同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ニシノ書店

石原慎太郎の『昔は面白かったな』(新潮選書)は面白かったな


 石原慎太郎さんの死亡報道のあと、元『新潮』編集長・坂本忠雄さんの死亡記事が新聞に載った。坂本さんが石原さんより数日早く亡くなっていたが、相次いで亡くなったことに何かの縁(えにし)を感じてしまう。

 本書は坂本さんが聞き手になって石原さんの文壇交遊を回想したもので、かなり刺激的な内容だ。「それを明かしていいのか!」とのけ反る暴露もあり、帯の惹句《驚きの逸話が満載!》のとおりだった。

 石原さんは論争好きだったということがよく分かった。都知事時代に記者会見で毎日新聞の記者をやり込めている映像をユーチューブで見たことがあるけれど、毎日記者は反撃すればよかった。石原さんは毎日と朝日を嫌いだったが、筋の通った反撃なら「記者ならあれでいい」と石原さんは喜んだのではないか。

 芥川賞選考でも論争のなさを石原さんは嫌った。

ある男性の死と『おひとりさまの老後』(上野千鶴子・文春文庫)

 上野千鶴子さんの『おひとりさまの老後』(文春文庫)を読んでいるあいだに知り合いの70代男性が亡くなった。両方を照らし合わせると『おひとりさまの老後』は理想的過ぎる死に方だと言わざるを得ないというか、そんなにいい流れで死ぬことができるのかなと疑問を抱く。

 70代男性はがん治療を受けていた途中で全く別の部位の末期がんが判明した。人工肛門を着け、自宅に戻った。本人は人工肛門を自分で取り替える体力がもはやなく、便がベッド上にどっぺりと流出したときは大騒ぎになったほか、末期がんの痛みで苦しみ続けた。家族は夜中も起こされ、ずっと当たり散らされ、わがままに右往左往し、持て余して音を上げ、一刻も早く男性を病院に追いやることで一致した。救急車で運ばれる男性を見送りながら家族はほっとした。

『おひとりさまの老後』で描かれている今際は、激しい体力消耗や痛み、人工肛門など柊末期に襲ってくる事態を全く前提としていない点で理想に過ぎる。私が間接的に見てきた70代男性の死から言うことができるのは、「在宅ひとり死」は口で言うほど容易な道ではないということだ。 

 


  

 

買淫を記す西村賢太さん『一私小説書きの日乗』(角川文庫)

 小説家が亡くなると、その人の本が再版されずに消えていくもので、西村賢太さん急逝を知って慌てて買い漁っている。西村賢太さんの全集が編まれるようには思えないし、アマゾンで古本が高値で売り出されたりしている状況にあるが、アマゾンで売り切れでも書店には置いてあったりするし、大手書店のオンラインでは売り切れでも店舗には置いてあったりするので、足で稼ぐのが一番だ。というわけで、東京・立川市のジュンク堂書店で見つけたのがこの本を含む5冊だった。

《夜、買淫》などと平気で書いてあるのでのけ反る(笑い)。恥を恥ともしない人は無敵だろう。と同時にこの人は芥川賞受賞の小説家なので、どこまで事実なのかというモンダイもある。面白おかしく書くのが商売の人だから、書かれていることを鵜呑みにしたら「罠に引っかかったな」と笑われてしまいそうで。

 私が行ったことのある早稲田鶴巻町の「砂場」が何度も出て来て嬉しい。赤羽と鶯谷の大衆食堂の名前が挙げられていて、こちらは行ったことがないので今度鎮魂を兼ねて行ってみよう。

 それにしても暴飲暴食としか言いようのない食事である。これが寿命を縮めたのではないか。かといって健康な食事ばかりする西村賢太さんは想像しにくいし。それでも愛読者としては健康長寿で作品を書き続けてほしかった。死んだらそれまでよ。

 
 

『瀬戸内寂聴全集』19巻と残りの24冊

 寂聴さんが文学に関する考え方を記した随筆を読みたくて、思い切って買ったのがこの19巻だ。この本とコーヒーのおかげで2022年の正月三が日は三昧だった。しあわせとはこういう環境を言うのだろう。コーヒーを啜る音とページを繰る音しか聞こえない空間ほど、しみじみと極楽を感じるところはない。

 寂聴さんの文学観は、やはりというべきか車谷長吉さんや山崎豊子さんのそれとほとんど同じで、峻烈だった。昨年12月15日付『毎日新聞』朝刊「仲畑流万能川柳」に載った《寂聴さん笑顔の下のマグマかな》(鶴岡 ゆう坊)は言い得て妙である。

 交流のあった芸術家らの横顔を書いた随筆は、「そんなことを書いていいのか」と私がためらってしまうような言及を随所でやってのけている。本人にとってはごく普通の描写なのかもしれないが、書かれた人は火傷を負うのではないか。寂聴さんの《マグマ》のなせる業(ごう)だろう。だから面白いのだが、マグマに襲われる人は大変かも知れない。

 この機会に全集を読み切りたいのだが、そんなことをしているとほかの小説家の作品を読む時間が減る。おぼろげに残り時間が見えてきた今、いくら興味があると言ってもさすがに25巻全部、つまり残りの24冊を読むのはちょっとなぁ(笑い)。









 

『私が見た未来』とトンガ沖海底火山噴火

 『毎日新聞』の連載で山田孝男特別編集委員(どうでもいいことだが、外部の読者には「特別編集委員」とか「専門記者」とか全く意味が分からないし興味がない。「記者」でいいんじゃないか。定年後の肩書きとそれに付随する処遇はひいきで与えられるという説があるくらいだから、ますますどうでもいい)が取り上げなかったら、読まなかった。

 山田さんは人格高潔と聞く。私が福島支局を離れたあと山田さんはデスクとして福島支局に来たので、残念なことにお会いしたことはない。しかし、福島在住の第一生命の女性がわざわざ私に電話をかけてきて、山田さんはすごい人だと繰り返し繰り返し熱心に言うのである。これは一体どういうことだと驚いた。山田さんの下で働いた支局員の評判も高く、下劣な私としては爪の垢を煎じて飲む機会がなかったことが残念でならない。

 話がそれているのでもとに戻す。

 そういう理由で注目していた山田さんが東京に戻って連載を始めた。政治記者だった岩見隆夫さん(晩年は「特別顧問」)の後継者的な位置づけかなと思ったが、記事にはバランスがあり、ギリギリまで記事に手間暇をかけている様子を噂で聞いたこともあり、私は信頼して読んできた。

 前置きが長すぎるのだが、そういう記者が連載で取り上げた『私が見た未来』だから読まないわけにはいかなかった。

 ここで詳細は書かない。よほどのことがない限り本は身銭を切って読むべきだと思うからだ。

 1つだけ書いておくのは、最初読んで「どういうことだろう」と腑に落ちなかった記述が、トンガ沖海底火山噴火を見て、「あ、そういうことか!」と合点がいった。

 予言が外れるに越したことはない。いずれにしても準備をしておく必要はある。まだ少し時間があるので、着々と準備を進める。


アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』

 友人に教えてもらう本はありがたい。なぜならそういう本は自分なら買わない=読まない=世界が広がらないからだ。

 アガサ・クリスティというと私のイメージは推理小説なので、こんな本を書いていたとは意外だった。教えてくれた友人と感想を交わしたところ、お互いに目の付けどころが異なっていた。主人公の主婦ジョーンに対してさえ食いつく点が違った。それぞれの着眼点の背景にそれぞれの人生があるんだなぁ。

 アガサは小説家になったあと失踪したり離婚・再婚したりしている。そういう経験が肥やしとなってこのような小説を書いたかなと想像する。


世界幻想文学大賞受賞の松田青子『おばちゃんたちのいるところ』

 新聞広告で興味を持った。本を読む人間向けのアピールの場として新聞は相性がいい。

 17の短編で描いたのはこの世とあの世のあわい。私の好んで読む小説とは系統が異なるけれど、読んだことのない世界だけに面白い。兵庫県出身の著者らしく、笑いを誘う工夫が随所に凝らされている。

 「いちまい、にまい」とお皿を数える菊枝、と記されていれば、日本人ならピンと来る。これを外国人に向けて英訳するとなると背景説明を補足する必要があり、そのぶん面白さが損なわれるはずで、にもかかわらず世界幻想文学大賞受賞といういことは翻訳者に恵まれたのだろう。そういえば、外国の文学賞は翻訳家に恵まれるかどうかだということを確か林真理子さんが語っていた。

 著者や翻訳者の才能が描き出した霊験あらたかな世界である。

寂聴さんの集大成『今を生きるあなたへ』(SB新書)

 ソフトバンク系の出版社がこういう本を出しているところがまず面白い。いい編集者がいるのだろう。

『毎日新聞』の広告を見たその日に本屋で見つけて買ったのは、亡くなる3カ月前の語り下ろしだからである。つまり寂聴さんの集大成なのである。好機にインタビューしたものだ。

 愛、仏教、四苦八苦、(女性の)生き方、忘己利他、あの世……。99年生きた寂聴さんの智慧がこの1冊に凝縮されているので、これから生き、暮らし、死ぬときの手がかりになる。見方を変えれば寂聴さんの入門書でもある。

 柔和な顔の寂聴さんの、それこそ亡くなる3カ月前の写真が表紙などに使われているが、過去の写真や映像を見ると、今のような柔和な笑顔はあまりない。むしろ非常に厳しい、苛烈な顔をしている。いい老い方をしてきたということか。とはいえ、寂聴さんのこの笑顔の下に潜む核心を見る必要がある。

 寂聴さん笑顔の下のマグマかな(鶴岡 ゆう坊)=12月15日付『毎日新聞』朝刊「仲畑流万能川柳」から。寂聴さんの核心をこれほど突いたものはないだろう。

『復活する男』(集英社)に学ぶハードボイルド

 「冒険の森へ 傑作小説大全」11巻の『復活する男』も面白かった。

 この本で初めて北方謙三さんの小説を読んだ。ハードボイルドがびんびん伝わってきて、はまるはまる。ヤクザ映画を見終えた観客が肩を怒らせて映画館から出てくるのと同じように、ポンコツの私までがハードボイルドの主人公になった気分にさせられる。それだけ物語に入っていたわけで、だからこそハードボイルドは面白いのだろう。

 ほかの作品も魅力にあふれ、エンタメの幅の広さに目がクラクラ。死ぬまでにあとどれだけ読むことができるのだろう。残り時間を考えると、余計なことをしている場合ではないとあらためて思う。

 この11巻は『復活する男』という題名で、そういう時代の空気が出ている。そのうち「復活する女」とか「復活するLGBT」とか、そういうのが出て来ないといけない。

【長編】
飯嶋和一 「汝ふたたび故郷へ帰れず」
北方謙三 「檻」
【短編】
隆慶一郎 「ぼうふらの剣」
白石一郎 「秘剣」
浅田次郎 「門前金融」
乃南アサ 「彫刻する人」
藤原伊織 「雪が降る」
東野圭吾 「誘拐天国」
【掌編】
星新一 「使者」
城昌幸 「スタイリスト」
眉村卓 「拾得物」
景山民夫 「ボトムライン」
大沢在昌 「二杯目のジンフィズ」

原田マハ『たゆたえども沈まず』

 実在した画商・林忠正とゴッホ兄弟にまつわる小説である。架空の人物を登場させて舞台まわしをさせた。

 原田マハさんがこの作品で取り組んだのは、芸術とは何かという大きな課題だろう。したがって、写真でも工芸でも陶芸でも小説でも、およそ芸術と言われる分野に属する人に共通する鬼魂が描かれている。「あっ!」と頭が痺れるような記述が数カ所あり、線を引いてページを折った。今そこを読み返しても「あっ!」と唸ってしまう。

 曖昧模糊としていたところに答えが落雷してきた

 この小説は友人に教えてもらった。絵の分野など、従来の私なら絶対に近寄らない。絵に興味がないんだから。それが友人のおかげで半ば強制的に近寄ってみると「あっ!」の世界で、別に私は芸術家ではないが得るものが多かった。世の中には面白い小説がまだまだある。死ぬまでにあと何冊読むことができるだろうか。

 

憎まれ口の田中慎弥さん『共喰い』



 新潮新人賞受賞作への選評で<自分としては全く全く評価出来ないものの、あえて強く反対もしなかった。幸運な新人だ。長持ちするといいが>と憎まれ口を叩いたのが田中慎弥さんである。田中さんといえば、芥川賞受賞会見で「もらっといてやる」とこれまた憎まれ口を叩いていた。どうにもこうにも本音を抑えられないらしい(笑い)。そこが魅力の1つである。

 そういえばまだ読んでいなかった。さっそく買い求めて読んだのが芥川賞受賞作『共喰い』(集英社文庫)である。私が買ったやつは2013年の1刷に始まり2020年に8刷を迎えていた。継続して売れている。

 中上健次を彷彿させるが、中上健次の荒々しさを抑えた感じ、というのが第一印象だった。巻末には瀬戸内寂聴さんとの対談が載っていて、さすがに憎まれ口は影を潜めているのだが、これがめっぽう面白く、得るものがたくさんあった。


 

かくして『般若心経』を

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『般若心経』を読んでいる。音読? いや、読経と言うのか。

 原体験には徳島に遡る。私が高校生だったか中学生だったか小学生だったか、親戚が亡くなり、そのたびに家に坊さんが来て読経するのを後ろで正座して聞いた。喉を鳴らして朗々と読経する様子に「楽しそうやな」と思った。そこに始まる。

 この10月に人気数学塾を40年近くやっている友人四宮のお世話になった。その際に『般若心経』を勧められたのである。変な空気が一掃されると聞き、飛びついた。四宮の車で沖洲の喫茶店に向かっていたのだが、急きょ一番札所に向かい、そこで買ったのが『般若心経』である。450円くらいだったか。安いなぁと思ったが原価を考えると坊主丸儲けだろう。

 偶然にも瀬戸内寂聴さんの『寂聴 般若心経――生きるとは』(中公文庫)を買ってあったので、それを参考書にして、『般若心経』に解説を書き込む。そうすることで理解が深まり、面白い。

 寂聴さんはさすが得度しただけのことはあり(って何だかエラそうな書き方だが)、説明が詳しい。詳しすぎるのでこの本を通読したらかえって混乱するというかあとに残らない。しかし『般若心経』に書き込むことで内容がぐんと整理されて頭に入る。

 聖書より圧倒的に薄いし、昔から身近だったし、変な空気を追いやる効果があるようだし、わが車谷長吉さんも仏教に言及した作品があるし、『般若心経』はいずれ通る道だっだように感じる。親が死んだときに私が読経すれば親孝行になるだろうからそのあと「お前は親不孝もんじゃー」と化けて出てくることはあるまいという期待もある。

 少し前にヤクオフで格安で落札した寂聴さんのCDに寂聴さんが読経する音声が入っていて、私は小躍りした。寂聴さんに合わせて読経できるではないか。

 というわけで、1日に1回は摩訶般若波羅密多と唱えている。エセ仏教徒であるが、なーにこの世はエセだらけ。


 

日本文学全集18巻『大岡昇平』


 大岡昇平さんの心理小説『武蔵野夫人』は、この時代ならではの心理描写でもあり、今に通じるものもあり、遠くに聞こえる足音にずっと耳を澄まし続けるような読み方をした。

 先日文庫で読んで「あ、そうか!」と刺激を受けたばかりの『俘虜記』から本書に一部が載っていて、面白いものだからまた丹念に読んだ。生と死の問題は文学と哲学が引き受けるのに適しているのだろう。

 小説を教科書から排除したり大学で文系を軽んじたりする動きは、人間の価値を軽くするというか、人間の最後の逃げ場を奪うことになるのではないか。

世界文学全集8巻『アフリカの日々/やし酒飲み』

 池澤夏樹さん個人編集の世界文学全集(河出書房新社)8巻は『アフリカの日々/やし酒飲み』である。

『アフリカの日々』はディネセンの経験を踏まえた作品だが、彼女の実人生を知ると、切なさというのか哀しみというのか呻きというのか、そういうものが通奏低音のように流れているように感じる。作者と作品は分けるべきなのだろうが、そこが不可分のところがこの作品にはあり、失意の人や破滅の人が好きな私の琴線に触れた。

 端正な私には『やし酒飲み』ははちゃめちゃにしか見えないのだが、《アフリカ発世界文学の金字塔》ということだそうなので、そういう位置づけの作品なのである。確かにいわゆる「文明国」や「先進国」では生まれがたい作品であることは間違いない。人間の精神が自由であることができるのは、このような萌芽の時代なのかもしれない。

 

 

ユージン・スミス『MINAMATA』を水俣病センター相思社で買ったワケ

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 映画『MINAMATA』を見越してだろう、ユージン・スミスの写真集『MINAMATA』が“復刊”された。

 いつものようにアマゾンで買うつもりだった。しかし水俣病センター相思社のサイトを読んで笑ってしまったので、送料が余計にかかったが、ここで買うことにした。私が会員ということもあるけれど、支えようと思わせる笑いを誘う涙ぐましい素朴さがとってもいい。アイリーンさんのインタビューを載せた会報をわざわざ同封してくる姿勢も好ましい。水俣病センター相思社の『MINAMATA』キャンペーン



諦めないための『諦めの価値』(森博嗣・朝日新書)

 私も森博嗣さんの小説は1冊も読んだことがないけれど、エッセイはほぼ読んできた。何となく考え方というのか波長というのか、そういうものが合うのである。「やっぱりそうだよな」と安心できるわけだ。

 とはいえ、本書はあくまでも森博嗣さんだから言える部分がある。どこか(外国?)で悠々自適の暮らしをしている、お金の苦労のない、健康不安もない、功成り銭貯めたポジションからのトークなのである。普通の生活をしている人や貧乏人の私の参考になるのかどうかというのは棚に上げて、私と全く同じ見解を森さんが書いていて、安心できたところがあった。

《どんなに目立つことをしても、あるいは、どんなに人から感謝されることをしても、それが仕事だったら、偉くもなんともない、と僕は感じます》

《それに応じた賃金が支払われているわけですから、そこで帳尻が合っている》

《もし、人に語れるようなことがしたいのなら、ボランティアとして奉仕活動をされるのが適切でしょう。見返りを求めない作業の方が、仕事よりは少し偉いといえます》



 

中公文庫偉い! 車谷長吉さんの『漂流物・武蔵丸』刊行

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 新聞広告で中公文庫が車谷長吉さんの作品を集めた『漂流物・武蔵丸』を出したと知り、すぐにアマゾンで注文した。そのあと駅前のサクラ書店に行ってみたら平積みしてあるのではないか。思わず手に取り、ぱらぱらめくって、そのままレジに。とにかくすぐ読みたい。私にとって車谷長吉さんの小説は覚醒剤みたいなものなのである(覚醒剤はまだ経験がない)。

 なかなかいい編集で、特にいいのは『抜髪』を入れてあることだ。読み終えてガックリくる『三笠山』を入れていれば完璧だが、それは中公文庫の第2弾を期待して待つことして、さっそく駅前のドトールで読み始める。

 巻末に掲載してある高橋順子さんのエッセイも、車谷長吉さんの異様ぶりが好意的(?)に伝わってきて、物書きを配偶者に持つといいなぁ。

 というわけで、中公文庫よくやった。

教養とバランス感覚の『完本 紳士と淑女』(徳岡孝夫・文春新書)

 右寄りの雑誌『諸君』に連載されたコラムのせいか、左寄りの私が見ると右寄りの感があるけれど、教養に裏打ちされた文章は味わい深い。正義の顔をした人や組織への痛罵にバランス感覚の鋭さが光る。

 例えば美濃部亮吉をこう書く。

《貴族院議員を父に、東大総長、文部大臣の娘を母に持ったエリートでいながら庶民の味方。財閥の娘と協議離婚したあと、行政庁統計基準局長だったとき、秘書の女性と交際を始め、二十年間、家にも入れず籍も入れなかったのに女性の味方。いや、こういう書き方は、よくない》

 美濃部さんに肩入れした朝日報道に対して、《独立の新聞社があまり特定の政治家に肩入れするのはいかがなものか》。

 ほかにも《朝日の記者には明治時代から尊大なところがあった》や《他を顧みて批判するのに巧みでありながら、自己への批判を許さない朝日は(略)》、」など、朝日のスター記者と言われたつまり朝日らしさの権化たる本多勝一さんを私は思い出す(笑い)。朝日信仰者は催眠術にかかりやすい人たちだというのが私の最近の分析(というほどのものではない)である。

 一方で、41歳の子持ちストリッパーが駅のホームで酔った高校教師に絡まれ胸を触られ、たまりかねて突いたら線路に落ちて電車にひかれた事件を取り上げ、どの女性団体もどの淑女もストリッパーに手を差し伸べない状況に、抑えた筆致でストリッパーという職業に対する偏見差別を語る。

 拉致問題が日本で話題にもなっていないころ横田早紀江さんらが米政府などを回り、《娘のことを黙っておれと言う外務省の仕打ちを語ったところで、話が突然中断した。不審に思って見ると、通訳(ワシントン在住の日本人学者)が嗚咽しているのだった》とわずか2文で読者に憤怒と悲痛を共感させる。

 言うまでもないことだが、私など死んでも書くことができない。こういう人たちが現役で新聞記者をしていた時代から今を見れば、ずいぶん軽佻浮薄の紙面であることだろう。


  


 

『谷崎潤一郎 性慾と文学』で納得する谷崎文学

 《精神的にも肉体的にも合致した夫婦と云ふものの有り難味が、四十六歳の今日になつて漸く僕に分つた》と記した谷崎純一郎。この谷崎文学の第一人者による解説である。

 私は丁未子さんをきれいな女性だと思うのだが、谷崎にとってそこは重要ではなかった。《屋外での即興的なセックスに応じてくれず、室内でも白昼は嫌がるなど、谷崎の性的嗜好とは大きく隔たった丁未子に対して苛立ち、困惑を隠しきれずにいる》そうで、ということは谷崎が崇め奉った松子さんはそういう嗜好だったのか、ということになるのだが、それはさておき、いろいろな衝動が芸術として開花するのだなぁ。

 事実、谷崎のこうした嗜好があの佐助をナオミを生んだのである。


 

 

 

『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ・文春文庫)は平成文学の名著の1冊


 2016年に報じられた東大生による強制猥褻事件をヒントにした100パーセント想像の小説である。

 姫野さんが文庫版あとがきで書いているように、世の一般的な東大生を普遍化した小説ではない。強制猥褻事件を起こした5人の若い男が学歴に基づく勘違いをそれぞれ持っていて、それが強制猥褻事件の根っこにあるという見立てで、加害者の男5人の家系まで描いてある(もちろん100パーセント想像)ので説得力がある。加害者の歪みは親の歪みの発露であることがひしひしと伝わってくる。

 被害者の女性ももちろん100パーセント想像の人物だが、どこにでもいるという前提の普通の家庭で育った若い女性で、そういう女性が強制猥褻の被害に遭ったという設定は共感を呼ぶ。

 多目的便所でお手軽セックスをした結果芸能人生命を絶たれた男がいたが、東大だの芸能人だの収入だのというところで何か勘違いする阿呆の話として読むべきだろう。

 姫野カオルコさんは神の視点で登場人物を描き、どちらかに加担することはない。絶妙のバランス感覚に私は驚いた。だからなのか、抑えた筆致から被害女性の哀しみが突き刺さる。

吉田健一さんの格調高い日本語訳『ハワーズ・エンド』(世界文学全集・河出書房新社)


 吉田健一さんの翻訳である。原文を非常に丁寧に日本語に置き換えていると思われ、まどろっこしい部分がないわけではないが、誤読をしたくても絶対にできない。主語述語修飾語をかっちりと、置くべき位置に置いているからだろう。

 英国が植民地を持っていた時代の“支配層”の考え方や行動が描かれている。彼らが浮世離れしているのは、高等遊民が出てくる夏目漱石の小説と同じか。

 そんな中で経済苦に喘ぐレオナードが小説の定石通りに出てきて光る。光るのだが、解説にあるように、もし著者のフォースターに遺産がなく、もっと生活の苦労をしていれば、深い洞察を持ってレオナードを描いただろう。

 この小説は吉田健一さんの格調高い和訳を楽しむ本なのかもしれない。

オモロい『危険な旅路』(冒険の森へ 傑作小説大全・集英社)

 「冒険の森へ 傑作小説大全」シリーズの魅力はいろいろな作家のいろいろな小説を読むことができるからだ。視野が広がるというか、読まないだろう小説を読む機会を与えられることだ。

 私はこの本で船戸与一さんの小説を初めて読んだ。片岡義男さんも、逢坂剛さんも、初めてである。名前は知っていても、読んだことがなかった。もったいないことをしていたのである。

 1人の小説家の全集もいいけれど、幅広い小説家の作品を強制的に読む機会を得られるこのシリーズのような全集は勝るとも劣らない。



【長編】
船戸与一「夜のオデッセイア」
矢作俊彦「リンゴォ・キッドの休日」

【短編】
石川淳「金鶏」
森詠「わが祈りを聞け」
片岡義男「ミス・リグビーの幸福」
谷克二「サバンナ」
逢坂剛「幻影ブルネーテに消ゆ」

【掌編・ショートショート】
川端康成「顔」
坪田譲治「森の中の塔」
河野典生「かわいい娘」
眉村卓「帰途」
半村良「酒」
阿刀田高「笑顔でギャンブルを」
星新一「もたらされた文明」

文庫本で復刊された『チッソは私であった』(緒方正人・河出文庫)

 もともとあの渡辺京二さんが編集し、あの葦書房で出版された本だ。ほんの少し前までは古本で買うしかなく、しかし価格が高騰していて、さすがに手を出せなかった。それが昨年末に文庫本として復刊された。河出書房新社に拍手である。名著の復刊は出版社として大事な仕事の1つである。

 緒方さんは漁師である。水俣病で狂死した父親の敵討ちとして始めた水俣病闘争から降りる目線は、魚をはじめとする人間の“食べ物”たる生き物に対しても優しく降り注ぐ。

 私の福島時代に取材で大変お世話になった小野賢二さんが重なる。小野さんは南京虐殺に関わった会津六十五連隊の元兵士を訪ね歩き、いくつもの日記を掘り起こした人である。一級資料として本になっている。その小野さんは常々「私があの時代に兵隊であの場所にいたら同じことをしていた」と語っていた。

 一人ひとりの人間を奪う仕組みは形を変えて今も随所にある。アイヒマンはいたるところで生まれているに違いない。

 本書ではいろいろな問題の提起があり、そのどれも深く深く頷く。本当にいい本だ。名著の復刊を深く喜ぶ。


 






 

ヨドバシドットコムが意外にいい

 アマゾンで買い物をすることが多いが、最近買い物が増えてきたのがヨドバシドットコムだ。例えば、ふくれんの豆乳。楽天で売り切れていてもヨドバシドットコムなら手に入る。アマゾンや楽天ほど注目されていないせいかもしれないが、価格が妥当で、品ぞろえがいい。都内で午前4時40分ごろ注文したら当日夕方届いた。

 特にいいのが電気製品だ。アマゾンはデタラメな業者が出品していて評価が荒れていたりする。しかしヨドバシドットコムはさすが電器屋なので(電器屋なのか?)万一の場合は返却ができるし、カメラ屋なので(カメラ屋?)アマゾンで時々見られるカメラやレンズの中途半端な商品は売られていない。そういう点で安心できる。

 と思っていたら、何かのサイトにヨドバシドットコムの評判が上がってきたとあった。アマゾン独走を放置してなるものかということだろう。商機もある。あとはビックカメラのように、無金利60回払いOKのサービスが備われば鬼に金棒である。

日本文学全集24巻『石牟礼道子』(河出書房新社)

 世界文学全集に収録された石牟礼道子さんの『苦海浄土』(河出書房新社)を読んで私の天地がひっくり返った。その石牟礼さんのほかの小説のいくつかを集めたのが本書だ。

 非常に読み応えがある。というか、すらすら読むことができない。音読するのがいいのではないかと思いつき、しばし音読してみたところ、これがちょうどいいのである。手応えのある文章なので黙読では消化不良を起こす。不思議なことに音読すると消化にいい。

 読み通すのに時間がかかったが、石牟礼文学はそういう読み方が適切なのではないか。

 この本も何カ所も赤色のボールペンで線を引いたが、その中から1つ挙げるとすると、これ。

《片耳じゃの、片目じゃの、ものの言えない者じゃの、どこか、人とはちがう見かけの者に逢うたら、神さまの位を持った人じゃと思え》=『水はみどろの宮』

江藤淳の随想解説だから少しは理解できた『小林秀雄の眼』


 40年ほど前に大学受験生だったとき、小林秀雄の小論で苦しんだ、というより内容が半分i以上理解できず、よくある例えだが、トンネルを出たかと思ったらまたトンネルに入る列車のような、暗闇から出て少し見えたと思ったらまた暗闇に入るという程度の理解で、途切れ途切れに少し見えた光景をつないで全体を無理矢理把握しようとした。小林秀雄の何がいいのか皆目理解できず、新潮社から出ている小林秀雄全集も3巻目で止まっている。

 それなのに、いや、それだからこそ、というべきなのだろうか、買ってしまった『小林秀雄の眼』(中央公論新社)である。この本は小林秀雄の小論の理解を深く手助けしてくれた。著者の江藤淳のおかげだ。小林秀雄の文章が短く載り、その数倍の江藤淳の随想解説があるから、「ほー。そういうことか」と頷く。江藤淳の文章がなければ、40年前と変わらずトンネルの中の暗闇で身動き取れなくなっていたのは間違いない。

 江藤淳の文章を読んでようやく「ほう、小林秀雄はええこと書いとるがな」と少しだけ思う。江藤淳の文章は小林秀雄から大きくはみ出していて、私には江藤淳のほうがいいのではないかという結論になった。

 結果として数ページおきに赤線を引きページの角を折った。これほど唸らせてもらった本は久しぶりかもしれない。最低でも赤線を引いたところは読み返して脳みそに沈めたいのでこの本は読み返す。

 いつものようにカバーを外し、東海道線で読んでいたら、少し離れたところにいた初老の男性が(って私も初老だよな)私の本をじっと見ていて、背表紙に記された題名を読み取ったらしい瞬間満足そうな顔をした。大船駅で降りたので、誰か関係者だったりして。

 そういえば小林秀雄の墓を友人と一緒に鎌倉の寺で探し回ったのはいつだったか。日暮れとの競争だった。ようやく見つけたのは小さな小さな墓石で、ああさすがだと感嘆した。

 もう一つそういえば、江藤淳はわが車谷長吉さんを高く評価していた。『江藤淳は甦る』を読まんといかん流れになってきた。文庫本になってくれるとありがたいのだが。


 

ジュンパ・ラヒリ『停電の夜に』(新潮文庫)

 確か『毎日新聞』の書評面で取り上げられていた本である。アマゾンで買って長い間積ん読にしていた本書をようやく読んだ。ピュリツァー賞文学部門を受賞したり、『ニューヨーカー』に掲載されたりして、注目を集めているインド系作家の小説だ。

 9編の中で私が最も共感した作品は本の題にもなっている『停電の夜』である。引き戻せないところまでの亀裂が走った若い夫婦の物語は読ませる。物静かで繊細な記述に引き込まれた。全体に移民系文学とでも言えばいいのか、そういう点で米国人に新鮮な視点を提供したのではないか。評判の『三度目で最後の大陸』は米国人が好みそうな物語だと私は思った。

 私の小説吟味力ではこれ以上は何も書けない。私の限界である。

 

 

 

おもしろうてやがて悲しき『鬼才 伝説の編集人齋藤十一』(森功・幻冬舎)


『週刊新潮』の見出しが独特の味を出している理由がよく分かった。ひと味もふた味も捻った見出しを読むたびに、いったいどれほどの時間をかけて単語と表現を生み出しているのだろうかと思ってきた。週刊誌の見出しは編集長権限だと思っていたが、『週刊新潮』の場合は齋藤十一が長年その権限を握っていたのだった。

 その齋藤十一は『週刊新潮』で文学をやりたかったらしい。

《キミは何を言ってるんだっ、小説家というものは、自分の恥を書き散らかして銭をとるもんだ。それがわからないで小説を書くバカがいるかっ》と瀬戸内晴美さんを叱りつけた齋藤十一は、『週刊新潮』で「カネ・女・権力」に狂奔する人間を取り上げ、例の捻りに捻った見出しをつけた。なるほど文学である。

 本書では齋藤十一の離婚と再婚にもしっかり触れていて、齋藤十一の「カネ・女・権力」を遠慮なく描いた。齋藤十一への最高の敬意ではないか。

 知性あふれる人が斜に構えるから「俗物」と自称できたのだろう。《筆という武器を手にする物書きが、司法の場に訴えでて身を立てるという手段を嫌った》という辺りにも覚悟を決めた俗物性を垣間見ることができる。

 テレビ局のインタビューに応じた映像を見て「老醜だ、もう死ぬべきだ」とつぶやいた翌朝、お茶を飲んで意識を失い亡くなる美しい終焉よ。

《誰だって人殺しの顔を見たいだろ》

《僕は忙しいんだ。毎日音楽を聴かなくちゃならないから》

《キミたちは、僕が読みたい本をつくればいいんだよ》

《僕の墓は漬物石にしておくれ》

 破格と言うべき齋藤十一の語録には斜が見え隠れする。

 そのとおり、漬物石を墓にしたというから、鎌倉の建長寺で探してみるか。


夏目漱石『こころ』の「軽蔑」


 大学時代に読んだような記憶がある。それなりに恐ろしかった。今読み返し、全く別のところに戦慄した。いろいろな読み方ができることが名作の条件の1つと言われていて、今回読み返して新しい発見をした『こころ』は私ごときが言うまでもないのだが名作なのである(エラソーなことを書いてしまって漱石先生ごめんなさい)。

 今回の私の発見は、先生について《他(ひと)を軽蔑する前に、まず自分を軽蔑していた》という記述があることだ。わが車谷長吉さんの『盬壺の匙』を思い出した。車谷さんの自殺した叔父を弔う作品である。この小説の中で叔父は和辻哲郎の『ニイチェ研究』の余白に青インキで「俺は自分を軽蔑できない人々の中に隠れて生きている」と記していた。

『こころ』の先生と『盬壺の匙』の叔父の共通点がここにある。と、ここで書いて気づいた。どちらも主題は「自分の軽蔑」なのである。『こころ』の先生も『盬壺の匙』の主人公も最後に同じ一点に向かうのは当然なのだ。

「自分の軽蔑」は恐ろしいことだが、人間に深みを与える。そこが文学のテーマになるということか。

 つい先日、大学時代の友人K(偶然にもK)に会ったときのことだ。『こころ』に「自分を軽蔑」と書いていると話したところ、Kは「そういえば、あったな」と即座に反応したので私は驚いた。私は読んだばかりなのでこの小説の話ができるのは当然として、Kが読んだのは昔昔である。ほー。Kを見る私の目が変わった。私と同じ阿呆だと思っていたら、いやいやとんでもない。それにしてもK(笑い)。

 

 

福島から発信するウネリウネラの『らくがき』

 書き手は元朝日新聞記者の夫妻である。夫の初任地と最終勤務地が福島で、家族揃って福島に移り住み、出版社を立ち上げた。その1冊目が2人で執筆したこの本である。

 私の福島時代にお世話になった読売新聞の先輩記者のフェイスブック投稿で知り、「夫婦そろって朝日を辞めたの?! 何とまぁ。思い切ったことをしたなぁ」と驚き、直接メールして、送ってもらったのがこの本である。Amazonでも買うことができるようになったようだ。しかしAmazonに引かれる手数料を考えると直接連絡して買うほうがいいように思うのだがどうだろう。というわけで、直接買う人用にチラシを添えておく。

 本書ではふたりが朝日を辞めた《やむにやまれぬ事情》などには全く触れていない。記念すべき最初の本なのである。無粋な話は後日。いい判断だと思う。

 私が引き込まれたのは、家族が東北の自然の中で過ごす様子だ。ぶどうをたらくふ食べ、残ったぶどうでジャムをつくる。野菜の収穫の手伝い。ザリガニ釣り。

《首都圏から福島に引っ越してきて半年、だんだん手を動かすことが増えたような気がする。いや、自分からなるべく手を動かそうとしている》

 いいなぁ。羨ましい。都会で暮らしていると土や水に触れる機会が激減する。人間を頭でっかちにしてしまう都会暮らしに疑問を持ってきた私(もともと田舎者)は激しく共感する。

 ウネリウネラの住所を見たところ、私が福島時代に住んでいた場所のすぐ近くではないか。おお。ウネリウネラの窓から吾妻山は見えるだろうか。

 この本のカバーのこの紙質、私はもしかすると一番好きかもしれない。温かみが伝わってくる紙質なのである。本書の紙の色(クリーム色)は優しい感じが心地いい。装丁も営業も含めて何から何までウネリウネラが手がけたその手の温かみのようなものが、ひとつひとつからにじみ出ていて、ウネリウネラが今後出版してゆく本が楽しみだ。


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水木しげる『やっぱりオレはアホやろか』

 1978(昭和53)年にポプラ社から出て、1998(平成10)年に社会批評社から、2002(平成14)年に新潮文庫からと、出版社を渡り歩き、2016(平成28)年に講談社文庫に収まった。水木しげるファンの多さというのか、ここまで長寿となるとゲゲゲの鬼太郎の歌詞「おばけは死なない」に重なる。

 水木しげるさんは毎日新聞の配達や拡張をしていたのだった。せっかくのご縁があったのだから、ゲゲゲの鬼太郎のキャラクターを総動員して「おばけも読んでる毎日新聞」などと宣伝する絵を描いてもらえばよかったのに。替え歌で「みんなで読もうゲゲゲのゲ」とテレビCMを流すとか。もう遅いけれど。

 本書は水木しげるさんが世に出るまでの自伝である。鷹揚な雰囲気を出しているものの、実際はいろいろなところに頭をぶつけ、ウロウロキョロキョロあたふたしてきたのではないかと想像させる。

 今の今まで本書の題名を「ほんまにオレはアホやなぁ」だと私は思い込んでいた。「アホやろか」では面白くも何ともないし、微かな自慢が漂ってくる。どうせなら落としたほうがよかった。


 

森友学園問題を追及した元NHK記者相澤冬樹さんの『真実をつかむ』(角川新書)

 熱い熱い熱い。本書は記者の成長物語として読むことができるし、これから警察取材をする新人記者向けのヒントとして読むこともできる。全編熱い。

 驚いたのは支局勤務時代に運転手付きの車で取材先を回っていたことだ。昔からNHKの取材は贅沢だと言われていたが、地方でも! 今もNHK記者はそんな贅沢なことをしているのだろうか。私の福島時代、自分のポンコツ車で回っていたのに。NHKに言い分はあるだろうけれど、毎日新聞の記者が聞いたら目を剥く話だ。

 もう1つ驚いたのは、相澤さんが徳島局にいたという話だ。今の知事・飯泉さんの知事選出馬について《最後まで「出ない」と言いながら、さも県民に推されたから出ることにしたという、あの猿芝居》と一刀両断にした。そうか、飯泉さんは猿だったのか。そんな飯泉さんを持ち上げて、私の高校の同級生は県庁で出世しているのだが。

 面白かったのは徳島局の記者グループとカメラマングループの秋田町での乱闘である。やるなぁ。みんな血の気が多い(笑い)。

 相澤さんはNHKを辞め、今は大阪日日新聞の編集局長と記者という肩書きを背負っている。大阪日日新聞の宣伝効果は大きい。経営者が相澤さんをどう活用していくかが今後の見どころ(?)の1つだろう。

 相澤さんの熱は大阪読売・黒田清さんの熱に共通する高温だ。こういう本が記者志望者を増やすのだと思う。

父親の“血”に悶え抜いた中上健次『岬』(文春文庫)

 私が惹句を書くとこうなる。「尋常ならざる父親の血を粛清するために――」

 池澤夏樹さん個人編集の日本文学全集23『中上健次』(河出書房新社)を読んでいたおかげで、背景を熟知した上で代表作『岬』を読むことができた。

 これは中上健次にしか書くことができない世界である。大半の人が触れることができない世界に手を突っ込むことができた環境が中上健次を生んだ。

 親は子を、子は親を選んで生まれることができない。問題が生じるのは、親を選んで産まれることができない子供の側が大半だろう。親は生殺与奪の権を持つからだ。過酷な親を持つ子供が小説家になっている事例は少なくないのではないか。反対に過酷な子供を持つ親が小説家になってる事例は浮かばない。

 中上健次は自分の首を絞めるようにこの小説を書いたはずで、恐らく死ぬまで“父親の血”に苦しみ悶えた。

 こういう小説をアホボンの私が20代で読んでも到底理解できなかった。中上健次が好きだと語った芥川賞受賞の慶應大生・宇佐美りんさんはすごいぞ。


 

夏目漱石『行人』の戦慄


 漱石の『行人』の読み方を初めて知った。「こうじん」だそうな。奥付にルビが振ってある。

 後半のどこかで「あれ?」と感じた。『こころ』に似た何かを嗅いだのである。ウィキペディアによると、両作品は接近して発表されている。

行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)

 私は漱石の研究者ではないし研究書の類を読んでもいないので単なる当てずっぽうだが、漱石は『行人』を書きながら『こころ』の構想を練っていたとか、あるいはこの時期の漱石の関心事が“そこ”にあったとか、考えられるのではないか。

 それにしても『行人』である。妻と弟の中を疑う兄のこころの闇の深さに戦慄する。私が書けば妻と弟をくっつけて兄をもっと苦しめるのだが、こんな安易な展開を漱石は選ばなかった。『こころ』を書く前のこの小説では人間の善に踏みとどまったということだろうか。



 

必読の『首都直下地震と南海トラフ』(鎌田浩毅・MdN新書)


 ニュージーランド近海で立て続けに大地震が起きたのを見て、「なるほど、ああいうふうに時間差で南海トラフ沿い大地震に襲われる可能性があるのだな。この本に書いてあるように、もはや逃げようがない」と分かった。しかも今度来る南海トラフ沿い3連動大地震は3回に1回の超大型らしい。わはは、と笑って開き直るか、できる限りの準備と備蓄に励むか。

 私の命はどうでもいいのだが、親より先に死ぬわけにはいかない。ただただそれだけの理由で、できる限りの準備と備蓄に励む。

 徳島が南海トラフ地震で揺れた一番近い年は1944(昭和19)年である。それを経験した母は「玄関にあった靴(下駄と言ったかもしれない)が水に浮いとった」と言っていた。お母ちゃん、次に来る地震はそんな甘いもんとちゃうみたいでよ。徳島市はもちろん、親戚が暮らす田宮も北島町も友人が住む佐古も津波で壊滅するのではないか。

「地震が来る前に死んどったらええなぁとお父ちゃんと言いよんよ」と母は最近ようやく次の南海トラフ大地震をほんの少し意識するようになった。答える言葉がない。

 鎌田先生によると、2030年代に起きると想定されている。2039年として、今から18年後である。そのころは父も母も100歳前後の計算だから、まぁ、何とかなるか(何が?)。

 しかし同級生は75歳前後だ。まだ生きているはずで、しかし足腰は衰え体力も落ち、逃げたり避難生活を送ったりするのは難儀かもしれない。

 危険が想定される地域から引っ越しを始めるか小舟を買って庭に置いておくか。などと書いている私がJR東海道線に乗っているときに首都直下地震に遭遇して電車ごと宙に浮いてそのあと地面か建物に直撃してあっという間に終わるかもしれないなぁ。


 

 

『ルポ西成』のうーん


 大阪・岸和田市で暮らしていたころだから小学6年のときだ、父に連れられて西成を歩いた。当時はまだまだ西成が元気なころで、いたいけな子供(ワタシね)をお守りがわりか盾がわりにしたのかもしれない。

 その西成で80日ほど暮らして日常を描いたルポだという新聞広告に惹かれて読んでみた。最初は物珍しさで興味深いのだが、読み進むうちに不快になってきた。

 若い筆者は西成で起きる表面的な事象を追いかけ、対象を見下し、自分は彼らとは違うのだと節々に伝わってくる記述から差別意識が垣間見えるのに筆者にその自覚がなく、「いったい君は何のために西成のルポを書いたのか」と首を傾げざるを得ない。

 編集者がそこを指示すべきなのに垂れ流したのだから同罪である。何だかなー。

 西成は動物園ではない。警察の留置場でもない。西成のこの人は私かもしれないという哀しみの共感や落ちこぼしてゆく社会や福祉に対する憤りも疑問も取材もない。こんなことなら書かないほうがよかった。


 

池澤夏樹責任編集世界文学全集『暗夜/戦争の悲しみ』(河出書房新社)


 中国の小説家残雪さんの『暗夜』は暗喩的な話で少々難儀した。

 一方ベトナムの小説家バオ・ニンさんの『戦争の悲しみ』には最初から最後まで圧倒された。ベトナム戦争を戦ったベトナム人兵士の戦場と、結ばれることのない悲しい恋愛は、著者の経験を下敷きにしているはずで、その重さといったらもう。

 訳者に井川一久さんの名前が出ていてびっくり。もちろんまったく面識はないが、かつて朝日新聞記者として活躍した人である。私の大学時代に井川さんの本を読んだ記憶があるので懐かしい。

 戦争を主題にした小説やノンフィクションは多いけれど、非情な戦場の経験者が書く作品は舞台も登場人物の経験も行動も感じ方も考え方も段違いに深く昏い。想像を絶する世界にぐったりした。


 

 

渋沢栄一を知るためには『論語と算盤』(角川ソフィア文庫)よりも

 たまたま去年から少しずつ読み進め、無事に読み終えた。この本を読んでも『論語』は少ししか分からない。渋沢栄一は本書でさほど『論語』に言及していないからだ。

 渋沢栄一の人となりを知るなら別の本がいいかもなぁ。鹿島茂さんや城山三郎さんが書いている作品のほうが読みやすいだろう(私はどちらも読んでいない)。

『論語と算盤』もいいけれど、最後まで手放さなかった肩書きに渋沢栄一のすべてが凝縮していると私は思う。

瀬戸内晴美『かの子撩乱』(講談社文庫)

 かの子と言っても知らない人が多いはずで、それではと「岡本太郎の母親」と説明しても「令和の運び屋の母親?」と首を傾げる人が多いのではないか(「令和の運び屋」は河野太郎)。時代は流れる。

 岡本かの子の常軌を逸した生き方とそれを無条件で包み込む夫一平。こんな夫婦を“源流”とする岡本太郎のたたずまいに納得した。

 懊悩を抱えながら一瞬一瞬に閃光が走る生き方など腑抜けの私にはできるものではない。消えない炎は自分の魂さえ焼き尽くした。

 文庫の1刷は1971年である。600ページもある長編が今も版を重ねていることに驚く。


 

哀しみを書いた筒井康隆さんの『川のほとり』

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『新潮』2月号を買ったのは、筒井康隆さん(86歳)の『川のほとり』を読むためだ。この作品が話題を呼び、アマゾンでは2倍以上の価格である。幸いにも東京駅前の丸善にあったので定価で買うことができた。

 筒井康隆さんのご子息が昨年2月に51歳で亡くなったことを題材にした作品である。今の時代、逆縁ほど恐ろしいものはない。

 あの筒井康隆さんがわずか10枚の作品を書くのに1年近くかかったわけで、そういう背景を踏まえた上で読むと予断を持ってしまうものではある。それでも、このような昇華のさせ方をしたのかという静かな感動と不思議な感覚が私のこころに広がった。合掌したくなるような気分である

 めでたいことを何か話せと言われ、「親死に子死に孫死ぬ」と喝破したのは一休宗純だった(諸説あり)。


 
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