同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ニシノ書店

漱石が垣間見える『彼岸過迄』(岩波文庫)


 去年だったか岩波文庫の漱石全集全27巻をまとめて買ったものの、読むべき活字が多すぎてしばらく放り出してしまった。ようやく手にしたのがこれ。

 高等遊民は出てくるし、親子関係に悩みを抱える人物も出てくるしで、漱石といえども全くの無から小説を書いたわけではないのだな。いや、小説は100パーセント空想の物語だと最近まで思っていたので、漱石でさえ経験を核として周囲を膨らませるのを知って「なーんだ」というか。

 小説は作者と離して読むべきだとは思うものの、チラリズムで姿が見え隠れするところを味わうのも外道かもしれないが面白くないわけではない。

 次は『行人』だが、年内に読み始めるとすると12月末に広島に向かう新幹線の中だろうなぁ。 

 

「カワイソウニ」と『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』(新潮社)


 晩年の石牟礼道子さんを取材で追いかけ臨終に立ち会うこともできた米本浩二さんによる3冊目の石牟礼さんものは、石牟礼さんと渡辺京二さんとの関係を追いかけた。ある種タブーとも言うべき関係を二人の日記などから文字を拾い、積み上げ、攻めてゆく。

 キーワードは渡辺京二さんの「カワイソウニ」だろう。この意味を米本さんに問われた瀬戸内寂聴さんは瞬時に「男が女にほれた表現です」と断じた、というところが私には圧巻であった。似たようなことを言う友人がいたし、私にもかすかな覚えがあるからだ。そうか、あの女に惚れていたということか、とか。

 私ほどのタイカともなればふたりがどういうカンケイであっても微動だにしないし、そういう下世話なことに対する興味がほとんどない。そこではなく、魂が抜き差しならないくらい織り込まれてゆく人に出逢えていいなぁという憧れに行き着く。などと思うのは棺桶が見えてきたせいかもしれない。

林芙美子入門とも言える桐野夏生『ナニカアル』(新潮文庫)


 ノンフィクションと錯覚してしまう。実話を踏まえて戦中の林芙美子の恋愛を描いた小説なのだが読後感が切ない。

 既婚の林芙美子が愛した男は『毎日新聞』の記者だったらしい。毎日新聞社が部数日本一でブイブイ言わせていたころの話である。ほかにも『サンデー毎日』や『朝日』の記者らが登場したり、戦時中の毎日朝日の競争やペン部隊、日本軍の実相を垣間見ることができたりして、林芙美子入門としても破格の女性の物語としても興味深い。

 林芙美子というと肝っ玉母さんの風貌が浮かぶのだが、検索してみたところ若いころの魅力ある写真がネット上にいくつか載っていて、私の林芙美子像が変わった。

 かつて週刊誌で読んだような記憶があり、記憶の断片を手がかりに探してみたらこの本に突き当たった。本書を読んでみると記憶の断片と本書の内容は重なる。ところがだ。私の記憶では『サンデー毎日』編集部時代(1992年秋〜93年春)に編集部のどこかその辺に転がっていた週刊誌でぱらぱらと拾い読みしたはずなのだが、初出は『週刊新潮』2008(平成19)年12月11日号から翌年11月12日号だそうで、私の記憶と完全に食い違う。一体どこで手に取って読んだのか皆目分からない。

 拾い読みした記憶が今こうして本書にたどり着き、「林芙美子すごい!」に始まり、「『放浪記』を読まなければ」や「改稿されまくった今の『放浪記』はダメなんだな」、「林芙美子記念館に行ってみよう」、「林芙美子賞はそういう位置づけか」などと広がり続けている。どこかで1〜2回さらっと目を通した記憶からこういう展開になることがあるわけで、何でも少しでも読んでおくとマイナスになることはないのだな。

 まずは林芙美子記念館だ。

文学とは何かを垣間見る『芥川賞の謎を解く』(文春新書)


 芥川署受賞作が載る『文藝春秋』の読みどころはたぶん受賞作品なのだろう。私は選評のほうが好きだ。手練れの銓衡委員たちが渾身の力を振るってべた褒めしたり筆誅を加えたりする短文はことごとく名人芸なのである。その芥川賞選評を完全に読破してまとめたのが本書だ。著者の鵜飼哲夫さんは読売新聞記者である。取材経験のある小説家のエピソードを交えたところにコクが出た。

 本書を読んであらためてよく分かったことがある。文学には正解がない。銓衡委員同士で意見が対立する。それぞれの文学観に基づいて銓衡するから全員一致は滅多にない。

 正解がない。これが文学の核心なのである。もちろん文章のうまい下手やネタの選択の善し悪しなどはあるけれど別問題だ。

 私が算数に落ちこぼれ、社会の暗記をあほくさと思い、積み上げられた知識でしかない法律に魅力を感じず法学部に6年も在籍したのは、正解が最初から決まっている学問へのギモンが頭の隅っこにあったからである。などと後付けで正当化してはいかんのだが、そういうギモンはずーっと持っていた(たぶん)。

 正解のない学問ほど奥の深いものはないではないか。

 駿台予備学校国語科の名講師・藤田修一師は小説の読み方として「教養読書」と「受験読書」を挙げ、後者の読み方を指導した。後者であれば設問次第では正解を導くことができ得るというわけだ。

 教養読書はあからじめ決められた正解を探す必要はない。正解が最初からないので探しようがないのである。そこに自由を感じる。文学とは自由の営みでもあるわけだ。

 芥川賞選評(だけでなくてもいい)をすべて集めた本があれば読むのになぁ。

太宰治『斜陽』を50代で読む



『走れメロス』を読んだのは中学2年、大阪・岸和田市の光陽中にいたときで、国語の教科書に載っていた。以来太宰治を読んだことはないはずだ。かぶれる若者が多いという話を聞いて距離を置いていたのである。人生経験のないガキに文学が理解できるわけがないという判断もあった。

『小説的思考のススメ』(安部公彦・東京大学出版会)の第1章で取り上げていたのでどれどれと読んでみたのが『斜陽』である。

 若いころ読んでいたら理解できていなかったのは間違いない。50代後半になって読むと染みる染みる(笑い)。

 太宰にかぶれる若者はこれを10代や20代で理解できるのか。理解できているとしたら恐ろしいというか、おみそれしましたと言うほかない。私が40代で読んでいたら理解できない記述がある。いろいろなものを見たり聞いたり感じたりして多少の傷の蓄積があるから染みるのであって、10代や20代が自分の人生の地つなぎとして本書を噛み締めることができるとは思えないのだが、うーん、阿呆な私を基準に考えてはいかんということか。

 私の阿呆さをあぶり出されただけかもしれないが。ついでに『人間失格』を読んでみるかな。

『冒険の森へ 傑作小説大全8 歪んだ時間』(集英社)


 時間軸の歪みはSFの分野だという先入観があったのだが、純文学小説家から大衆文学小説家までが取り入れているではないか。あの芥川龍之介まで。

 特に浅田次郎さんの『地下鉄に乗って』が余韻を残す。「平成の泣かせ屋」と言われる浅田さんが1995(平成7)年にこの小説で吉川英治文学新人賞を受賞したのは当然である。

 地下鉄を舞台にした小説『おもかげ』を浅田さんは2017(平成29)年ごろ『毎日新聞』に連載した。新聞小説は滅多に読まない私が引き込まれたので記憶に残っているのだが、浅田さんには『鉄道員』という小説もあることを思い出した。夥しい人生を乗せて運ぶ鉄道が創作欲を刺激するのかもしれない。そこに時間軸を加えて異界をつくれば小説の舞台になる。


 【長編】
浅田次郎「地下鉄に乗って」
山田正紀「竜の眠る浜辺」

【短編】
芥川龍之介「魔術」
北杜夫「買物」
安部公房「鉛の卵」
式貴士「カンタン刑」
小松左京「哲学者の小径」
筒井康隆「万延元年のラグビー」
清水義範「また逢う日まで」半村良「およね平吉時穴道行」

【掌編】
吉行淳之介「扉のむこう」
原田宗典「時間が逆行する砂時計」
矢野徹「ぼくの名は・・・・・・」
星新一「夢の未来へ」

花房観音さんのノンフィクション『京都に女王と呼ばれた作家がいた 山村美紗とふたりの男』


 出版界では今も触れてはならないとされる山村美紗と男たちについて、小説家の激しい魂で突破した本である。大手出版社から出せるはずがなく、西日本出版社が出版社魂を発揮した。

《これを書かないと、私は悔やむ。それは間違いなかったし、前に進めない》

《仕事を失う恐怖よりも、書かずに死ぬ恐怖が先に来て、筆を進めた》

 このような執念を持った書き手ほど手に負えないものはなく、しかしそれが素晴らしい作品を生む。読者冥利に尽きる。

 山村美紗さんは200冊以上の小説を残し、その多くがテレビドラマになった。にもかかわらずというべきか、文学賞には無縁だった。《美紗について調べて、何よりも印象に残ったのは、彼女の「自信の無さ」だった。あんな有名な作家が、自分と同じ苦しみを抱えていたのかと思うと、胸が痛んだ》というところに観音さんの猛烈な執筆動機が記されている。

 山村美紗さんの元配偶者らにも取材している。日垣親分の企画で西村京太郎さんにお目にかかって一緒に写真に収まったことがあるせいかなおさら興味深かった。巻末の参考文献一覧を見ても本書は小説ではなくノンフィクションである。

 本書を書いた観音さんと本にした西日本出版社を応援するために1冊買おうではないか。

 

 

読書論と執筆論が記された高橋源一郎『「読む」って、どんなこと?』


 脳天から肛門までまっすぐ斬り降ろされたような読後感(ってどんな読後感?)である。100ページ少々の、1〜2時間で読むことができる冊子と言ってもいいくらいの本なのに、核心を突く記述が次々に出てくるものだから、うなり、目からうろこが落ち、天を仰ぎ、わかったと叫び、読み返し、引用されていた鶴見俊輔『「もうろく帖」後篇』をネットで探して買い、そこから思い立って豸さんの本を数冊買い、と波紋が広がる。

 名著『AV女優』からの引用もあると言えば、通り一遍の読書論ではないことが容易に想像できるだろう。

 本書は読み方の本だが、裏から見れば書き方の本である。そもそも高橋源一郎さんは小説家なのである。

 大事なことは1行で書けとか分かりやすく書けとか、文章の書き方や表現方法を指南する本が数え切れないほど出版されているけれど、源ちゃんはその辺りを一刀両断して「これだろ」と見せてくれた。あまりにも大事なのでここに抜き出すようなことはしない。該当箇所に赤線を引き、そのページの角を折ってあるので、私だけ分かればいい。


 

『巨匠とマルガリータ』の孤独


 池澤夏樹個人編集世界文学全集(河出書房新社)の1巻から順番に読んでいるだけなのでこんな小説があるとは知らなかった『巨匠とマルガリータ』の奥付を見て驚いた。

 初刷が2008年4月。2018年4月に6刷まで来ているではないか。そんなに有名な小説なのか? 題名も著者のブルガーコフの名前も私は知らなかったので少し焦ったが、珍しい本なので売れているのか? 全面改訳ということでファンが飛びついたのか? 

 奇想小説だとか荒唐無稽だとか言われているけれど、社会主義ソ連政府や当時のソ連文学界に対する皮肉や批判をするのが狙いではないかと感じる小説で、環境がこの小説を生み出したと言っていいのではないか。

 月報に池澤夏樹さんが書いた《結局のところ、彼が信じていたのはマルガリータの無心の愛だけではなかったか》が著者ブルガーコフの孤独を言い当てているように思う。何とも切ない小説である。

『作家という病』の“病”

 読後に違和が残る。何なんだろうこれは。講談社現代新書なのに。著者は『小説新潮』に30年近く在籍した編集者なのに。

 すでに亡くなっている小説家たちを俎上に載せた感が大きいせいかもしれない。書き方の問題もあるのかもしれない。小説家の変な様子を面白がって書いているのならまだしも、冷静な常識人の目で見て書いているところに冷たさを感じてしまう。21人もの小説家をわずか300ページに詰め込み過ぎて消化不良になってしまったとも言えるだろう。

 中央公論社と新潮社で編集者をしてきた河野通和さんが『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)で描いた野坂昭如さんの話などには温かみと敬意と親しみがあった。そういうものが本書から感じられない。

 

本に書き込みのススメ『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(山本貴光・本の雑誌社)

 つい線を引きページを折ってしまう私を勇気づけるのがこの本だ。確か『毎日』と『朝日』のどこかの面で取り上げられていたので、活字系の人には興味と勇気を与えるのだろう。

 マルジナリアとは余白の書き込みを言うのだとか。本書によるとあの夏目漱石が余白に書き込みまくっていたそうで、「マルジナリア狂人」と名づけている(それ、いいのか? ワシはちょっと心配したぞ)。実例を踏まえながら漱石の書き込みを分類しており、「ほら、あの文豪でさえこれだけ書き込みをしたんですよ」と本書は読者にささやく。ほかにもモンテーニュやナボコフ、石井桃子などを挙げていてますます勇気が湧いてくる。

《本を使い込む人は、本に問いかけ、疑義を呈し、自分なりに補足して、本を改造してゆくのだ》という一文が結論になるだろうか。

 もう1つ挙げると、自分で索引をつくるという項目は目から鱗が落ちかけた。外国文学には効果てきめんのはずで、読み始めたばかりの夏樹個人編集世界文学全集『巨匠とマルガリータ』(ブルガーコフ・河出書房新社)にさっそく自己流簡易式で導入した。この小説は困ったことに600ページもあるし、近年の老化著しいわが脳みそゆえ、数日読まなければ「これ誰だっけ?」となってしまうのを、見事に解決してくれた。

 読み込んだ大事な本を古本屋に持って行って小銭に替えるのは、老化著しいとはいえ自分の脳みそを二束三文で売るのに似ていて、私の脳みそは売ってもいいが読んだ本は手元に残しておきたい。というわけで、どんどん書き込むのである。売らないのだから遠慮しない。

 

離婚劇までを冷静に描いた『表裏井上ひさし協奏曲』(西舘好子・牧野出版)

 市川市の井上ひさし展に行って刺激を受けて買ったのがこの本である。よりによって(笑い)。

 本書を読みながら「困ったなぁ」と思ったのは、岩波書店から出ている『井上ひさし短編中編小説集成』全集を買うべきかどうか迷いが生じたからだ。本書を読む限り井上ひさしさんを人間的に尊敬できそうにない。名作を数々書いているだけに、「どの口が言う」と思ってしまう。私がひれ伏す車谷長吉さんなら人間の業を書いてきたので生前お会いすることができていれば「案外ええ人やないか」と思っただろう。

 井上ひさしさんの生まれ育ちを見ると、書かざるを得ない魂というか情念の塊というか、そういうものが腹の中でぐつぐつ煮えたぎっていて、それが原動力となって後世に残る作品を生み出したのだろう。安易な想像をするけれど、生きていくのが苦しかった人なのではないかと思う。その反動で人間の理想の世界に憧れ、描いた、とここで私が言うまでもなく誰かがとっくに語っているだろう。

 それにしても本書を元配偶者のご本人が書いたのだとしたら、暴力を受けていたにもかかわらず抑揚的な記述に終始しているので立派だとしかいいようがない。残念なのは校正ができていないということだな。著者校さえしていないのではないか。校正がここまでひどい本を私は見たことがない。

 場所の記憶が全くないのだが、私は西舘好子さんにお会いしている。井上ひさしさんの暴力が激しくてという話を立ち話で聞いた。私には初耳だったと思う。それなのに企画を出さなかったのは、井上ひさしさんの名誉に傷が付いてしまうのではないかとためらったような記憶がかすかにある。お会いしたとすれば『サンデー毎日』編集部時代だろうから、井上ひさしさんが離婚と再婚をした(1986年)あとだから、いろいろ辻褄が合わないのだが。耄碌の始まりかもしれない。

角田光代『紙の月』はオーケストラ演奏に似て


 41歳の主婦が銀行でパートを始め、お客さんのお金に手を付けて、狂っていく。複数の主題が織り成す長編小説で、柴田錬三郎賞を受賞した。角田光代さんの小説を読んだのはこれが初めて。数年前に勧められて本は買ってあったのだが、ぎっちり詰まった読書計画の隙間に押し込んでようやく読み終えた。めちゃくちゃ面白いという月並みな感想をまず書いておく。

 主題を思いつくままに挙げてみると、
・お金
・若い男
・夫婦関係
・女友達

 破滅に向かって速度を上げる終盤は本から目を離せなくなった。角田さんうまいなぁ(ってお前は何様じゃ)。

 この本を勧めてくれたのはチャーミングな知子ちゃんだ。女性心理について聞いていたとき挙げてくれたのがこの小説で、なるほど女性心理が細やかに描かれていて、がさつ大王の私でも理解できるところと首を傾げてしまうところがあった。この小説を読み終えても女性は依然として難しい生き物だが、だから小説になるのだなぁ。

 

何と言っても「淵」が素晴らしい『文学の淵を渡る』(新潮文庫)


 大江健三郎さんと古井由吉さんによる6回にわたる別々の主題での対談を活字化した。「文学の淵」というのがいい。とりわけ「淵」がいい。『広辞苑第7版』によると、「淵」には《\遏沼・湖などの水が淀んで深い所。古今和歌集(雑)「きのふの―ぞけふは瀬になる」⇔瀬。浮かび上がることのできない境涯。「絶望の―に沈む」》という意味がある。いやぁ、いいなぁ。

 私が注目したのは嘉村礒多が章を超えて何カ所かに出てきたことだ。わが車谷長吉さんが絶賛した私小説家なので私も読んでいるが、苦しい。ただただ苦しい。車谷長吉さんの名作で私が大好きな『三笠山』も救いがまったくないけれど、だから「淵」なのであるな。

 JR山口駅の近くに生家が保存されているので、水俣に行く機会があれば途中下車しよう。ってほぼ嘉村礒多の感想で終わってしまった。

繊細さに驚愕せざるを得ない池澤夏樹個人編集日本文学全集『中上健次』(河出書房新社)


 いかつい顔の印象しかない中上健次だが、凄まじい小説を書いていたことは薄々知っていた。いつか読まなければと思いながら読まずに終わるかも知れない、私にとって中上健次はそんな小説家だった。池澤夏樹個人編集日本文学全集に入っていなければ、私は読むことなく死んだだろう。危ないところだった。

 収録されている『鳳仙花』は中上健次三部作の前史である。『鳳仙花』を読んで複雑な大勢の人間関係を基本知識として飲み込んでから三部作に取りかかるほうがいいという池澤さんの配慮である。

 あのいかつい顔(しつこいか)でよくぞこんな繊細かつ重厚な文章を書いたものだと最初の数ページで怖じ気づいた。中上健次の磁場である「路地」で生きる主人公(モデルは中上健次の母親)は時代や地域の流れに翻弄されながら自分がその場その場で下した判断を真正面から引き受ける。そんな主人公の性交の場面も文学的な筆致で刻まれていて、自分の母親の性交を小説とはいえ書いてしまう業に唸るしかなかった。

 広島から新大阪に向かう新幹線の中でも読んでいたところ、新大阪駅の手前で乗り継ぎの案内が放送され新宮駅と耳に入ってきて、おおと声が出た。

 決して読みやすい文体ではないのだが、丁寧に頭から読んでいけば破綻はない。つまりよく計算された文体なのである。読み飛ばすことができない緻密な文体のせいだろう、中上健次は読者にのめり込むことを求めているように感じた。

 


 

夏目漱石『門』(岩波文庫)を今ごろ読む


 この小説を私が10代や20代で読んでも意味が分からなかっただろう。いや、50代の今だって十分に分かったと言えるのかどうか。

 そもそも今の時代に『門』の深刻さがどれほど現実味を帯びて伝わるだろう。時代と背景が変わるとなかなか難しいものがあるのではないか。

 自業自得の人生に打ち摧かれた宗助と御米が慎ましやかに寄り添い息を殺してひっそりと崖の下で暮らす様子は、車谷長吉さんが惚れ込んだ嘉村礒多の『崖の下』に酷似していると感じた。『門』が1910(明治43)年、『崖の下』が1928(昭和3)年だから、そうなのかもしれない。ちなみにアニメ『崖の上のポニョ』は2008年の公開である。

 宗助と御米を描くことで漱石は人間の愚かしさを抉(えぐ)り、愚かしさに罰を与え続けた――と私は読んだ。この二人を、愚かしさを、自信を持って嗤うことができる人がこの世に一体何人いるだろうか。

大発見があった『冒険の森へ 傑作小説大全7 牙が閃く時』(集英社)

 お盆に楽しく読んだのがこれ。どの小説も動物が出てくる。そういう括りの巻である。動物小説なら戸川幸夫さんだろうと思っていたが、意外に大勢の小説家が作品を書いている。

 この巻で特筆すべきは西村寿行さんの『滅びの笛』と宇能鴻一郎さんの『鯨神』だろう。

 前者はカミュの『ペスト」や韓国映画『新感染』に勝るとも劣らない。山梨県がドブネズミの大群に襲われ、東京都を救うために政府から捨て駒にされる。東京から帰省した人が近所の人から嫌がらせを受ける昨今の新型コロナ騒動と重なる場面があり、いい小説は時代を超えるんだなぁと納得した。西村寿行さんの名前はよく本屋で見かけたが1冊も読んだことがなかった。文明批判とも言うべきこのような作品を書いていたとは知らなかった。

 細部を緻密に調べてあるので作品にリアリティがあり、ドブネズミが人間を襲うと言われても、甲府市が壊滅したと言われても、荒唐無稽と思えない。すごい小説家だな。

 この作品の最後のほうで、子供と女性、老人、けが人を守るために大勢の男が円陣を組む場面がある。私は「あ!」と興奮してのめり込んだ。ずーっと頭の中で転がしてきた理屈が繋がる。私にとって大発見の場面なのだった。相模原市の「やまゆり園」での障害者殺傷事件や新型コロナ倒産をまっすぐに結ぶことができる場面なのである。どこかでまとめて書くことにする。

 宇野さんといえば川上宗薫さんと並ぶ大家だとばかり思っていた。1962年に芥川賞を受賞したこの『鯨神』のような作品を書いていたとは。己の不明を恥じるばかりである。

【長編】
西村寿行「滅びの笛」

【短編】
宮沢賢治「猫の事務所」
岡本綺堂「虎」
椋鳩十「片耳の大シカ」
新田次郎「おとし穴」
戸川幸夫「咬ませ犬」
宇能鴻一郎「鯨神」
豊田有恒「火星で最後の……」
藤原審爾「狼よ、はなやかに翔べ」
井上ひさし「冷し馬」
中島らも「クロウリング・キング・スネイク」

【掌編】
広津和郎「狸」
嵐山光三郎「岡野の蛙」
北杜夫「推奨株」
川田弥一郎「青い軌跡」
星新一「不満」

『太平洋の防波堤/愛人ラマン/悲しみよ、こんにちは』(池澤夏樹個人編集世界文学全集4巻・河出書房新社)


『愛人ラマン』も『悲しみよ、こんにちは』も題名は知っていたが読むのはこれが初めて。若いころ読んでいたら途中で投げ出した可能性が高い(笑い)。

 デュラスの『愛人ラマン』は『太平洋の防波堤』を下敷きにした小説なのだった。詩的で夢想的な記述が夏の空にむくむくと湧き起こる雲のように連ねた作品なので、『太平洋の防波堤』を先に読んでいないと難儀する。『愛人ラマン』は映画になっているようだが、原作を読むよりは『太平洋の防波堤』のほうが理解の助けになるはずだ。両方の小説を収録した池澤夏樹さんに感謝である。

 サガンの『悲しみよ、こんにちは』も有名な作品だが、この小説が発表されたのが1954年だということを踏まえないとなぜこれほど高く評価されたか分かりにくい。石原慎太郎の『太陽の季節』はあの時代だから衝撃を与えたという話に少しだけ似ているか。アランドロンの出世作『太陽がいっぱい』(1960年)の空気感に似ていると私は感じた。小説の断片を生み、積み上げて小説の形にしたのがサガンの10代後半と知ると、早熟さに驚く。

 照れくさそうな顔をしたサガンの写真がカバーの折り返し部分に載っているのだが、これは何歳ごろだろう。なかなかかわいい。


 

池澤夏樹編集日本文学全集『近現代作家集掘戞焚禄仆駛漆啓辧


 順番に読むつもりだったので1巻『古事記』と2巻『口訳万葉集/百人一首/新々百人一首』と読み進めたが、そのあと26〜28巻の『近現代作家集』機銑靴鉾瑤鵑澄6畍渋紊瞭本の小説家の作品を少しでも広く読むことを優先したのである。今回の『近現代作家集掘戮眸鷯錣北滅鬚ぁ

 野呂邦暢さんの『鳥たちの河口』は新潮文庫『日本文学100年の名作』第6巻ですでに読んでいた。主人公に重なるところがあり身につまされた。こういうところが文学なのだろう。新潮文庫ばかりか池澤夏樹さんも選んだということは名作の中の名作なのだなぁ。

 池澤夏樹さの『連夜』は沖縄が舞台である。勝手知ったる地名がいくつも出てきて、行ったことのある店も出てきて、フクザツに懐かしい(笑い)。

 円城塔さんの作品だけは難渋した。表現の枠を超えたのだろうが、常識人間の私はついていけなかった。

 さて、この次は何巻を読むか。3巻『竹取物語/伊勢物語/堤中納言物語/土左日記/更級日記』に大きく戻るか、15巻『谷崎潤一郎』辺りの近現代作家をふらふらするか。そもそも私が生きているうちに全巻読み終えることができるのかという疑問と危機感を抱えつつ、先を急ぎたいのだがここに来て迷っている。

 
 収録作品は次のとおり。

内田百 日没閉門
野呂邦暢 鳥たちの河口
幸田文 「崩れ」(抄)
富岡多惠子 動物の葬禮
村上春樹 午後の最後の芝生
鶴見俊輔 イシが伝えてくれたこと
池澤夏樹 連夜
津島佑子 鳥の涙
筒井康隆 魚籃観音記
河野多惠子 半所有者
堀江敏幸 スタンス・ドット
向井豊昭 ゴドーを尋ねながら
金井美恵子 『月』について、
稲葉真弓 桟橋
多和田葉子 雪の練習生(抄)
川上弘美 神様/神様2011
川上未映子 三月の毛糸
円城塔 The History of the Decline and Fall of the Galactic Empire

高橋一清『編集者魂』(集英社文庫)でやっぱり


 小説家は職人だろう。コツコツと地道に練り上げる手仕事なのだから。その職人の仕事ぶりを垣間見ることができた。

 ヘミングウェイは『老人と海』を200回以上読み直して手を入れた。トルストイの『戦争と平和』は原稿用紙換算で4500枚。これを7回全文書き直し、推敲を重ねたそうな。

 ――と書いて両方まだ読んでいないことに気づいて焦ってしまったが、自分がふだん使っている言葉だからといってそうそう安易に書き付けたものが名作になるわけがないという話である。自分に厳しくなければ一流の職人になることはできないということでもあるなぁ。

 一流の職人に憧れるが、ヘナチョコの私には敷居が高すぎる。


 

高橋源一郎『誰にも相談できません』(毎日新聞出版)が見る遠くの水平線


 売れている。今年2月に第1刷が出て、6月に第5刷。人生相談に高橋源一郎さんが答える本だ。その答えを最初のうちは「え? そう来るの?」という驚きで受け止めたが、半分くらい読むと「うん! そう来るよね!」と受け止めている自分がいる。ここにワタシのセーチョーがあるのだなたぶん。

 源ちゃんは結婚5回の猛者で、両親は規格外。こういう人はいろいろなものを下から見て、見抜く。この目線が含蓄に富む回答を生み出すのだろう。『論語』の孔子に似ていると言うのは褒めすぎか。いやそういえば高橋さんは『論語』の解説本を書いている。

 車谷長吉さんの人生相談『人生の救い』が“破格”ならこちらは“良識”。どちらも何度も読み返してしまう人生相談本である。


 


『記者たちは海に向かった』(門田隆将・角川文庫)


 よくある記者モノだと思ったのでずっと距離を置いてきた。しかし、東電常務と記者が号泣する口絵の写真がどうも気になる。とうとう手に取った。

 3・11のとき浜通りの『福島民友新聞』の記者たちがどう動いたか。人を助けようとして自分の命を投げ捨てた熊田記者の軌跡と目の前の老人と孫を見捨てた木口記者の悶絶を軸にしたノンフィクションである。福島で3年半過ごしたし、民友新聞本社(の中の読売の支局)には一度行ったことがあるしで、一気に読み終えてしまった。

『民友新聞』が舞台なのだから記者本人が取材して書けばいいのにという話ではなかった。当事者だけに重く生々しすぎて取材が難航する。手練れのノンフィクションライターが丹念に取材してまとめ、後世に残したのは正解だった。

 新聞記者は正論の業界なので、津波が迫ってきたその状況では見捨てざるを得なかったと周囲が慰めても木口さんは自責の念に苛まれ続けるだろう。2011年3月11日の出来事はまだ終わっていないのである。自分の首を絞めたくなることがあるはずで、その塗炭の苦しみを語り続けてほしい。それが誰かの命を救うことにつながりうるし、正論だけでは解決しない人間の生きるという行為の意味を掘り下げることで深い記事を書く日が来ると期待したい。

『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』のようなおめでたい新聞記者モノとは違うこの本は読み継がれるべきである。

 ところで、ピュリッツァー賞受賞写真「ハゲワシと少女」を例に津田大介さんが解説で記者はどうすべきかと触れている。「ハゲワシと少女」はトリミングしたもので、ハゲワシに狙われているように見える少女の周囲には実は人がいたことをとうの昔に『毎日新聞』で藤原さんが明かしているのを知らないのかな。私が編集者なら解説は『民友』のライバル紙『福島民報』の誰かに依頼するけどなぁ。


冒険の森へ傑作小説大全6巻『追跡者の宴』


 生島治郎さんの名前は知っているけれど小説を読んだことがなかった。五木寛之さんの小説は大学時代に『青春の門』を読んだあとは随筆ばかり。この6巻には生島さんの『男たちのブルース』と五木さんの『裸の町』という長編が収録されていて、どちらも背景に戦争が色濃く残る。

 山本周五郎の『ひとごろし』はさすが名人芸。

 高城高さんも中薗英助さんも稲垣足穂さんも城昌幸さんも夢枕獏さんもここで初めて作品を読んだ。いろいろな小説家のいろいろな作品を横断できる全集は、手っ取り早く守備範囲を広げることができるので私のような車谷長吉さん命となればヤクオフなどで署名本まで漁ってしまう縦断型の読書をしてきた私には大変ありがたい。


 [収録作]
【長編】
五木寛之「裸の町」
生島治郎「男たちのブルース」

【短編】
高城高「汚い波紋」
都築道夫「まだ日が高すぎる」
中薗英助「外人部隊を追え」
山本周五郎「ひとごろし」
筒井康隆「走る取的」

【掌編・ショートショート】
稲垣足穂「お月様とけんかした話」
吉行淳之介「追跡者」
小泉八雲「むじな」
城昌幸「花結び」
夢枕獏「二階で縫いものをしていた祖母の話」
星新一「復讐」

日本文学全集『近現代作家集』2(河出書房新社)で初めて読んだ有名な小説は


 1人の小説家を気に入ると、その人の小説を次々に読むことになるので、そこからしばらく出ることができなくなる。私のような読み方をしてしまう場合、大勢の小説家を横断できる編集をしたこのような本が大変ありがたい。

 この本で初めて太宰治の『ヴィヨンの妻』も井上ひさしの『父と暮せば』も読むことができた。もちろんほかの小説も全部初めてだ。こんなに小説家がいて、こんなに小説があるのかという、当たり前のことに今ごろ驚いている私は阿呆だが、いや、阿呆でよかった。だって楽しめるんだから。

 次は近現代作家集3を読む。


 収録作品は以下の通り。

武田泰淳 汝の母を!
長谷川四郎 駐屯軍演芸大会
里見 いろおとこ
安岡章太郎 質屋の女房
色川武大 空襲のあと
坂口安吾 青鬼の褌を洗う女
結城昌治 終着駅(抄)
中野重治 五勺の酒
太宰治 ヴィヨンの妻
井上ひさし 父と暮せば
井伏鱒二 白毛
吉行淳之介 鳥獣虫魚
久保田万太郎 三の酉
安部公房 誘惑者
室生犀星 鮠の子
川端康成 片腕
三島由紀夫 孔雀
上野英信 地の底の笑い話(抄)
大庭みな子 青い狐

『金色夜叉』に親近感を抱いたけれど尾崎紅葉さんは


 話は30年ほど遡る。熱海に義父を連れていったとき「ぜひ見たいものがある」とせがまれた。何でも「太郎と花子の像」があるというのである。

「太郎と花子?」。初耳だった。浦島太郎? 木村太郎? ほかに太郎は浮かばない。花子といえばジャストシステムの商品にあるけれど、何でジャストシステムの商品が像になっているのかという疑問が生じる。

 義父が見たがったのが「貫一とお宮の像」と分かって「全然違うやんけ」とひっくり返ったが、あれが『金色夜叉』なのだった。思えば小学生のころ読んだ漫画『がきデカ』(著者の山上たつひこは私の古里徳島出身)で変態チックな「貫一とお宮」のヒトコマがあった。私はそのヒトコマで寛一お宮の名場面を知っていた。

 その『金色夜叉』(岩波文庫)の上下巻を読み終えた。文語文が基本なので骨が折れるというのはこの際どうでもいい。

 私の高校時代、付き合った女の子が同じクラスの別の男に乗り換えるという何とも悲惨な経験(笑い)を私にさせてくれた。女はこういうことを平気でやってくれる生き物なのかとウブなワタシは傷ついたし学んだ。私のように振られた経験がある男にとっては理想の物語と言えなくはないのが『金色夜叉』なのだが、そんな物語を書いた尾崎紅葉に微苦笑を禁じ得ない。

 男の恋愛は犬の小便(何度も何度もクンクンとにおいを嗅ぐ)、女の恋愛は猫の小便(後ろ足で砂をかけてさっさと去る)というのが一般によくあることで、この原則を『金色夜叉』に当てはめると、貫一はしつこすぎる。どこまで復讐心を持ち続けるのか。お前はヘビ男か。自分が振った男に未練を持って心身を崩すお宮も過剰演出だ。

 振られた男が溜飲を下げる内容で、そこが人気を博したのではないか。ということは義父も?


 
 

 

 

三島由紀夫『小説読本』(中公文庫)の核心はやはり炭取の話


 三島由紀夫の有名な作品はほとんど読んでいない。数冊読んだだけでしかないのだが、煌(きら)びやかというのか端正というのか雅というのか、上流階級(私は見たことがないけれど)を書かせたら天下一品だと思った。そんな三島の論考『小説とは何か』は小説作法についての三島の考えが開陳されている。

 核心は『遠野物語』の炭取りがくるくる回るという記述への快哉であり、それを引いて車谷長吉さんは「虚点」の重要性を『読むことと書くこと―文学の基本―』(朝日文庫『銭金について』収録)に書いた。

 このブログのどこかで私は石原慎太郎『太陽の季節』の障子破りなどを「虚点」として挙げたが、ほかにもあるある。例えば中島敦の『山月記』はまさしくそうだし、村上春樹の『1Q84』で太陽が2つあるというのも「虚点」だろう。

 本書収録の『わが創作方法』も興味深いのだが、どれだけ具体的に記されても誰も真似などできようはずがない。だからこそ三島由紀夫なのだなぁ。

クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の重さ


 一筋縄で行かないのは、チェコの歴史を縦軸に、トマーシュとテレザ、サビナ、それからサビナとフランツを横軸に置いたものの時間軸が前後したりするし主題がいくつもあるし、主題の中には哲学があったりするからだ。映画は思わせぶりな写真で有名だが、小説は全く容易ではない。

 最新の翻訳だし、クンデラさんのほかの本も手がけた西永さんの翻訳なので熟(こな)れているはずなのだが、軽く読み飛ばすことができる主題ではないのでところどころで行ったり来たりうんうん唸ったり足踏みしたりを強いられた。

 ギリシャ神話オイディプス王を踏まえての《ひとは知らないからといって無実だと言えるのか》(202ページ)は重い。トマーシュが外科医から窓拭き掃除人になると分かっていて踏んだ踏み絵は、今の日本でも大勢の人に差し出されているのではないか。私もそうだ。

 犬のカレーニンを見て人間が幸福になることができない理由を述べた辺り(345ページ)も唸った。西垣通東京大名誉教授と考え方が似ていると感じたのは、犬や豚を人間と対等な生き物として見つめる目があるからだ。

《「使命なんてくだらないものだよ。(略)自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」》とトマーシュに言わせて物語は終わる。この発言は文脈に沿って読まないと誤読してしまうけれど、著者クンデラの置かれた状況と重ねれば深みを増すのではないか。

 なお、本書を原作にして1988(昭和63)年公開された映画を見た友人が「よく分からなかった」と言っていた。私はその映画は見ていないけれど、早稲田松竹の前を通るときにポスターを何度か見た記憶がある。エロティックなポスターなので実はワクワクしたが、見なくてよかった。優れた文学を優れた映画にした例が果たしてあるだろうか。

 池澤夏樹個人編集の世界文学全集(河出書房新社)全30巻のうちこれで3巻読んだ。まだ1割である。まだ27巻も残っている=読むことができるのはものすごく嬉しいのだが、生きているうちに読み終えることができるのだろうか(笑い)。



 

渡辺京二『無名の人生』(文春新書)に見る新型コロナとの向き合い方


 石牟礼道子の伴走者として知られる渡辺京二さんの語りおろしである。人間のリスクの1つに病気を挙げ、《個体数調整機能にちがいありません》と述べている。《いかんともしがたい自然の摂理》であり、《運の良し悪しと言うしかありません》。

 2014(平成26)年の初刷りだが、新型コロナを予言していたわけではない。確かにそうだと思うけれど、新型コロナ騒動が続く今こうあっさりと言ってしまうのはちと勇気がいる。

 水俣病をばらまいたチッソに立ち向かい、石牟礼道子さんに寄り添った編集者らしく、読ませるものがある。《自国を批判できるというのは、知性のひとつの条件でもある。書くものがお国びいきにならないことは、知識人として物を言う前提条件でしょう》は全くそのとおりで、「自社を批判できる」人や「自分を批判できる」人を信じる私の説を裏付ける。

 村おこしや町おこしに対する懐疑や職業を超えたところにある世界への目など、刮目して読んだ文章は本書の後半に多い。つらい経験をしていろいろと考えてきた人であることがしみじみと伝わってきた。『逝きし世の面影』を読まないといかんなぁ。

冒険の森へ傑作小説大全5巻『極限の彼方』(集英社)


 集英社創業90周年記念企画であるこの全20巻の全集はひたすら面白さに軸を置く。編集委員が逢坂剛、大沢在昌、北方謙三、船戸与一、夢枕獏なのだから当然と言えば当然なのだが。

 石原慎太郎の小説は大学時代にほぼ読んだが肉体派としての石原文学を久しぶりに味わうことができたし、理系の素養をフルに突っ込んだ小松左京の小説はSFの域を超えているし、いやもう大変。

 田中光二の小説を読むのはこれが初めてだ。ウイルスを“小道具”にしてハラハラドキドキの活劇は、新型コロナ騒動の今あまりにもぴったりの内容なのでその偶然に感謝した。ただただ面白い小説ってのはいいなぁ。

 新田次郎の小説は大学時代にほぼ読んだはずだが、『八甲田山死の彷徨』はラッキーなことに未読だった。この作品は経営者こそ読むべきだろう。山田少佐のような経営者に読ませたい(笑い)。

 収録作品は以下のとおり。

【長編】
田中光二「大いなる逃亡」
新田次郎「八甲田山死の彷徨」
【短編】
村山槐多「悪魔の舌」
手塚治虫「妖蕈譚(ようじんたん)」
武田泰淳「流人島にて」
石原慎太郎「処刑の部屋」
白石一郎「元禄武士道」
小松左京「ゴルディアスの結び目」
【掌編】
氷川瓏「乳母車」
五木寛之「無理心中恨返本」
星新一「ねらわれた星」
平井和正「世界の滅びる夜」

森博嗣『読書の価値』(NHK出版新書)


 今さら読書論でもあるまいと思ったが、ほかならぬ森博嗣さんの随筆である。結果、読んでよかった。読み方だけではなく書き方まで指南しているのだ。親切だなぁ。

 森先生は頭の切れる人なので、《僕は映像的な展開をする》(153ページ)。言葉ではなく映像的なものが広がるというのだ。

 私が反省したのは読み方である。最近は本を選んで買っているので「これは駄本だ」と蔑むことはさすがにないけれど、森先生は私にこう窘(たしな)める。《その場で評価を決めてしまうのではなく、すべて保留しておく。それが教養というものである、と僕は認識している》=87ページ

 共感するには《その本を手に入れるために、自分の金を出す》=83ページ。私は貧乏人なので服装などはどうでもよく、しかし本だけはお金をかける。新刊本があるのに古本を買うというケチなことはしない。それは自分の頭に対する冒涜だと思っているからだ。私が本にお金を出さなくなったら、ああカウントダウンが始まったなと覚悟するだろうなぁ。読書の価値は私の命と同じなのかもしれないな。

 森さんの随筆は手軽に読むことができる割に得るものが大きい。


森博嗣『集中力はいらない』(SB新書)


 編集者から集中力の本を書いてほしいと求められ、こんな題名の本を書いたのはさすが森先生というほかない。しかし、一見すると正しそうなことを「いや、ほんまにそうか?」と疑うのは誰でもふだん一瞬やっているはずで、森先生はそこからどんどん追究していくからすごい。

 大変共感したのはこれ。《発想は、集中している時間には生まれない》=39ページ

 私は仕事の原稿を書いたあとや書いている途中でランニングをするようにしている。不思議なことに原稿で加筆修正すべき部分がひょいと浮かぶことが何度もあるからだ。

 取りかかっているものについて「あっ!」と何かが浮かぶのはパソコンに向かっていないときだ。これはもう100パーセントそうなのである。頭の中がアイドリング状態なのか、あるテーマを泳がすというのか転がすというのか、「あっ!」はパソコンの前では起きない。なので筆記具を持ち歩き、「あつ!」のたびに単語を1つか2つ書く。そうすればあとで思い出すからだ。困るのは寝ているときで、「これは絶対に忘れるわけがない」と思うのだが、100パーセント忘れている(笑い)。

 ただし、パソコンで気合いを入れて原稿をガシガシ打っているときはLINEやフェイスブックの着信音を消すことにしているし、LINEやフェイスブックメッセンジャーも見ない。作業を中断させられるからだ。必死こいて作業をしているときにそういうのを見ると頭の弱い私は作業が止まってしまって、「えーっと何だっけ? どこからだっけ?」となる。凡人のせめてものテーコーであるな。

森博嗣『お金の減らし方』(SB新書)


 イサヤマさんがフェイスブックで挙げていたのでさっそく読んでみたのがこれ。森博嗣先生の小説は理系向きのようなので私は避けているのだが、随筆は面白い。この本の題名も森さんのへそ曲がり具合がよく出ていて好ましい。どうやら天邪鬼な人が共感するようだ。ということはイサヤマさんは。あ、いやいや。何が「いやいや」だ。

 さて。20億円を超える印税を得た先生の随筆なので、そういう見方で読まないといけない。私のような貧乏人が読んでもさっぱり役に立たないかというと意外にそうではないのは、《僕の母は、おもちゃは買ってくれなかったが、工作のための道具ならば、ほぼ無条件で欲しいものを買ってくれた。また、本も無条件に買えた》(109ページ)といった記述が嬉しいからである。しかし、急いで付け加えれば森さんは最初から頭がいい。そこを無視してしまうと大きな勘違いが生じる。

 この本だったと思うのだがページを折っていないのでこの本ではないかもしれない。でも森さんの随筆だったと思うのでここに書いておくのだが、死ぬ前に「もっと仕事をしておくべきだった」と思う人などいない、という記述があって、棺桶が見えてきた私としては大いに頷いた。私なら「もっと本を読んでおくべきだった」か。若いうちは見えないものが年齢とともに見えてくるし、考え方も変わってくる。


 

池澤夏樹編集日本文学全集26巻『近現代作家集機戞焚禄仆駛漆啓辧


 1人に惚れ込むとのめり込むタチなので、縦に掘ってしまう。このため名前は知っているのにその小説家の作品を読んだことがない場合が多い。そんな私に有無を言わさず突きつけてくれるので大変ありがたい。

 私がここで感想を書くなどおこがましいのだが、眤七阿気鵑呂垢瓦そ颪手だ。読むのは初めてなのだが、警察小説の書き手という印象があった。こんな小説を書いていたとはすごい才能だとしか言いようがない。特殊で際立つ舞台を選び、そこで繰り広げられる労働を蕩々と叙述した。小学4年ごろの音楽で習った「鰊(にしん)来たかとカモメに問えば」という民謡が重なる。鰊漁の壮大さが手に取るように見えた。

 収録された作品は以下のとおり。どれも泣きたくなるくらいの小説だった。生きているうちに読むことができて本当によかった。

久生十蘭「無月物語」
神西清「雪の宿り」
芥川龍之介「お富の貞操」
泉鏡花「陽炎座」
永井荷風「松葉巴」
宮本百合子「風に乗って来るコロポックル」
金子光晴「どくろ杯(抄)」
佐藤春夫「女誡扇綺譚」
横光利一「機械」
眤七亜崟音匸隹痢幣供法
堀田善衞「若き日の詩人たちの肖像(抄)」
岡本かの子「鮨」

前田速夫『「新しき村」の百年』(新潮新書)

 埼玉に今もあると知って驚いた。その「愚者の園」を一度見学に行かなければ。

 親の代からの村外会員で、新潮社編集者時代には武者小路実篤を担当したという筆者だからこそ踏み込み、問いかけた。本書が出版された2017年11月よりも今の2020年5月のほうが問いかけは染みる。すなわち、ユートピアの賞味期限は切れたと言い切ってしまうことができるだろうか(153ページ)というのが前田さんの問いかけであり、問題意識である。
 
 続く154ページから157ページは熱い。前田さんの問題意識の前提が述べられていて、私はお目にかかったことはないが、声が聞こえてきそうだ。うんうんそうだそうだと私は頷きながら読み進む。

 この人がわが車谷長吉さんの担当編集者だったのだ。都落ちして関西で息を殺して生きていた車谷さんを探し出し、小説を書けと励まし続けた人なのだった。車谷さんの小説や随筆でたびたび弄(いじ)られてきた編集者の芯は車谷さんと同じだった。恐らくそれは『逝きし世の面影』の筆者で石牟礼道子さんの伴走者だった渡辺京二さんとも通じる。





ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読む方法


 藤原さんと話しているときに何度かこの本の題名が出てきて「読んだ?」と聞かれ、そのたびに「読んでない」と答える恥ずかしさ。買ったものの数年も積ん読だった。だって500ページ近い小説なんだから。しかも登場人物が全員カタカナ。翻訳ものだから当たり前だけど。太郎次郎三郎花子など日本人名に置き換えてくれたらどれだけ読みやすいことかと小学4年のときにシャーロックホームズやルパンを読んで思ったものだが、それは今回も。

 読む機会が巡ってきたのは読書計画上読むつもりだった河出書房新社の世界文学全集第3巻『存在の耐えられない軽さ』がアマゾンで手に入らなかったから。それならこれを読むかとようやく手を伸ばした。

 日本語訳が熟(こな)れていて読みやすい。読みやすいのだが、主語が出てくるまでが長い文が時折あり、そのたびに息切れしそうになった。主な登場人物の家系図が最初に示されているのはありがたいことで、この家系図に数え切れないほど戻りながら読み進めた。家系図がなかったら早い段階で道に迷って遭難死したのは間違いない。

 問題は家系図に載っていない人たち(しかも私の苦手な横文字)だが、脇役の名前とその説明をまとめたサイトがいくつかあるので、パソコンやタブレットを横に置くか印刷しておくかすると便利だ。そこまでして読んだのは単純に面白かったから。

 この本の読み方だが、ちんたら読んではいけない。登場人物が分からなくなるからだ。1日に8〜12時間かければ3〜5日くらいで読み終えることができるのではないか。私は広島小田原を往復する新幹線の中でかなり読むことができた。

 近親婚への警告と読んだり、歴史は繰り返すと実感したり、アウレリャノ大佐はドン・キホーテみたいだなぁと共感したり、愛の深い女性はペトラ・コテスだなと思ったり、この小説はマジックリアリズムと言われているけれど車谷長吉さんの言う「虚点」が長くて多いだけだなと見立てたり。いろいろな読み方ができるのはこれだけの長編ゆえ。読み終えて「あーしんど」と思わなかったのは面白かった証拠だな。



『不知火のほとりで 石牟礼道子終焉記』


 カバーを取って現れた表紙の写真にまず見入った。表紙をめくった扉の写真にもまた見入ってしまった。最後にカバーの写真をしげしげと。どれも不知火の風景写真なのだろうけれど、表情が異なるのがニクい。

 新型コロナ騒動がなければ私は5月の連休に水俣にすっ飛んでいったに違いなく、それだけに、まだ見ぬ不知火の写真に感嘆のため息が出た。

 新聞記者という仕事の特性を最大限に活用した一人が筆者だろう。福岡から熊本をたびたび往復し、石牟礼道子さんの晩年に寄り添い、身罷(みまか)りの場に居合わせたのだから。とはいえ、大学時代に『早稲田文学』に携わっており、文学の素養が背景にあったゆえの石牟礼道子さん密着だった。石牟礼さんが編集委員を務めていた週刊誌の編集部にいたのに当時全く興味がなかったため貴重な機会を自ら棒に振った阿呆な私とは全く異なる。

 著者は石牟礼さんから「せりこみ猫」を知っているかと聞かれ、そのときはピンと来なかったが、のちに自分のことではないかと気づく=あとがきにかえて。せりこみ猫という単語は私も知らなかったが、著者に対しては似たようなことを思っていた。すなわち、いつの間にか家に入り込んで何食わぬ顔をして家族の一員のように暮らす猫と同じなのである。そんな著者に世間ではやっかむ向きがあるようだが、まぁ、役得ということで。

石牟礼道子さん『苦海浄土』(河出書房新社の世界文学全集)を読み終えたけれど


 夏ごろまでかかるかと思っていた石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読み終えた。端的に言えば、絶対に読まなければならない小説、だな。私の舎弟たちに「これを読め」と1冊だけ挙げるとしたら迷わず『苦海浄土』を指す。などとここに記してみたものの、56歳で読んだのだから何とも恥ずかしい。もっと早く読んでおくべきだった。

 本書では15カ所くらい線を引き、ページを折った。その中に『苦海浄土』を読み終えた人のその後を暗示するかのような一文がある。

《ただ、どのような意味でも、ひとたび水俣病にかかわりあえば、ひとは、みずからの日常の足元に割れている裂け目の中に、ついに投身してゆくおのれの姿を自覚せずにはいられまい》

 いやまったくそのとおり。不知火山脈とも言うべき深く大きな世界に自分の意思で駆け込んでしまった私は頷くしかない。私にとっては始まりである。

 それにしても石牟礼道子さんの文章よ。本人の努力があるのだろうけれど、9割以上が天賦の才だと思う。でなければシャーマンのような文章は頭に浮かばない。私たちは日本語で原文のまま読むことができるのは幸いである。世界文学全集に収録されているものの、これを外国語に正確に翻訳するのは不可能だ。

 池澤夏樹さんも巻末の解説で書いていたけれど、石牟礼さんが水俣病の発生前から水俣で暮らしていたのは天の配剤としか言いようがない巡り合わせである。


 

 

漱石『それから』は不倫小説ではない

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 夏目漱石の『それから』(岩波文庫)は何について書かれた小説か。この問いに端的に答えるのは私には難しい。

 この小説が書かれた1909(明治42)年の時代背景を前提に見る必要がある。姦通罪がある時代に全てを失う覚悟をして愛を貫こうとする生き方が縦線で、大地や海から食べ物を得てきた長い時代のあとにやってきた職業を持って働く時代に対する懐疑が横線で、家父長制下での父と息子の関係が斜め線で、という具合に当時の状況の上にいろいろな話が絡み合っている。

 駿台で藤田修一師から現代文を学んだ人なら、「君はさっきから、働らかない働らかないといって、大分僕を攻撃したが」(91ページ)で往年の名講義を懐かしく思い出すのではないか。



 私の読み解きでいけば小説の最後が最も興味深い。すなわち「職業を探して来る」と言って家を飛び出した代助の先に見えるのは、新聞社に籍を置いた平岡の背中なのである。まるで輪廻のような風景ではないか。最後の場面で漱石が言いたかったのは、人は代われど職業から逃れることはできないということではなかったか。現代に通じる話であるところがこの小説の味噌でもある。

 ところが、あろうことか『それから』を《まごう事なき不倫小説》と書いてしまった(3月15日付『毎日新聞』書評面「昨日読んだ文庫」)のが古幡さんという人だ。NPO法人本屋大賞実行委員会理事という肩書きを持っているが、失礼ながらこの古幡さんは小説を読めない人だと私は思う。本来ならデスクが「この読み方は浅薄すぎますよ」と原稿を差し戻すべきなのだが、それをせずに、あるいは疑問を感じなかったのか、荒っぽい原稿を垂れ流してしまった。古典を知っていれば《よくぞ教科書に載せたものだと思う》こともなかっただろう。

 漱石の研究者は大勢いる。これを読んだら絶句するわな。いや、毎日新聞書評面の“総監督”である池澤夏樹さんが読めばあまりの事態に新聞を手から落とすのではないか。

 小説はいろんな読み方をしていい。それだけに大変怖い。私のような浅はかな人間が「なんぼ何でもこの読み方は間違っている」と思うのだから、さらに私のこの文章を読んだ人が「なんぼ何でもこの読み方は間違っている」とあきれ返る可能性があり、そうなったら代助と平岡みたいだな。



 
 

中野翠『あのころ、早稲田で』(文春文庫)


 1965(昭和40)年から68(昭和43)年を中心に早稲田で過ごした時代を振り返った青春譚。私は当時2歳から5歳といったころ。羽田闘争や早大闘争、東大闘争など闘争の時代だ。

 中野さんのお気に入りの喫茶店が今は「天丼てんや」になっているというエピローグに、そこによく食べに行く私は「おおー」。今度行ったらそういう目で見回して残り香を探すことになるのは間違いないが、「天丼てんや」以外の何があるわけでもない。集まり散じて人が変われば時代も変わり店も変わる夢のあとなのである。

 さて。ここからが本題だ。

「あのころ、◎◎で」という題を与えられたら私は◎◎に何を入れるだろうか。大学にはほとんど行っていないので思い出がない。何とか書けるとしたらそのあとの沖縄時代か。しかし1フィート運動ボランティアと予備校講師という真面目な生活だったから「あのころ、沖縄で」はセイシュン譚にはほど遠い。

「あのころ、福島で」は社会人1年目から3年目を書くことができるとしても、支局長とデスクに怒鳴られ叱られ雷を落とされという記憶しかないからもはやセイシュンではない。

 こう考えると、本書の輝きに気づく。両手ですくいあげたい時代が確かにあった中野さんが羨ましい。どうでもいいが、本書に載せている高校時代の中野さんは知的で美しい。

 

立花隆『知の旅は終わらない』(文春新書)


 立花隆さんが静かにフェードアウトしつつあると感じざるを得ない本だった。語りおろしで、これまでの著書からの引用を随所に入れた。

 頭の出来が最初から違う。行動力も守備範囲も桁が違う。そういう人なのだ。

 角栄讃歌が何年か前に起きたが、立花さんは一刀両断している。

《政治の表面ではいろいろ偉そうなことをいっていても、裏にまわるとさもしい金儲けと税金逃れに精を出していたのが、田中角栄という男の実像なんです》

《この人は何でも金銭に換算してものを考える人》

 という記述があって、これは何も角栄に限るまい。

 角栄讃歌には私もずいぶん違和を抱えたので、「だよねぇ」としみじみ。

 立花さんの著書でまだ読んでいない本が何冊もある。焦るがな。 
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