本物なら本に挟むまい。

 本物かと一瞬思ってしまったので、ほんの少しの時間楽しめた。どこのどなたが存じませんがありがとね。

ニワトリは

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 庭には二羽鶏がいる。早口言葉なのかどうか知らないが、小学生のころ叫んでいた記憶がある。

 そのニワトリである。

 東京大名誉教授の西垣通さんは米国留学の前に英会話クラスに出た。そこで<ちょっとした出来事があった。討論テーマはフライドチキンである。カボチャ頭の日本人が味付けについてくどくどと話すので、いらついた私は思わず「鳥もライフだからね。そこを考えないと」と口を挟んだ。すると相手は「ノー、フード」と大声。そのとたん、私の血は逆流し、英語でののしりの言葉を投げつけた。相手はよく分からなかったのかポカンとして、場の空気は白けるばかり>=10月2日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)特集ワイド「読書日記」。

『ニワトリ――人類を変えた大いなる鳥』という本があるそうな。ニワトリは賢く、簡単な計算や顔の識別、論理的推論、複雑な相互コミュニケーション、そして自制心を働かせて他者に共感することもあるという。

 こんな本があるとは知らなかった。10年以上の寿命があるのに6週間で太らされて食肉処理されるニワトリに興味がわく。読まなければ。

 フライドチキンというテーマを前に「ライフだ」と喝破した西垣先生、やるなぁ。私がしびれたのは、ニワトリの首のひねり方を父によく聞いていたからだろう。それこそ昔は庭に飼っていて、親の指示で首をひねっていたという。最期に「コケー」というひと声を残すという話が印象に残っている。命なのである。

車谷長吉さんの署名落款に惚ける

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 のめり込む。陶酔する。べた惚れ。畏敬の念を抱く。狂う。ひれ伏す。私の車谷長吉さんに対する態度である。

 2015年に亡くなっているのでお目にかかることはできない。そこを何とかできないか。あ、もしかしたら色紙や署名本があるのではないか。

 というわけで、古本屋サイトやオークションサイトで熱に浮かされたように注文した。届いた本を数えると計5冊。『阿呆者』は署名落款こそ入っていないがすでに持っている(笑い)。直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』は文庫本を持っているが、署名落款本は単行本の初版である。万感の思いを抱いて署名したに違いないと思ったので、ちょっと高かったが喉から手が1000本ほど出て買ったしもた。札幌の古本屋から送られてきた『文士の魂』はどう見ても未読の本である。私にはありがたいけど、どうなってんのよ。

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 この際車谷長吉さんの署名落款本も色紙も全部買い集めるかというオソロシイ誘惑の声が頭の中から聞こえてくる。藤澤清造の墓標を自宅に祀る西村賢太さんの足元にも及ばないが、一歩間違うと走り出してしまいそうな予感がして怖い。

 中には進呈された人の名前が入った本まで売られていて、こういう罰当たり者は100舐めの刑に相当するぞ。

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 今回手に入れた『贋世捨人』の落款がほかの単行本の落款と異なる。これはなぜなのか。文庫本と単行本で分けているのか。手間暇掛けてもそれだけ儲かるとは思えないから、偽造ではあるまい。理由を知りたいがご本人は黄泉の国。そのうち会えるのだろうけれど、この世でお会いしたかった。

 車谷長吉さんに会うために根津千駄木をまた歩こう。


 

 

 
 

追悼『新潮45』

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『新潮45』にかつて原稿を2回載せてもらった。当時の担当編集者が今の編集長で、たまたまちょっと前に会いに行って雑談したばかり。それだけに私は大変複雑な思いで事実上の廃刊に至るまでの推移を見てきた。

 佐藤オーナー社長は声明で<あまりに常識を逸脱した偏見と事実認識に満ちた表現>と指摘し、新潮社のサイトは「休刊のお知らせ」で<ここ数年、部数低迷に直面し、試行錯誤の過程において編集上の無理が生じ、企画の厳密な吟味や十分な原稿チェックがおろそかになっていたことは否めません>と背景を語った。

 部数を気にしない編集長はいない。何とか上向きに持っていきたいという気持ちがないわけがない。何か話題になるものをと私でも考える。

 掲載した原稿に外部から批判が来た場合、まず守ろうとするのが編集者の立場である。手のひらを返して批判に回る編集者や雑誌を書き手は信用しない。つまり『新潮45』は最初の原稿を、恐らくは暴論と分かっていながら、守ろうとした。編集者としてまことに正しい。少し横道に逸れるが外部から批判が来たら腰砕けになって勝手に土下座してしまう新聞社部長は爪の垢を煎じて飲むべきであるな。

 暴論は暴論で論争すればいいのだが、昨今みんな余裕がないというかすぐに足を引っ張る。どんな暴論であっても、どうしようもない原稿であっても、言論には言論を、ではなかったか。そこを端折ってしまった佐藤オーナー社長の判断は果たして正しかったのか。それこそ『新潮45』を舞台に甲論乙駁をやってみせればよかった。

 私が『週刊金曜日』の内幕ものを50枚載せてもらって本多勝一さんらを批判したとき、連日のように反論を書かせろと連中が編集部に言ってきた。しかし私が完全に勝つ内容だったし、私は本多さんと違って無名のチンケだし、しょせんはコップの中の嵐だし、というわけで盛り上がらないだろうなぁと当時の編集長が判断したのだろう、相手の反論を載せず、論争に至らないまま終わった。今回の“盛り上がり”を見るとその判断にあらためて納得する。それほどの“ネタ”でもあるのに、オーナー社長の鶴の一声で事実上の廃刊に追い込まれたのは残念である。

『新潮45』を批判するのは簡単だ。小川栄太郎はどうしようもない阿呆と言わざるを得ない。しかし私はこの雑誌に恩がある。今のこの救いがたい状況を見ると、私は批判に加担しない。

 開高健の好んだ言葉の1つ、<漂えども沈まず>を編集者に贈ろう。

 皮肉なことに『新潮45』10月号は完売である。

ああ『大東亜戦争肯定論』

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 新幹線の4Cに座っている私の横に来た男性が乗車券を私に見せる。

「あれ、同じ4Cですね。私もほら」

 ポケットから乗車券を取り出して男性に見せる。

 同じ新幹線、同じ車両、同じ座席。なんで? 重複発券か?

 その男性の乗車券をさらに見ると乗車区間は「名古屋−東京」。ここで、私は夢から少し覚める。え? 

「ここは何駅ですか?」

 窓の外を見ると名古屋駅。げげ。乗り換え駅だ。降りないと。網棚のスーツケースを慌てて下ろし、リュックを背負い、手提げを抱えてとにかく外に。出た直後に文庫本を座席の前の網に忘れたと気づいたが、取りに戻るわけにはいかない。ドアが閉まり、新幹線は発車した。乗り越さずに済んでよかったと喜ぶべきなのだろう。

 帰宅後JR東海のサイトから問い合わせたが、文庫本は見当たらないという返事。車両も座席も分かっているのにないということは、名古屋駅から乗ってきたあのおっさんが捨てたのだろう。あの野郎と怒ってもどこの誰だか分からない。

 そもそもここで寝てしまうとまずいと思いながら京都辺りから寝てしまった私が不覚だった。この本を手提げに入れておかないとと新大阪辺りで一瞬思ったのは予知だったのかもしれない。

 文庫本はどこかに行ってしまい、カバーだけが自宅に残った。半分くらいまで読んで、線を5カ所くらい引いてあったのに(無念の涙)。もう一度同じ本を買う。喜べ中央公論新社。

 

 

ヤクオフで署名本ばかり大量に扱うkameさん

 kame55statさんは何者なのだろう。国内外の署名本を膨大に出品している。多くが新刊だ。漫画もグラビア系も車谷長吉さんも高橋順子さんも大江健三郎さんも北杜夫さんもあった。大竹しのぶのサイン入り『アエラ』もあった。

 何かそういう特殊なルートがあるのだろうか。私はこのIDをフォローしているので、ヤクオフに出品があるたびにどどどどとメールに届く。

 ひれ伏したいほどのファンになるとサインがほしくなるもので、その心理を狙って署名本だけ扱っているのだろうけれど、仕入れ費用がばかにならないのではないか。それとも売れたら払うのかな。

 もしもしkameよkameさんよ。あなたはだぁれ?

中島敦『山月記』と17のココロ@日本近代文学館

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 中島敦『山月記』とその時代。日本近代文学館で8月25日まで開催中の企画展をのぞいた。

 この小説は高校2年の国語教科書で読んだ。未だに記憶に残っているのは内容の激しさだけではない。同じクラスのきれいな女の子から「性、狷介、自ら恃む所頗る厚くって、この主人公ニシノくんみたいやな」と言われて軽いショックを受けたのである。

 紅顔の美少年、こころ優しい純朴な少年のワシによくまぁそんな失礼なことを言うたなと長年納得がいかなかった。少なくとも私は「性、狷介、自ら恃む所頗る厚く」ではないと当時思っていたから、到底受け入れることができなかった。

 しかし、言葉は発信者の意図通りに受信者が受け止めるとは限らない。受信者が違和感を得たら「どういう意味?」と聞くべきで、そこで意見のやり取りをしてズレが小さくなる可能性がある。私はそこを怠ったので真意が分からない。もしかすると彼女はワシを高く評価して褒めるつもりで言ったのかもしれないわけで。数年前に彼女とお茶を飲んだ際に聞いておくんだった。しかし「そんなの言うたかなぁ」と返されるのがオチなので、二重に傷つくことを恐れたワシは聞かなかった。というのはウソで単に忘れていただけだ。

 などと思いながら展示を見て回った。中学生くらいの子供から大学生くらいまでの若い子がやけに多い。人気があるのか夏休みの宿題なのか。

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 帰る前に1階の喫茶室に立ち寄る。その名もBUNDAN。入口にはこんな掲示が出ていてワクワクする。私が座ると満席になった。ざっと見渡すと私が最高齢である。どゆこと? 近所の東大生が来ているのか?

 車谷長吉さんをやってほしいぞ。

芥川賞を『美しい顔』が受賞する理由

 2回書いたので最後にまとめを。芥川賞を受賞するのは『美しい顔』である。根本先生はずいぶん前からそう言っていたし、私も読んで納得した。ほかの候補作を読んでいないが、この小説がどうしても受賞しなければならなくなったのは幸か不幸か。

(1)読者を引きずり込んで押し倒すほどの表現力がある

(2)ノンフィクション派からの批判に対して、文学派は反発バネを抱かざるを得ない。選考委員は小説家の集まりだから、文学派の誇りにかけて受賞させる

(3)批判にさらされたことで話題性が出て、受賞したら作品の良さもあってよく売れると選考委員が考えないわけがない

 身体性の強い『美しい顔』だが、終わり方は高樹のぶ子さんの『光抱く友よ』を彷彿させる。名著として後世に読み継がれる文学だ。

彼女、がんなの?

『科学のミカタ』という本の書評に<最終章は記者として、家族として、患者としてのがん体験記だ><診断から術後までうろたえながらも克明に記すのは科学記者ならでは>とある。7月15日付『毎日新聞』である。

 え、がんなの?

 この本の筆者と私は同期入社である。入社前に私は沖縄に住んでいたので入社前研修は西部本社に集められた。のちに開高健賞を受賞する藤原さんもそこにいて、福岡に住んでいたらしい彼女もそこにいた。今から思えば優秀な人材が西部本社にそろっていたのだなぁw。

 当時の編集局長白根さん(?)のひと声で研修としてヘリコプターに乗ることができた。確か彼女と一緒に関門海峡の上空を飛び、門司を見下ろし、小倉の上空でホバリングされてビビッた。そういえば編集局長が私の隣にいてはしゃいでいた。

 この書評を読む前に、親しい女友達から「しばらく入院します。退院したら連絡します」と携帯メールが来ていた。まさかと思うが、真っ先にうかぶのはがん。 

 そういう年齢だと私が開き直る立場ではない。今どき全然珍しくないと平然と言ってのける度胸(無神経さ?)もない。ただおろおろ。ワシは宮澤賢治かっちゅうの。

「一病息災と言うではないか。死ぬにはまだ早い。絶対死ぬなよ」と同世代の友人誰彼となく言って回りたくなる今日このごろ。

芥川賞候補作『美しい顔』盗用問題を乗り越えて

 芥川賞候補作『美しい顔』は純文学である。その純文学が参考にしたのがノンフィクションだった。問題がこじれた原因はここにある。活字で表現するという点では同じだが、純文学とノンフィクションは“文法”や作法が大きく異なる。かみ合うわけがない。

 それにしても、だ。北条裕子さんの筆力よ。圧倒された。ぐいぐいぐい。すごい力で引っ張られた。本書が芥川賞を受賞するという根本先生の予言に100パーセント同意する。

 芥川賞は純文学に授与する。『美しい顔』は授与されるべき価値がある。

 北条さんは辞退すべきではないし、選考委員は盗用問題を棚に上げて本来の姿勢で検討すべきだ。そういうことも含めて文学なのだから。

最後に何をなすべきか

 早瀬圭一さんが青山学院大・青木教授事件を追跡した『老いぼれ記者魂』はまだ読んでいない(何のこっちゃ)。3月11日付『朝日新聞』の書評欄で評者の原武史先生が<人生の終わりが近づきつつある。最後に何をなすべきか――。こう自問した早瀬圭一の前に、改めて毎日新聞の記者だった時代に取材した一つの事件が浮かび上がる>と書き起こした。

 読まんといかんなーと思いながら、意図的に記憶の隅に追いやっていた“事件”がものすごい力で私の頭の目立つ位置にへばりついた。私が最後になすべきはあの“事件”の取材である。

 今は一歩も動くことができない。関係者が殺されている可能性が高く、それは私ともう1人の責任だろう。殺されていたと分かったら私はどう責任を取るべきなのかという覚悟を決めておくのもちょっと怖い。

 あの“事件”が頭に浮かび上がるたびに私は悲鳴を上げそうになるのだが、私の悲鳴ごときは殺された可能性がある人にとってどうでもいいことだ。私が生きているうちに取材する機会が来ることを願う。

実に便利な本の横断検索サイトがある

 本を一括検索するサイトである。今まで個別に紀伊国屋書店やジュンク堂丸善やアマゾンやスーパー源氏で検索していたが、このサイトならまとめて検索できる。

 このサイトを私はつくることなどできないが、キーワードを入れておけばネットを巡回して集めてくるサイトだかソフトだかがずいぶん前にあったから、そう難しい理屈ではあるまい。今までなかったのが不思議というべきか。

 書籍横断検索システムである。さっそく「車谷長吉」で検索している。このサイトの存在を教えてくれたのは『家電批評』5月号である。『モノクロ』と同じ出版社が出している。役立つ雑誌である。

『新潮45』5月号なら

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 好きな小説家を挙げると大勢出てくるので、最近は「野坂昭如と車谷長吉」と絞ることにしている。どちらも一筋縄で行かない、魂の闇を抱えてうめき続けた小説家で、そういう小説家に魅了されるのは私が無邪気だからだろう。

『新潮45』5月号を買って真っ先に読んだのは高橋順子さんの「いないけど、いる人」である。夫・車谷長吉さんを語った。<この人は結婚前は猫をかぶっていて、紳士的でしたが、結婚後は正体を現し、悪口三昧>と書くことができる配偶者を得た車谷長吉さんはしあわせだったに違いない。

 ふと思いついて『赤目四十八瀧心中未遂』の最初を読んでみた。いきなり不穏当な世界に引きずり込まれる。『盬壺の匙』の書き出しは<今年の夏は、私は七年ぶりに狂人の父に逢いに行った>で、やはり不穏当な空気に包まれる。薄暗い雲が頭上に広がって陽光が遮られてゆくような、胸騒ぎが収まらないような。

 そこがいいんだろうなぁ。でもって、そういう小説家だから高橋順子さんに惹かれたのだろうなぁ。

広島の本屋にやっぱりあった世界文学全集の『苦界浄土』

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 アマゾンで入手不可能になった本は広島市内の本屋でたいてい手に入る。世界文学全集に収録された石牟礼道子さんの『苦界浄土』(河出書房新社)もそうだ。

 まだまだ在庫はあるだろうと買わずにいたら、石牟礼さんが亡くなって興味を持つ人が増えたのか、いつの間にか売り切れになっていて、定価4100円の本なのにアマゾンで「新品」や「古本」を買おうとすると6000円から1万円ほどする(涙)。

 こういうときこそ広島市内の本屋である。人口100万のこの都市に紀伊國屋書店と丸善、ジュンク堂がある。3つとも大型店舗だ。3つを回ってみたら3つとも『苦界浄土』が置いてあった。その中で本の状態が最もいいジュンク堂で買った。よっしゃ。

 問題は読む時間である。毎日本を読むほど優雅な生活をしているわけではないので、乗り物に乗っている時や電車の待ち時間に読むしかない。積ん読本が増える一方なのだが、読まなければ笑われるのだ。私の友人たちは仕事をこなした上で本をべらぼうに読んでいて、「仕事関係の本を読むのは当たり前や。しかしそれだけしか読んでない奴は単なる阿呆やんけ。お前はやっぱり阿呆や」と口をそろえて言い募る。親しき仲には礼儀なし。そこまで言うか、おい。

 言われるまでもなく私が阿呆であることは認めるが、あいつらは一体いつ本を読んでいるのか。激務をこなしながら本を読む時間をどう捻出しているのか。「お前とは集中力が違う」とか「お前が女のケツを追いかけている時間にワイは本を読むんや」などと笑われそうなので、『ウサギとカメ』の昔話を励みに読むしかないのであった。しかし、そんなことを言ったが最後「ワイはウサギみたいに昼寝せーへんで」と反撃されそう。

『新潮45』3月号なら

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 特集「『非常識国家』韓国」の中の「歪んだ教育が生む『選民意識』の国民たち」は韓国の選民思想教育を紹介していて面白い。筆者は元時事通信ソウル特派員。1949(昭和24)年生まれの人なので、記事の中の挿話がどの程度今も普遍性があるのか気になるけれど、教育の影響の大きさをあらためて思う。中国だって似たようなものだろう。

 地方紙を追う小田嶋隆さんの連載記事はいつも面白い。1月号だったか2月号だったか、『京都新聞』を取り上げた記事は忘れられない。京の誇りを“教育”する新聞なのであった。

 3月号は『上毛新聞』だが、紙幅を割いたのは朝日新聞社の社内報『朝日人』についてだ。

<朝日新聞社の社員以外は誰も読まない雑誌に、あれほど精度の高い原稿が目白押しに寄せられているのは、あの会社が日本中から集めてきた優秀な書き手に、然るべき仕事を与えていないからなのだ。つまり「朝日人」の異様な充実ぶりは、日の目を見ることなく社内でくすぶっている2000人の記者たちの鬱勃たる筆力の反映だったのである>

<大新聞の記者は、高い報酬と世評を与えられる一方で、たいした仕事量を期待されていない>

<朝日新聞や読売新聞のような会社が、日本中から優秀な素質を持った学生をかき集めて。その有能なライターの卵を40年がかりで飼い殺しにしてくれているからこそ、われわれのような凡庸な書き手にも仕事が回ってくる>

<新聞社の人間は、なんだかんだと忙しそうにしてはいるものの、結局のところ、高い給料をもらって高等遊民みたいな暮らしをしている人たちだった>

 相当の僻目だと思う部分もそこそこあるし、毎日新聞社と産経新聞社、日本経済新聞社は事情がちょっと違うと思う部分もあるが、「高等遊民」という点で大きく頷いた。「高等遊民」が生活費を稼ぐことができる数少ない職場の1つが活字業界だろう。「高等遊民」が逍遙する職場はどこも縮小しているから厳しい時代になってきた。

 被災者支援のための仮設図書館を担当した人から取材した「『虹のライブラリー』はこうして閉鎖した」は一度も大手マスコミで報じられていないはずで、書いたのは『エンジェルフライト』や『紙つなげ!』で知られるノンフィクション作家の佐々涼子さんだ。大組織に属していないから飼い殺しにされていない典型例である。

お買い得『文藝春秋』3月号

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 芥川賞受賞の2作品を掲載したので買うつもりだったが、勝るとも劣らぬ原稿がいくつもある。

 まず「新聞販売店主はなぜ自殺したか」。毎日新聞社も冷たい会社だなぁ。情けは人のためならずを知らんのか。

 藤原正彦さんの「小学生に英語教えて国滅ぶ」は題名そのままの内容で、小学生に中途半端な英語を教えても混乱を招くだけだと私は確信する。藤原先生は「一に国語、二に国語」と主張していて、全く同感である。私は自分の子供たちには新聞を強制的に読ませ、読んだ記事にはマーカーで囲ませた。3人が別々の色で囲むから、夜になると色とりどりの新聞紙になる(笑い)。私の目論み通りこの方法は学力向上に確実に役立った。というような宣伝を新聞協会がやればいいのに。国語力をつけるのに新聞は効果がある。

 それから最も印象に残ったのが「自裁死・西部邁は精神の自立を貫いた」。あの日の衝撃は忘れられまい。起きて数時間後にニュースで知った。西部邁さんが入水したころ私は温かい布団に包まれて熟睡していたこともあり、不意にキリで腹を突かれたような感覚を得た。

 誕生を自分で制御するのは不可能だが、死は制御することはできる。西部邁さんの自裁死を知って、「ワシはこの方法でいくか」とあらためて決意した人は何十人もいるのではないか。腐臭立ちこめる中魂の尊厳を守るための死は褒められてよい。

石牟礼道子さん死去

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 石牟礼道子さんは『週刊金曜日』編集委員だった。石牟礼さんや井上ひさしさんは編集委員だったのに誌面に一度も登場しなかった。井上ひさしさんが登場しない理由として、盟友の大江健三郎さんを本多勝一さんが批判していることを手紙か何かに書いてきたと記憶する。

 石牟礼さんが登場しなかったのもそういうことなのかどうか分からないが、編集委員と編集部員の関係でありながら完全に無関係だった。なぜ編集委員になったのか、和多田さんの上手な誘導があったのだろうけれど、本当の話は分からないまま終わった。

 その石牟礼さんの世界的な文学『苦界浄土』を読まねば読まねばと思いながら未だに買ってさえいない。時々思い出してはアマゾンで注文するかなと考え、しかしこれ以上積ん読本を増やしたら山崩れを起こすだけだというためらいから、控えてきた。

 そんなところにこの訃報だ。こういう波に乗りたくないのだが、いま乗らなくていつ乗るのか、ということだな。私の友人たちはとっくの昔に読み終えていたりするので、「まだ読んでないのか?! うそだろ?!」と笑われそうで恥ずかしいのだが、せめて注文だけでもするか。

読ませる講談社PR誌『本』

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『本』11月号で読み応えのあった原稿を挙げると――。

『知ってはいけない』(講談社現代新書)筆者の矢部宏治さんと田原総一朗さんの対談で日米地位協定の恐ろしい状況を知った。本書を読まなければ。

 下重暁子さんの連載「その結婚、続けますか?」が本になったら長女次女に読ませるので必ず本にしてくれ。今回は「変化を恐れる男、翔んでみたい女」である。下重さんはお連れ合いと<いつ別れても一人で暮らせる準備を常にしていた>そうで、これは「私は男にぶら下がるつもりはない」と宣言した、というか私がそうしつけたのだが、長女を支えるだろう。キャリアウーマンが定年を迎えて離婚し、学生時代に学生運動を一緒にやった男と暮らし始めたという話は相当刺激的だし、山尾さんやベッキー、斉藤由貴さんらの婚外恋愛について「好きになったらしょうがいないでしょ」とテレビで言い切ったのも参考になるだろう。

 女は翔んでいいのである。男も翔んでいいのだが、ほとんど翔ばない。翔ばない男は置いてけぼりを食うわけで、まぁ仕方ない。というわけで、私はムスメに「もっと翔んでいい」とけしかけるノダ。

 田中秀征さんの連載「『戦後保守』二つの源流」は田中角栄の回顧に入っていて、角栄を「創業政治家」と位置づけて二代目や三代目の増殖する今の政界を照射する。

オンデマンドで本を買う

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 これを待っていた。手に入らなくなった本でもオンデマンドで印刷すれば1冊から買うことができる時代がようやく来た。嘉村礒多の本をやっと手に入れたのである。

 嘉村礒多の小説を集めて講談社文芸文庫が1998(平成10)年に出版した。アマゾンや出張先の広島の本屋などで探してきたが、見当たらない。アマゾンで見ると1万円以上の値がついていたりする。1935(昭和10)年出版の古本はたまにアマゾンに出るのだが、古さを思うと手を出しかねた。

 そんなとき青空文庫のデータをオンデマンドで本にして買うことができると知り、慌てて(慌てなくてもいいのだが)注文した。1冊わずか数百円である。

 

また2冊買うてもた

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 以前買ったことを忘れて同じ本をまた買ってしまうよりシンコクかもしれない。アマゾンで同じ本を2冊買ってしまったようだ。「ようだ」と書いたのは2冊注文した覚えがないからである。まいったな。

 アマゾンの箱を開けてこの本が2冊入っているのを見てさすがに「うっそ」と声が出た。

 お前は知性がないので2冊読めという啓示と受け止めて精進するか、脳の劣化を認めるか。後者が楽だな。


 

同じ本をまた買うてもた

 
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 自己嫌悪に陥る理由は(1)無駄遣い、(2)記憶力の低下を疑う、である。

『教養としてのドン・キホーテ』を2冊買うカネがあれば文庫本全巻を買うほうがまだまし、でもないな。岩波文庫で全6巻、これを読み切るのにかかる時間を考えると二の足を踏む。そこで、買わずに済むようにとこういう安直な本に手を出してお茶を濁そうとして失敗するわけだ。

『ドン・キホーテ』を読もうと思ったきっかけは、沖縄・名護在住の輿石先生を取材した時に遡る。学生運動に身を投じた大学生が就職活動となると背広を着て企業に入ってゆく“柔軟さ”を輿石先生は持っていなかった。恩師の鶴見俊輔さんが就職先(大学の教職)を持ってきたのに、筋を通した。代ゼミで人気講師になったにもかかわらず、沖縄に移住し、名護高等予備校を設立し、基地問題に関わり、自然学校を切り開き、基地容認派から激しい嫌がらせを受け、生徒が激減し、という歩みの中で、何度も何度も名護の山で読み返したのが『ドン・キホーテ』だった。

 詳しくは私の名著『沖縄に恋する』に譲るが、以来ずっと私も読もうと思い続けてもう15年以上経つ。これではいかんな。買うか。買って積んでおけば順番に読むだろう、か? 


 

違和感のある書籍広告2つ

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 まぁ別にどうでもいい話なのだが、奇妙だなぁと感じたので書いておく。共通するのは書籍広告で、著者の肩書きに私は違和を感じた。

 1つは『東芝の悲劇』(幻冬舎)。著者の大鹿さんの名前の上に「ジャーナリスト」「朝日新聞記者」の2つを並べている。両者を独立させて列記する理由が何かあるのだろう、か。私にはナゾだが、どうでもいいので解く気はない。

 本多勝一さんは「ジャーナリスト」にあてはまる的確な日本語がないのでとか言ってずっとジャーナリストを名乗ってきたが、私はわざわざ英語を使うのがイヤで、「報道記者」や「記者」でいいのではないかとずっと思ってきた。
 
 もう1冊は『ついにあなたの賃金上昇が始まる』(悟空出版)で、著者の高橋さんの名前の横に「東大数学科卒」「元スーパー官僚」の2つを列記している。「東大数学科卒」とわざわざ記した理由が私には分からない。

 東大数学科を卒業したあと東大経済学部に入ってまた卒業している偏差値秀才であることは間違いないが、著書の題名を考えると経済学部卒を記すほうが妥当に思うのだが、どうだろう。

 大学受験参考書を含むいろいろな書籍の広告に著者の学歴を記したのは私が知る限りこれが初めてである。

 上記のナゾは書籍を売るための作戦とも思えない。

本とコーヒーは合うんだよなぁ梟書茶房

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 人生の最期は本とコーヒーがあればいい。いや、最期でなくても、本とコーヒーがある部屋で暮らせば私はしあわせだ。ってことは私はもうしあわせを手に入れているということなのか?

 ここから本題である。東京・西池袋で梟書茶房という本屋兼喫茶室を見つけた。入口で売っている文庫本を買って入店するとコーヒー代が100円引きになる仕組みで、オモロイことを考えたなーと感心した。ドトールが運営しているらしい。

 その文庫本のお勧め理由が記されたカバーがかけられていて、題名は分からない。お勧め理由を読んで判断するわけである。そういう本が何十冊と売られているから、すんなり店内に入ることができない(笑い)。

 私の場合積ん読本が増える一方なので、こういう仕掛けを楽しむ余裕はないのだが、本とコーヒーの相性の良さに共感する心地よさよ。

 あ、そうか、本とコーヒーだけでは足りない。私の場合は女性も必要である。なんせ69人いるから、1人に絞るのがムズカシイのである。ワシのしあわせは遠い(←阿呆)。

『新潮45』10月号の読みどころ

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 バブルの特集で「私が会った『闇の紳士』たち」の筆者・一橋文哉さんは、世間のウワサが正しければ私の『サンデー毎日』時代の先輩記者である。大きな仕事をご一緒したことがあり、寿司屋でチーム結成式をしてごちそうになった。そのときは分からなくてもあとで納得してしまう的確な指示に何度か感嘆した。うんうんうなりながら鉛筆で原稿を一気に書き上げる様子を目の前で見る機会があり、その筆力に私は口が開いたままになり、しばらく閉じることを忘れた。

 そういえば一橋さんは葬儀の席に一番乗りして遺影を持って逃げた逃げたと笑いながら話してくれた。そういう自由があったのだなぁ。今そんなことをしたらSNSですぐに叩かれる。

 適菜収さんの右も左も快刀乱麻を断つ連載は今回も面白い。安倍首相を<政治家としての資質以前に、常識がない>や<こうした「幼児」が改憲を唱えているのが今の日本の惨状です>と断じ、三浦瑠麗を<どこの花畑で暮らしているのかは知らないが、妄想だけで原稿を書いているのではないか>とツッコむ。

 連載「のらねこ風俗嬢」の舞台は高知県。高知県人に言わせると四国の4県の中で高知だけは気質が違い、ほかの三県はケチだと。

 小田嶋隆さんの「四国の夏は加計ではなく子規と阿波踊り」にはジャストシステムの話や徳島の阿波踊り無謬性神話が出てくる。<踊るから阿呆になるのではない。阿呆だから踊るのだ>には吹き出した。まさしくその通り。ワシら徳島県民は阿呆の集まりなんよ。

 河谷史夫さんの連載「形影譚」が取り上げたのは門田勲と本田靖春。門田勲の本を大学時代に朝日文庫で読んだ記憶がある。本田靖春もスゴ腕だったが、門田勲はもっと自由自在だったのか。こんな記者が出る時代背景があったのだろう。とすると、もう出ないか。

 『新潮45』、新潮社の看板雑誌なのに、いや看板雑誌だからか、左右両サイドが入り乱れ、けっこう読み応えがある。

とりあえず買った本

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 『毎日新聞』の書評を読んで即決した。アマゾンで見たら在庫がなく、新品が定価より1000円ほど高い値付けで出ている。悔しいので紀伊國屋書店と丸善のサイトで調べたところ新品がある。

 売り切れる心配はなさそうだが、言葉の限界は従来私が関心を持ってきたテーマであり、特にここ数年ずっと疑問に思ってきたことを本書が裏付けてくれそうだという期待もあり、書評が背中を押した。


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 言霊だの何だのとしたり顔でのたまう貧困層への反撃の狼煙になりそうだが、そういう風に考えてしまう私自体が「したり顔」になっちまってる。ああやだやだ。穏やかでありたいものであるな。

『ことばだけでは伝わらない』の感想はあらためて。

お買い得! 出版社の月刊PR誌

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 岩波書店が『図書』、朝日新聞出版が『一冊の本』、筑摩書房が『ちくま』、講談社が『本』、新潮社が『波』、集英社が『青春と読書』。月刊で、年間購読料は送料込みで1000円ほど(新潮社は3年で2500円)。活字好きにはたまらない。定期購読をもっと早く申し込むんだった。

 昔は本屋に山積みされていたが、最近は見かけない。文藝春秋は紙媒体のこれをやめた。そういう状況なのだろう。

 しかし、活字好き本好きにはよだれが出る。

 まず、新刊の紹介記事が面白い。新聞で本の広告を見て、どんな内容かなと興味がわいても、本屋に出かける機会がないとそのまま忘れてしまうことがある。そういうのをカバーしてくれる。新聞の書評で取り上げることができる点数はごくわずかだが、これを読めば自社の新刊はたいてい紹介記事を載せているから概略が見える。

 大雑把に言うと、新潮社の『波』は編集者の意地が伝わってくる。手を抜いていないのだ。144ページものボリュームがすごいし、他社の本も取り上げる器の大きさがある。この本の「新潮社社食の半世紀」を見たテレビマンユニオンがNHK「サラメシ」で取材したに違いない。書体の記事まであって、これはもう総合誌だ。

 朝日新聞出版の『一冊の本』はジャーナリスティック。集英社の『青春と読書』は庶民派。

 印象に残った記事をざっと挙げてみる。

 『ちくま』でのトミヤマユキコさんの連載「夫婦ってなんだ?」や橋本治さんの連載「遠い地平、低い視点」、『図書』での高橋三千綱さんの連載「作家がガンになって試みたこと」、『青春と読書』で鎌田實さんが連載「曇り、ときどき輝いて生きる」で取り上げた柳美里さんの活動、『本』ではあちゅうさんが明かした自分の生きづらさ、と挙げていくとキリがないことに気づくので、もうやめる。

 私は6社から毎月届くことになっていて、これを至福と言わずして何と言う。

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