同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

ことば

「D」を「デー」と言うて何が悪い

私「デーマガジン読んだ?」

若い女「デーマガジン? あ、もしかしてディーマガジンのこと?」

私「そや、デーマガジンや」

若い女「西野さん何でDをデーって言うの? デズニーランドとかデーブイデーとか言うの?」

私「ディーという音は日本語にないけん聞き取りにくいだろ。ほなけんデー言うとんじゃ。ドイツ語はDをデーと発音するしな」

若い女「Dをドイツ語読みするなら全部ドイツ語にしないと。DVDはデービーデーでしょ」

私「デービーデーでは何のことか分からんがな」

若い女「初老の男性が得意げにDをデーと言うけど、西野さんもとうとうそうなったか」

私「あっかんデー!」

若い女「あっかんべーでしょ。言うにこと欠いて。ああしょうもな」

私が決める仲畑流万能川柳の年間大賞はこれ

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 2018年の仲畑流万能川柳(『毎日新聞』に365日掲載される人気投稿欄)の年間大賞を私は下記の作品に授与する。

 「パパ遊ぼ」二度とない時期とは知らず(愛知・舞蹴釈尊)

 12月17日付紙面に載った作品だ。読んだ瞬間、ああーと共感の声が出た。12月の月間賞だが、年間大賞に値する。

 私はマンションの担当者に同じようなことを言っている。「女の子は10歳くらい、男の子は12歳くらいには親離れする。それまでですよ子育ての一番楽しい時期は」と。「だから、必死こいてカメラで写真を撮るべきです。しかも最高級のカメラで撮るべきです。成人した子供を撮ろうと追いかける親はいませんからね」と。

 恐らく私の親もこんなことを思っただろう。その親も思ったのではないか。さらにそのまた親も……。

 終わって初めてどれだけ貴重な日々だったかに気づく。子供が自立すると、夫婦だけが残り、多くの夫が帰宅恐怖症にかかるのであるな。ふっふっふ。


 

言質を取られない方法

 小山薫堂さんの著書『ライカと歩く京都』にサインをもらったあと、私はこう言った。「このご著書の23ページが特によかったです。思わず赤線を引きました」

 どれどれと小山さんはページを繰る。隣にいるライカジャパンの男性がのぞき込む。

 あ、まずいかも(汗)。失礼な状況をつくってしまうことに気づいたが時すでに遅し。それに、私は筆者の思いを聞きたいし。

 私が赤線を引いたのは<カメラが問題なんじゃない。やっぱり、どんな瞬間を切り取れるかだ>という部分である。それは別にいいし、真理だと確信するのだが、この場がライカジャパンの主催で小山さんがライカについて語った直後でライカジャパンの人が隣にいるという状況はよくなかったかもしれない。

 小山さんは賢明だった。「あーあーあーあー」とだけ言った。

 ターザンではない。

 私なら率直に「いや、実際そうなんですよねー」とか何とか言ってしまいそうだが、小山さんはそういう余計なことを言わなかった。代わりに「あーあーあーあー」と音を発した。

 私の場合余計なひと言ふた言を発してしまうことがある。聞かれたことにはまっすぐ答えるという点で私のほうがよほど実直だと主張したいのだが、あとの祭りで、えらやっちゃえらやっちゃヨイヨイヨイヨイが何度あったことか。口は災いの元なのである。

 小山さんを見習おう。あーあーあーあー。これでいい。誰も傷つけないところがいい。 

『考える人』メルマガの魅力

 無料のメールマガジンはぞんざいに扱いがちである。私だけだったらごめん。

 しかし、先日じっくり読み始めた途端その文章の奥深さすなわち考えの奥深さにすっかりはまってしまった。新潮社の『考える人』のメルマガである。

 低く静かに淡々と語りかける言葉の石清水が私のこころに緩やかな波紋を広げてゆく。私に語りかけてくる言葉が、こころに染み入る。

 私ごときヘナチョコが言うのも失礼だが、こんな文章を書くつまり考える人が新潮社の編集者なのだなぁ。

 というわけで、登録をお勧めする。ここから登録できる →考える人

「スパゲティ」がなじむワタシ

 未だに「スパゲッティー」とワタシは言う。「パスタ」より「スパゲッティー」がいい。そもそも一体いつから呼び方が変わったのか。

 映画「ウオール街」で主人公のバッドが父親にこう言う。

It's called pasta now,dad. Spaghetti's out of date.

 映画は1987(昭和62)年公開である。今から30年ほど前には「スパゲッティー」はout of dateなのであった。

 スパゲッティーとパスタは物が違うと言われたら「はいはいそうですね」と渋々同意するけれど、言葉に関しては私は保守派である。単に頭がカタいから意固地になっているだけかもしれないが、残り時間が30年くらいしかないので私はダンコとして「スパゲッティー」で行く。

 

It is not who is right, but what is right, that is of importance

Thomas Henry Huxley said that it is not who is right, but what is right, that is of importance.

We should apply this thought to a silly management. Such a man believes that an employee should obey his direction undoubtedly.

In this way a wise employee gives up on him and leaves a company. How difficult to get the support of the people.

松尾貴史「ちょっと違和感」に同感

『毎日新聞』夕刊(東京本社版)に松尾貴史さんが連載している「ちょっと違和感」に同感することが多い。特に言葉の使い方に関しては新聞社の校閲記者並みのうんちくを語る。

 23日付紙面では、性的虐待や強姦を「いたずら」というかわいらしい言葉で表現することへの疑問を記した。「いたずら目的で」という言い方に聞き慣れてしまって違和感を感じなくなっている自分に愕然とした。

オバマ演説

 オバマ大統領が再選を果たした。演説全文を音読してみると、日本の首相の演説との違いが分かる。何が違うかというと格調が違う。世界観の広がりが違う。

 音読しているうちに自然に声の調子を強める部分があった。文章がそうさせるのだ。普通の文章はこうはいかない。スピーチライターの手腕を実感する。

 日本の首相の演説がイマイチなのは、もしかするとスピーチライターに問題があるのかもしれない。と書きながら言うのも何だが、米国の大統領のスピーチライターと比べるのはかわいそうだ。そもそも私だって書けないし。

 何じゃそりゃという結論に達してしまった。自分を棚に上げれば何とでも言えるのである。

 

「させていただく」をやめよう

 「させていただく」とあまりにもへりくだる表現がまかり通っている。手元にあるNTTファイナンスのチラシにさえ<現在、通信サービス会社ごとに請求書を発行させていただいております>とある。

 この表現、やめませんか? 回りくどい。舌を噛みそうだ。慇懃無礼だし。そもそも無意味である。

「私、山田太郎は」の変

 流行なのか。芸能人が結婚や引退を発表する際に「私、山田太郎は」と名乗る。

 くどい。「私」も「山田太郎」も同じ意味である。繰り返さなくていい。「お前は選挙の立候補者か」とツッコミを入れたくなる。

「私はこのたび秋田ポン子さんと結婚します」で十分である。

 芸能人に広がっているこの悪習に誰か終止符を打ってくれ。

藤本義一の思い

 久しぶりに藤本義一さんを見た。20日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)の紙面である。

 ひがし東北大震災についての原稿注文に対して、終戦間際に米軍機に射殺された友人の話を書いたという。<災害で親しい人、大切な人を失った人たちに伝えたかった。人間、生きていくためには、生きることを教えてくれた人を思い出さなくてはいけません、と>

 そう言われれば、若くして亡くなった同級生がいる。最近忘れていたが、思い出した。私が生きていくために、あいつを思い出さなければ。いや、忘れてしまっては申し訳が立たない。

恋愛におけるサービス精神とは

「私と出会っていなかったら、誰と付き合っていたかな?」などと女性に聞かれたら、男は何と答えるべきか。

「そうだなぁ。○○ちゃんかなぁ」などとバカ正直に答えてはいけない。女性の質問に真正面に答えてはいけない一例である。

 この女性の質問への正答としては「キミ以外に考えられないよ」だ。

 恋愛におけるサービス精神とは、本当のことを素直に相手に言うのではなく、相手が言ってほしいことを考えて言うのである。

菅さんは本当に「やるべきことはやった」のか

 旧聞に付すが、どうも腑に落ちない。8月26日の民主党役員会で退陣を正式に表明した菅直人首相(当時)が役員会後の両院議員総会で「与えられた条件の中でやるべきことはやった」と強調したことについてである。

「やるべきことはやった」という開き直りのように聞こえる言葉が私には納得いかない。状況的にそう言うしかないとしても、「やるべきことはやった」と言ってしまうと反省がない。反省する人間には今後の進歩が期待できる。しかしすべてを正当化してしまう人間の今後に進歩があるのかという問題である。

 似た言葉に「悔いはない」がある。潔さのある言葉だが、時と場合によっては涙を流して悔しがるほうがいいのではないか。潔く「悔いはない」と言ってしまうと、目的点への執着がないとか目的点をそれほど重視していなかったなどと聞こえてしまうからだ。

 潔さが必ずかっこいいとは限らない。どうにもきれいごとに見えてしまう。悔しくて悔しくて地団駄踏んで涙と鼻水が入り交じってというくらいの執着と本音を見せるほうが実は人間的なのではないか。私なら後者をより信頼する。

 

人生は誠意と努力の競争の場

 大阪のキョーワ株式会社さんのサイトで見つけた言葉がこれである。

 人生は誠意と努力の競争の場

「誠意」の競争と「努力」の競争をするのが人生だという明確な定義だ。なるほどなと思う。競争は競争でも「誠意」と「努力」の競争なら誰でも勝利者になることができる。そんな明るさと希望を与えてくれる言葉だ。

胸躍る大好きなステージがあるか?

  桑田佳祐を中心としたチーム・アミューズの『Let's try again』が素晴らしい。CDとDVDがついていてわずか992円だ。アミューズの収益はすべて東北大震災に寄付されるという。さすが音楽家である。

 歌詞「胸躍る大好きなステージにみんなで駆け上がれ」と桑田佳祐らが歌っている。一見すると音楽家たちが自分たちのことを歌っているようだ。しかし何度も聞いているうちにそうではないと分かった。被災した人たちを応援しているのは当然だが、人生で悪戦苦闘している人たちに向けての応援歌でもあると私は理解した。

「胸躍る大好きなステージ」は私にとってはどんなステージだろう、そもそも「胸躍る大好きなステージ」を私は持っているだろうか。そんなことを考えながら聞くと、いろいろな光景が脳裏に浮かぶ。

 言葉のチカラはすごいなぁ。桑田佳祐はやっぱりうまい。

「最悪」とは

「あぁーもぉー最悪ぅ〜!」という嘆きを聞くことがたまにある。

 よくよく事情を聞いてみると、室内犬がベッドの上でオシッコをしたとか成績が悪いとか、どうでもいいようなことに嘆いている。嘆いてストレス解消になるのかもしれないが、「最悪」という言葉の響きは脳によくない。

「最悪」の定義を人間の命に関わる事態だけと決めておけば、安売りしなくて済む。

男を瞬殺する言葉

 大阪大の女子学生が付きあっていた男子学生を振る際こう言った。

「器が小さい」

 ピンポイント攻撃である。この男はしばらく立ち直れないだろう。立ち直ったとしても、死ぬまで「器が小さい」という言葉が脳みそにへばりついて離れないだろう。

 この男子学生君にはお悔やみ申し上げるしかない。と共感してしまうのは、私が高校1年の時に付き合ったりんごちゃんから言われた「幻滅した」という言葉が脳みそにへばりついて離れなかった経験があるからである。当時は「げ、げ、げ、げんめつぅぅぅぅぅ」と頭の中でこだましたものだ。

 でも、「幻滅した」より「器が小さい」のほうが男には堪える。他人の不幸を見て私は「幻滅した」程度でよかったなと思う。

「幻滅したということは、ニシノさんへの期待が大きかったんですよ」と女子学生が解説してくれたけれど、実際そうなのだろう。私が「幻滅」の呪縛を脱出したのは、「確かに幻滅されても仕方ないよな。あの当時の僕は魅力がなかった」と認めた時だった。

 男子学生君が「確かにあのころは器が小さかった」と自分を客観視できるようになったら呪縛から解放されるに違いない。そして、そうなった時は器の大きな人間になっている。ガンバレ!

年齢がバレる言葉

 時代によって言葉は変化する。言葉で年齢がバレるのはそのためだ。

 端的な例は「アベック」だろう。試しに高校1年の次女に聞いてみた。

「アベックって分かる?」

「聞いたことある」

「カップルの意味なんだけど」

「そうなの? おそろいという意味かと思ったけど」

「確かにそういうニュアンスだけど、一般的にはカップルの意味で使う」

「ふーん。知らなかった」

 ほーら。ね。「アベック」と「カップル」は何歳辺りが境目なのだろう。

「太陽にほえろ!」予告編のすさまじさ

 「太陽にほえろ!」の予告編DVDを食い入るように見ていると、「たかが予告」では済まされないものが時々ある。

 <遠い過去への誘いざないがむなしく都会の片隅に忘れさられてゆくとき、刑事は1つの真実を探り出そうとする>=孤独

 <孤立した陰が幻の友を求めてさまよう。それは青年にとっての蹉跌か、あるいは……>=新しき友

 <平和なひととき、二人の愛、一瞬にして崩れ去るとき、ほおを伝う一粒の涙>=さらばスコッチ

 <凍てついた心がはかなき夢を追いかける。さまようかげろうのごとく、敗れ去った一人の少年>=家出

 <逃亡を運命づけられた男と女、追跡を義務づけられた2人の刑事、それぞれの青春の光と影が絶望の荒野に向かうとき>=追跡者

 <裏切りの愛が憎悪に変色し、テロリズムの嵐吹き荒れるとき。凍結した意識の中、深く静かに愛の鼓動が芽生えてゆく>=警察犬ブラック

 <思い出の過去が、時とともに。愛、その深き謎ゆえに、忘却の彼方より今蘇る>=秘密

 だから見始めたら止まらない。
 

私は約束を守っているか?

 <大塚製薬グループの礎を築いた大塚正(まさ)士(ひと)さんの語録の一つに「男の約束は法律に優先する」がある。時代がかった言い回しだが、明快だ。約束を果たすことで、自分の信用を世間の人たちに植え付けていくことの大切さを訴えている。それが事業を大きくする源だと>
<経営者なら、約束を守ることがビジネスの要(よう)諦(てい)であることを実感している。約束を守れなかったときの苦い思い出は誰もが持っているはずだ。「約束は破られるためにある」などと言い逃れをすれば、手痛いしっぺ返しが待っている>=5月15日付『徳島新聞』1面コラム「鳴潮」から。

 私の経験では、約束をいとも簡単に破るか軽視する人の職業に新聞記者がある。友人に聞いても、「人に頼み事ばかりして自分からは何も返さない、つまり、ギブアンドテイクのテイクばかりだ」という感想が戻ってきた。

 少し耳が痛かったりする私だが、今ではきれいさっぱり足を洗って実業の世界で生きているから、「男の約束は法律に優先する」を石に刻んで実行しなければとあらためて思う。

 実行しなければ、記者と同じで笑われる。

組織内で阿呆な事態に遭遇したら

 大手IT企業に勤務する友人が会社員の処世術としてとてもいいことを言っていた。

いい意味でバカにして受け入れる

 例えば、社内の公用語がベトナム語になっても、出勤が午前5時になっても、社長が無意味な自慢話をしても、これでやり過ごすのである。

 自分の命に代えても守りたい何かでないのなら、これでいいのだ。いちいち引っかかってしまうのは人生の無駄であり、自分の器を小さくしてしまうだけである。って、言うのは簡単だが……。

幸せの定義

 <ささいなこと、個人的なことで幸せと感じるようないくつかの「ネタ」があって、それにいちいち気づいていくことが生きていくことにつながるのではないかと。「幸せ」になることが生きることではなく、「幸せ」に気づいていくことが生きていくことなのだと思ったのです>

 20日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)「新幸福論」で紹介された歌手の一青窈さんの言葉である。

 全く同じ結論に私も行き着いていた。人生を楽しくするもつまらなくするも、自分の受け止め方次第なのだ。

 この記事のおかげで、一青さんと私はかなり気が合うことを発見した。あとはどこかで出会うだけである。

 
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