同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ニシノ書店

三島由紀夫『小説読本』(中公文庫)の核心はやはり炭取の話


 三島由紀夫の有名な作品はほとんど読んでいない。数冊読んだだけでしかないのだが、煌(きら)びやかというのか端正というのか雅というのか、上流階級(私は見たことがないけれど)を書かせたら天下一品だと思った。そんな三島の論考『小説とは何か』は小説作法についての三島の考えが開陳されている。

 核心は『遠野物語』の炭取りがくるくる回るという記述への快哉であり、それを引いて車谷長吉さんは「虚点」の重要性を『読むことと書くこと―文学の基本―』(朝日文庫『銭金について』収録)に書いた。

 このブログのどこかで私は石原慎太郎『太陽の季節』の障子破りなどを「虚点」として挙げたが、ほかにもあるある。例えば中島敦の『山月記』はまさしくそうだし、村上春樹の『1Q84』で太陽が2つあるというのも「虚点」だろう。

 本書収録の『わが創作方法』も興味深いのだが、どれだけ具体的に記されても誰も真似などできようはずがない。だからこそ三島由紀夫なのだなぁ。

クンデラ『存在の耐えられない軽さ』の重さ


 一筋縄で行かないのは、チェコの歴史を縦軸に、トマーシュとテレザ、サビナ、それからサビナとフランツを横軸に置いたものの時間軸が前後したりするし主題がいくつもあるし、主題の中には哲学があったりするからだ。映画は思わせぶりな写真で有名だが、小説は全く容易ではない。

 最新の翻訳だし、クンデラさんのほかの本も手がけた西永さんの翻訳なので熟(こな)れているはずなのだが、軽く読み飛ばすことができる主題ではないのでところどころで行ったり来たりうんうん唸ったり足踏みしたりを強いられた。

 ギリシャ神話オイディプス王を踏まえての《ひとは知らないからといって無実だと言えるのか》(202ページ)は重い。トマーシュが外科医から窓拭き掃除人になると分かっていて踏んだ踏み絵は、今の日本でも大勢の人に差し出されているのではないか。私もそうだ。

 犬のカレーニンを見て人間が幸福になることができない理由を述べた辺り(345ページ)も唸った。西垣通東京大名誉教授と考え方が似ていると感じたのは、犬や豚を人間と対等な生き物として見つめる目があるからだ。

《「使命なんてくだらないものだよ。(略)自分が自由で、使命なんかないと気づくのは、とてつもなく心が安らぐことなんだよ」》とトマーシュに言わせて物語は終わる。この発言は文脈に沿って読まないと誤読してしまうけれど、著者クンデラの置かれた状況と重ねれば深みを増すのではないか。

 なお、本書を原作にして1988(昭和63)年公開された映画を見た友人が「よく分からなかった」と言っていた。私はその映画は見ていないけれど、早稲田松竹の前を通るときにポスターを何度か見た記憶がある。エロティックなポスターなので実はワクワクしたが、見なくてよかった。優れた文学を優れた映画にした例が果たしてあるだろうか。

 池澤夏樹個人編集の世界文学全集(河出書房新社)全30巻のうちこれで3巻読んだ。まだ1割である。まだ27巻も残っている=読むことができるのはものすごく嬉しいのだが、生きているうちに読み終えることができるのだろうか(笑い)。



 

渡辺京二『無名の人生』(文春新書)に見る新型コロナとの向き合い方


 石牟礼道子の伴走者として知られる渡辺京二さんの語りおろしである。人間のリスクの1つに病気を挙げ、《個体数調整機能にちがいありません》と述べている。《いかんともしがたい自然の摂理》であり、《運の良し悪しと言うしかありません》。

 2014(平成26)年の初刷りだが、新型コロナを予言していたわけではない。確かにそうだと思うけれど、新型コロナ騒動が続く今こうあっさりと言ってしまうのはちと勇気がいる。

 水俣病をばらまいたチッソに立ち向かい、石牟礼道子さんに寄り添った編集者らしく、読ませるものがある。《自国を批判できるというのは、知性のひとつの条件でもある。書くものがお国びいきにならないことは、知識人として物を言う前提条件でしょう》は全くそのとおりで、「自社を批判できる」人や「自分を批判できる」人を信じる私の説を裏付ける。

 村おこしや町おこしに対する懐疑や職業を超えたところにある世界への目など、刮目して読んだ文章は本書の後半に多い。つらい経験をしていろいろと考えてきた人であることがしみじみと伝わってきた。『逝きし世の面影』を読まないといかんなぁ。

冒険の森へ傑作小説大全5巻『極限の彼方』(集英社)


 集英社創業90周年記念企画であるこの全20巻の全集はひたすら面白さに軸を置く。編集委員が逢坂剛、大沢在昌、北方謙三、船戸与一、夢枕獏なのだから当然と言えば当然なのだが。

 石原慎太郎の小説は大学時代にほぼ読んだが肉体派としての石原文学を久しぶりに味わうことができたし、理系の素養をフルに突っ込んだ小松左京の小説はSFの域を超えているし、いやもう大変。

 田中光二の小説を読むのはこれが初めてだ。ウイルスを“小道具”にしてハラハラドキドキの活劇は、新型コロナ騒動の今あまりにもぴったりの内容なのでその偶然に感謝した。ただただ面白い小説ってのはいいなぁ。

 新田次郎の小説は大学時代にほぼ読んだはずだが、『八甲田山死の彷徨』はラッキーなことに未読だった。この作品は経営者こそ読むべきだろう。山田少佐のような経営者に読ませたい(笑い)。

 収録作品は以下のとおり。

【長編】
田中光二「大いなる逃亡」
新田次郎「八甲田山死の彷徨」
【短編】
村山槐多「悪魔の舌」
手塚治虫「妖蕈譚(ようじんたん)」
武田泰淳「流人島にて」
石原慎太郎「処刑の部屋」
白石一郎「元禄武士道」
小松左京「ゴルディアスの結び目」
【掌編】
氷川瓏「乳母車」
五木寛之「無理心中恨返本」
星新一「ねらわれた星」
平井和正「世界の滅びる夜」

森博嗣『読書の価値』(NHK出版新書)


 今さら読書論でもあるまいと思ったが、ほかならぬ森博嗣さんの随筆である。結果、読んでよかった。読み方だけではなく書き方まで指南しているのだ。親切だなぁ。

 森先生は頭の切れる人なので、《僕は映像的な展開をする》(153ページ)。言葉ではなく映像的なものが広がるというのだ。

 私が反省したのは読み方である。最近は本を選んで買っているので「これは駄本だ」と蔑むことはさすがにないけれど、森先生は私にこう窘(たしな)める。《その場で評価を決めてしまうのではなく、すべて保留しておく。それが教養というものである、と僕は認識している》=87ページ

 共感するには《その本を手に入れるために、自分の金を出す》=83ページ。私は貧乏人なので服装などはどうでもよく、しかし本だけはお金をかける。新刊本があるのに古本を買うというケチなことはしない。それは自分の頭に対する冒涜だと思っているからだ。私が本にお金を出さなくなったら、ああカウントダウンが始まったなと覚悟するだろうなぁ。読書の価値は私の命と同じなのかもしれないな。

 森さんの随筆は手軽に読むことができる割に得るものが大きい。


森博嗣『集中力はいらない』(SB新書)


 編集者から集中力の本を書いてほしいと求められ、こんな題名の本を書いたのはさすが森先生というほかない。しかし、一見すると正しそうなことを「いや、ほんまにそうか?」と疑うのは誰でもふだん一瞬やっているはずで、森先生はそこからどんどん追究していくからすごい。

 大変共感したのはこれ。《発想は、集中している時間には生まれない》=39ページ

 私は仕事の原稿を書いたあとや書いている途中でランニングをするようにしている。不思議なことに原稿で加筆修正すべき部分がひょいと浮かぶことが何度もあるからだ。

 取りかかっているものについて「あっ!」と何かが浮かぶのはパソコンに向かっていないときだ。これはもう100パーセントそうなのである。頭の中がアイドリング状態なのか、あるテーマを泳がすというのか転がすというのか、「あっ!」はパソコンの前では起きない。なので筆記具を持ち歩き、「あつ!」のたびに単語を1つか2つ書く。そうすればあとで思い出すからだ。困るのは寝ているときで、「これは絶対に忘れるわけがない」と思うのだが、100パーセント忘れている(笑い)。

 ただし、パソコンで気合いを入れて原稿をガシガシ打っているときはLINEやフェイスブックの着信音を消すことにしているし、LINEやフェイスブックメッセンジャーも見ない。作業を中断させられるからだ。必死こいて作業をしているときにそういうのを見ると頭の弱い私は作業が止まってしまって、「えーっと何だっけ? どこからだっけ?」となる。凡人のせめてものテーコーであるな。

森博嗣『お金の減らし方』(SB新書)


 イサヤマさんがフェイスブックで挙げていたのでさっそく読んでみたのがこれ。森博嗣先生の小説は理系向きのようなので私は避けているのだが、随筆は面白い。この本の題名も森さんのへそ曲がり具合がよく出ていて好ましい。どうやら天邪鬼な人が共感するようだ。ということはイサヤマさんは。あ、いやいや。何が「いやいや」だ。

 さて。20億円を超える印税を得た先生の随筆なので、そういう見方で読まないといけない。私のような貧乏人が読んでもさっぱり役に立たないかというと意外にそうではないのは、《僕の母は、おもちゃは買ってくれなかったが、工作のための道具ならば、ほぼ無条件で欲しいものを買ってくれた。また、本も無条件に買えた》(109ページ)といった記述が嬉しいからである。しかし、急いで付け加えれば森さんは最初から頭がいい。そこを無視してしまうと大きな勘違いが生じる。

 この本だったと思うのだがページを折っていないのでこの本ではないかもしれない。でも森さんの随筆だったと思うのでここに書いておくのだが、死ぬ前に「もっと仕事をしておくべきだった」と思う人などいない、という記述があって、棺桶が見えてきた私としては大いに頷いた。私なら「もっと本を読んでおくべきだった」か。若いうちは見えないものが年齢とともに見えてくるし、考え方も変わってくる。


 

池澤夏樹編集日本文学全集26巻『近現代作家集機戞焚禄仆駛漆啓辧


 1人に惚れ込むとのめり込むタチなので、縦に掘ってしまう。このため名前は知っているのにその小説家の作品を読んだことがない場合が多い。そんな私に有無を言わさず突きつけてくれるので大変ありがたい。

 私がここで感想を書くなどおこがましいのだが、眤七阿気鵑呂垢瓦そ颪手だ。読むのは初めてなのだが、警察小説の書き手という印象があった。こんな小説を書いていたとはすごい才能だとしか言いようがない。特殊で際立つ舞台を選び、そこで繰り広げられる労働を蕩々と叙述した。小学4年ごろの音楽で習った「鰊(にしん)来たかとカモメに問えば」という民謡が重なる。鰊漁の壮大さが手に取るように見えた。

 収録された作品は以下のとおり。どれも泣きたくなるくらいの小説だった。生きているうちに読むことができて本当によかった。

久生十蘭「無月物語」
神西清「雪の宿り」
芥川龍之介「お富の貞操」
泉鏡花「陽炎座」
永井荷風「松葉巴」
宮本百合子「風に乗って来るコロポックル」
金子光晴「どくろ杯(抄)」
佐藤春夫「女誡扇綺譚」
横光利一「機械」
眤七亜崟音匸隹痢幣供法
堀田善衞「若き日の詩人たちの肖像(抄)」
岡本かの子「鮨」

前田速夫『「新しき村」の百年』(新潮新書)

 埼玉に今もあると知って驚いた。その「愚者の園」を一度見学に行かなければ。

 親の代からの村外会員で、新潮社編集者時代には武者小路実篤を担当したという筆者だからこそ踏み込み、問いかけた。本書が出版された2017年11月よりも今の2020年5月のほうが問いかけは染みる。すなわち、ユートピアの賞味期限は切れたと言い切ってしまうことができるだろうか(153ページ)というのが前田さんの問いかけであり、問題意識である。
 
 続く154ページから157ページは熱い。前田さんの問題意識の前提が述べられていて、私はお目にかかったことはないが、声が聞こえてきそうだ。うんうんそうだそうだと私は頷きながら読み進む。

 この人がわが車谷長吉さんの担当編集者だったのだ。都落ちして関西で息を殺して生きていた車谷さんを探し出し、小説を書けと励まし続けた人なのだった。車谷さんの小説や随筆でたびたび弄(いじ)られてきた編集者の芯は車谷さんと同じだった。恐らくそれは『逝きし世の面影』の筆者で石牟礼道子さんの伴走者だった渡辺京二さんとも通じる。





ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読む方法


 藤原さんと話しているときに何度かこの本の題名が出てきて「読んだ?」と聞かれ、そのたびに「読んでない」と答える恥ずかしさ。買ったものの数年も積ん読だった。だって500ページ近い小説なんだから。しかも登場人物が全員カタカナ。翻訳ものだから当たり前だけど。太郎次郎三郎花子など日本人名に置き換えてくれたらどれだけ読みやすいことかと小学4年のときにシャーロックホームズやルパンを読んで思ったものだが、それは今回も。

 読む機会が巡ってきたのは読書計画上読むつもりだった河出書房新社の世界文学全集第3巻『存在の耐えられない軽さ』がアマゾンで手に入らなかったから。それならこれを読むかとようやく手を伸ばした。

 日本語訳が熟(こな)れていて読みやすい。読みやすいのだが、主語が出てくるまでが長い文が時折あり、そのたびに息切れしそうになった。主な登場人物の家系図が最初に示されているのはありがたいことで、この家系図に数え切れないほど戻りながら読み進めた。家系図がなかったら早い段階で道に迷って遭難死したのは間違いない。

 問題は家系図に載っていない人たち(しかも私の苦手な横文字)だが、脇役の名前とその説明をまとめたサイトがいくつかあるので、パソコンやタブレットを横に置くか印刷しておくかすると便利だ。そこまでして読んだのは単純に面白かったから。

 この本の読み方だが、ちんたら読んではいけない。登場人物が分からなくなるからだ。1日に8〜12時間かければ3〜5日くらいで読み終えることができるのではないか。私は広島小田原を往復する新幹線の中でかなり読むことができた。

 近親婚への警告と読んだり、歴史は繰り返すと実感したり、アウレリャノ大佐はドン・キホーテみたいだなぁと共感したり、愛の深い女性はペトラ・コテスだなと思ったり、この小説はマジックリアリズムと言われているけれど車谷長吉さんの言う「虚点」が長くて多いだけだなと見立てたり。いろいろな読み方ができるのはこれだけの長編ゆえ。読み終えて「あーしんど」と思わなかったのは面白かった証拠だな。



『不知火のほとりで 石牟礼道子終焉記』


 カバーを取って現れた表紙の写真にまず見入った。表紙をめくった扉の写真にもまた見入ってしまった。最後にカバーの写真をしげしげと。どれも不知火の風景写真なのだろうけれど、表情が異なるのがニクい。

 新型コロナ騒動がなければ私は5月の連休に水俣にすっ飛んでいったに違いなく、それだけに、まだ見ぬ不知火の写真に感嘆のため息が出た。

 新聞記者という仕事の特性を最大限に活用した一人が筆者だろう。福岡から熊本をたびたび往復し、石牟礼道子さんの晩年に寄り添い、身罷(みまか)りの場に居合わせたのだから。とはいえ、大学時代に『早稲田文学』に携わっており、文学の素養が背景にあったゆえの石牟礼道子さん密着だった。石牟礼さんが編集委員を務めていた週刊誌の編集部にいたのに当時全く興味がなかったため貴重な機会を自ら棒に振った阿呆な私とは全く異なる。

 著者は石牟礼さんから「せりこみ猫」を知っているかと聞かれ、そのときはピンと来なかったが、のちに自分のことではないかと気づく=あとがきにかえて。せりこみ猫という単語は私も知らなかったが、著者に対しては似たようなことを思っていた。すなわち、いつの間にか家に入り込んで何食わぬ顔をして家族の一員のように暮らす猫と同じなのである。そんな著者に世間ではやっかむ向きがあるようだが、まぁ、役得ということで。

石牟礼道子さん『苦海浄土』(河出書房新社の世界文学全集)を読み終えたけれど


 夏ごろまでかかるかと思っていた石牟礼道子さんの『苦海浄土』を読み終えた。端的に言えば、絶対に読まなければならない小説、だな。私の舎弟たちに「これを読め」と1冊だけ挙げるとしたら迷わず『苦海浄土』を指す。などとここに記してみたものの、56歳で読んだのだから何とも恥ずかしい。もっと早く読んでおくべきだった。

 本書では15カ所くらい線を引き、ページを折った。その中に『苦海浄土』を読み終えた人のその後を暗示するかのような一文がある。

《ただ、どのような意味でも、ひとたび水俣病にかかわりあえば、ひとは、みずからの日常の足元に割れている裂け目の中に、ついに投身してゆくおのれの姿を自覚せずにはいられまい》

 いやまったくそのとおり。不知火山脈とも言うべき深く大きな世界に自分の意思で駆け込んでしまった私は頷くしかない。私にとっては始まりである。

 それにしても石牟礼道子さんの文章よ。本人の努力があるのだろうけれど、9割以上が天賦の才だと思う。でなければシャーマンのような文章は頭に浮かばない。私たちは日本語で原文のまま読むことができるのは幸いである。世界文学全集に収録されているものの、これを外国語に正確に翻訳するのは不可能だ。

 池澤夏樹さんも巻末の解説で書いていたけれど、石牟礼さんが水俣病の発生前から水俣で暮らしていたのは天の配剤としか言いようがない巡り合わせである。


 

 

漱石『それから』は不倫小説ではない

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 夏目漱石の『それから』(岩波文庫)は何について書かれた小説か。この問いに端的に答えるのは私には難しい。

 この小説が書かれた1909(明治42)年の時代背景を前提に見る必要がある。姦通罪がある時代に全てを失う覚悟をして愛を貫こうとする生き方が縦線で、大地や海から食べ物を得てきた長い時代のあとにやってきた職業を持って働く時代に対する懐疑が横線で、家父長制下での父と息子の関係が斜め線で、という具合に当時の状況の上にいろいろな話が絡み合っている。

 駿台で藤田修一師から現代文を学んだ人なら、「君はさっきから、働らかない働らかないといって、大分僕を攻撃したが」(91ページ)で往年の名講義を懐かしく思い出すのではないか。



 私の読み解きでいけば小説の最後が最も興味深い。すなわち「職業を探して来る」と言って家を飛び出した代助の先に見えるのは、新聞社に籍を置いた平岡の背中なのである。まるで輪廻のような風景ではないか。最後の場面で漱石が言いたかったのは、人は代われど職業から逃れることはできないということではなかったか。現代に通じる話であるところがこの小説の味噌でもある。

 ところが、あろうことか『それから』を《まごう事なき不倫小説》と書いてしまった(3月15日付『毎日新聞』書評面「昨日読んだ文庫」)のが古幡さんという人だ。NPO法人本屋大賞実行委員会理事という肩書きを持っているが、失礼ながらこの古幡さんは小説を読めない人だと私は思う。本来ならデスクが「この読み方は浅薄すぎますよ」と原稿を差し戻すべきなのだが、それをせずに、あるいは疑問を感じなかったのか、荒っぽい原稿を垂れ流してしまった。古典を知っていれば《よくぞ教科書に載せたものだと思う》こともなかっただろう。

 漱石の研究者は大勢いる。これを読んだら絶句するわな。いや、毎日新聞書評面の“総監督”である池澤夏樹さんが読めばあまりの事態に新聞を手から落とすのではないか。

 小説はいろんな読み方をしていい。それだけに大変怖い。私のような浅はかな人間が「なんぼ何でもこの読み方は間違っている」と思うのだから、さらに私のこの文章を読んだ人が「なんぼ何でもこの読み方は間違っている」とあきれ返る可能性があり、そうなったら代助と平岡みたいだな。



 
 

中野翠『あのころ、早稲田で』(文春文庫)


 1965(昭和40)年から68(昭和43)年を中心に早稲田で過ごした時代を振り返った青春譚。私は当時2歳から5歳といったころ。羽田闘争や早大闘争、東大闘争など闘争の時代だ。

 中野さんのお気に入りの喫茶店が今は「天丼てんや」になっているというエピローグに、そこによく食べに行く私は「おおー」。今度行ったらそういう目で見回して残り香を探すことになるのは間違いないが、「天丼てんや」以外の何があるわけでもない。集まり散じて人が変われば時代も変わり店も変わる夢のあとなのである。

 さて。ここからが本題だ。

「あのころ、◎◎で」という題を与えられたら私は◎◎に何を入れるだろうか。大学にはほとんど行っていないので思い出がない。何とか書けるとしたらそのあとの沖縄時代か。しかし1フィート運動ボランティアと予備校講師という真面目な生活だったから「あのころ、沖縄で」はセイシュン譚にはほど遠い。

「あのころ、福島で」は社会人1年目から3年目を書くことができるとしても、支局長とデスクに怒鳴られ叱られ雷を落とされという記憶しかないからもはやセイシュンではない。

 こう考えると、本書の輝きに気づく。両手ですくいあげたい時代が確かにあった中野さんが羨ましい。どうでもいいが、本書に載せている高校時代の中野さんは知的で美しい。

 

立花隆『知の旅は終わらない』(文春新書)


 立花隆さんが静かにフェードアウトしつつあると感じざるを得ない本だった。語りおろしで、これまでの著書からの引用を随所に入れた。

 頭の出来が最初から違う。行動力も守備範囲も桁が違う。そういう人なのだ。

 角栄讃歌が何年か前に起きたが、立花さんは一刀両断している。

《政治の表面ではいろいろ偉そうなことをいっていても、裏にまわるとさもしい金儲けと税金逃れに精を出していたのが、田中角栄という男の実像なんです》

《この人は何でも金銭に換算してものを考える人》

 という記述があって、これは何も角栄に限るまい。

 角栄讃歌には私もずいぶん違和を抱えたので、「だよねぇ」としみじみ。

 立花さんの著書でまだ読んでいない本が何冊もある。焦るがな。 

魂を書いた大岡昇平『俘虜記』(新潮文庫)


 小林秀雄から「魂を書け。描写するな」と助言を受けて大岡昇平が『俘虜記』を書いたと知って買い直し、読み直した。初めて買って読んだのは中学1年か2年のとき。大阪・梅田の紀伊国屋書店で買って読み、皆目理解できなかったことだけは鮮明に覚えている。兵士を撃たなかったことについての大岡さんの思考の深まりは拙い頭にそれなりに残ったけれど、ほかは全く(苦笑い)。

 それがこの年齢になって読むと、大岡昇平の魂が私の肌に染み入ってくるような、そんな読みができるようになっている。ああ、魂を書くというのはこういうことかと合点がゆく。錯覚かもしれないが。

 この小説で大岡昇平が固執した1つが阿諛だろう。阿諛という単語が実に数多く出てくる。人間そんなものではないか。今に始まった話ではない。マキャベリでさえ。

 阿諛者を突き放すほどの人格者ではない私は阿諛者に対して冷酷な筆致を取ることができない。大岡さんの透徹した高潔さが眩しい。

冒険の森へ/傑作小説大全4巻『超常能力者』(集英社)

 分野で言えばSFだろうか。この分野はあまり読んで来なかった。例えば小松左京を読むのはこれが初めてだ。とっくの昔に買った『日本沈没』(小学館文庫)はまだ読んでいない。それほどSFに食指が動かないのだが、だからこそ全集を買う意味がある。無理にでも読むからだ。

 小松左京の慧眼には驚かされた。1964年に書かれた『エスパイ』は東西冷戦の終わりを予言するかのような物語なのだ。時代の読みが的確だから50年経っても読まれるわけで、星新一と共通する。

 恩田陸さんの『大きな引き出し』には泣けた。この分野は涙腺を刺激される。トラウマかもなぁ。

【長編】
小松左京「エスパイ」
半村良「黄金伝説」

【短編】
平井和正「エスパーお蘭」
筒井康隆「水蜜桃」
宮部みゆき「燔祭」
恩田陸「大きな引き出し」

【掌編】
星新一「超能力」
北杜夫「月世界征服」
阿刀田高「触媒人間」
眉村卓「ピーや」




『流れる』(幸田文・新潮文庫)で知る流れないことの意味


 地味な小説である。読み終えるのにずいぶん時間がかかった。地味すぎて、ほかの本を優先してしまうことがたびたびあったのである。幸田文さんの『流れる』(新潮文庫)だ。

 しかし、読み終えて、ははーんと思う。この本を勧めてくれた畏友の意図が分かった。

 芸者置屋に住み込んだ40過ぎの主人公(女性)は覚めた目で人々の動きを見る。そこがこの小説の面白さなのである。「本も読まないような阿呆を小説の主人公にしてはいけない」と根本先生が言う意味もよく分かった。流れる人々の中にいて流れないのが主人公だ。その目、どこかで見たことがあるような気がする(笑い)。

 畏友は病に伏せってしまったが、これまでにどれだけの愛情を私に与えてくれたことか。勧めてくれた小説を通して畏友との“会話”は続く。


 

 

 

準備運動としての『評伝 石牟礼道子』を読み終えて



 車谷長吉さんの小説を読むきっかけは『人生相談』(朝日文庫)だった。この本を読んで車谷さんに初めて関心を抱き、遅ればせながら小説を読み、のめり込み、全部読み、ついにひれ伏したのである。玉突き衝突とでも言おうか。何が何のきっかけになるか分からない。

『評伝 石牟礼道子』(米本浩二・新潮文庫)を読んだのは、積ん読状態の『苦界浄土』(池澤夏樹編集の世界文学全集)への玉突き衝突になるかもしれないと少し期待したからである。これまでにもNHKが特集した石牟礼道子さんの番組は見てきた。石牟礼さんの魅力が伝わってきたけれど、背中を押されるまでにはならなかった。番組が悪かったわけではない。2段組750ページもある『苦海浄土』があまりにも重いと感じていたにすぎない。

 逃げ回ってきたけれど、『評伝 石牟礼道子』を読み終え、『苦海浄土』をもう読むしかない。年内に読み終えて、水俣に行くしかない。水俣病の爆心地と言われた地域を歩き回るしかない。こう思うようになった。そこまでしてこそ石牟礼さんが好んで用いたと言われる「加勢」の出発点に立つことができるのではないか。

 境界のない世界であちらこちらに行き来する、すなわち漂浪る(され・る)石牟礼道子像を描いた本書から私の何かに引っかかったものを3つ挙げると――。

《いざというとき、人間はあさましいですね》という石牟礼道子さんの声。

《「近代」を根こそぎ問うはずが、金銭の交渉事に終わってしまった水俣病闘争》という米本さんの一文。

 石牟礼道子さんの父親が《もうけを度外視して道を完成させ》たこと。没落した一家を村の人々が支えたこと。石牟礼さんの「加勢」は父親譲りなのではないか。

 悪名高いチッソに絡む雅子さんが皇室に入ったことを石牟礼道子さんがどう受け止めたかなどを含めて、米本さんが書いていない話がまだ膨大に残っているはずで、その発表を待ちながら『苦界浄土』におっかなびっくりで近寄っていくとするか。


 

 

 

『双極性障害の人の気持ちを考える本』で分かったのは

 とっても親しい友人が病に倒れるのはつらい。似たような昏いものを抱えている友人だったのでなおさら。

 躁鬱病というと北杜夫が有名だ。ウィキペディアを見ると、ゲーテやベートーベン、ヘミングウェイ、玉置浩二、マライア・キャリー、太宰治などきらめく才能の持ち主が躁鬱病だった。と友人に言っても何のプラスにもならなかったかもしれない。

 周囲の人間は何ができるのか知りたいと思って本書を読んだ。答えは最後のほうに記されていた。

《友人や恋人は、なんとかしてあげたい、と思いますが、本人は、友人や恋人に気をつかう心の余裕を失っています。ここはやはり家族に任せるほうがいいでしょう》

 幸いにも友人はいい家族に囲まれている。私は遠くで悶え、祈るしかない。無力だなぁ。

 

『楽園への道』にこそ意味がある


 池澤夏樹編集の世界文学全集の第2巻がマリオ・バルガス=リョサの『楽園への道』であり、読み終えて、ああそうかと池澤夏樹さんの編集の意図がびんびん伝わってきた。池澤夏樹さんもそういう人なのだな。

 女性と労働者の地位向上を求めて身を挺したフローラとその孫で絵を追究した破滅的なゴーギャン。塊として明確な形になっていない、雲のような霧のような、自分の内世界を突き蹴りする、圧縮されてゆく念に突き動かされてゆく二人の様子は鬼気に満ち、読者は気圧され、引きずり込まれてゆく。

 私が線を引いた4カ所を神奈川県の友人にメールで伝えたところ、激しく共感してくれた。そして『楽園への道』を読むという。使う単語や表現に多少の違いはあるけれど、漱石も車谷長吉さんも土門拳も、そしてリョサも同じ狂気を抱えている。感染力は強そうだ。

 500ページほどあるけれど、あっという間に読み終えたのは、フローラとゴーギャンに併走したからだろう。

 このあと私が読むのは第3巻『存在の耐えられない軽さ』の予定ではある。福島の友人が石牟礼道子さんを読み込んでいて、やり取りをすると私は歯が立たない。いちおう28巻『苦界浄土』を持っているけれどまだ読んでおらず、28巻だからざっくり計算すると読むのは10年以上先になる。というわけで、急遽28巻『苦界浄土』だな。

池澤夏樹編集『日本文学全集』第2巻で学ぶ古典の楽しい読み方



 数ページ目で「あっ!」と声が出た。折口信夫の『口語万葉集』の「はじめに」が車谷長吉さんにつながったのだ。

 折口信夫はこう書いた。《わたしは、その八十人ばかりの子どもに接して、はじめて小さな世間に触れたので、雲雀のようなおしゃべりも、栗鼠に似たとびあがりも、時々、わたしの心を曇らした悪太郎も、それから又、白眼して、額ごしに、人をぬすみ見た、河豚の如き醜い子も、皆懐かしい》

 河豚の如き醜い子って……。そこまで書くか。わざわざ書かなくてもいいことを刻んだのは、そう書かざるを得なかった何かがあったのだろう。折口の凍り付いた苛烈な業をここに垣間見ることができる。見た瞬間に私が思い出したのはわが車谷長吉さんなのである。

 原典を見つけることができなかったが、村田喜代子さんの本の書評で車谷さんは《鼻が大きい美人》と書いた。読んだ瞬間そこまで書くのかと私はのけぞった。車谷長吉さんの業であろう。それを思い出したのである。

 玄侑宗久さんとの対談で《そういう台詞を書く車谷さんが不気味に見えてしまう》と指摘された車谷さんは《そう言われて意識したんだけど、村田さんの書評を書く場合は、「鼻が大きい」と書かないと成立しないんですね。それによって、他人の世界の中へ村田さんが踏み込む力があるということを表現したいんだ》と釈明している(車谷長吉『蟲息山房から 車谷長吉遺稿集』新書館)。

 車谷さんは折口の本を当然読んでいて、この『口語万葉集』の「はじめに」はもちろん読んだはずで、それが車谷さんの頭のどこかに残っていて、《鼻が大きい美人》になって表れたと私は見る。 

 さて。池澤夏樹さん編集の日本文学全集第2巻は折口信夫の『口語万葉集』と丸谷才一の『新々百人一首』の中からの抜粋と小池昌代さんの新訳『百人一首』で編まれている。

 小池昌代さんは美しい女性で、車谷さんもそう思った(『車谷長吉全集』2巻)というところからも興味を持って読んだ。百人一首は高校時代に古文の授業で習ったけれど、詩人らしい感性で引き直しただけあって読ませる。

 圧巻は丸谷才一の『新々百人一首』だ。博学だとは知っていたけれど、すごい。すごすぎる。丸谷才一に『毎日新聞』書評面の大改革を依頼した齋藤さん(当時主筆か社長か)の目は正しかった。その丸谷才一が『毎日』書評面を池澤夏樹さんにバトンタッチしたのだから、池澤さんの力は推して知るべしだ。

 で、この丸谷才一『新々百人一首』だが、これは高校生か大学生向けの古文の教科書になり得る。決定版と言っていい。私は高校時代に読みたかった。表現とエロスに触れているので高校生が読んだら鼻血ブーかもしれないが、そもそも古典はエロスの世界なのだから仕方ない。見るとか逢ふとか秋とか七夕とかの当時のニュアンスを私は初めて知った。

 池澤さんが本書に載せた『新々百人一首』は20首なので、残り80首を読むためには原典に当たるしかない。ただ、私は先を急ぐ。日本文学全集を読み終えたら『新々百人一首』を最初から読もう。

 しかし、あらためて思う。高校時代に古文を学んでいたときも思った。色に明け暮れていた優雅な暮らしをしていた連中はさておき、一般庶民の暮らしはどうだったのだろうか、と。私の関心はいつもその層に向かう。

『三四郎』に記された漱石の通奏低音

 岩波文庫の漱石全集が案外サクサク進むのは文庫本なので持ち歩いているせいだな。

 さて『三四郎』である。去年だったかおととしだったか東京大の三四郎池に行って蚊に食われたことを思い出しながら読んだ。

 漱石の通奏低音は美禰子が言った「われは我が咎を知る。我が罪は常に我が前にあり」ではないか。1908(明治41)年の『三四郎』に始まり、1909(明治42)年の『それから』、1914(大正3)年の『こころ』を貫く主題に見える。姦通罪があった時代だし、「一盗二婢」などとうそぶく堕落が漱石になかったのか蛮勇を持ち合わせていなかったのか機会がなかったのか相手がいなかったのか知らないが、文学としてはこれで十分成り立つ。

 この小説でも漱石の蘊蓄が遺憾なく発揮されていて、登場人物に《それ自身が目的である行為ほど正直なものはなくって、正直ほど厭味のないものはない》と語らせ、偽善を突く。こんな表現は私には思いつかないけれど、全く同感だ。前述の通奏低音とここは通じる気の流れがあり、漱石は人間の昏くて深いところを掘るんだなぁ。

夏目漱石『虞美人草』が突如面白くなるのは

 最初は少々退屈なのだが、複数の男女の結婚を巡る話が見えてくる中盤以降がぜん面白さを増す。

 しかし、である。宗近が坊ちゃんのような豪快さを示す辺りはまぁ許すとしても、終盤に入ってその宗近にほかの登場人物が従うところや藤尾の終焉の唐突さに不満と違和感が残った。漱石の知が垣間見えるこれほどの文章を真似できないのは言うまでもないが、小説として見た場合ちらほらと綻びがある。などと偉そうなことを言って漱石さんゴメンナサイ。

 私の長年の持論と完全一致を見たのはここ。
《愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する》=197ページ

 深く染みたのはここ。
《持って生れた心の作用を、不都合な所だけ黒く塗って、消し切りに消すのは、古来から幾千万人の試みた窮策で、幾千万人が等しく失敗した陋策である》=361ページ

 仕事で書いているメルマガで使おうと思ったのはここ。
《真面目というのはね、僕にいわせると、つまり実行の二字に帰着するのだ》=371ページ

冒険の森へ3巻『背徳の仔ら』


 2巻は剣豪小説なので後回しにして3巻を読んだ。

 特に面白かったのが立原正秋『白い罌粟』と黒岩重吾『裸の背徳者』。

 後者は太平洋戦争末期のソ満国境を舞台に、バツ印をつけられた日本軍兵士たちの生々しい生態を描いた。湘南国際マラソンの35キロ以降をヘロヘロになって走っていたときに何度も思い出したのがこの小説で敗走する兵士たちだった。

 小説が描く全く救いのない人間模様は、私に「人間の本性は獣だな」と再確認させた。獣であることを隠すために、あるいは獣性を抑えるために安定した衣食住の環境が人間には必要なのだ。

 大藪春彦の『野獣死すべし(付・復讐篇)』は昔よく耳にした。ネットで検索してみたところ1980(昭和55)年に角川映画になっていた。道理で。主演は松田優作だ。私は当時高校生。映画も原作の小説も見ていない。それがこの本を買ったおかげで読む機会を得た。なるほどこういう内容なんだな。松田優作以外の主役はあり得ない。

[収録作]
【長編】
大藪春彦「野獣死すべし(付・復讐篇)」
黒岩重吾「裸の背徳者」

【短編】
松本清張「鬼畜」
西村京太郎「南神威島」
野坂昭如「骨餓身峠死人葛」
筒井康隆「問題外科」
立原正秋「白い罌粟」

【掌編】
久生十蘭「昆虫図」
川端康成「地」
小酒井不木「痴人の復讐」
皆川博子「夜のリフレーン」
赤川次郎「アパートの貴婦人」

祝スプリングボクス優勝と映画『インビクタス』


 ラグビーに全く興味がなかった私は数日前からスプリングボクスのファンなので、優勝がうれしい。実況中継していた日本テレビのアナウンサーがマンデラ大統領に触れていたのは映画『インビクタス』を見たからではないか。

 鬼才・日垣親分の10月の課題がこの映画だった。南アフリカ共和国のアパルトヘイトは知っていたけれど、映画もスプリングボクスもマンデラ大統領の関わりも数日前に初めて知った。これを知ってしまうとスプリングボクスを応援する以外の選択肢はない。

 マンデラ大統領の人間としての器の大きさや政治家として未来を見る確かな目や寛容の精神など、その魅力にしびれる。映画では同時に家族との関係がうまくいっていない様子を垣間見せ、決して万能の人間としては描いていない。マンデラ大統領を思えばどんな苦難でも、いや、私は腰砕けだからそれは無理だが、せめてこの映画を見直して爪の垢を煎じて飲みたい。

 私がのめり込む性格であることはさておき、感動のあまりスプリングボクスのサイトに行ってウェアを2つ注文しただけでは済まず、この映画をアマゾンビデオで見たのにディスクを買ってしまった。さらに『マンデラ』と『遠い夜明け』も。子供たち(といってももうみんなほとんど自立しているし、会うこともほとんどないけれど)に見せなければならない。

 それにしても、まるでスプリングボクスの優勝を見越したかのような親分の『インビクタス』指定に驚く。


 

 

森博嗣さん『道なき未知』は考え方の役に立つ

 森博嗣さんの小説を読んだことはないけれど、エッセイは好きだな。で、この『道なき未知』(KKベストセラーズ)である。

 一番印象に残ったのは死に対する姿勢だ。野垂れ死にが本来の死だ、長生きしたいと思っていない、苦しみたくはない、健康診断不要、延命治療不要、安楽死で死にたい、と森さんは言う。私は自分で死を統制したいのでそれまでは健康を維持しなければならないと思っているけれど、健康診断にギモンが生じて以降行っていない。

 本書が自己啓発本として大勢の読者を獲得することを期待したい。得るもの、というか私の場合は「やっぱり」と再確認することが多かった。若いころに読んで、時々読み直す価値のある本だ。

漱石が『草枕』で書きたかったこと

《智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を張れば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい》で知られる漱石の『草枕』。この部分は今で言う生きづらさに似ているけれど、有名な冒頭に期待して読み進むとけっこう単調な物語だった。

 途中で気づく。主人公は画工で、芸術としての画についての見解を随所で語るのだが、この画を小説に置き換えれば主人公は小説家となり、漱石を垣間見ることになる。

 冒頭に述べた生きづらさは別の表現で何度か登場する。例えば《善は行いがたい、徳は施こしにくい、節操は守り安からぬ、義のために命を捨てるのは惜しい》(153ページ)といった塩梅だ。漱石がこの小説で描いたのは、生きづらい世の中から逃げた画工(自分の投影)とそんな世の中でしっかり生きている狂ったとされる女の対比である。と思ったら巻末の解説で重松泰雄先生が同じようなことを格調高く書いておられるではないか(笑い)。まぁ私ごときが思い至る程度のことは専門家には常識以前の話なのだわな。

 ただし、漱石が書きたかった視点に則ってさらっとでも再読してみるとあら不思議、身近に迫ってくる。そうか、漱石先生あんたもか。薄々感じてはいたけれど、本書で漱石を初めて身近に感じたかもしれない。

 大学時代に読んでいたらこの核心部分が私には理解できなかったのは間違いない。今よりもっと阿呆だったもんなぁ。年齢を重ねるのは悪いことではないと思うのはこういうときだ。

『古事記』を池澤夏樹訳で読む


『古事記』を読むことができたのは、池澤夏樹個人編集の日本文学全集の中に入っていて、池澤さんが担当したからだろう。読み通すための助っ人が多い本なのだ。

 最初に「この翻訳の方針」を池澤さんが書いていて、「そうか翻訳なのか」と気づかされる。脚注は丁寧だし、月報(内田樹さんと京極夏彦さん)は読み方の手助けになったし、巻末に三浦佑之さんが書いた解題は鳥瞰する助けになった。

 大勢が寄ってたかって助けてくれるまことに親切な編集なのである。門外漢が『古事記』を読むならこれだな。

 古典の中の古典なので身構えて読み出したが、殺し合いとセックスしか描かれていないと言ってもいいだろう。スマホもテレビも映画も本もない時代の人間の本性が垣間見えて安心できる。

子供には分からない『坊っちゃん』の通奏低音

 たぶん小学生のころ子供向けに書かれた『坊っちゃん』を読んだ。岩波文庫の漱石作品集20巻だか25巻だかを化粧箱買いしなければあらためて読もうと思わなかったはずで、強制的に読む環境を設けてよかった。

 たまたまつい先日、坊っちゃんと老女・清の関係を論じた『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(市川真人・幻冬舎新書)に目を通していたのでそこを意識して読んだ。活劇風の主旋律に目が向くけれど、漱石が書きたかった通奏低音は清だと私は見る。恋愛関係ではない。清は坊っちゃんの疑似母なのである。

 坊っちゃんの父親は坊っちゃんを全くかわいがらなかった。母親は兄を贔屓していた。その母親が早逝する。お前のために母親は早く死んだと兄が坊っちゃんに言う。

 このような経験をした坊っちゃんは“母親”を求めていたのである。清は坊っちゃんをいつも温かく見守り、期待した。清の側も母のような態度と姿勢なのだ。自然と疑似の母子関係が生まれたと見るのが妥当である。

 漱石は早くに養子に出され、実母と別れさせられた。このときに抱え込んでしまった母への思いや欠落感を坊っちゃんに投影したのは間違いあるまい。

『坊っちゃん』を「母を恋うる小説」だと読み込むのは子供には無理だろう。56歳になって読んで良かったと思うゆえんであるな。

クレージーでビートな『オン・ザ・ロード』を池澤夏樹編集の世界文学全集で読む

 ロードノベルという言い方があるのかないのか知らないが、映画ならロードムービーといったところだ。池澤夏樹編集の世界文学全集第1巻に置いたのは『オン・ザ・ロード』。主人公は北米を東西に3往復したあとメキシコまで南下する道中の物語だ。

 読みながら思い出したのは、大学時代の友人が数人でレンタカーを借りて横断したという話だった。夜どこかで車を止めて寝ていたら窓をノックされて、それが警官だったと聞いた。

 もう1つ、読みながら浮かんだのは畏友ジョニーだ。クレージーでビートな男で、主人公ディーンに半分くらい重なる。

 大学時代に沢木耕太郎の『深夜特急』を読んだとき沢木さんの真似をしたいと私は思わなかった。なぜだか分からない。しかし、この『オン・ザ・ロード』を読み終えて、車での米国の横断ならやってみてもいいと思っている。生きていれば、だが。

 全集なので大切に扱おうと思っていた。線を引かず折り目をつけずに読むつもりだったが、無理だった。ビートな文章を挙げておく。ディーンの言葉だ。

「前にいるやつらがどういう連中かわかるか。悩みごとが大好きなやつらよ。マイルを計算して今夜はどこに泊まろうかと計算して、ガソリン代や天気や目的地にどうやって着くかをせっせと考える――そんなことしなくたって、どっちみち着くってのによ」=291〜292ページ

 同じ池澤夏樹編集の日本文学全集第1巻『古事記』が待っている。

岩波文庫の『吾輩は猫である』に難渋した

 岩波文庫の夏目漱石作品集を箱買いしたものだから読まざるを得ない。ようやく1冊目の『吾輩は猫である』を読み終えた。

 読み出してすぐに驚嘆した。猫の目線でここまで細かく書くのか、と。行間を詰め詰めにしても500ページ少々ある。博学ぶりを発揮した記述が少なくないし、巻末にまとめられた注釈をいちいち参照しないと単語の意味が分からないし、最初の数ページで前途多難を覚悟した。

 読み進むうち、駿台予備学校の藤田修一師が漱石を教材によく使っていたことを思い出した。当時の西洋文化への盲従に対する漱石の疑義は『吾輩は猫である』にも出ているんだななどと思ったのは藤田師の教えの賜物である。

 1905(明治38)年に『ホトトギス』に連載を始めたとき漱石は38歳だった。これを40前に書いたとは(絶句)。


 

『言葉はこうして生き残った』の愉悦


 読み終えるのがもったいないと思う本だった。『言葉はこうして生き残った』(河野通和・ミシマ社)である。

 河野さんの文章を初めて読んだのは新潮社のメルマガ『考える人』だった。淡々とした文章の味わい深さは一体どこから来るのだろうと感じて、以来ファンになった。季刊誌『考える人』の休刊にあわせて河野さんは新潮社を離れ、メルマガで読むことができなくなった。

 そんな河野さんの約300本のメルマガの中から選りすぐった37本をまとめたのがこの本だ。河野さんが紹介した本はどれも魅力いっぱいなので(紹介の仕方も非常にうまい)、手を伸ばしたくなるから困る。私にはもうこれ以上読む時間がない。でもアマゾンで注文するだけはするかもしれない。例えば『日本語 語感の辞典』(岩波書店)や『感情表現辞典』(東京堂出版)、『S先生のこと』(新宿書房)と書き出すとキリがない。特に『五衰の人 三島由紀夫私記』(文春学芸ライブラリー)は読みたい。三島由紀夫に指名されてその場に近づき遺言を手にした徳岡孝夫さん。当時『サンデー毎日』デスクだったというから先輩なのである。

 野坂昭如の本は大学時代にほぼ全部読んだはずなので野坂昭如ファンと自任しているのだが、その野坂さんから原稿をもらうための攻防を明かした章は傑作だった。

 河野さんは1953年生まれ。東京大文学部ロシア語ロシア文学科を卒業して中央公論の編集者になって文化を紡いできた。効率だの経済合理性だの成長だの儲けだのが重視される昨今だが、人間の精神を紡ぐ文化を軽んじるとしっぺ返しを食らうと私は思う。

 この本を出したミシマ社はさすが。

『伯爵夫人』(蓮實重彦・新潮文庫)と白日夢?

 この小説で三島由紀夫賞を受賞し蓮實重彦先生が不機嫌そうに記者会見をしたのが今も印象に残っている。そりゃそうだろうな(笑い)。

 読み終えたのは出張先の広島市の広島電鉄の中だった。読み終える数分前、妙齢の麗しい女性が座っているのに気づいた。そこでふと思いついた。彼女がこの本の題名を見せて、「蓮實重彦先生の本を読んでるんだんわ。あらステキ」と思わせよう、と。彼女も読んでいればぷへーと言うかもしれない、と。

 さっそく彼女の目の高さに本を持って言ったり、右手から左手に本を渡したり、いろいろ工夫してみた。が、全く目を向けない。彼女はゆめタウン広島店の電停で降りて行き、私の努力は潰えた。

 あれれ、何でそうなるかな。私ならいちいち何の本か気になって確認しようとするのに。

 私の場合、カメラを持っている人を見たらメーカーが気になる。ニコンなら親近感を抱く。新聞も気になる。『毎日新聞』ならうれしい。アウトドア系の衣類も気になる。モンベルならやったーと思う。サザンファンなら一緒に歌いたくなる。

 ここで気がついた。彼女は恐らく本に興味がない人なのだ。本を読まない人なのかもしれない。人は自分が関心のあるものにしか関心を示さないのである(当たり前か)。

 この本を見て「あら!」という表情をする女性がいたら私と気が合うんだけどなぁ。120度に入って行って、帝国ホテルでお茶するんだけどなぁ。

 真面目な感想というか疑問を1つだけ書いておくと、この終わり方でいいのか? 小説の禁忌の1つなのに。


 

今ごろ読んでよかった五木寛之『他力』

 クレド仲間に勧められて買って読んだ『他力』(五木寛之・講談社文庫)。今ごろ読むのかと笑われるかもしれないが、今の私の考えを援護してもらうために引用したいドンピシャリの文章を見つけて「おお」と唸った。読書の神様がいるとすれば(絶対にいないけどね)、思し召しだろう。

 帯には《困難な時代を生きる100のヒント》と惹句があって、さらさらっと読み進むことができそうに見えるが、実際は五木さんが「考えてみろ」と投げかけてくるものが100あるから、さらさらっとはいかない。ヒントはヒントでも考えるヒントだ。

 アマゾンで買ったこの文庫本、2018年1月9日の24刷だった。日本の古典的宗教家の思想を解きほぐした本にしては予想以上に売れている。もしかすると日本人は自分に都合のいい「他力」が好きなのかもしれないと思ってしまうのは私の“斜視”ゆえか。

五木寛之『運命の足音』


 小説家には昏い核心がある。五木寛之さんの昏い核心は、第2次世界大戦末期にソ連兵によって母を家族の前で蹂躙された光景なのだった。

 この記憶を文章に記すまでの逡巡の長さを見ると、いやいやそうではなく、私が五木少年の立場だったら、五木少年の父の立場だったらと想像するだけで、どうしようもない無力と脱力に沈む。無間地獄で虚ろな目をして息をするだけの生ける屍になっていても不思議ではない。

 12歳の五木少年の悪夢を単行本で明かした際(単行本は2002年8月出版)、新聞が報じた記憶がある。話題になったのだろう。しかし、文庫本は売れていないように見える。アマゾンで買ったこの文庫本、2003(平成15)年8月5日の初刷だ。

「五十七年目の夏に」と題した40ページ弱の作品を読むために買う価値がある本なのに。

写真集『露口茂in太陽にほえろ!』とりんごちゃん

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 復刊ドットコムのメールを見て慌てて買った。写真集『露口茂in太陽にほえろ!』が復刊されたのである。山さんといえば私の高校1年のころを思い出す。何度か書いた話なので今回決定版を書いておく。

 当時りんごちゃんと付き合っていた。河合奈保子のようなかわいい女の子だった。彼女は私の右斜め後ろの席だった。授業中に私を見ないわけがない。そこである日私は山さんを演じてみた。

『太陽にほえろ!』を熱愛していた私にとって山さんの真似事など朝飯前だった。例えば、口を少しすぼめて息を吐く。息を吸いながら口を少しだけへの字に曲げる。右手の人差し指を顔の近くに立てる。右手の人差し指と中指をそろえて先端を口元にやる。少し体を傾けてみる。右手の人差し指を立てて湯飲みを持つ……。これで山さんになることができる。

 大事なのは口元の演技である。露口茂は何かのインタビューで「目ではなく口元で演技をする」と語っていた記憶があった。それらを総動員してみせたのである。

 その日の交換日記か何かにりんごちゃんは書いてきた。「西野君シブいよー!」と。

 そう。山さんは渋いのである。

 しかし私は山さんではない。高校1年のケツの青いガキに渋みがあってなるものか。以来私は山さんを禁じ手にしてきた。こういう手で女性のこころを震わせなくても、私本来の魅力でイチコロにするのが筋ではないか。

 りんごちゃんとの交際は1カ月で終わった。彼女が別の男に走ったのである(涙)。私本来の魅力でイチコロ計画は泡と消えた。あわわ。

 私が山さんになり続けていたら、と想像するのは空しい。セイシュンの思い出が重なる写真集『露口茂in太陽にほえろ!』である。山さんの演技を復活させてみるかな。

めちゃくちゃ面白い『冒険の森へ 傑作小説大全 1 漂白と流浪』(集英社)


 う。おもろい。どの小説もめちゃくちゃおもろい。こんなおもろい小説があったとは。こんなおもろい小説を読んでいなかったとは。人生終盤なのに。何たる迂闊よ。

 収録された小説で私が読んでいたのは「山月記」だけ。江戸川乱歩はポプラ社の全46巻だか47巻だかを小学3年のときに読んだけれど、「白髪鬼」は記憶にない。


【長編】
江戸川乱歩「白髪鬼」
井上靖「敦煌」

【短編】
吉川英治「鬼」
司馬遼太郎「奇妙な剣客」
火野葦平「手」
井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」
野上弥生子「海神丸」
押川春浪「月世界競争探検」
香山滋「緑の蜘蛛」
海野十三「軍用鮫」
橘外男「マトモッソ渓谷」
小栗虫太郎「火礁海(アーラン・アーラン)」

【掌編】
夢野久作「瓶詰の地獄」
小川未明「眠い町」
森鷗外「寒山拾得」
中島敦「山月記」

 これまでの私は気に入った小説家の本やその時々の関心に応じて読んできた。これはこれでいいのだが、広がりを欠く。というわけで、目利きが編む全集を3シリーズ取りかかることにした。そのうちの1シリーズがこれである。このシリーズだけを読むわけにはいかないので、全20巻だから3〜4年はかかりそうだな。


 

ボケを抱えてきた私が読む『恍惚の人』

 50代半ばにもなると棺桶が目の隅に見えるようになり、痴呆だの寝たきりだのうんこ垂れ流しだのの話が他人事ではなくなる。志村けんがコントで老人に扮して「年は取りたくねぇもんだなぁ〜」とやっていたそのせりふを笑えなくなる。

 そういう年齢になって読んだ『恍惚の人』(有吉佐和子・新潮文庫)は格別だった。ボケてゆく親の介護の話である。直接間接に見聞きしてきたが、足腰が頑健でボケると手ごわい。

 実を言うと私はもうボケが始まっている。いや幼少期からボケが続いてきた。色ボケ。

大江健三郎『新しい文学のために』(岩波新書)


 何と言っても大江健三郎さんだかんね。大江さんの小説は難解と言われてきたし、本多勝一さんが大江さんを批判していたし、ということで距離を置いていたのだが、もういいだろう。おずおずと近寄っている。

 その1冊がこれ。カバーの折り返しを見て気づいた。大江さんの『ヒロシマ・ノート』と『沖縄ノート』は大学時代に読んでいた。というわけで、再入門である。

 こういう本を読むと、大学入試の現代文でビジネス文書を読ませる“入試改革”の浅薄さにため息が出る。ビジネス文書などの表面的な文章はそのまま読めば分かるわけで、それが分からないとしたら幼児期から文章を読んできた経験が少ないからだろう。

 ビジネス文書などを読んでも面白くも何ともないし、幼児期に読むものではない。読解力をつけるための導入としては小説に勝るものはないのである。

 子供の受験に有利ですよと言うと目を剥いて取り入れる人が多いので敢えてそういう言い方をする。大学受験に強い子供を育てるなら幼児期から小説を。
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