同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ニシノ書店

ユージン・スミス『MINAMATA』を水俣病センター相思社で買ったワケ

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 映画『MINAMATA』を見越してだろう、ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』が“復刊”された。

 いつものようにアマゾンで買うつもりだった。しかし水俣病センター相思社のサイトを読んで笑ってしまったので、送料が余計にかかったが、ここで買うことにした。私が会員ということもあるけれど、支えようと思わせる笑いを誘う涙ぐましい素朴さがとってもいい。アイリーンさんのインタビューを載せた会報をわざわざ同封してくる姿勢も好ましい。水俣病センター相思社の『MINAMATA』キャンペーン



諦めないための『諦めの価値』(森博嗣・朝日新書)

 私も森博嗣さんの小説は1冊も読んだことがないけれど、エッセイはほぼ読んできた。何となく考え方というのか波長というのか、そういうものが合うのである。「やっぱりそうだよな」と安心できるわけだ。

 とはいえ、本書はあくまでも森博嗣さんだから言える部分がある。どこか(外国?)で悠々自適の暮らしをしている、お金の苦労のない、健康不安もない、功成り銭貯めたポジションからのトークなのである。普通の生活をしている人や貧乏人の私の参考になるのかどうかというのは棚に上げて、私と全く同じ見解を森さんが書いていて、安心できたところがあった。

《どんなに目立つことをしても、あるいは、どんなに人から感謝されることをしても、それが仕事だったら、偉くもなんともない、と僕は感じます》

《それに応じた賃金が支払われているわけですから、そこで帳尻が合っている》

《もし、人に語れるようなことがしたいのなら、ボランティアとして奉仕活動をされるのが適切でしょう。見返りを求めない作業の方が、仕事よりは少し偉いといえます》



 

中公文庫偉い! 車谷長吉さんの『漂流物・武蔵丸』刊行

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 新聞広告で中公文庫が車谷長吉さんの作品を集めた『漂流物・武蔵丸』を出したと知り、すぐにアマゾンで注文した。そのあと駅前のサクラ書店に行ってみたら平積みしてあるのではないか。思わず手に取り、ぱらぱらめくって、そのままレジに。とにかくすぐ読みたい。私にとって車谷長吉さんの小説は覚醒剤みたいなものなのである(覚醒剤はまだ経験がない)。

 なかなかいい編集で、特にいいのは『抜髪』を入れてあることだ。読み終えてガックリくる『三笠山』を入れていれば完璧だが、それは中公文庫の第2弾を期待して待つことして、さっそく駅前のドトールで読み始める。

 巻末に掲載してある高橋順子さんのエッセイも、車谷長吉さんの異様ぶりが好意的(?)に伝わってきて、物書きを配偶者に持つといいなぁ。

 というわけで、中公文庫よくやった。

教養とバランス感覚の『完本 紳士と淑女』(徳岡孝夫・文春新書)

 右寄りの雑誌『諸君』に連載されたコラムのせいか、左寄りの私が見ると右寄りの感があるけれど、教養に裏打ちされた文章は味わい深い。正義の顔をした人や組織への痛罵にバランス感覚の鋭さが光る。

 例えば美濃部亮吉をこう書く。

《貴族院議員を父に、東大総長、文部大臣の娘を母に持ったエリートでいながら庶民の味方。財閥の娘と協議離婚したあと、行政庁統計基準局長だったとき、秘書の女性と交際を始め、二十年間、家にも入れず籍も入れなかったのに女性の味方。いや、こういう書き方は、よくない》

 美濃部さんに肩入れした朝日報道に対して、《独立の新聞社があまり特定の政治家に肩入れするのはいかがなものか》。

 ほかにも《朝日の記者には明治時代から尊大なところがあった》や《他を顧みて批判するのに巧みでありながら、自己への批判を許さない朝日は(略)》、」など、朝日のスター記者と言われたつまり朝日らしさの権化たる本多勝一さんを私は思い出す(笑い)。朝日信仰者は催眠術にかかりやすい人たちだというのが私の最近の分析(というほどのものではない)である。

 一方で、41歳の子持ちストリッパーが駅のホームで酔った高校教師に絡まれ胸を触られ、たまりかねて突いたら線路に落ちて電車にひかれた事件を取り上げ、どの女性団体もどの淑女もストリッパーに手を差し伸べない状況に、抑えた筆致でストリッパーという職業に対する偏見差別を語る。

 拉致問題が日本で話題にもなっていないころ横田早紀江さんらが米政府などを回り、《娘のことを黙っておれと言う外務省の仕打ちを語ったところで、話が突然中断した。不審に思って見ると、通訳(ワシントン在住の日本人学者)が嗚咽しているのだった》とわずか2文で読者に憤怒と悲痛を共感させる。

 言うまでもないことだが、私など死んでも書くことができない。こういう人たちが現役で新聞記者をしていた時代から今を見れば、ずいぶん軽佻浮薄の紙面であることだろう。


  


 

『谷崎潤一郎 性慾と文学』で納得する谷崎文学

 《精神的にも肉体的にも合致した夫婦と云ふものの有り難味が、四十六歳の今日になつて漸く僕に分つた》と記した谷崎純一郎。この谷崎文学の第一人者による解説である。

 私は丁未子さんをきれいな女性だと思うのだが、谷崎にとってそこは重要ではなかった。《屋外での即興的なセックスに応じてくれず、室内でも白昼は嫌がるなど、谷崎の性的嗜好とは大きく隔たった丁未子に対して苛立ち、困惑を隠しきれずにいる》そうで、ということは谷崎が崇め奉った松子さんはそういう嗜好だったのか、ということになるのだが、それはさておき、いろいろな衝動が芸術として開花するのだなぁ。

 事実、谷崎のこうした嗜好があの佐助をナオミを生んだのである。


 

 

 

『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ・文春文庫)は平成文学の名著の1冊


 2016年に報じられた東大生による強制猥褻事件をヒントにした100パーセント想像の小説である。

 姫野さんが文庫版あとがきで書いているように、世の一般的な東大生を普遍化した小説ではない。強制猥褻事件を起こした5人の若い男が学歴に基づく勘違いをそれぞれ持っていて、それが強制猥褻事件の根っこにあるという見立てで、加害者の男5人の家系まで描いてある(もちろん100パーセント想像)ので説得力がある。加害者の歪みは親の歪みの発露であることがひしひしと伝わってくる。

 被害者の女性ももちろん100パーセント想像の人物だが、どこにでもいるという前提の普通の家庭で育った若い女性で、そういう女性が強制猥褻の被害に遭ったという設定は共感を呼ぶ。

 多目的便所でお手軽セックスをした結果芸能人生命を絶たれた男がいたが、東大だの芸能人だの収入だのというところで何か勘違いする阿呆の話として読むべきだろう。

 姫野カオルコさんは神の視点で登場人物を描き、どちらかに加担することはない。絶妙のバランス感覚に私は驚いた。だからなのか、抑えた筆致から被害女性の哀しみが突き刺さる。

吉田健一さんの格調高い日本語訳『ハワーズ・エンド』(世界文学全集・河出書房新社)


 吉田健一さんの翻訳である。原文を非常に丁寧に日本語に置き換えていると思われ、まどろっこしい部分がないわけではないが、誤読をしたくても絶対にできない。主語述語修飾語をかっちりと、置くべき位置に置いているからだろう。

 英国が植民地を持っていた時代の“支配層”の考え方や行動が描かれている。彼らが浮世離れしているのは、高等遊民が出てくる夏目漱石の小説と同じか。

 そんな中で経済苦に喘ぐレオナードが小説の定石通りに出てきて光る。光るのだが、解説にあるように、もし著者のフォースターに遺産がなく、もっと生活の苦労をしていれば、深い洞察を持ってレオナードを描いただろう。

 この小説は吉田健一さんの格調高い和訳を楽しむ本なのかもしれない。

オモロい『危険な旅路』(冒険の森へ 傑作小説大全・集英社)

 「冒険の森へ 傑作小説大全」シリーズの魅力はいろいろな作家のいろいろな小説を読むことができるからだ。視野が広がるというか、読まないだろう小説を読む機会を与えられることだ。

 私はこの本で船戸与一さんの小説を初めて読んだ。片岡義男さんも、逢坂剛さんも、初めてである。名前は知っていても、読んだことがなかった。もったいないことをしていたのである。

 1人の小説家の全集もいいけれど、幅広い小説家の作品を強制的に読む機会を得られるこのシリーズのような全集は勝るとも劣らない。



【長編】
船戸与一「夜のオデッセイア」
矢作俊彦「リンゴォ・キッドの休日」

【短編】
石川淳「金鶏」
森詠「わが祈りを聞け」
片岡義男「ミス・リグビーの幸福」
谷克二「サバンナ」
逢坂剛「幻影ブルネーテに消ゆ」

【掌編・ショートショート】
川端康成「顔」
坪田譲治「森の中の塔」
河野典生「かわいい娘」
眉村卓「帰途」
半村良「酒」
阿刀田高「笑顔でギャンブルを」
星新一「もたらされた文明」

文庫本で復刊された『チッソは私であった』(緒方正人・河出文庫)

 もともとあの渡辺京二さんが編集し、あの葦書房で出版された本だ。ほんの少し前までは古本で買うしかなく、しかし価格が高騰していて、さすがに手を出せなかった。それが昨年末に文庫本として復刊された。河出書房新社に拍手である。名著の復刊は出版社として大事な仕事の1つである。

 緒方さんは漁師である。水俣病で狂死した父親の敵討ちとして始めた水俣病闘争から降りる目線は、魚をはじめとする人間の“食べ物”たる生き物に対しても優しく降り注ぐ。

 私の福島時代に取材で大変お世話になった小野賢二さんが重なる。小野さんは南京虐殺に関わった会津六十五連隊の元兵士を訪ね歩き、いくつもの日記を掘り起こした人である。一級資料として本になっている。その小野さんは常々「私があの時代に兵隊であの場所にいたら同じことをしていた」と語っていた。

 一人ひとりの人間を奪う仕組みは形を変えて今も随所にある。アイヒマンはいたるところで生まれているに違いない。

 本書ではいろいろな問題の提起があり、そのどれも深く深く頷く。本当にいい本だ。名著の復刊を深く喜ぶ。


 






 

ヨドバシドットコムが意外にいい

 アマゾンで買い物をすることが多いが、最近買い物が増えてきたのがヨドバシドットコムだ。例えば、ふくれんの豆乳。楽天で売り切れていてもヨドバシドットコムなら手に入る。アマゾンや楽天ほど注目されていないせいかもしれないが、価格が妥当で、品ぞろえがいい。都内で午前4時40分ごろ注文したら当日夕方届いた。

 特にいいのが電気製品だ。アマゾンはデタラメな業者が出品していて評価が荒れていたりする。しかしヨドバシドットコムはさすが電器屋なので(電器屋なのか?)万一の場合は返却ができるし、カメラ屋なので(カメラ屋?)アマゾンで時々見られるカメラやレンズの中途半端な商品は売られていない。そういう点で安心できる。

 と思っていたら、何かのサイトにヨドバシドットコムの評判が上がってきたとあった。アマゾン独走を放置してなるものかということだろう。商機もある。あとはビックカメラのように、無金利60回払いOKのサービスが備われば鬼に金棒である。

日本文学全集24巻『石牟礼道子』(河出書房新社)

 世界文学全集に収録された石牟礼道子さんの『苦海浄土』(河出書房新社)を読んで私の天地がひっくり返った。その石牟礼さんのほかの小説のいくつかを集めたのが本書だ。

 非常に読み応えがある。というか、すらすら読むことができない。音読するのがいいのではないかと思いつき、しばし音読してみたところ、これがちょうどいいのである。手応えのある文章なので黙読では消化不良を起こす。不思議なことに音読すると消化にいい。

 読み通すのに時間がかかったが、石牟礼文学はそういう読み方が適切なのではないか。

 この本も何カ所も赤色のボールペンで線を引いたが、その中から1つ挙げるとすると、これ。

《片耳じゃの、片目じゃの、ものの言えない者じゃの、どこか、人とはちがう見かけの者に逢うたら、神さまの位を持った人じゃと思え》=『水はみどろの宮』

江藤淳の随想解説だから少しは理解できた『小林秀雄の眼』


 40年ほど前に大学受験生だったとき、小林秀雄の小論で苦しんだ、というより内容が半分i以上理解できず、よくある例えだが、トンネルを出たかと思ったらまたトンネルに入る列車のような、暗闇から出て少し見えたと思ったらまた暗闇に入るという程度の理解で、途切れ途切れに少し見えた光景をつないで全体を無理矢理把握しようとした。小林秀雄の何がいいのか皆目理解できず、新潮社から出ている小林秀雄全集も3巻目で止まっている。

 それなのに、いや、それだからこそ、というべきなのだろうか、買ってしまった『小林秀雄の眼』(中央公論新社)である。この本は小林秀雄の小論の理解を深く手助けしてくれた。著者の江藤淳のおかげだ。小林秀雄の文章が短く載り、その数倍の江藤淳の随想解説があるから、「ほー。そういうことか」と頷く。江藤淳の文章がなければ、40年前と変わらずトンネルの中の暗闇で身動き取れなくなっていたのは間違いない。

 江藤淳の文章を読んでようやく「ほう、小林秀雄はええこと書いとるがな」と少しだけ思う。江藤淳の文章は小林秀雄から大きくはみ出していて、私には江藤淳のほうがいいのではないかという結論になった。

 結果として数ページおきに赤線を引きページの角を折った。これほど唸らせてもらった本は久しぶりかもしれない。最低でも赤線を引いたところは読み返して脳みそに沈めたいのでこの本は読み返す。

 いつものようにカバーを外し、東海道線で読んでいたら、少し離れたところにいた初老の男性が(って私も初老だよな)私の本をじっと見ていて、背表紙に記された題名を読み取ったらしい瞬間満足そうな顔をした。大船駅で降りたので、誰か関係者だったりして。

 そういえば小林秀雄の墓を友人と一緒に鎌倉の寺で探し回ったのはいつだったか。日暮れとの競争だった。ようやく見つけたのは小さな小さな墓石で、ああさすがだと感嘆した。

 もう一つそういえば、江藤淳はわが車谷長吉さんを高く評価していた。『江藤淳は甦る』を読まんといかん流れになってきた。文庫本になってくれるとありがたいのだが。


 

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(新潮文庫)

 確か『毎日新聞』の書評面で取り上げられていた本である。アマゾンで買って長い間積ん読にしていた本書をようやく読んだ。ピュリツァー賞文学部門を受賞したり、『ニューヨーカー』に掲載されたりして、注目を集めているインド系作家の小説だ。

 9編の中で私が最も共感した作品は本の題にもなっている『停電の夜』である。引き戻せないところまでの亀裂が走った若い夫婦の物語は読ませる。物静かで繊細な記述に引き込まれた。全体に移民系文学とでも言えばいいのか、そういう点で米国人に新鮮な視点を提供したのではないか。評判の『三度目で最後の大陸』は米国人が好みそうな物語だと私は思った。

 私の小説吟味力ではこれ以上は何も書けない。私の限界である。

 

 

 

おもしろうてやがて悲しき『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』(森功・幻冬舎)


『週刊新潮』の見出しが独特の味を出している理由がよく分かった。ひと味もふた味も捻った見出しを読むたびに、いったいどれほどの時間をかけて単語と表現を生み出しているのだろうかと思ってきた。週刊誌の見出しは編集長権限だと思っていたが、『週刊新潮』の場合は齋藤十一が長年その権限を握っていたのだった。

 その齋藤十一は『週刊新潮』で文学をやりたかったらしい。

《キミは何を言ってるんだっ、小説家というものは、自分の恥を書き散らかして銭をとるもんだ。それがわからないで小説を書くバカがいるかっ》と瀬戸内晴美さんを叱りつけた齋藤十一は、『週刊新潮』で「カネ・女・権力」に狂奔する人間を取り上げ、例の捻りに捻った見出しをつけた。なるほど文学である。

 本書では齋藤十一の離婚と再婚にもしっかり触れていて、齋藤十一の「カネ・女・権力」を遠慮なく描いた。齋藤十一への最高の敬意ではないか。

 知性あふれる人が斜に構えるから「俗物」と自称できたのだろう。《筆という武器を手にする物書きが、司法の場に訴えでて身を立てるという手段を嫌った》という辺りにも覚悟を決めた俗物性を垣間見ることができる。

 テレビ局のインタビューに応じた映像を見て「老醜だ、もう死ぬべきだ」とつぶやいた翌朝、お茶を飲んで意識を失い亡くなる美しい終焉よ。

《誰だって人殺しの顔を見たいだろ》

《僕は忙しいんだ。毎日音楽を聴かなくちゃならないから》

《キミたちは、僕が読みたい本をつくればいいんだよ》

《僕の墓は漬物石にしておくれ》

 破格と言うべき齋藤十一の語録には斜が見え隠れする。

 そのとおり、漬物石を墓にしたというから、鎌倉の建長寺で探してみるか。


夏目漱石『こころ』の「軽蔑」


 大学時代に読んだような記憶がある。それなりに恐ろしかった。今読み返し、全く別のところに戦慄した。いろいろな読み方ができることが名作の条件の1つと言われていて、今回読み返して新しい発見をした『こころ』は私ごときが言うまでもないのだが名作なのである(エラソーなことを書いてしまって漱石先生ごめんなさい)。

 今回の私の発見は、先生について《他(ひと)を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた》という記述があることだ。わが車谷長吉さんの『盬壺の匙』を思い出した。車谷さんの自殺した叔父を弔う作品である。この小説の中で叔父は和辻哲郎の『ニイチェ研究』の余白に青インキで「俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている」と記していた。

『こころ』の先生と『盬壺の匙』の叔父の共通点がここにある。と、ここで書いて気づいた。どちらも主題は「自分の軽蔑」なのである。『こころ』の先生も『盬壺の匙』の主人公も最後に同じ一点に向かうのは当然なのだ。

「自分の軽蔑」は恐ろしいことだが、人間に深みを与える。そこが文学のテーマになるということか。

 つい先日、大学時代の友人K(偶然にもK)に会ったときのことだ。『こころ』に「自分を軽蔑」と書いていると話したところ、Kは「そういえば、あったな」と即座に反応したので私は驚いた。私は読んだばかりなのでこの小説の話ができるのは当然として、Kが読んだのは昔昔である。ほー。Kを見る私の目が変わった。私と同じ阿呆だと思っていたら、いやいやとんでもない。それにしてもK(笑い)。

 

 

福島から発信するウネリウネラの『らくがき』

 書き手は元朝日新聞記者の夫妻である。夫の初任地と最終勤務地が福島で、家族揃って福島に移り住み、出版社を立ち上げた。その1冊目が2人で執筆したこの本である。

 私の福島時代にお世話になった読売新聞の先輩記者のフェイスブック投稿で知り、「夫婦そろって朝日を辞めたの?! 何とまぁ。思い切ったことをしたなぁ」と驚き、直接メールして、送ってもらったのがこの本である。Amazonでも買うことができるようになったようだ。しかしAmazonに引かれる手数料を考えると直接連絡して買うほうがいいように思うのだがどうだろう。というわけで、直接買う人用にチラシを添えておく。

 本書ではふたりが朝日を辞めた《やむにやまれぬ事情》などには全く触れていない。記念すべき最初の本なのである。無粋な話は後日。いい判断だと思う。

 私が引き込まれたのは、家族が東北の自然の中で過ごす様子だ。ぶどうをたらくふ食べ、残ったぶどうでジャムをつくる。野菜の収穫の手伝い。ザリガニ釣り。

《首都圏から福島に引っ越してきて半年、だんだん手を動かすことが増えたような気がする。いや、自分からなるべく手を動かそうとしている》

 いいなぁ。羨ましい。都会で暮らしていると土や水に触れる機会が激減する。人間を頭でっかちにしてしまう都会暮らしに疑問を持ってきた私(もともと田舎者)は激しく共感する。

 ウネリウネラの住所を見たところ、私が福島時代に住んでいた場所のすぐ近くではないか。おお。ウネリウネラの窓から吾妻山は見えるだろうか。

 この本のカバーのこの紙質、私はもしかすると一番好きかもしれない。温かみが伝わってくる紙質なのである。本書の紙の色(クリーム色)は優しい感じが心地いい。装丁も営業も含めて何から何までウネリウネラが手がけたその手の温かみのようなものが、ひとつひとつからにじみ出ていて、ウネリウネラが今後出版してゆく本が楽しみだ。


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水木しげる『やっぱりオレはアホやろか』

 1978(昭和53)年にポプラ社から出て、1998(平成10)年に社会批評社から、2002(平成14)年に新潮文庫からと、出版社を渡り歩き、2016(平成28)年に講談社文庫に収まった。水木しげるファンの多さというのか、ここまで長寿となるとゲゲゲの鬼太郎の歌詞「おばけは死なない」に重なる。

 水木しげるさんは毎日新聞の配達や拡張をしていたのだった。せっかくのご縁があったのだから、ゲゲゲの鬼太郎のキャラクターを総動員して「おばけも読んでる毎日新聞」などと宣伝する絵を描いてもらえばよかったのに。替え歌で「みんなで読もうゲゲゲのゲ」とテレビCMを流すとか。もう遅いけれど。

 本書は水木しげるさんが世に出るまでの自伝である。鷹揚な雰囲気を出しているものの、実際はいろいろなところに頭をぶつけ、ウロウロキョロキョロあたふたしてきたのではないかと想像させる。

 今の今まで本書の題名を「ほんまにオレはアホやなぁ」だと私は思い込んでいた。「アホやろか」では面白くも何ともないし、微かな自慢が漂ってくる。どうせなら落としたほうがよかった。


 

森友学園問題を追及した元NHK記者相澤冬樹さんの『真実をつかむ』(角川新書)

 熱い熱い熱い。本書は記者の成長物語として読むことができるし、これから警察取材をする新人記者向けのヒントとして読むこともできる。全編熱い。

 驚いたのは支局勤務時代に運転手付きの車で取材先を回っていたことだ。昔からNHKの取材は贅沢だと言われていたが、地方でも! 今もNHK記者はそんな贅沢なことをしているのだろうか。私の福島時代、自分のポンコツ車で回っていたのに。NHKに言い分はあるだろうけれど、毎日新聞の記者が聞いたら目を剥く話だ。

 もう1つ驚いたのは、相澤さんが徳島局にいたという話だ。今の知事・飯泉さんの知事選出馬について《最後まで「出ない」と言いながら、さも県民に推されたから出ることにしたという、あの猿芝居》と一刀両断にした。そうか、飯泉さんは猿だったのか。そんな飯泉さんを持ち上げて、私の高校の同級生は県庁で出世しているのだが。

 面白かったのは徳島局の記者グループとカメラマングループの秋田町での乱闘である。やるなぁ。みんな血の気が多い(笑い)。

 相澤さんはNHKを辞め、今は大阪日日新聞の編集局長と記者という肩書きを背負っている。大阪日日新聞の宣伝効果は大きい。経営者が相澤さんをどう活用していくかが今後の見どころ(?)の1つだろう。

 相澤さんの熱は大阪読売・黒田清さんの熱に共通する高温だ。こういう本が記者志望者を増やすのだと思う。

父親の“血”に悶え抜いた中上健次『岬』(文春文庫)

 私が惹句を書くとこうなる。「尋常ならざる父親の血を粛清するために――」

 池澤夏樹さん個人編集の日本文学全集23『中上健次』(河出書房新社)を読んでいたおかげで、背景を熟知した上で代表作『岬』を読むことができた。

 これは中上健次にしか書くことができない世界である。大半の人が触れることができない世界に手を突っ込むことができた環境が中上健次を生んだ。

 親は子を、子は親を選んで生まれることができない。問題が生じるのは、親を選んで産まれることができない子供の側が大半だろう。親は生殺与奪の権を持つからだ。過酷な親を持つ子供が小説家になっている事例は少なくないのではないか。反対に過酷な子供を持つ親が小説家になってる事例は浮かばない。

 中上健次は自分の首を絞めるようにこの小説を書いたはずで、恐らく死ぬまで“父親の血”に苦しみ悶えた。

 こういう小説をアホボンの私が20代で読んでも到底理解できなかった。中上健次が好きだと語った芥川賞受賞の慶應大生・宇佐美りんさんはすごいぞ。


 

夏目漱石『行人』の戦慄


 漱石の『行人』の読み方を初めて知った。「こうじん」だそうな。奥付にルビが振ってある。

 後半のどこかで「あれ?」と感じた。『こころ』に似た何かを嗅いだのである。ウィキペディアによると、両作品は接近して発表されている。

行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)

 私は漱石の研究者ではないし研究書の類を読んでもいないので単なる当てずっぽうだが、漱石は『行人』を書きながら『こころ』の構想を練っていたとか、あるいはこの時期の漱石の関心事が“そこ”にあったとか、考えられるのではないか。

 それにしても『行人』である。妻と弟の中を疑う兄のこころの闇の深さに戦慄する。私が書けば妻と弟をくっつけて兄をもっと苦しめるのだが、こんな安易な展開を漱石は選ばなかった。『こころ』を書く前のこの小説では人間の善に踏みとどまったということだろうか。



 

必読の『首都直下地震と南海トラフ』(鎌田浩毅・MdN新書)


 ニュージーランド近海で立て続けに大地震が起きたのを見て、「なるほど、ああいうふうに時間差で南海トラフ沿い大地震に襲われる可能性があるのだな。この本に書いてあるように、もはや逃げようがない」と分かった。しかも今度来る南海トラフ沿い3連動大地震は3回に1回の超大型らしい。わはは、と笑って開き直るか、できる限りの準備と備蓄に励むか。

 私の命はどうでもいいのだが、親より先に死ぬわけにはいかない。ただただそれだけの理由で、できる限りの準備と備蓄に励む。

 徳島が南海トラフ地震で揺れた一番近い年は1944(昭和19)年である。それを経験した母は「玄関にあった靴(下駄と言ったかもしれない)が水に浮いとった」と言っていた。お母ちゃん、次に来る地震はそんな甘いもんとちゃうみたいでよ。徳島市はもちろん、親戚が暮らす田宮も北島町も友人が住む佐古も津波で壊滅するのではないか。

「地震が来る前に死んどったらええなぁとお父ちゃんと言いよんよ」と母は最近ようやく次の南海トラフ大地震をほんの少し意識するようになった。答える言葉がない。

 鎌田先生によると、2030年代に起きると想定されている。2039年として、今から18年後である。そのころは父も母も100歳前後の計算だから、まぁ、何とかなるか(何が?)。

 しかし同級生は75歳前後だ。まだ生きているはずで、しかし足腰は衰え体力も落ち、逃げたり避難生活を送ったりするのは難儀かもしれない。

 危険が想定される地域から引っ越しを始めるか小舟を買って庭に置いておくか。などと書いている私がJR東海道線に乗っているときに首都直下地震に遭遇して電車ごと宙に浮いてそのあと地面か建物に直撃してあっという間に終わるかもしれないなぁ。


 

 

『ルポ西成』のうーん


 大阪・岸和田市で暮らしていたころだから小学6年のときだ、父に連れられて西成を歩いた。当時はまだまだ西成が元気なころで、いたいけな子供(ワタシね)をお守りがわりか盾がわりにしたのかもしれない。

 その西成で80日ほど暮らして日常を描いたルポだという新聞広告に惹かれて読んでみた。最初は物珍しさで興味深いのだが、読み進むうちに不快になってきた。

 若い筆者は西成で起きる表面的な事象を追いかけ、対象を見下し、自分は彼らとは違うのだと節々に伝わってくる記述から差別意識が垣間見えるのに筆者にその自覚がなく、「いったい君は何のために西成のルポを書いたのか」と首を傾げざるを得ない。

 編集者がそこを指示すべきなのに垂れ流したのだから同罪である。何だかなー。

 西成は動物園ではない。警察の留置場でもない。西成のこの人は私かもしれないという哀しみの共感や落ちこぼしてゆく社会や福祉に対する憤りも疑問も取材もない。こんなことなら書かないほうがよかった。


 

池澤夏樹責任編集世界文学全集『暗夜/戦争の悲しみ』(河出書房新社)


 中国の小説家残雪さんの『暗夜』は暗喩的な話で少々難儀した。

 一方ベトナムの小説家バオ・ニンさんの『戦争の悲しみ』には最初から最後まで圧倒された。ベトナム戦争を戦ったベトナム人兵士の戦場と、結ばれることのない悲しい恋愛は、著者の経験を下敷きにしているはずで、その重さといったらもう。

 訳者に井川一久さんの名前が出ていてびっくり。もちろんまったく面識はないが、かつて朝日新聞記者として活躍した人である。私の大学時代に井川さんの本を読んだ記憶があるので懐かしい。

 戦争を主題にした小説やノンフィクションは多いけれど、非情な戦場の経験者が書く作品は舞台も登場人物の経験も行動も感じ方も考え方も段違いに深く昏い。想像を絶する世界にぐったりした。


 

 

渋沢栄一を知るためには『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)よりも

 たまたま去年から少しずつ読み進め、無事に読み終えた。この本を読んでも『論語』は少ししか分からない。渋沢栄一は本書でさほど『論語』に言及していないからだ。

 渋沢栄一の人となりを知るなら別の本がいいかもなぁ。鹿島茂さんや城山三郎さんが書いている作品のほうが読みやすいだろう(私はどちらも読んでいない)。

『論語と算盤』もいいけれど、最後まで手放さなかった肩書きに渋沢栄一のすべてが凝縮していると私は思う。

瀬戸内晴美『かの子撩乱』(講談社文庫)

 かの子と言っても知らない人が多いはずで、それではと「岡本太郎の母親」と説明しても「令和の運び屋の母親?」と首を傾げる人が多いのではないか(「令和の運び屋」は河野太郎)。時代は流れる。

 岡本かの子の常軌を逸した生き方とそれを無条件で包み込む夫一平。こんな夫婦を“源流”とする岡本太郎のたたずまいに納得した。

 懊悩を抱えながら一瞬一瞬に閃光が走る生き方など腑抜けの私にはできるものではない。消えない炎は自分の魂さえ焼き尽くした。

 文庫の1刷は1971年である。600ページもある長編が今も版を重ねていることに驚く。


 

哀しみを書いた筒井康隆さんの『川のほとり』

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『新潮』2月号を買ったのは、筒井康隆さん(86歳)の『川のほとり』を読むためだ。この作品が話題を呼び、アマゾンでは2倍以上の価格である。幸いにも東京駅前の丸善にあったので定価で買うことができた。

 筒井康隆さんのご子息が昨年2月に51歳で亡くなったことを題材にした作品である。今の時代、逆縁ほど恐ろしいものはない。

 あの筒井康隆さんがわずか10枚の作品を書くのに1年近くかかったわけで、そういう背景を踏まえた上で読むと予断を持ってしまうものではある。それでも、このような昇華のさせ方をしたのかという静かな感動と不思議な感覚が私のこころに広がった。合掌したくなるような気分である

 めでたいことを何か話せと言われ、「親死に子死に孫死ぬ」と喝破したのは一休宗純だった(諸説あり)。


 

全米図書賞を受賞した『JR上野駅公園口』(柳美里・河出文庫)を読んで思うのは


 柳美里さんの『JR上野駅公園口』が全米図書賞を受賞したという報道で初めてこの小説を知った。高度経済成長を支えた福島県出身者を主人公にしたとなれば読まない理由がない。

 この小説の魅力は救いのなさにある。徹底して救いがない。人生の辛酸を嘗めてきたであろう柳美里さんが安易な物語をつくるわけがないのである。ハッピーエンドのない人生を覚悟している読者には響く響く。

 さて。この小説を英訳したモーガン・ジャイルズさんの功績を無視するわけにはいかない。浜通りの方言をどう英訳したのだろう。浄土真宗のあれこれ、例えば南無阿弥陀仏をどう英訳したのだろう。翻訳者の腕がよほど優れていたのは間違いない。英訳本を取り寄せて読み比べる時間はないのでそこはさっと通り過ぎるけれど、モーガンさんの翻訳がなければ全米図書賞の受賞はなかった可能性が高い。翻訳者は小説家と同じかそれ以上に重要である。

 やりきれなさの大地と自分の魂が地続きであることを感じる読み手は世界中にいるはずで、柳美里さんの小説が広く注目を集める1冊になったことは間違いない。

   

『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン、新潮新書)を読む前からスマホ時間を減らしていたけれど


 スマホを手にする時間を意図して激減させているのは私だけではないように思う。電車の中で本や新聞を読む人が少し戻ってきたように感じる。少し前までは見渡す限り全員がスマホを見ていたのがスマホのピークかもしれない。

 ビルゲイツは子供が14歳になるまでスマホを与えなかった。スティーブ・ジョブズの家には手の届く範囲にiPadがなかった。IT業界の先駆者の例は有名だが、学術的なデータを引用しながらスマホが脳に与える悪影響を記していて、私のような凡人は脳をスマホに乗っ取られるような使い方をしてはいけないとあらためて思う。

 スマホもタブレットも手元にあれば気軽に手を伸ばしてしまいがちだし、メールやメッセージが来るたびに見てしまいがちだ。仕事をしているときだったらそのたびに思考や作業が途切れてしまう。私のような阿呆は「えーっとどこまでやったっけ」と元に戻るのに時間がかかって仕方がない。使い方を間違うと仕事や勉強の邪魔になるのは経験から分かる。

 よりいっそうスマホとタブレットを遠ざけよう。昭和生まれの私にとってスマホやタブレットがない環境が自然だし、安寧を得られることも経験から何となく知っている。

心中未遂をした女性同士の愛と人生を描いた漫画『夢の端々』(須藤佑実・祥伝社)

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 漫画評を読んだ直後にアマゾンで買ったのは私が女性同士の恋愛に興味があるからではなく12月6日付『毎日新聞』(東京本社版)文化面に載ったこの漫画のヒトコマのセリフ《だれかに傷つけられるんじゃなくて どう傷つくかを自分で決めたい》に文学を垣間見たからだろう。この漫画を勧める評者は漫画家のいしかわじゅんさんである。

 上下巻の物語で、話が今から始まり遡ってゆく。謎解きのようなかっこうだ。そして最後にまた今に戻る。LGBTという単語が広く知られる現代だがこのような切ない人生がほんの少し前まで普通にあったであろうことを十分に想像させる。

 人間が自分の生き方を貫くことの難しさや別れ、老い、死。抗えない流れの中で人はどう生きるのか。正解のない中でふたりは自分に愚直だった。下巻を読み終えたら上巻に戻って読み直すとより深く理解できるはず。時系列が逆なので読み直しは必要だ。女性同士の物語だが、男性同士あるいは男女の物語に置き換えることは十分できる。

 須藤佑実さんはウィキペディアに載っていない。2012年に『ニライカナイ』という作品で小学館新人コミック大賞の青年部門で入選した漫画家で、ほかにも独特の作品を出版しているようだが、須藤佑実さんに関する情報がほとんどない。そこも興味深い。


 

ベストな男と女の証拠を描く『ほかならぬ人へ』(白石一文・祥伝社文庫)

 これから恋愛をする人は読むべきである。

 何かで「女性が男を選ぶ基準は匂いだ」という見解を読んだことがあり、そんなもんかと頭に残った。その後わたしも匂いについていろいろ感じてきたことがある。そしてこの第142回直木賞受賞作を読んで点と点がつながった。

 匂いと言っても体臭とは異なる。その人や物が生む固有の匂いがそれぞれにあるように思う。

 私が経験から分類する匂いは3つに分かれる。

 1つめは何も匂わない。これは匂いがないのではなく、自分にどんぴしゃりで合っているのではないか。

 2つめは「匂うけれどどうということもない」と感じる匂い。昔おじいちゃんちに行ったときに嗅いだ匂いがこれに当てはまる。

 3つめが「この匂いは合わないなぁ」と感じる匂い。私が自分の鼻で把握しているのは2種類ある。この2つの匂いはそれが国仲涼子ちゃんでも私は受け付けることができない。

 というわけで、これから恋愛する人は相手に近寄ってクンクン嗅いでみるのが第一歩かもしれないな。


死に方さまざま『人間臨終図巻 上』(山田風太郎・角川文庫)


 歴史に残る著名人の痛そうな死に方や苦しそうな死に方、悲惨な死に方が目立った。上巻は10代から55歳で亡くなった人、例えば森蘭丸やジャンヌダルクから夏目雅子、吉展ちゃん事件の小原保、アベベ、張作霖など計324人を取り上げた。日本史や世界史に出てくる人が多いのでその分野が好きな人にはたまらないだろう。

 私が小躍りしたのは山口良忠という名前を知ったことである。今ならネットで調べればすぐに出てくるのかも知れないが、事態は有名なのに名前は知られていない。闇米を拒否して栄養失調で亡くなった東京地裁判事である。長年敬意を抱いてきた。佐賀県の出身で、地元の役場のサイトで顕彰されているほか関連書籍が数冊あることなどが分かった。

 話を戻すと、「病院で死ぬ」ことのない時代の今わの際は悶絶を伴う様子。そこから生を見ると、読む人によって感じるものはずいぶん異なるだろうけれど、いろいろな思いが浮かび上がってくる。各家庭に1冊(上中下の全3巻だが)置くべき本である。


 

漱石が垣間見える『彼岸過迄』(岩波文庫)


 去年だったか岩波文庫の漱石全集全27巻をまとめて買ったものの、読むべき活字が多すぎてしばらく放り出してしまった。ようやく手にしたのがこれ。

 高等遊民は出てくるし、親子関係に悩みを抱える人物も出てくるしで、漱石といえども全くの無から小説を書いたわけではないのだな。いや、小説は100パーセント空想の物語だと最近まで思っていたので、漱石でさえ経験を核として周囲を膨らませるのを知って「なーんだ」というか。

 小説は作者と離して読むべきだとは思うものの、チラリズムで姿が見え隠れするところを味わうのも外道かもしれないが面白くないわけではない。

 次は『行人』だが、年内に読み始めるとすると12月末に広島に向かう新幹線の中だろうなぁ。 

 

「カワイソウニ」と『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』(新潮社)


 晩年の石牟礼道子さんを取材で追いかけ臨終に立ち会うこともできた米本浩二さんによる3冊目の石牟礼さんものは、石牟礼さんと渡辺京二さんとの関係を追いかけた。ある種タブーとも言うべき関係を二人の日記などから文字を拾い、積み上げ、攻めてゆく。

 キーワードは渡辺京二さんの「カワイソウニ」だろう。この意味を米本さんに問われた瀬戸内寂聴さんは瞬時に「男が女にほれた表現です」と断じた、というところが私には圧巻であった。似たようなことを言う友人がいたし、私にもかすかな覚えがあるからだ。そうか、あの女に惚れていたということか、とか。

 私ほどのタイカともなればふたりがどういうカンケイであっても微動だにしないし、そういう下世話なことに対する興味がほとんどない。そこではなく、魂が抜き差しならないくらい織り込まれてゆく人に出逢えていいなぁという憧れに行き着く。などと思うのは棺桶が見えてきたせいかもしれない。

林芙美子入門とも言える桐野夏生『ナニカアル』(新潮文庫)


 ノンフィクションと錯覚してしまう。実話を踏まえて戦中の林芙美子の恋愛を描いた小説なのだが読後感が切ない。

 既婚の林芙美子が愛した男は『毎日新聞』の記者だったらしい。毎日新聞社が部数日本一でブイブイ言わせていたころの話である。ほかにも『サンデー毎日』や『朝日』の記者らが登場したり、戦時中の毎日朝日の競争やペン部隊、日本軍の実相を垣間見ることができたりして、林芙美子入門としても破格の女性の物語としても興味深い。

 林芙美子というと肝っ玉母さんの風貌が浮かぶのだが、検索してみたところ若いころの魅力ある写真がネット上にいくつか載っていて、私の林芙美子像が変わった。

 かつて週刊誌で読んだような記憶があり、記憶の断片を手がかりに探してみたらこの本に突き当たった。本書を読んでみると記憶の断片と本書の内容は重なる。ところがだ。私の記憶では『サンデー毎日』編集部時代(1992年秋〜93年春)に編集部のどこかその辺に転がっていた週刊誌でぱらぱらと拾い読みしたはずなのだが、初出は『週刊新潮』2008(平成19)年12月11日号から翌年11月12日号だそうで、私の記憶と完全に食い違う。一体どこで手に取って読んだのか皆目分からない。

 拾い読みした記憶が今こうして本書にたどり着き、「林芙美子すごい!」に始まり、「『放浪記』を読まなければ」や「改稿されまくった今の『放浪記』はダメなんだな」、「林芙美子記念館に行ってみよう」、「林芙美子賞はそういう位置づけか」などと広がり続けている。どこかで1〜2回さらっと目を通した記憶からこういう展開になることがあるわけで、何でも少しでも読んでおくとマイナスになることはないのだな。

 まずは林芙美子記念館だ。

文学とは何かを垣間見る『芥川賞の謎を解く』(文春新書)


 芥川署受賞作が載る『文藝春秋』の読みどころはたぶん受賞作品なのだろう。私は選評のほうが好きだ。手練れの銓衡委員たちが渾身の力を振るってべた褒めしたり筆誅を加えたりする短文はことごとく名人芸なのである。その芥川賞選評を完全に読破してまとめたのが本書だ。著者の鵜飼哲夫さんは読売新聞記者である。取材経験のある小説家のエピソードを交えたところにコクが出た。

 本書を読んであらためてよく分かったことがある。文学には正解がない。銓衡委員同士で意見が対立する。それぞれの文学観に基づいて銓衡するから全員一致は滅多にない。

 正解がない。これが文学の核心なのである。もちろん文章のうまい下手やネタの選択の善し悪しなどはあるけれど別問題だ。

 私が算数に落ちこぼれ、社会の暗記をあほくさと思い、積み上げられた知識でしかない法律に魅力を感じず法学部に6年も在籍したのは、正解が最初から決まっている学問へのギモンが頭の隅っこにあったからである。などと後付けで正当化してはいかんのだが、そういうギモンはずーっと持っていた(たぶん)。

 正解のない学問ほど奥の深いものはないではないか。

 駿台予備学校国語科の名講師・藤田修一師は小説の読み方として「教養読書」と「受験読書」を挙げ、後者の読み方を指導した。後者であれば設問次第では正解を導くことができ得るというわけだ。

 教養読書はあからじめ決められた正解を探す必要はない。正解が最初からないので探しようがないのである。そこに自由を感じる。文学とは自由の営みでもあるわけだ。

 芥川賞選評(だけでなくてもいい)をすべて集めた本があれば読むのになぁ。

太宰治『斜陽』を50代で読む



『走れメロス』を読んだのは中学2年、大阪・岸和田市の光陽中にいたときで、国語の教科書に載っていた。以来太宰治を読んだことはないはずだ。かぶれる若者が多いという話を聞いて距離を置いていたのである。人生経験のないガキに文学が理解できるわけがないという判断もあった。

『小説的思考のススメ』(安部公彦・東京大学出版会)の第1章で取り上げていたのでどれどれと読んでみたのが『斜陽』である。

 若いころ読んでいたら理解できていなかったのは間違いない。50代後半になって読むと染みる染みる(笑い)。

 太宰にかぶれる若者はこれを10代や20代で理解できるのか。理解できているとしたら恐ろしいというか、おみそれしましたと言うほかない。私が40代で読んでいたら理解できない記述がある。いろいろなものを見たり聞いたり感じたりして多少の傷の蓄積があるから染みるのであって、10代や20代が自分の人生の地つなぎとして本書を噛み締めることができるとは思えないのだが、うーん、阿呆な私を基準に考えてはいかんということか。

 私の阿呆さをあぶり出されただけかもしれないが。ついでに『人間失格』を読んでみるかな。

『冒険の森へ 傑作小説大全8 歪んだ時間』(集英社)


 時間軸の歪みはSFの分野だという先入観があったのだが、純文学小説家から大衆文学小説家までが取り入れているではないか。あの芥川龍之介まで。

 特に浅田次郎さんの『地下鉄に乗って』が余韻を残す。「平成の泣かせ屋」と言われる浅田さんが1995(平成7)年にこの小説で吉川英治文学新人賞を受賞したのは当然である。

 地下鉄を舞台にした小説『おもかげ』を浅田さんは2017(平成29)年ごろ『毎日新聞』に連載した。新聞小説は滅多に読まない私が引き込まれたので記憶に残っているのだが、浅田さんには『鉄道員』という小説もあることを思い出した。夥しい人生を乗せて運ぶ鉄道が創作欲を刺激するのかもしれない。そこに時間軸を加えて異界をつくれば小説の舞台になる。


 【長編】
浅田次郎「地下鉄に乗って」
山田正紀「竜の眠る浜辺」

【短編】
芥川龍之介「魔術」
北杜夫「買物」
安部公房「鉛の卵」
式貴士「カンタン刑」
小松左京「哲学者の小径」
筒井康隆「万延元年のラグビー」
清水義範「また逢う日まで」半村良「およね平吉時穴道行」

【掌編】
吉行淳之介「扉のむこう」
原田宗典「時間が逆行する砂時計」
矢野徹「ぼくの名は・・・・・・」
星新一「夢の未来へ」

花房観音さんのノンフィクション『京都に女王と呼ばれた作家がいた 山村美紗とふたりの男』


 出版界では今も触れてはならないとされる山村美紗と男たちについて、小説家の激しい魂で突破した本である。大手出版社から出せるはずがなく、西日本出版社が出版社魂を発揮した。

《これを書かないと、私は悔やむ。それは間違いなかったし、前に進めない》

《仕事を失う恐怖よりも、書かずに死ぬ恐怖が先に来て、筆を進めた》

 このような執念を持った書き手ほど手に負えないものはなく、しかしそれが素晴らしい作品を生む。読者冥利に尽きる。

 山村美紗さんは200冊以上の小説を残し、その多くがテレビドラマになった。にもかかわらずというべきか、文学賞には無縁だった。《美紗について調べて、何よりも印象に残ったのは、彼女の「自信の無さ」だった。あんな有名な作家が、自分と同じ苦しみを抱えていたのかと思うと、胸が痛んだ》というところに観音さんの猛烈な執筆動機が記されている。

 山村美紗さんの元配偶者らにも取材している。日垣親分の企画で西村京太郎さんにお目にかかって一緒に写真に収まったことがあるせいかなおさら興味深かった。巻末の参考文献一覧を見ても本書は小説ではなくノンフィクションである。

 本書を書いた観音さんと本にした西日本出版社を応援するために1冊買おうではないか。

 

 

読書論と執筆論が記された高橋源一郎『「読む」って、どんなこと?』


 脳天から肛門までまっすぐ斬り降ろされたような読後感(ってどんな読後感?)である。100ページ少々の、1〜2時間で読むことができる冊子と言ってもいいくらいの本なのに、核心を突く記述が次々に出てくるものだから、うなり、目からうろこが落ち、天を仰ぎ、わかったと叫び、読み返し、引用されていた鶴見俊輔『「もうろく帖」後篇』をネットで探して買い、そこから思い立って豸さんの本を数冊買い、と波紋が広がる。

 名著『AV女優』からの引用もあると言えば、通り一遍の読書論ではないことが容易に想像できるだろう。

 本書は読み方の本だが、裏から見れば書き方の本である。そもそも高橋源一郎さんは小説家なのである。

 大事なことは1行で書けとか分かりやすく書けとか、文章の書き方や表現方法を指南する本が数え切れないほど出版されているけれど、源ちゃんはその辺りを一刀両断して「これだろ」と見せてくれた。あまりにも大事なのでここに抜き出すようなことはしない。該当箇所に赤線を引き、そのページの角を折ってあるので、私だけ分かればいい。


 

『巨匠とマルガリータ』の孤独


 池澤夏樹個人編集世界文学全集(河出書房新社)の1巻から順番に読んでいるだけなのでこんな小説があるとは知らなかった『巨匠とマルガリータ』の奥付を見て驚いた。

 初刷が2008年4月。2018年4月に6刷まで来ているではないか。そんなに有名な小説なのか? 題名も著者のブルガーコフの名前も私は知らなかったので少し焦ったが、珍しい本なので売れているのか? 全面改訳ということでファンが飛びついたのか? 

 奇想小説だとか荒唐無稽だとか言われているけれど、社会主義ソ連政府や当時のソ連文学界に対する皮肉や批判をするのが狙いではないかと感じる小説で、環境がこの小説を生み出したと言っていいのではないか。

 月報に池澤夏樹さんが書いた《結局のところ、彼が信じていたのはマルガリータの無心の愛だけではなかったか》が著者ブルガーコフの孤独を言い当てているように思う。何とも切ない小説である。
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