同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ニシノ書店

角田光代『紙の月』はオーケストラ演奏に似て


 41歳の主婦が銀行でパートを始め、お客さんのお金に手を付けて、狂っていく。複数の主題が織り成す長編小説で、柴田錬三郎賞を受賞した。角田光代さんの小説を読んだのはこれが初めて。数年前に勧められて本は買ってあったのだが、ぎっちり詰まった読書計画の隙間に押し込んでようやく読み終えた。めちゃくちゃ面白いという月並みな感想をまず書いておく。

 主題を思いつくままに挙げてみると、
・お金
・若い男
・夫婦関係
・女友達

 破滅に向かって速度を上げる終盤は本から目を離せなくなった。角田さんうまいなぁ(ってお前は何様じゃ)。

 この本を勧めてくれたのはチャーミングな知子ちゃんだ。女性心理について聞いていたとき挙げてくれたのがこの小説で、なるほど女性心理が細やかに描かれていて、がさつ大王の私でも理解できるところと首を傾げてしまうところがあった。この小説を読み終えても女性は依然として難しい生き物だが、だから小説になるのだなぁ。

 

何と言っても「淵」が素晴らしい『文学の淵を渡る』(新潮文庫)


 大江健三郎さんと古井由吉さんによる6回にわたる別々の主題での対談を活字化した。「文学の淵」というのがいい。とりわけ「淵」がいい。『広辞苑第7版』によると、「淵」には《\遏沼・湖などの水が淀んで深い所。古今和歌集(雑)「きのふの―ぞけふは瀬になる」⇔瀬。浮かび上がることのできない境涯。「絶望の―に沈む」》という意味がある。いやぁ、いいなぁ。

 私が注目したのは嘉村礒多が章を超えて何カ所かに出てきたことだ。わが車谷長吉さんが絶賛した私小説家なので私も読んでいるが、苦しい。ただただ苦しい。車谷長吉さんの名作で私が大好きな『三笠山』も救いがまったくないけれど、だから「淵」なのであるな。

 JR山口駅の近くに生家が保存されているので、水俣に行く機会があれば途中下車しよう。ってほぼ嘉村礒多の感想で終わってしまった。

繊細さに驚愕せざるを得ない池澤夏樹個人編集日本文学全集『中上健次』(河出書房新社)


 いかつい顔の印象しかない中上健次だが、凄まじい小説を書いていたことは薄々知っていた。いつか読まなければと思いながら読まずに終わるかも知れない、私にとって中上健次はそんな小説家だった。池澤夏樹個人編集日本文学全集に入っていなければ、私は読むことなく死んだだろう。危ないところだった。

 収録されている『鳳仙花』は中上健次三部作の前史である。『鳳仙花』を読んで複雑な大勢の人間関係を基本知識として飲み込んでから三部作に取りかかるほうがいいという池澤さんの配慮である。

 あのいかつい顔(しつこいか)でよくぞこんな繊細かつ重厚な文章を書いたものだと最初の数ページで怖じ気づいた。中上健次の磁場である「路地」で生きる主人公(モデルは中上健次の母親)は時代や地域の流れに翻弄されながら自分がその場その場で下した判断を真正面から引き受ける。そんな主人公の性交の場面も文学的な筆致で刻まれていて、自分の母親の性交を小説とはいえ書いてしまう業に唸るしかなかった。

 広島から新大阪に向かう新幹線の中でも読んでいたところ、新大阪駅の手前で乗り継ぎの案内が放送され新宮駅と耳に入ってきて、おおと声が出た。

 決して読みやすい文体ではないのだが、丁寧に頭から読んでいけば破綻はない。つまりよく計算された文体なのである。読み飛ばすことができない緻密な文体のせいだろう、中上健次は読者にのめり込むことを求めているように感じた。

 


 

夏目漱石『門』(岩波文庫)を今ごろ読む


 この小説を私が10代や20代で読んでも意味が分からなかっただろう。いや、50代の今だって十分に分かったと言えるのかどうか。

 そもそも今の時代に『門』の深刻さがどれほど現実味を帯びて伝わるだろう。時代と背景が変わるとなかなか難しいものがあるのではないか。

 自業自得の人生に打ち摧かれた宗助と御米が慎ましやかに寄り添い息を殺してひっそりと崖の下で暮らす様子は、車谷長吉さんが惚れ込んだ嘉村礒多の『崖の下』に酷似していると感じた。『門』が1910(明治43)年、『崖の下』が1928(昭和3)年だから、そうなのかもしれない。ちなみにアニメ『崖の上のポニョ』は2008年の公開である。

 宗助と御米を描くことで漱石は人間の愚かしさを抉(えぐ)り、愚かしさに罰を与え続けた――と私は読んだ。この二人を、愚かしさを、自信を持って嗤うことができる人がこの世に一体何人いるだろうか。

大発見があった『冒険の森へ 傑作小説大全7 牙が閃く時』(集英社)

 お盆に楽しく読んだのがこれ。どの小説も動物が出てくる。そういう括りの巻である。動物小説なら戸川幸夫さんだろうと思っていたが、意外に大勢の小説家が作品を書いている。

 この巻で特筆すべきは西村寿行さんの『滅びの笛』と宇能鴻一郎さんの『鯨神』だろう。

 前者はカミュの『ペスト」や韓国映画『新感染』に勝るとも劣らない。山梨県がドブネズミの大群に襲われ、東京都を救うために政府から捨て駒にされる。東京から帰省した人が近所の人から嫌がらせを受ける昨今の新型コロナ騒動と重なる場面があり、いい小説は時代を超えるんだなぁと納得した。西村寿行さんの名前はよく本屋で見かけたが1冊も読んだことがなかった。文明批判とも言うべきこのような作品を書いていたとは知らなかった。

 細部を緻密に調べてあるので作品にリアリティがあり、ドブネズミが人間を襲うと言われても、甲府市が壊滅したと言われても、荒唐無稽と思えない。すごい小説家だな。

 この作品の最後のほうで、子供と女性、老人、けが人を守るために大勢の男が円陣を組む場面がある。私は「あ!」と興奮してのめり込んだ。ずーっと頭の中で転がしてきた理屈が繋がる。私にとって大発見の場面なのだった。相模原市の「やまゆり園」での障害者殺傷事件や新型コロナ倒産をまっすぐに結ぶことができる場面なのである。どこかでまとめて書くことにする。

 宇野さんといえば川上宗薫さんと並ぶ大家だとばかり思っていた。1962年に芥川賞を受賞したこの『鯨神』のような作品を書いていたとは。己の不明を恥じるばかりである。

【長編】
西村寿行「滅びの笛」

【短編】
宮沢賢治「猫の事務所」
岡本綺堂「虎」
椋鳩十「片耳の大シカ」
新田次郎「おとし穴」
戸川幸夫「咬ませ犬」
宇能鴻一郎「鯨神」
豊田有恒「火星で最後の……」
藤原審爾「狼よ、はなやかに翔べ」
井上ひさし「冷し馬」
中島らも「クロウリング・キング・スネイク」

【掌編】
広津和郎「狸」
嵐山光三郎「岡野の蛙」
北杜夫「推奨株」
川田弥一郎「青い軌跡」
星新一「不満」

『太平洋の防波堤/愛人ラマン/悲しみよ、こんにちは』(池澤夏樹個人編集世界文学全集4巻・河出書房新社)


『愛人ラマン』も『悲しみよ、こんにちは』も題名は知っていたが読むのはこれが初めて。若いころ読んでいたら途中で投げ出した可能性が高い(笑い)。

 デュラスの『愛人ラマン』は『太平洋の防波堤』を下敷きにした小説なのだった。詩的で夢想的な記述が夏の空にむくむくと湧き起こる雲のように連ねた作品なので、『太平洋の防波堤』を先に読んでいないと難儀する。『愛人ラマン』は映画になっているようだが、原作を読むよりは『太平洋の防波堤』のほうが理解の助けになるはずだ。両方の小説を収録した池澤夏樹さんに感謝である。

 サガンの『悲しみよ、こんにちは』も有名な作品だが、この小説が発表されたのが1954年だということを踏まえないとなぜこれほど高く評価されたか分かりにくい。石原慎太郎の『太陽の季節』はあの時代だから衝撃を与えたという話に少しだけ似ているか。アランドロンの出世作『太陽がいっぱい』(1960年)の空気感に似ていると私は感じた。小説の断片を生み、積み上げて小説の形にしたのがサガンの10代後半と知ると、早熟さに驚く。

 照れくさそうな顔をしたサガンの写真がカバーの折り返し部分に載っているのだが、これは何歳ごろだろう。なかなかかわいい。


 

池澤夏樹編集日本文学全集『近現代作家集掘戞焚禄仆駛漆啓辧


 順番に読むつもりだったので1巻『古事記』と2巻『口訳万葉集/百人一首/新々百人一首』と読み進めたが、そのあと26〜28巻の『近現代作家集』機銑靴鉾瑤鵑澄6畍渋紊瞭本の小説家の作品を少しでも広く読むことを優先したのである。今回の『近現代作家集掘戮眸鷯錣北滅鬚ぁ

 野呂邦暢さんの『鳥たちの河口』は新潮文庫『日本文学100年の名作』第6巻ですでに読んでいた。主人公に重なるところがあり身につまされた。こういうところが文学なのだろう。新潮文庫ばかりか池澤夏樹さんも選んだということは名作の中の名作なのだなぁ。

 池澤夏樹さの『連夜』は沖縄が舞台である。勝手知ったる地名がいくつも出てきて、行ったことのある店も出てきて、フクザツに懐かしい(笑い)。

 円城塔さんの作品だけは難渋した。表現の枠を超えたのだろうが、常識人間の私はついていけなかった。

 さて、この次は何巻を読むか。3巻『竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』に大きく戻るか、15巻『谷崎潤一郎』辺りの近現代作家をふらふらするか。そもそも私が生きているうちに全巻読み終えることができるのかという疑問と危機感を抱えつつ、先を急ぎたいのだがここに来て迷っている。

 
 収録作品は次のとおり。

内田百 日没閉門
野呂邦暢 鳥たちの河口
幸田文 「崩れ」(抄)
富岡多惠子 動物の葬禮
村上春樹 午後の最後の芝生
鶴見俊輔 イシが伝えてくれたこと
池澤夏樹 連夜
津島佑子 鳥の涙
筒井康隆 魚籃観音記
河野多惠子 半所有者
堀江敏幸 スタンス・ドット
向井豊昭 ゴドーを尋ねながら
金井美恵子 『月』について、
稲葉真弓 桟橋
多和田葉子 雪の練習生(抄)
川上弘美 神様/神様2011
川上未映子 三月の毛糸
円城塔 The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire

高橋一清『編集者魂』(集英社文庫)でやっぱり


 小説家は職人だろう。コツコツと地道に練り上げる手仕事なのだから。その職人の仕事ぶりを垣間見ることができた。

 ヘミングウェイは『老人と海』を200回以上読み直して手を入れた。トルストイの『戦争と平和』は原稿用紙換算で4500枚。これを7回全文書き直し、推敲を重ねたそうな。

 ――と書いて両方まだ読んでいないことに気づいて焦ってしまったが、自分がふだん使っている言葉だからといってそうそう安易に書き付けたものが名作になるわけがないという話である。自分に厳しくなければ一流の職人になることはできないということでもあるなぁ。

 一流の職人に憧れるが、ヘナチョコの私には敷居が高すぎる。


 

高橋源一郎『誰にも相談できません』(毎日新聞出版)が見る遠くの水平線


 売れている。今年2月に第1刷が出て、6月に第5刷。人生相談に高橋源一郎さんが答える本だ。その答えを最初のうちは「え? そう来るの?」という驚きで受け止めたが、半分くらい読むと「うん! そう来るよね!」と受け止めている自分がいる。ここにワタシのセーチョーがあるのだなたぶん。

 源ちゃんは結婚5回の猛者で、両親は規格外。こういう人はいろいろなものを下から見て、見抜く。この目線が含蓄に富む回答を生み出すのだろう。『論語』の孔子に似ていると言うのは褒めすぎか。いやそういえば高橋さんは『論語』の解説本を書いている。

 車谷長吉さんの人生相談『人生の救い』が“破格”ならこちらは“良識”。どちらも何度も読み返してしまう人生相談本である。


 


『記者たちは海に向かった』(門田隆将・角川文庫)


 よくある記者モノだと思ったのでずっと距離を置いてきた。しかし、東電常務と記者が号泣する口絵の写真がどうも気になる。とうとう手に取った。

 3・11のとき浜通りの『福島民友新聞』の記者たちがどう動いたか。人を助けようとして自分の命を投げ捨てた熊田記者の軌跡と目の前の老人と孫を見捨てた木口記者の悶絶を軸にしたノンフィクションである。福島で3年半過ごしたし、民友新聞本社(の中の読売の支局)には一度行ったことがあるしで、一気に読み終えてしまった。

『民友新聞』が舞台なのだから記者本人が取材して書けばいいのにという話ではなかった。当事者だけに重く生々しすぎて取材が難航する。手練れのノンフィクションライターが丹念に取材してまとめ、後世に残したのは正解だった。

 新聞記者は正論の業界なので、津波が迫ってきたその状況では見捨てざるを得なかったと周囲が慰めても木口さんは自責の念に苛まれ続けるだろう。2011年3月11日の出来事はまだ終わっていないのである。自分の首を絞めたくなることがあるはずで、その塗炭の苦しみを語り続けてほしい。それが誰かの命を救うことにつながりうるし、正論だけでは解決しない人間の生きるという行為の意味を掘り下げることで深い記事を書く日が来ると期待したい。

『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』のようなおめでたい新聞記者モノとは違うこの本は読み継がれるべきである。

 ところで、ピュリッツァー賞受賞写真「ハゲワシと少女」を例に津田大介さんが解説で記者はどうすべきかと触れている。「ハゲワシと少女」はトリミングしたもので、ハゲワシに狙われているように見える少女の周囲には実は人がいたことをとうの昔に『毎日新聞』で藤原さんが明かしているのを知らないのかな。私が編集者なら解説は『民友』のライバル紙『福島民報』の誰かに依頼するけどなぁ。


冒険の森へ傑作小説大全6巻『追跡者の宴』


 生島治郎さんの名前は知っているけれど小説を読んだことがなかった。五木寛之さんの小説は大学時代に『青春の門』を読んだあとは随筆ばかり。この6巻には生島さんの『男たちのブルース』と五木さんの『裸の町』という長編が収録されていて、どちらも背景に戦争が色濃く残る。

 山本周五郎の『ひとごろし』はさすが名人芸。

 高城高さんも中薗英助さんも稲垣足穂さんも城昌幸さんも夢枕獏さんもここで初めて作品を読んだ。いろいろな小説家のいろいろな作品を横断できる全集は、手っ取り早く守備範囲を広げることができるので私のような車谷長吉さん命となればヤクオフなどで署名本まで漁ってしまう縦断型の読書をしてきた私には大変ありがたい。


 [収録作]
【長編】
五木寛之「裸の町」
生島治郎「男たちのブルース」

【短編】
高城高「汚い波紋」
都築道夫「まだ日が高すぎる」
中薗英助「外人部隊を追え」
山本周五郎「ひとごろし」
筒井康隆「走る取的」

【掌編・ショートショート】
稲垣足穂「お月様とけんかした話」
吉行淳之介「追跡者」
小泉八雲「むじな」
城昌幸「花結び」
夢枕獏「二階で縫いものをしていた祖母の話」
星新一「復讐」

日本文学全集『近現代作家集』2(河出書房新社)で初めて読んだ有名な小説は


 1人の小説家を気に入ると、その人の小説を次々に読むことになるので、そこからしばらく出ることができなくなる。私のような読み方をしてしまう場合、大勢の小説家を横断できる編集をしたこのような本が大変ありがたい。

 この本で初めて太宰治の『ヴィヨンの妻』も井上ひさしの『父と暮せば』も読むことができた。もちろんほかの小説も全部初めてだ。こんなに小説家がいて、こんなに小説があるのかという、当たり前のことに今ごろ驚いている私は阿呆だが、いや、阿呆でよかった。だって楽しめるんだから。

 次は近現代作家集3を読む。


 収録作品は以下の通り。

武田泰淳 汝の母を!
長谷川四郎 駐屯軍演芸大会
里見 いろおとこ
安岡章太郎 質屋の女房
色川武大 空襲のあと
坂口安吾 青鬼の褌を洗う女
結城昌治 終着駅(抄)
中野重治 五勺の酒
太宰治 ヴィヨンの妻
井上ひさし 父と暮せば
井伏鱒二 白毛
吉行淳之介 鳥獣虫魚
久保田万太郎 三の酉
安部公房 誘惑者
室生犀星 鮠の子
川端康成 片腕
三島由紀夫 孔雀
上野英信 地の底の笑い話(抄)
大庭みな子 青い狐

『金色夜叉』に親近感を抱いたけれど尾崎紅葉さんは


 話は30年ほど遡る。熱海に義父を連れていったとき「ぜひ見たいものがある」とせがまれた。何でも「太郎と花子の像」があるというのである。

「太郎と花子?」。初耳だった。浦島太郎? 木村太郎? ほかに太郎は浮かばない。花子といえばジャストシステムの商品にあるけれど、何でジャストシステムの商品が像になっているのかという疑問が生じる。

 義父が見たがったのが「貫一とお宮の像」と分かって「全然違うやんけ」とひっくり返ったが、あれが『金色夜叉』なのだった。思えば小学生のころ読んだ漫画『がきデカ』(著者の山上たつひこは私の古里徳島出身)で変態チックな「貫一とお宮」のヒトコマがあった。私はそのヒトコマで寛一お宮の名場面を知っていた。

 その『金色夜叉』(岩波文庫)の上下巻を読み終えた。文語文が基本なので骨が折れるというのはこの際どうでもいい。

 私の高校時代、付き合った女の子が同じクラスの別の男に乗り換えるという何とも悲惨な経験(笑い)を私にさせてくれた。女はこういうことを平気でやってくれる生き物なのかとウブなワタシは傷ついたし学んだ。私のように振られた経験がある男にとっては理想の物語と言えなくはないのが『金色夜叉』なのだが、そんな物語を書いた尾崎紅葉に微苦笑を禁じ得ない。

 男の恋愛は犬の小便(何度も何度もクンクンとにおいを嗅ぐ)、女の恋愛は猫の小便(後ろ足で砂をかけてさっさと去る)というのが一般によくあることで、この原則を『金色夜叉』に当てはめると、貫一はしつこすぎる。どこまで復讐心を持ち続けるのか。お前はヘビ男か。自分が振った男に未練を持って心身を崩すお宮も過剰演出だ。

 振られた男が溜飲を下げる内容で、そこが人気を博したのではないか。ということは義父も?


 
 

 

 

三島由紀夫『小説読本』(中公文庫)の核心はやはり炭取の話


 三島由紀夫の有名な作品はほとんど読んでいない。数冊読んだだけでしかないのだが、煌(きら)びやかというのか端正というのか雅というのか、上流階級(私は見たことがないけれど)を書かせたら天下一品だと思った。そんな三島の論考『小説とは何か』は小説作法についての三島の考えが開陳されている。

 核心は『遠野物語』の炭取りがくるくる回るという記述への快哉であり、それを引いて車谷長吉さんは「虚点」の重要性を『読むことと書くこと―文学の基本―』(朝日文庫『銭金について』収録)に書いた。

 このブログのどこかで私は石原慎太郎『太陽の季節』の障子破りなどを「虚点」として挙げたが、ほかにもあるある。例えば中島敦の『山月記』はまさしくそうだし、村上春樹の『1Q84』で太陽が2つあるというのも「虚点」だろう。

 本書収録の『わが創作方法』も興味深いのだが、どれだけ具体的に記されても誰も真似などできようはずがない。だからこそ三島由紀夫なのだなぁ。

クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の重さ


 一筋縄で行かないのは、チェコの歴史を縦軸に、トマーシュとテレザ、サビナ、それからサビナとフランツを横軸に置いたものの時間軸が前後したりするし主題がいくつもあるし、主題の中には哲学があったりするからだ。映画は思わせぶりな写真で有名だが、小説は全く容易ではない。

 最新の翻訳だし、クンデラさんのほかの本も手がけた西永さんの翻訳なので熟(こな)れているはずなのだが、軽く読み飛ばすことができる主題ではないのでところどころで行ったり来たりうんうん唸ったり足踏みしたりを強いられた。

 ギリシャ神話オイディプス王を踏まえての《ひとは知らないからといって無実だと言えるのか》(202ページ)は重い。トマーシュが外科医から窓拭き掃除人になると分かっていて踏んだ踏み絵は、今の日本でも大勢の人に差し出されているのではないか。私もそうだ。

 犬のカレーニンを見て人間が幸福になることができない理由を述べた辺り(345ページ)も唸った。西垣通東京大名誉教授と考え方が似ていると感じたのは、犬や豚を人間と対等な生き物として見つめる目があるからだ。

《「使命なんてくだらないものだよ。(略)自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」》とトマーシュに言わせて物語は終わる。この発言は文脈に沿って読まないと誤読してしまうけれど、著者クンデラの置かれた状況と重ねれば深みを増すのではないか。

 なお、本書を原作にして1988(昭和63)年公開された映画を見た友人が「よく分からなかった」と言っていた。私はその映画は見ていないけれど、早稲田松竹の前を通るときにポスターを何度か見た記憶がある。エロティックなポスターなので実はワクワクしたが、見なくてよかった。優れた文学を優れた映画にした例が果たしてあるだろうか。

 池澤夏樹個人編集の世界文学全集(河出書房新社)全30巻のうちこれで3巻読んだ。まだ1割である。まだ27巻も残っている=読むことができるのはものすごく嬉しいのだが、生きているうちに読み終えることができるのだろうか(笑い)。



 

渡辺京二『無名の人生』(文春新書)に見る新型コロナとの向き合い方


 石牟礼道子の伴走者として知られる渡辺京二さんの語りおろしである。人間のリスクの1つに病気を挙げ、《個体数調整機能にちがいありません》と述べている。《いかんともしがたい自然の摂理》であり、《運の良し悪しと言うしかありません》。

 2014(平成26)年の初刷りだが、新型コロナを予言していたわけではない。確かにそうだと思うけれど、新型コロナ騒動が続く今こうあっさりと言ってしまうのはちと勇気がいる。

 水俣病をばらまいたチッソに立ち向かい、石牟礼道子さんに寄り添った編集者らしく、読ませるものがある。《自国を批判できるというのは、知性のひとつの条件でもある。書くものがお国びいきにならないことは、知識人として物を言う前提条件でしょう》は全くそのとおりで、「自社を批判できる」人や「自分を批判できる」人を信じる私の説を裏付ける。

 村おこしや町おこしに対する懐疑や職業を超えたところにある世界への目など、刮目して読んだ文章は本書の後半に多い。つらい経験をしていろいろと考えてきた人であることがしみじみと伝わってきた。『逝きし世の面影』を読まないといかんなぁ。

冒険の森へ傑作小説大全5巻『極限の彼方』(集英社)


 集英社創業90周年記念企画であるこの全20巻の全集はひたすら面白さに軸を置く。編集委員が逢坂剛、大沢在昌、北方謙三、船戸与一、夢枕獏なのだから当然と言えば当然なのだが。

 石原慎太郎の小説は大学時代にほぼ読んだが肉体派としての石原文学を久しぶりに味わうことができたし、理系の素養をフルに突っ込んだ小松左京の小説はSFの域を超えているし、いやもう大変。

 田中光二の小説を読むのはこれが初めてだ。ウイルスを“小道具”にしてハラハラドキドキの活劇は、新型コロナ騒動の今あまりにもぴったりの内容なのでその偶然に感謝した。ただただ面白い小説ってのはいいなぁ。

 新田次郎の小説は大学時代にほぼ読んだはずだが、『八甲田山死の彷徨』はラッキーなことに未読だった。この作品は経営者こそ読むべきだろう。山田少佐のような経営者に読ませたい(笑い)。

 収録作品は以下のとおり。

【長編】
田中光二「大いなる逃亡」
新田次郎「八甲田山死の彷徨」
【短編】
村山槐多「悪魔の舌」
手塚治虫「妖蕈譚(ようじんたん)」
武田泰淳「流人島にて」
石原慎太郎「処刑の部屋」
白石一郎「元禄武士道」
小松左京「ゴルディアスの結び目」
【掌編】
氷川瓏「乳母車」
五木寛之「無理心中恨返本」
星新一「ねらわれた星」
平井和正「世界の滅びる夜」

森博嗣『読書の価値』(NHK出版新書)


 今さら読書論でもあるまいと思ったが、ほかならぬ森博嗣さんの随筆である。結果、読んでよかった。読み方だけではなく書き方まで指南しているのだ。親切だなぁ。

 森先生は頭の切れる人なので、《僕は映像的な展開をする》(153ページ)。言葉ではなく映像的なものが広がるというのだ。

 私が反省したのは読み方である。最近は本を選んで買っているので「これは駄本だ」と蔑むことはさすがにないけれど、森先生は私にこう窘(たしな)める。《その場で評価を決めてしまうのではなく、すべて保留しておく。それが教養というものである、と僕は認識している》=87ページ

 共感するには《その本を手に入れるために、自分の金を出す》=83ページ。私は貧乏人なので服装などはどうでもよく、しかし本だけはお金をかける。新刊本があるのに古本を買うというケチなことはしない。それは自分の頭に対する冒涜だと思っているからだ。私が本にお金を出さなくなったら、ああカウントダウンが始まったなと覚悟するだろうなぁ。読書の価値は私の命と同じなのかもしれないな。

 森さんの随筆は手軽に読むことができる割に得るものが大きい。


森博嗣『集中力はいらない』(SB新書)


 編集者から集中力の本を書いてほしいと求められ、こんな題名の本を書いたのはさすが森先生というほかない。しかし、一見すると正しそうなことを「いや、ほんまにそうか?」と疑うのは誰でもふだん一瞬やっているはずで、森先生はそこからどんどん追究していくからすごい。

 大変共感したのはこれ。《発想は、集中している時間には生まれない》=39ページ

 私は仕事の原稿を書いたあとや書いている途中でランニングをするようにしている。不思議なことに原稿で加筆修正すべき部分がひょいと浮かぶことが何度もあるからだ。

 取りかかっているものについて「あっ!」と何かが浮かぶのはパソコンに向かっていないときだ。これはもう100パーセントそうなのである。頭の中がアイドリング状態なのか、あるテーマを泳がすというのか転がすというのか、「あっ!」はパソコンの前では起きない。なので筆記具を持ち歩き、「あつ!」のたびに単語を1つか2つ書く。そうすればあとで思い出すからだ。困るのは寝ているときで、「これは絶対に忘れるわけがない」と思うのだが、100パーセント忘れている(笑い)。

 ただし、パソコンで気合いを入れて原稿をガシガシ打っているときはLINEやフェイスブックの着信音を消すことにしているし、LINEやフェイスブックメッセンジャーも見ない。作業を中断させられるからだ。必死こいて作業をしているときにそういうのを見ると頭の弱い私は作業が止まってしまって、「えーっと何だっけ? どこからだっけ?」となる。凡人のせめてものテーコーであるな。

森博嗣『お金の減らし方』(SB新書)


 イサヤマさんがフェイスブックで挙げていたのでさっそく読んでみたのがこれ。森博嗣先生の小説は理系向きのようなので私は避けているのだが、随筆は面白い。この本の題名も森さんのへそ曲がり具合がよく出ていて好ましい。どうやら天邪鬼な人が共感するようだ。ということはイサヤマさんは。あ、いやいや。何が「いやいや」だ。

 さて。20億円を超える印税を得た先生の随筆なので、そういう見方で読まないといけない。私のような貧乏人が読んでもさっぱり役に立たないかというと意外にそうではないのは、《僕の母は、おもちゃは買ってくれなかったが、工作のための道具ならば、ほぼ無条件で欲しいものを買ってくれた。また、本も無条件に買えた》(109ページ)といった記述が嬉しいからである。しかし、急いで付け加えれば森さんは最初から頭がいい。そこを無視してしまうと大きな勘違いが生じる。

 この本だったと思うのだがページを折っていないのでこの本ではないかもしれない。でも森さんの随筆だったと思うのでここに書いておくのだが、死ぬ前に「もっと仕事をしておくべきだった」と思う人などいない、という記述があって、棺桶が見えてきた私としては大いに頷いた。私なら「もっと本を読んでおくべきだった」か。若いうちは見えないものが年齢とともに見えてくるし、考え方も変わってくる。


 

池澤夏樹編集日本文学全集26巻『近現代作家集機戞焚禄仆駛漆啓辧


 1人に惚れ込むとのめり込むタチなので、縦に掘ってしまう。このため名前は知っているのにその小説家の作品を読んだことがない場合が多い。そんな私に有無を言わさず突きつけてくれるので大変ありがたい。

 私がここで感想を書くなどおこがましいのだが、眤七阿気鵑呂垢瓦そ颪手だ。読むのは初めてなのだが、警察小説の書き手という印象があった。こんな小説を書いていたとはすごい才能だとしか言いようがない。特殊で際立つ舞台を選び、そこで繰り広げられる労働を蕩々と叙述した。小学4年ごろの音楽で習った「鰊(にしん)来たかとカモメに問えば」という民謡が重なる。鰊漁の壮大さが手に取るように見えた。

 収録された作品は以下のとおり。どれも泣きたくなるくらいの小説だった。生きているうちに読むことができて本当によかった。

久生十蘭「無月物語」
神西清「雪の宿り」
芥川龍之介「お富の貞操」
泉鏡花「陽炎座」
永井荷風「松葉巴」
宮本百合子「風に乗って来るコロポックル」
金子光晴「どくろ杯(抄)」
佐藤春夫「女誡扇綺譚」
横光利一「機械」
眤七亜崟音匸隹痢幣供法
堀田善衞「若き日の詩人たちの肖像(抄)」
岡本かの子「鮨」

前田速夫『「新しき村」の百年』(新潮新書)

 埼玉に今もあると知って驚いた。その「愚者の園」を一度見学に行かなければ。

 親の代からの村外会員で、新潮社編集者時代には武者小路実篤を担当したという筆者だからこそ踏み込み、問いかけた。本書が出版された2017年11月よりも今の2020年5月のほうが問いかけは染みる。すなわち、ユートピアの賞味期限は切れたと言い切ってしまうことができるだろうか(153ページ)というのが前田さんの問いかけであり、問題意識である。
 
 続く154ページから157ページは熱い。前田さんの問題意識の前提が述べられていて、私はお目にかかったことはないが、声が聞こえてきそうだ。うんうんそうだそうだと私は頷きながら読み進む。

 この人がわが車谷長吉さんの担当編集者だったのだ。都落ちして関西で息を殺して生きていた車谷さんを探し出し、小説を書けと励まし続けた人なのだった。車谷さんの小説や随筆でたびたび弄(いじ)られてきた編集者の芯は車谷さんと同じだった。恐らくそれは『逝きし世の面影』の筆者で石牟礼道子さんの伴走者だった渡辺京二さんとも通じる。





ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読む方法


 藤原さんと話しているときに何度かこの本の題名が出てきて「読んだ?」と聞かれ、そのたびに「読んでない」と答える恥ずかしさ。買ったものの数年も積ん読だった。だって500ページ近い小説なんだから。しかも登場人物が全員カタカナ。翻訳ものだから当たり前だけど。太郎次郎三郎花子など日本人名に置き換えてくれたらどれだけ読みやすいことかと小学4年のときにシャーロックホームズやルパンを読んで思ったものだが、それは今回も。

 読む機会が巡ってきたのは読書計画上読むつもりだった河出書房新社の世界文学全集第3巻『存在の耐えられない軽さ』がアマゾンで手に入らなかったから。それならこれを読むかとようやく手を伸ばした。

 日本語訳が熟(こな)れていて読みやすい。読みやすいのだが、主語が出てくるまでが長い文が時折あり、そのたびに息切れしそうになった。主な登場人物の家系図が最初に示されているのはありがたいことで、この家系図に数え切れないほど戻りながら読み進めた。家系図がなかったら早い段階で道に迷って遭難死したのは間違いない。

 問題は家系図に載っていない人たち(しかも私の苦手な横文字)だが、脇役の名前とその説明をまとめたサイトがいくつかあるので、パソコンやタブレットを横に置くか印刷しておくかすると便利だ。そこまでして読んだのは単純に面白かったから。

 この本の読み方だが、ちんたら読んではいけない。登場人物が分からなくなるからだ。1日に8〜12時間かければ3〜5日くらいで読み終えることができるのではないか。私は広島小田原を往復する新幹線の中でかなり読むことができた。

 近親婚への警告と読んだり、歴史は繰り返すと実感したり、アウレリャノ大佐はドン・キホーテみたいだなぁと共感したり、愛の深い女性はペトラ・コテスだなと思ったり、この小説はマジックリアリズムと言われているけれど車谷長吉さんの言う「虚点」が長くて多いだけだなと見立てたり。いろいろな読み方ができるのはこれだけの長編ゆえ。読み終えて「あーしんど」と思わなかったのは面白かった証拠だな。



『不知火のほとりで 石牟礼道子終焉記』


 カバーを取って現れた表紙の写真にまず見入った。表紙をめくった扉の写真にもまた見入ってしまった。最後にカバーの写真をしげしげと。どれも不知火の風景写真なのだろうけれど、表情が異なるのがニクい。

 新型コロナ騒動がなければ私は5月の連休に水俣にすっ飛んでいったに違いなく、それだけに、まだ見ぬ不知火の写真に感嘆のため息が出た。

 新聞記者という仕事の特性を最大限に活用した一人が筆者だろう。福岡から熊本をたびたび往復し、石牟礼道子さんの晩年に寄り添い、身罷(みまか)りの場に居合わせたのだから。とはいえ、大学時代に『早稲田文学』に携わっており、文学の素養が背景にあったゆえの石牟礼道子さん密着だった。石牟礼さんが編集委員を務めていた週刊誌の編集部にいたのに当時全く興味がなかったため貴重な機会を自ら棒に振った阿呆な私とは全く異なる。

 著者は石牟礼さんから「せりこみ猫」を知っているかと聞かれ、そのときはピンと来なかったが、のちに自分のことではないかと気づく=あとがきにかえて。せりこみ猫という単語は私も知らなかったが、著者に対しては似たようなことを思っていた。すなわち、いつの間にか家に入り込んで何食わぬ顔をして家族の一員のように暮らす猫と同じなのである。そんな著者に世間ではやっかむ向きがあるようだが、まぁ、役得ということで。

石牟礼道子さん『苦海浄土』(河出書房新社の世界文学全集)を読み終えたけれど


 夏ごろまでかかるかと思っていた石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読み終えた。端的に言えば、絶対に読まなければならない小説、だな。私の舎弟たちに「これを読め」と1冊だけ挙げるとしたら迷わず『苦海浄土』を指す。などとここに記してみたものの、56歳で読んだのだから何とも恥ずかしい。もっと早く読んでおくべきだった。

 本書では15カ所くらい線を引き、ページを折った。その中に『苦海浄土』を読み終えた人のその後を暗示するかのような一文がある。

《ただ、どのような意味でも、ひとたび水俣病にかかわりあえば、ひとは、みずからの日常の足元に割れている裂け目の中に、ついに投身してゆくおのれの姿を自覚せずにはいられまい》

 いやまったくそのとおり。不知火山脈とも言うべき深く大きな世界に自分の意思で駆け込んでしまった私は頷くしかない。私にとっては始まりである。

 それにしても石牟礼道子さんの文章よ。本人の努力があるのだろうけれど、9割以上が天賦の才だと思う。でなければシャーマンのような文章は頭に浮かばない。私たちは日本語で原文のまま読むことができるのは幸いである。世界文学全集に収録されているものの、これを外国語に正確に翻訳するのは不可能だ。

 池澤夏樹さんも巻末の解説で書いていたけれど、石牟礼さんが水俣病の発生前から水俣で暮らしていたのは天の配剤としか言いようがない巡り合わせである。


 

 

漱石『それから』は不倫小説ではない

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 夏目漱石の『それから』(岩波文庫)は何について書かれた小説か。この問いに端的に答えるのは私には難しい。

 この小説が書かれた1909(明治42)年の時代背景を前提に見る必要がある。姦通罪がある時代に全てを失う覚悟をして愛を貫こうとする生き方が縦線で、大地や海から食べ物を得てきた長い時代のあとにやってきた職業を持って働く時代に対する懐疑が横線で、家父長制下での父と息子の関係が斜め線で、という具合に当時の状況の上にいろいろな話が絡み合っている。

 駿台で藤田修一師から現代文を学んだ人なら、「君はさっきから、働らかない働らかないといって、大分僕を攻撃したが」(91ページ)で往年の名講義を懐かしく思い出すのではないか。



 私の読み解きでいけば小説の最後が最も興味深い。すなわち「職業を探して来る」と言って家を飛び出した代助の先に見えるのは、新聞社に籍を置いた平岡の背中なのである。まるで輪廻のような風景ではないか。最後の場面で漱石が言いたかったのは、人は代われど職業から逃れることはできないということではなかったか。現代に通じる話であるところがこの小説の味噌でもある。

 ところが、あろうことか『それから』を《まごう事なき不倫小説》と書いてしまった(3月15日付『毎日新聞』書評面「昨日読んだ文庫」)のが古幡さんという人だ。NPO法人本屋大賞実行委員会理事という肩書きを持っているが、失礼ながらこの古幡さんは小説を読めない人だと私は思う。本来ならデスクが「この読み方は浅薄すぎますよ」と原稿を差し戻すべきなのだが、それをせずに、あるいは疑問を感じなかったのか、荒っぽい原稿を垂れ流してしまった。古典を知っていれば《よくぞ教科書に載せたものだと思う》こともなかっただろう。

 漱石の研究者は大勢いる。これを読んだら絶句するわな。いや、毎日新聞書評面の“総監督”である池澤夏樹さんが読めばあまりの事態に新聞を手から落とすのではないか。

 小説はいろんな読み方をしていい。それだけに大変怖い。私のような浅はかな人間が「なんぼ何でもこの読み方は間違っている」と思うのだから、さらに私のこの文章を読んだ人が「なんぼ何でもこの読み方は間違っている」とあきれ返る可能性があり、そうなったら代助と平岡みたいだな。



 
 

中野翠『あのころ、早稲田で』(文春文庫)


 1965(昭和40)年から68(昭和43)年を中心に早稲田で過ごした時代を振り返った青春譚。私は当時2歳から5歳といったころ。羽田闘争や早大闘争、東大闘争など闘争の時代だ。

 中野さんのお気に入りの喫茶店が今は「天丼てんや」になっているというエピローグに、そこによく食べに行く私は「おおー」。今度行ったらそういう目で見回して残り香を探すことになるのは間違いないが、「天丼てんや」以外の何があるわけでもない。集まり散じて人が変われば時代も変わり店も変わる夢のあとなのである。

 さて。ここからが本題だ。

「あのころ、◎◎で」という題を与えられたら私は◎◎に何を入れるだろうか。大学にはほとんど行っていないので思い出がない。何とか書けるとしたらそのあとの沖縄時代か。しかし1フィート運動ボランティアと予備校講師という真面目な生活だったから「あのころ、沖縄で」はセイシュン譚にはほど遠い。

「あのころ、福島で」は社会人1年目から3年目を書くことができるとしても、支局長とデスクに怒鳴られ叱られ雷を落とされという記憶しかないからもはやセイシュンではない。

 こう考えると、本書の輝きに気づく。両手ですくいあげたい時代が確かにあった中野さんが羨ましい。どうでもいいが、本書に載せている高校時代の中野さんは知的で美しい。

 

立花隆『知の旅は終わらない』(文春新書)


 立花隆さんが静かにフェードアウトしつつあると感じざるを得ない本だった。語りおろしで、これまでの著書からの引用を随所に入れた。

 頭の出来が最初から違う。行動力も守備範囲も桁が違う。そういう人なのだ。

 角栄讃歌が何年か前に起きたが、立花さんは一刀両断している。

《政治の表面ではいろいろ偉そうなことをいっていても、裏にまわるとさもしい金儲けと税金逃れに精を出していたのが、田中角栄という男の実像なんです》

《この人は何でも金銭に換算してものを考える人》

 という記述があって、これは何も角栄に限るまい。

 角栄讃歌には私もずいぶん違和を抱えたので、「だよねぇ」としみじみ。

 立花さんの著書でまだ読んでいない本が何冊もある。焦るがな。 

魂を書いた大岡昇平『俘虜記』(新潮文庫)


 小林秀雄から「魂を書け。描写するな」と助言を受けて大岡昇平が『俘虜記』を書いたと知って買い直し、読み直した。初めて買って読んだのは中学1年か2年のとき。大阪・梅田の紀伊国屋書店で買って読み、皆目理解できなかったことだけは鮮明に覚えている。兵士を撃たなかったことについての大岡さんの思考の深まりは拙い頭にそれなりに残ったけれど、ほかは全く(苦笑い)。

 それがこの年齢になって読むと、大岡昇平の魂が私の肌に染み入ってくるような、そんな読みができるようになっている。ああ、魂を書くというのはこういうことかと合点がゆく。錯覚かもしれないが。

 この小説で大岡昇平が固執した1つが阿諛だろう。阿諛という単語が実に数多く出てくる。人間そんなものではないか。今に始まった話ではない。マキャベリでさえ。

 阿諛者を突き放すほどの人格者ではない私は阿諛者に対して冷酷な筆致を取ることができない。大岡さんの透徹した高潔さが眩しい。

冒険の森へ/傑作小説大全4巻『超常能力者』(集英社)

 分野で言えばSFだろうか。この分野はあまり読んで来なかった。例えば小松左京を読むのはこれが初めてだ。とっくの昔に買った『日本沈没』(小学館文庫)はまだ読んでいない。それほどSFに食指が動かないのだが、だからこそ全集を買う意味がある。無理にでも読むからだ。

 小松左京の慧眼には驚かされた。1964年に書かれた『エスパイ』は東西冷戦の終わりを予言するかのような物語なのだ。時代の読みが的確だから50年経っても読まれるわけで、星新一と共通する。

 恩田陸さんの『大きな引き出し』には泣けた。この分野は涙腺を刺激される。トラウマかもなぁ。

【長編】
小松左京「エスパイ」
半村良「黄金伝説」

【短編】
平井和正「エスパーお蘭」
筒井康隆「水蜜桃」
宮部みゆき「燔祭」
恩田陸「大きな引き出し」

【掌編】
星新一「超能力」
北杜夫「月世界征服」
阿刀田高「触媒人間」
眉村卓「ピーや」




『流れる』(幸田文・新潮文庫)で知る流れないことの意味


 地味な小説である。読み終えるのにずいぶん時間がかかった。地味すぎて、ほかの本を優先してしまうことがたびたびあったのである。幸田文さんの『流れる』(新潮文庫)だ。

 しかし、読み終えて、ははーんと思う。この本を勧めてくれた畏友の意図が分かった。

 芸者置屋に住み込んだ40過ぎの主人公(女性)は覚めた目で人々の動きを見る。そこがこの小説の面白さなのである。「本も読まないような阿呆を小説の主人公にしてはいけない」と根本先生が言う意味もよく分かった。流れる人々の中にいて流れないのが主人公だ。その目、どこかで見たことがあるような気がする(笑い)。

 畏友は病に伏せってしまったが、これまでにどれだけの愛情を私に与えてくれたことか。勧めてくれた小説を通して畏友との“会話”は続く。


 

 

 

準備運動としての『評伝 石牟礼道子』を読み終えて



 車谷長吉さんの小説を読むきっかけは『人生相談』(朝日文庫)だった。この本を読んで車谷さんに初めて関心を抱き、遅ればせながら小説を読み、のめり込み、全部読み、ついにひれ伏したのである。玉突き衝突とでも言おうか。何が何のきっかけになるか分からない。

『評伝 石牟礼道子』(米本浩二・新潮文庫)を読んだのは、積ん読状態の『苦界浄土』(池澤夏樹編集の世界文学全集)への玉突き衝突になるかもしれないと少し期待したからである。これまでにもNHKが特集した石牟礼道子さんの番組は見てきた。石牟礼さんの魅力が伝わってきたけれど、背中を押されるまでにはならなかった。番組が悪かったわけではない。2段組750ページもある『苦海浄土』があまりにも重いと感じていたにすぎない。

 逃げ回ってきたけれど、『評伝 石牟礼道子』を読み終え、『苦海浄土』をもう読むしかない。年内に読み終えて、水俣に行くしかない。水俣病の爆心地と言われた地域を歩き回るしかない。こう思うようになった。そこまでしてこそ石牟礼さんが好んで用いたと言われる「加勢」の出発点に立つことができるのではないか。

 境界のない世界であちらこちらに行き来する、すなわち漂浪る(され・る)石牟礼道子像を描いた本書から私の何かに引っかかったものを3つ挙げると――。

《いざというとき、人間はあさましいですね》という石牟礼道子さんの声。

《「近代」を根こそぎ問うはずが、金銭の交渉事に終わってしまった水俣病闘争》という米本さんの一文。

 石牟礼道子さんの父親が《もうけを度外視して道を完成させ》たこと。没落した一家を村の人々が支えたこと。石牟礼さんの「加勢」は父親譲りなのではないか。

 悪名高いチッソに絡む雅子さんが皇室に入ったことを石牟礼道子さんがどう受け止めたかなどを含めて、米本さんが書いていない話がまだ膨大に残っているはずで、その発表を待ちながら『苦界浄土』におっかなびっくりで近寄っていくとするか。


 

 

 

『双極性障害の人の気持ちを考える本』で分かったのは

 とっても親しい友人が病に倒れるのはつらい。似たような昏いものを抱えている友人だったのでなおさら。

 躁鬱病というと北杜夫が有名だ。ウィキペディアを見ると、ゲーテやベートーベン、ヘミングウェイ、玉置浩二、マライア・キャリー、太宰治などきらめく才能の持ち主が躁鬱病だった。と友人に言っても何のプラスにもならなかったかもしれない。

 周囲の人間は何ができるのか知りたいと思って本書を読んだ。答えは最後のほうに記されていた。

《友人や恋人は、なんとかしてあげたい、と思いますが、本人は、友人や恋人に気をつかう心の余裕を失っています。ここはやはり家族に任せるほうがいいでしょう》

 幸いにも友人はいい家族に囲まれている。私は遠くで悶え、祈るしかない。無力だなぁ。

 

『楽園への道』にこそ意味がある


 池澤夏樹編集の世界文学全集の第2巻がマリオ・バルガス=リョサの『楽園への道』であり、読み終えて、ああそうかと池澤夏樹さんの編集の意図がびんびん伝わってきた。池澤夏樹さんもそういう人なのだな。

 女性と労働者の地位向上を求めて身を挺したフローラとその孫で絵を追究した破滅的なゴーギャン。塊として明確な形になっていない、雲のような霧のような、自分の内世界を突き蹴りする、圧縮されてゆく念に突き動かされてゆく二人の様子は鬼気に満ち、読者は気圧され、引きずり込まれてゆく。

 私が線を引いた4カ所を神奈川県の友人にメールで伝えたところ、激しく共感してくれた。そして『楽園への道』を読むという。使う単語や表現に多少の違いはあるけれど、漱石も車谷長吉さんも土門拳も、そしてリョサも同じ狂気を抱えている。感染力は強そうだ。

 500ページほどあるけれど、あっという間に読み終えたのは、フローラとゴーギャンに併走したからだろう。

 このあと私が読むのは第3巻『存在の耐えられない軽さ』の予定ではある。福島の友人が石牟礼道子さんを読み込んでいて、やり取りをすると私は歯が立たない。いちおう28巻『苦界浄土』を持っているけれどまだ読んでおらず、28巻だからざっくり計算すると読むのは10年以上先になる。というわけで、急遽28巻『苦界浄土』だな。

池澤夏樹編集『日本文学全集』第2巻で学ぶ古典の楽しい読み方



 数ページ目で「あっ!」と声が出た。折口信夫の『口語万葉集』の「はじめに」が車谷長吉さんにつながったのだ。

 折口信夫はこう書いた。《わたしは、その八十人ばかりの子どもに接して、はじめて小さな世間に触れたので、雲雀のようなおしゃべりも、栗鼠に似たとびあがりも、時々、わたしの心を曇らした悪太郎も、それから又、白眼して、額ごしに、人をぬすみ見た、河豚の如き醜い子も、皆懐かしい》

 河豚の如き醜い子って……。そこまで書くか。わざわざ書かなくてもいいことを刻んだのは、そう書かざるを得なかった何かがあったのだろう。折口の凍り付いた苛烈な業をここに垣間見ることができる。見た瞬間に私が思い出したのはわが車谷長吉さんなのである。

 原典を見つけることができなかったが、村田喜代子さんの本の書評で車谷さんは《鼻が大きい美人》と書いた。読んだ瞬間そこまで書くのかと私はのけぞった。車谷長吉さんの業であろう。それを思い出したのである。

 玄侑宗久さんとの対談で《そういう台詞を書く車谷さんが不気味に見えてしまう》と指摘された車谷さんは《そう言われて意識したんだけど、村田さんの書評を書く場合は、「鼻が大きい」と書かないと成立しないんですね。それによって、他人の世界の中へ村田さんが踏み込む力があるということを表現したいんだ》と釈明している(車谷長吉『蟲息山房から 車谷長吉遺稿集』新書館)。

 車谷さんは折口の本を当然読んでいて、この『口語万葉集』の「はじめに」はもちろん読んだはずで、それが車谷さんの頭のどこかに残っていて、《鼻が大きい美人》になって表れたと私は見る。 

 さて。池澤夏樹さん編集の日本文学全集第2巻は折口信夫の『口語万葉集』と丸谷才一の『新々百人一首』の中からの抜粋と小池昌代さんの新訳『百人一首』で編まれている。

 小池昌代さんは美しい女性で、車谷さんもそう思った(『車谷長吉全集』2巻)というところからも興味を持って読んだ。百人一首は高校時代に古文の授業で習ったけれど、詩人らしい感性で引き直しただけあって読ませる。

 圧巻は丸谷才一の『新々百人一首』だ。博学だとは知っていたけれど、すごい。すごすぎる。丸谷才一に『毎日新聞』書評面の大改革を依頼した齋藤さん(当時主筆か社長か)の目は正しかった。その丸谷才一が『毎日』書評面を池澤夏樹さんにバトンタッチしたのだから、池澤さんの力は推して知るべしだ。

 で、この丸谷才一『新々百人一首』だが、これは高校生か大学生向けの古文の教科書になり得る。決定版と言っていい。私は高校時代に読みたかった。表現とエロスに触れているので高校生が読んだら鼻血ブーかもしれないが、そもそも古典はエロスの世界なのだから仕方ない。見るとか逢ふとか秋とか七夕とかの当時のニュアンスを私は初めて知った。

 池澤さんが本書に載せた『新々百人一首』は20首なので、残り80首を読むためには原典に当たるしかない。ただ、私は先を急ぐ。日本文学全集を読み終えたら『新々百人一首』を最初から読もう。

 しかし、あらためて思う。高校時代に古文を学んでいたときも思った。色に明け暮れていた優雅な暮らしをしていた連中はさておき、一般庶民の暮らしはどうだったのだろうか、と。私の関心はいつもその層に向かう。

『三四郎』に記された漱石の通奏低音

 岩波文庫の漱石全集が案外サクサク進むのは文庫本なので持ち歩いているせいだな。

 さて『三四郎』である。去年だったかおととしだったか東京大の三四郎池に行って蚊に食われたことを思い出しながら読んだ。

 漱石の通奏低音は美禰子が言った「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」ではないか。1908(明治41)年の『三四郎』に始まり、1909(明治42)年の『それから』、1914(大正3)年の『こころ』を貫く主題に見える。姦通罪があった時代だし、「一盗二婢」などとうそぶく堕落が漱石になかったのか蛮勇を持ち合わせていなかったのか機会がなかったのか相手がいなかったのか知らないが、文学としてはこれで十分成り立つ。

 この小説でも漱石の蘊蓄が遺憾なく発揮されていて、登場人物に《それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはない》と語らせ、偽善を突く。こんな表現は私には思いつかないけれど、全く同感だ。前述の通奏低音とここは通じる気の流れがあり、漱石は人間の昏くて深いところを掘るんだなぁ。

夏目漱石『虞美人草』が突如面白くなるのは

 最初は少々退屈なのだが、複数の男女の結婚を巡る話が見えてくる中盤以降がぜん面白さを増す。

 しかし、である。宗近が坊ちゃんのような豪快さを示す辺りはまぁ許すとしても、終盤に入ってその宗近にほかの登場人物が従うところや藤尾の終焉の唐突さに不満と違和感が残った。漱石の知が垣間見えるこれほどの文章を真似できないのは言うまでもないが、小説として見た場合ちらほらと綻びがある。などと偉そうなことを言って漱石さんゴメンナサイ。

 私の長年の持論と完全一致を見たのはここ。
《愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する》=197ページ

 深く染みたのはここ。
《持って生れた心の作用を、不都合な所だけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策である》=361ページ

 仕事で書いているメルマガで使おうと思ったのはここ。
《真面目というのはね、僕にいわせると、つまり実行の二字に帰着するのだ》=371ページ

冒険の森へ3巻『背徳の仔ら』


 2巻は剣豪小説なので後回しにして3巻を読んだ。

 特に面白かったのが立原正秋『白い罌粟』と黒岩重吾『裸の背徳者』。

 後者は太平洋戦争末期のソ満国境を舞台に、バツ印をつけられた日本軍兵士たちの生々しい生態を描いた。湘南国際マラソンの35キロ以降をヘロヘロになって走っていたときに何度も思い出したのがこの小説で敗走する兵士たちだった。

 小説が描く全く救いのない人間模様は、私に「人間の本性は獣だな」と再確認させた。獣であることを隠すために、あるいは獣性を抑えるために安定した衣食住の環境が人間には必要なのだ。

 大藪春彦の『野獣死すべし(付・復讐篇)』は昔よく耳にした。ネットで検索してみたところ1980(昭和55)年に角川映画になっていた。道理で。主演は松田優作だ。私は当時高校生。映画も原作の小説も見ていない。それがこの本を買ったおかげで読む機会を得た。なるほどこういう内容なんだな。松田優作以外の主役はあり得ない。

[収録作]
【長編】
大藪春彦「野獣死すべし(付・復讐篇)」
黒岩重吾「裸の背徳者」

【短編】
松本清張「鬼畜」
西村京太郎「南神威島」
野坂昭如「骨餓身峠死人葛」
筒井康隆「問題外科」
立原正秋「白い罌粟」

【掌編】
久生十蘭「昆虫図」
川端康成「地」
小酒井不木「痴人の復讐」
皆川博子「夜のリフレーン」
赤川次郎「アパートの貴婦人」

祝スプリングボクス優勝と映画『インビクタス』


 ラグビーに全く興味がなかった私は数日前からスプリングボクスのファンなので、優勝がうれしい。実況中継していた日本テレビのアナウンサーがマンデラ大統領に触れていたのは映画『インビクタス』を見たからではないか。

 鬼才・日垣親分の10月の課題がこの映画だった。南アフリカ共和国のアパルトヘイトは知っていたけれど、映画もスプリングボクスもマンデラ大統領の関わりも数日前に初めて知った。これを知ってしまうとスプリングボクスを応援する以外の選択肢はない。

 マンデラ大統領の人間としての器の大きさや政治家として未来を見る確かな目や寛容の精神など、その魅力にしびれる。映画では同時に家族との関係がうまくいっていない様子を垣間見せ、決して万能の人間としては描いていない。マンデラ大統領を思えばどんな苦難でも、いや、私は腰砕けだからそれは無理だが、せめてこの映画を見直して爪の垢を煎じて飲みたい。

 私がのめり込む性格であることはさておき、感動のあまりスプリングボクスのサイトに行ってウェアを2つ注文しただけでは済まず、この映画をアマゾンビデオで見たのにディスクを買ってしまった。さらに『マンデラ』と『遠い夜明け』も。子供たち(といってももうみんなほとんど自立しているし、会うこともほとんどないけれど)に見せなければならない。

 それにしても、まるでスプリングボクスの優勝を見越したかのような親分の『インビクタス』指定に驚く。


 

 

森博嗣さん『道なき未知』は考え方の役に立つ

 森博嗣さんの小説を読んだことはないけれど、エッセイは好きだな。で、この『道なき未知』(KKベストセラーズ)である。

 一番印象に残ったのは死に対する姿勢だ。野垂れ死にが本来の死だ、長生きしたいと思っていない、苦しみたくはない、健康診断不要、延命治療不要、安楽死で死にたい、と森さんは言う。私は自分で死を統制したいのでそれまでは健康を維持しなければならないと思っているけれど、健康診断にギモンが生じて以降行っていない。

 本書が自己啓発本として大勢の読者を獲得することを期待したい。得るもの、というか私の場合は「やっぱり」と再確認することが多かった。若いころに読んで、時々読み直す価値のある本だ。
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