同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

映画

映画『赤目四十八瀧心中未遂』は駄作

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 車谷長吉さんの直木賞受賞作『赤目四十八瀧心中未遂』を私は恐らく100回以上目を通していて、映画を恐る恐る見た。ひとことで言えば駄作である。

 この小説につきまとう不気味な通奏低音を、人形と暮らす老夫婦に仮託したのは名案だと思う。しかし、この仕掛け以外はすべて期待を大きく下回った。映画にも文学にも詳しく批評能力の高い友人に聞いたが同じ感想だったので私は自信を持って言う。駄作である。もう少し具体的に言えば中途半端。谷崎の『卍』の映画も冒頭数分で欠伸が出たが、そもそも名作を映画化するのは無理があるのだ。

 俳優も無理があった。アヤちゃんはぞっとする美しさを持つ女優が演じなければならないのに脱ぎっぷりのいい寺島しのぶを持ってきた。壇蜜か亡き夏目雅子か、背筋が寒くなるくらいの美しさを持つ女優でなければ務まらないのがアヤちゃんなのに。

 主役の生島を演じた男優はハンサムすぎて合わない。トレンディードラマ向きなのになんで? セイ子ねえさん演じた大楠道代を私は買うが、大阪弁が下手だと友人は言う。この友人は「なぜ大阪の俳優を使わないのか」と言っていて、思わず納得した。眉さんが内田裕也というのも、その意気は買うが大きな溝を感じた。内田裕也は線が細すぎる。

 小説ではドキドキする場面(電話ボックスに5万円取りに行く場面と拳銃を事務所に持っていく場面)を映画ではあっさり描いてしまい、あーあと言うほかない。

 この映画はいろいろな賞を与えられた。例えば、第58回毎日映画コンクールは日本映画大賞、女優主演賞(寺島しのぶ)、女優助演賞(大楠道代)、撮影賞(笠松則通)、スポニチグランプリ新人賞(大西滝次郎)だって。

 きみたち原作読んでないな。

 

森田芳光監督『失楽園』から学ぶ男の愚かしさ

『日本経済新聞』を最終面から読ませたと言われた渡辺淳一さんの『失楽園』は小説だけ読むと単なるエロ小説だろう。そのテレビドラマは荒唐無稽にしか見えなかった。以来、私は『失楽園』をそういう作品と決めつけていた。

 しかし、「森田芳光監督が撮った『失楽園』は見るべきだ」という助言をつい先日得た。男の愚かしさを趣味で追求している私に必要な映画だと言うのである。数多くの小説を読み、映画を見てきた元舞台俳優の助言なのですぐに見た。幸いにもアマゾンプライム会員は無料で見ることができる。便利なことこの上ない。

 私が年齢を重ねたせいか経験や想像力が増したせいか、男が愚かしく追い詰められていく模様がじんわり伝わってくる。こんなふうに墜ちてゆくのだな男は。ああ、なるほど、そういうことか。阿呆やなぁ。多くの啓示を得た。そもそも私は愚かしいが、役所広司演じる男性はもっと愚かしい。そうか、ここまで墜とせという示唆か。

 元舞台俳優の指摘で気づいたのは森田監督が水を暗喩にしていることだ。滝の映像が何度か出てくる。男と女が出逢った日は大雨。男と女が永遠に1つになった日は大雪。しんしんと降り積もる深い雪の中を静かに行く男と女――。「水」の解釈を踏まえて映画を見るよう森田監督は観客に求めたのである。

 ときには暴力的に。ときには静かに。ときには形を変えて。ときには荒々しく。ときにはひっそりと。ときには人間の皮膚を覆い。ときには極寒の象徴として。絶えず落ち。

 森田監督は原作を凌ぐ映画を撮ったのではいか。


 

映画『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』

ペンタゴン・ペーパーズ

予告編
 こんなに大勢が見に来ていたのか。上映が終わり、館内に明かりが灯って驚いた。いくら土曜夜とはいえ、こんな真面目な映画を誰が見に来るだろうと思っていたのだが。メリル・ストリープやトム・ハンクスという正統派俳優が出演した重みに関心を持った人か、それとも報道業界の人か。

 報道業界では聞き飽きたような“かっこいい”台詞が時々出てくる。報道関係者には叱咤激励の響きを持つだろうし、初耳の人には「そういう役割なのか」と理解してもらうきっかけになるといいなぁ。でも世間一般の人はこの映画に興味を持たないだろうなぁ。率先して政府のお先棒を担ぐ『読売』や『産経』の一部の記者や経営陣には10回くらい繰り返して見せて感想文の提出を求めたい。

『ワシントン・ポスト』の経営者と記者に焦点を当てた映画だが、私がうなったのはペンタゴン・ペーパーズそのものである。作成させた意図が映画で語られているのだが、公文書を焼いたり捨てたり隠したりうそをついたり改ざんしたりしてきた日本とは比べものにならない。この差はどこから生まれるのだろう。 

 ウォーターゲート事件の幕開けを予感させるラストシーンが「つづく」か「始まり」を示唆しており、余韻を残す。

映画『パリが愛した写真家 ロベール・ドアノー<永遠の3秒>』

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「パリ市庁舎前のキスで知られるロベール・ドアノーの記録映画を見て、あらためて思った。写真家にとって恵まれた時代があったと。ドアノーの時代は写真の黎明期で、何を撮っても斬新だった。そのぶんテーマや構図は自分で開拓していくしかなかっただろうし、オートフォーカスなどなかったから、写真家という仕事がブルーオーシャンだったのは間違いない。

 この「パリ市庁舎前のキス」は1950年の撮影で、有名になったのは1980年だ。非常によく似た構図で有名な写真がある。1945年8月に第2次世界大戦終結を祝ってニューヨークのタイムズスクエア前で米兵が看護師にキスをしているやつ。

 同じ人間ならキスは誰でも似たような姿勢になるのだろうけれど、撮影年を比べる限りではドアノーが構図を真似したのではないかとウタガイの目をちょっぴり向けてしまう。

 という具合に、人間が人間の生態を撮る限り似たようなテーマや構図になることは避けがたい。似たような写真をあとから撮ってしまった写真家は不幸である。

 写真が氾濫する時代、既視感のない構図やテーマを撮るのは並大抵ではあるまい。だからといって、凝りに凝ってゲージュツ的な写真に走ることが写真の王道とは思えない。

 写真家受難の時代かと思いきや、今回土門拳賞を受賞した写真集『新宿迷子』の梁丞佑さんやアフリカなどで女性の尊厳を追う林典子さんのような人がいる。

 写真家に負荷がかかるほど新境地を切り開く秀作が生まれるのだとしたら、写真家の絶滅は免れるかもしれない。

ドキュメンタリー映画『「知事抹殺」の真実』と検察ファッショ

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 一般的に記者は検察に対する無謬性の神話を抱いている。検察が起訴すれば、そういう前提で取材してしまう。取材合戦になるので、検察が描いた物語に沿って情報を得ようと動く。検察は間違っているのではないかと考える余裕はない。万一そんな報道をしたら、ただでさえ難関の検察から完全に閉め出されるという不安を無意識に抱いている。このような構造が冤罪を生む原因の1つではないか。

 ドキュメンタリー映画『「知事抹殺」の真実』を見終えて想像したのは、佐藤栄佐久さん逮捕時に私が福島県政や警察の担当記者だったらどうするだろうか、ということだった。検察に対する無謬性の神話を壊すことなど考えもせず、検察に追従したに違いない。冤罪に加担するわけで、それは前述したように構造上避けがたい。しかし、冤罪を生んでしまったら責任を負う。その責任をどう果たすか。

 佐藤栄佐久さんは私の福島県政担当時代の知事で、正直に言うと当時の私は佐藤知事に全く興味がなかった。もともと私は権力から距離を置く癖があるうえ、東北の知事が集まった会議の場で佐藤知事の発言に面白みがなかったので、「佐藤知事もその辺の政治家と同じだろう」という先入観と誤解をしていたのである。

 そんな佐藤知事が2006(平成18)年に収賄容疑で逮捕されたことは知っていたが、それ以上興味を持っていなかった。木村守江に続いて佐藤栄佐久か、という程度の貧しい“理解”しかしていなかった。

 このドキュメンタリー映画が福島で頻繁に上映され、高い評価を集めているらしいと知り、ようやく東京で上映されたので見に行き、自分の不明を深く恥じた。

 思えば佐藤優さんも検察の犠牲になった。JR東労組の友人小黒さんもそうだ。やりたい放題の検察ファッショがあることを知る。これが第一歩だろう。福島の報道機関はその後どう自己検証しているのか。頬被りを決め込んでいるとしたら検察のポチだよなぁ。

 1つ驚いたことがある。佐藤知事が収賄容疑で逮捕される端緒になった雑誌が『AERA』なのだ。記事を書いたのはあの長谷川熈さんである。徹底的な取材で批判記事を書く記者で、長谷川さんが1989(平成元)年ごろ福島市で小さな講演会をしたとき私は聞きに行ったことがある。その長谷川さんがミスリードした可能性があるわけで、長谷川さんはどう片を付けるのか。ジャーナリストならこれまた頬被りを決め込んでいる場合ではない(だから下村満子が映画を推薦しているのか?)。

 福島県民以外は佐藤栄佐久さんに興味を持つのは難しいかもしれない。しかし、日本の検察ファッショがどういうものか、その一端を知るために必見のドキュメンタリー映画である。

買っておくべきだったDVD『月光の夏』

 しくじった。アマゾンで『月光の夏』が売り切れたのだ。楽天などで探したが、もうない。目ざとい人たちがここぞとばかりにバカ高い価格をつけて売り出している。

 こんな映画、よほどの好き者以外は誰も買わないだろうとのんきに構えていた私が阿呆だった。

『月光の夏』は優れた映画である。戦争を一切美化していない。個人の想像を上回る映像を示して戦争で兵士がどう死ぬのかをわれわれに見せた。生き残ればいいわけではないことを仲代達矢の抑えた演技が教えた。

 ああ、買っておくべきだった。急ぎではないので、ポニーキャニオンさんの販売再開を待つかな。

ロマンポルノ『ホワイトリリー』

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 日活ロマンポルノを私は誤解していたのかもしれない。確か大学時代、友人たちと『ピンクのカーテン』を見た。それが最初で最後だった。そもそもあれは「見るもの」ではなく「するもの」である。この信念(というほど大げさなものではないが)は変わらない。しかし、ポルノ映画の制作者の熱をのちに垣間見るにつけ、興味が高まった。

 というわけで、中田秀夫監督の『ホワイトリリー』を見た。レズビアンに男が絡む作品としては谷崎潤一郎の『卍』が大先輩だろう。この映画(1983年、樋口可南子と高瀬春奈のバージョン)の冒頭で私は一気にずっこけた。駄作である。表現作品は冒頭が鍵を握る。『ホワイトリリー』は冒頭を乗り切り、観客の期待をつないだ。

 飛鳥凜の成長を縦軸に、日活ロマンポルノのお約束を守りながら、セリフに伏線を張り、音楽を工夫し、飽きさせない80分作品である。愛の恐ろしさは中田秀夫監督ならではの表現だろう。

 随所で山口香厠いスーッと流す涙(カメラは全くクローズアップしない)の意味を解釈することで彼女が抱える絶望の深淵に嘆息できたのは、50年以上生きてきた私もそれなりにいろいろな絶望を見てきたせいかもしれない。絶望は人をつなぐね。

広島で映画『この世界の片隅に』を見た感想

 映画は「何をテーマにして」と「どう表現するか」で決まる。映画の感想を語る者は「そのテーマについての知識の幅や深さ」と「どこに評価基準を置くか」が感想を左右する。

 大雪の広島市で映画『この世界の片隅に』を見た。きのうも今日も満席である。呉市や広島市を舞台にしているので当然と言えば当然か。

 感想を正直に言うと、広島には『はだしのゲン』という金字塔がある。これを超える作品は今後もないだろう、ということだった。なぜ『はだしのゲン』が金字塔なのか。なぜ『この世界の片隅に』がそうでないのか。冒頭の話に戻る。

 この映画を大きく分類するとテーマは「戦争」だ。しかし、「戦争」をテーマにした優れた作品としてすでに『はだしのゲン』がある。広島に原爆が落とされ、地獄絵図と化した当時の様子や主人公一家の過酷な歩みを筆者の意経験に基づいて描いた。王道である。音楽で言えば主旋律であり、楽器で言えばリードギターである。

 この映画は広島市から呉市に嫁いだ女性の普段の生活を戦前から敗戦直後まで描いたので、音楽で言えば通奏低音であり、楽器で言えばベースである。地味になるのは仕方ない。

 もちろんこの映画を作る意義はあった。最近の日本の戦争映画はバタ臭い顔の俳優たちが軍人を演じ、本来なら醜悪嫌悪嘔吐極まる戦争をお涙ちょうだいの感動ものにしてしまう点で私は大きな違和感を抱いてきた。これに対するアンチテーゼとして、この映画の役割は小さくない。

 当時の町並みを細部まで再現したという努力も多とする。能年玲奈の声も別に悪くない。しかしこの映画で話題を呼んだのはこの2点でしかないことをわざわざ指摘しておく必要はあるだろう。敢えて言うと、この映画で描かれたことは当時の日本各地で起きていたことなのである。

 例えば私の古里徳島も大空襲を受けており、母や祖母は逃げ惑った。近所の人が「ここに来な」と誘ってくれた井戸だか防空壕だかに逃げ込まなかったおかげで母と祖母は死なずに済んだというような話を私は何度も聞いている。祖母などは「B29の操縦士と目が合った」と言っていた。祖母がびっくりして立ち上がって逃げ出したあと、近所に爆弾が落ちた。B29が爆弾を投下したときすでに祖母の家を通り過ぎていたのだった。

 海軍の拠点だった呉市が空襲に何度も見舞われたというこの映画の描写は見逃すべきではない。基地は狙われるのである。沖縄県民が基地に不安を抱く理由の1つがここにある。

 全体としては従来地味すぎて描かれることがほとんどなかった一般市民、特に女性を描いた、というところにこの映画の持ち味がある。私は過大評価しないけれど、こういう映画が高く評価されるのは悪いことではない。

 私は『はだしのゲン』のような作品が沖縄から生まれることを期待したい。福島を舞台にした深い深い作品が生まれることも期待したい。沖縄と福島には主旋律になる金字塔がまだ建てられていない。

追悼ワイダ監督インタビュー再録

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 アンジェイ・ワイダ監督が亡くなった。1992(平成4)年10月にインタビューし、『サンデー毎日』11月1日号に載せたインタビューを再録する。


 1926年、ポーランド生まれ。13歳の時、ナチス独軍の侵略に遭い、反ナチズム運動に参加。国立映画大を卒業後、映画監督になり、54年、「世代」でデビュー。「地下水道」「灰とダイヤモンド」の作品と合わせて抵抗3部作と呼ばれる。浮世絵などの日本美術を18歳のとき初めて見て感動。しかし、1万点以上の美術品の展示スペースがないので、これらを常設する日本美術館建設を呼びかけ、94年末クラクフ市に完成のメドが立った。JR東日本労組の招きで来日。

――いよいよ美術館建設が実現しますね。

 最初は私一人の考えでしかなかったものが、大きなプロジェクトになったのは、多くの皆さんの協力があったから。
 今回来日して、駅前でJR労組の方々がPRしているのを見て、人への呼びかけが大切だと思って連帯活動をしていた頃を思い出し、感動しましたよ。美術館では、若者に関心の高い現代日本の文化も紹介するよう、さまざまな催しを考えてます。

――ポーランドの現状は?

 自由になり、市民の生活が完全に変わってきた。多くの案が生まれ、実行される。私のこの美術館計画も、世の中が自由になったからこそできた。以前なら、私の知らないところでだめだと決定される可能性がありました。

――冷戦なき国際社会といわれますが。

 大国間では冷戦が終わったが、地域間での争いが数多く起こっている。
 でも、共産政権のような秘密裏にではなく、すべてが私たちの目の前で起こっている。だから解決できます。

――監督にとって当面の敵は?

 以前は共産政権だったが、今はポーランドの変革に反対し、ブレーキをかけている人です。
 この人々は悪い心の持ち主でなく、自力で何もできない人たち。共産政権下で国民は自分で物事を考え、実行する知恵を失ってきたから。
 でも将来の不安はない。ワレサ大統領は対立する二派にはさまれ、とてもいい仲介者の役割を果たしている。彼は変革の保証者です。
 これからは、ずっと考えてきた、準備も進めているショパン音楽に関する映画を作りたいですね。

『テイエリー・トグルドーの憂鬱』

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 フランスで100万人が見たという。今の日本なら1万人いくかどうか。やりきれなさしか残らないので、小説『セメント樽の手紙』の映画版と私は位置づけておく。

 音楽が流れる場面は1回、主人公が配偶者とダンスを習っているスタジオでかかっている音楽がそのまま流れるだけ。あとは徹底的に淡々と、徹底的に地味である。まるでそばに立って見ているような錯覚を覚えるのは、ドキュメンタリーしか撮ったことがない人が撮影監督だからだろう。それだけ現実感に包まれる。

 幸か不幸かこの映画、私は分かる。よく分かる。東大大学院教授の藤原帰一さんが『毎日新聞』の映画評でこの映画を高く評価していたが、藤原さんは頭でしか理解できていないのではないか。だとしたら不幸である。いやしあわせか。

映画『トランボ』で考える

 映画『トランボ』には仕事の法則が描かれている。

 まず実力。トランボは圧倒的な実力があった。

 次に組織化。脚本家たちを束ねたから、作業が分散し、数をこなすことができた。

 3つめは家族の協力。家族がしっかりつながっているから難関を乗り越えるための精神面の原動力になった。ううう(←なぜここで嗚咽する?)。

 4つめは協力者の存在。重要なところで手を差し伸べてくれる協力者がいた。

 レーガンがCIAのスパイだったことは知られているけれど、映画の中の実写フィルムに登場しており、本当にどうしようもないやつだったことが分かった。そんなやつでも大統領になれるのが米国なのであった。


 

映画『トランボ』と真鍋さん

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 共産主義者で人気脚本家が米ハリウッドを襲った赤狩りと戦った実話をもとにした映画、というだけで見る価値が私にはある。

 見ながら私は『週刊金曜日』時代の真鍋さんを思い出した。本多勝一社長兼編集長と私が戦った際、本多さんは社員全員を巻き込んだ。「自分を取るか西野を取るか」と迫ったのである。今振り返っても阿呆なことをやらかしたもんだと感心してしまう。

 さて、ワタシのせいで社内がギスギスしていたとき(笑い)のことである。ワタシと本多さんに関することで本多さんから見解を問われた編集部員の真鍋さんは「本多さんが自分は正しいと思っているのと同じくらい、私も自分が正しいと思っています」と本多さんの考えを否定した。

 踏み絵を迫られたときに全人格が出る。

 この映画には銃撃戦もセックスシーンも一切ない。それなのに魅了されたのは、泥水をすすりながらも戦い抜くトランボの生き方がかっこいいからだろう。


 

映画『スポットライト』

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 アカデミー作品賞や脚本賞などに輝いた映画だが、地味さ加減も一流で、果たしてこの『スポットライト』に日本の観客は興味を持つのだろうかと興味を持った。

 ところがぎっちょんちょん、連休中は満席に近い。何でこんな映画を見に来るのだろう。東京辺りの記者やOBがこぞってやってきたのかもしれないな。自分たちの仕事を再確認するために。そういえば私の隣の女性は終幕で涙をぬぐっていた。何が彼女の涙を招いたのか、私の想像の翼が広がる。

 主人公の男性記者を演じる俳優と実際のボストングローブ紙の男性記者が実によく似ていて、現実味があった。しかし、外国人の固有名詞や顔が覚えられない私は最初の1時間30分(映画全体の4分の3)くらい混乱し続けた。

 他社がかぎつけるのではないかと緊張が走ったり自分のとくダネを一刻も早く紙面化したいと上司に食ってかかったり取材相手に玄関先で追い出されたり地味な取材を積み重ねたり。日本の記者と何も変わらない。すぐに手帳を開く習性も日本の記者と同じだ。

 ぱりっとした背広を着ているわけでもなく、豪華な食事を楽しむわけでもなく、異性にモテるわけでもなく、大金持ちになれるわけでもないのに、記者という仕事は本当にカッコいいとあらためて思った。記者中退組の私でさえ思ったのだから、現役の記者は仕事のやり甲斐を再認識し、矜持を取り戻したのではないか。

 これからの報道に期待できる、かな。

映画『ベトナムの風に吹かれて』寸評

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 ベトナムに興味を持つ人間なら見ないわけにはいかない。映画『ベトナムの風に吹かれて』である。

 日本のベトナムの合作を駄作と言うわけにはいかないし、吉川晃司の場面は不要とも言うわけにはいかないので、いいところを挙げてみよう。

・松坂慶子さんがベトナム語を話している。発音が難しいのによく頑張った。拍手を贈る

・ベトナム人の俳優女優に味わいがある。私は守衛役のヴァン・バウさんが気に入った

・草村礼子さんの顔は本物の痴呆老人にそっくり!

・奥田瑛二、いい味を出してるなぁ

・主題歌「たまには仲間で」は人生の終盤が見える世代には染みる

 松坂慶子さんはもう60代。福島支局から『サンデー毎日』編集部に異動してすぐに取材させられたのが松坂慶子さんの結婚にご両親が反対している騒動だった。ご自宅を訪ね、男を「馬の骨」とののしり怒り狂うお父さんの取材をした記憶がある。お父さんのクヤシイ気持ちは分からないではないけれど、離婚せずに来ているのだからいい結婚だったのではないか。

 松坂さんはずいぶん貫禄がついたように見える。でも、美しさは変わらない。

戦争映画より戦場写真

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 石川文洋さんのベトナム戦争写真を見て、あらためて思った。戦争映画を見ても戦争のことなどこれぽっちも理解できない、と。映画はビジネスなので、観客を感動させなければならないという宿命を負う。恋愛映画ならもれなく感動がついてきていいのだが、戦争を描く映画に感動を表裏一体化させるのは無茶苦茶だ。

 文洋さんが撮ったベトナム戦争の写真のどの1枚も感動などない。私が感じるのはいとも簡単に命を落とすことへの恐怖心だけだった。戦場にいればこの恐怖心さえ麻痺すると聞く。

 架空の映画が現実の戦場で撮った写真を上回ることなどあり得ない。だからこそ戦場写真を見る意味がある。

戦場にある恐怖感がない駄作

 戦争映画を見た人たちが「泣いた」「感動した」と言う。これはおかしい。

 例えばペリリュー島を見てみよう。日米両軍が狂気の沙汰に陥った戦場である。

 NHKは米海兵隊従軍カメラマンが撮影した映像を発掘して13日に放送した。射殺される日本兵や死んで岩場から転げ落ちて顔面を強打して血まみれになる米兵、火炎放射器で焼かれて黒こげの日本兵などの映像は涙さえ出ない。恐怖が支配する戦場の空気感が伝わってくる。新聞のテレビ欄はこうだ。「狂気の戦場 ペリリュー〜“忘れられた島”の記録〜」

 フジテレビが15日に放送した終戦記念SPドラマもペリリュー島が舞台である。新聞のテレビ欄にこうある。<“命ある限り戦え、そして生き抜くんだ”玉砕は認めない!男がとった生き抜くための秘策…激戦の地パラオで起きた知られざる真実の物語>

 フジテレビを数分見たが、予想通りだった。かっこいい俳優が出てきて、さほど汚れていない服を着て、恐怖感などどこにもない。恐怖感のない戦場映像はママゴトである。

 昭和の終わりのころ沖縄で暮らした私は県民遺骨収集に参加した。糸満市の丘陵地帯で遺骨を探しながら「こんなところを逃げ惑ったのか」と思い、暗澹とした。沖縄戦と米軍基地を学ぶ会に参加して、真っ暗な轟の壕に入ったときの恐怖感は未だに忘れられない。

 見た人が「戦争は怖い」と言う映画やドラマでないと、単なるきれいごとの作品に過ぎない。戦争や戦場を美化する映画やドラマは駄作である。

 死ぬ恐怖感を出さないと、戦争を知らない世代に実相は伝わらない。

映画『ゴッドファーザー1』

 あまりにも有名な映画である。

 顧問だか相談役だかの弁護士トムが誰かに似ていると思いながら見続けた。ロシアのプーチン大統領に似ている。

 外国人の顔は区別しにくい。私だけではないようで、<誰だか分からない人が誰だか分からない人にどんどん殺されてった(笑)>と評した大学生の感想に尽きる。

映画『エマニエル夫人』

 日本語の優秀な変換ソフトATOKでさえ「エマニエル夫人」が出てこないことに私は驚く。

 1974年公開だから私は11歳か。大阪の岸和田市で暮らしていた。同級生がコーフンして「エンマン!」とよく叫んでいた。何だエンマンって? 未だに分からない。

 シルビア・クリステルが60歳で亡くなったのが去年の10月だ。彼女を追悼するために無修正版で見てみた。

 今見たら新鮮味がない。あくびが何度も出た。とはいえ約40年前には衝撃的な内容だったのだろう。

 もう1つ驚いたのは、籐いすに座るエマニエル夫人の映像が全くなかったことだ。あれは映画ポスター用のポーズだったのか。

 ウィキペディアで読むシルビア・クリステルの経歴を見ると、なかなか重い人生を歩んできたことが分かる。9歳で強姦され、その影響だろうか、結婚生活は長続きしない。がんを患い脳卒中で倒れ、60歳の若さで亡くなった。ようやく穏やかな時間を得たのではないか。

映画『おくりびと』

 第63回毎日映画コンクール日本映画大賞を受賞するなど多くの話題を集めた『おくりびと』は感情移入しやすい作品である。

 作中にいろいろな死が小話として挿入されている。小話とはいえさまざまな死を真正面から描いた映画は日本では珍しい。死を穢れとして忌む日本人にとっては革命的な視点だ。

 そんな死の小話を横軸に、主人公の成長を縦軸に、それぞれを紡いだ作品が面白くないわけがない。切なさがいっぱい詰まった名作である。 

 
 

映画『卍』はマジつまらん

 原稿の出来不出来は全部読まなくても最初の数枚読めば分かる。この原則があてはまる映画が『卍』(1983年)だ。

 インターネットで検索したら<谷崎潤一郎の同名小説を、馬場当が脚色し横山博人が監督。1964年に公開された増村保造版に続き二回目の映画化となる。樋口可南子と高瀬春奈の大胆なレズシーンが話題に>だそうな。レズシーンしか話題はなかったのだろう。

 はっきり言ってメチャクチャ駄作である。「私の貴重な時間を返せ」と言いたいところだが、最初の数分で「恐ろしくつまらん」と思ったにもかかわらず念のためにと最後まで見てしまった私の判断ミスである。

 最初がとてつもなくつまらん映画は最後までとてつもなくつまらん。

『笑の大学』と佐野眞一さん

 三谷幸喜原作の映画『笑の大学』を見ているうちに『週刊朝日』と佐野眞一さんを思い出した。『週刊朝日』と佐野さんは橋下大阪市長の血脈から辿る連載1回目で大きな批判を浴びて白旗を揚げた。

『笑の大学』は戦時下に喜劇を書く作家と検閲担当者の交流を描いた作品だ。検閲担当者の言うなりだった作家がやがてプロ意識を発揮して張り合うようになり、少しずつ舞台脚本の質を上げてゆく。白旗のおじさんたちと全然違う姿勢である。

 もちろん片や現実、片や映画と、世界が異なる。しかし、自分の作品に対するプロ意識は同じであっていい。

 などと堅苦しい話を抜きにして『笑の大学』は面白い。私は1カ所大笑いして、しばらく止まらなくなった。抑揚的に描写したラストシーンも素晴らしい。

『ニューシネマパラダイス』完全版の是非

 イタリア映画『ニューシネマパラダイス』には劇場版とその後話が追加された完全版の2作がある。インターネットで検索してみると、前者と後者はテーマが違うらしい。

 1989年にカンヌ国際映画祭審査員特別賞とアカデミー外国語映画賞を受賞したのは劇場版である。であれば見るべきは前者だ。ところが東京・高田馬場のTSUTAYAには後者しかなかった。

 その完全版は、功成り名遂げた映画監督が初恋の女性を30年間思い続けた話が中心になっている。人妻になっている彼女に映画監督はこう述懐する。。「どんなに君を探したか分からない。手紙を書き電話もした。でも返事はなかった。だから僕は逃げ出して村には戻らなかった。ずっと君を夢みてきた。時が流れて多くの女性に会ったがずっと君を求めてた。仕事では成功した。大成功はした。だがいつも何かが欠けていた」

 男にここまで思われる女性は本望だろう。一度言ってみたいセリフである。

西川美和監督『蛇イチゴ』と加藤楸邨

 西川美和さんが初めて監督・脚本をした映画『蛇イチゴ』を端的に言えばドラマツルギーを守った作品である。つみきみほの周囲に違和感を散りばめ、人間の悪意をにおわし、いくつかの伏線を張り、最後のどんでん返しは私の予想をはるかに超えていた。

 私が特に気になったのは題名の『蛇イチゴ』である。なぜ蛇イチゴなのか。ちょっと不気味で不穏当な果物名を映画の題名に使った理由を想像してしまう。

 うたがひは人間にあり蛇苺

 これは加藤楸邨の文に出てきた。2006年12月のこのブログで少し取り上げた。

 謡曲をうたう父親が「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」という部分になるといつも力を込めてうたっていたという自分の子供のころの記憶と、このフレーズが不意に自分の口から出たり腹の底で繰り返されたりすることがあると自覚するようになった今を並べ、このフレーズが出るのは「自分の孤立感を深く覚えている時だ」と気づく。父が謡曲をうたっていたころ、筆者は野山で遊び、そこには蛇苺が大変多かった。そこで、「疑ひは人間にあり」と「蛇苺」が自然につながった――という内容だ。

 西川監督は加藤楸邨の文章を読んだことがあるのではないかか。主役の宮迫博之が演じている時に「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを」とこころの中でうたわせていたのではないか。そんな想像をしている。

三谷幸喜『ラヂオの時間』 『みんなのいえ』 『THE 有頂天ホテル』

『ラヂオの時間』は何かが少しずつ崩れてズレていく手法を得意とする三谷幸喜作品らしさのある映画だ。鈴木京香の夫役を務めた近藤芳正の演技がピカイチだった。妻にギワクを抱く夫の表情や動きが笑える。

『みんなのいえ』は職人気質の者同士の反発と共感という基本パターンを踏襲した。

『THE 有頂天ホテル』は主役の役所広司が真っ当すぎた。もう少しいじくってもよかった。

 三谷幸喜の脚本はどっと笑いを取るというよりクスクス笑いを取る。そういうおかしさを追求させたらこの人の右に出る脚本家はいない。

『英国王のスピーチ』は王道

『英国王のスピーチ』は「身分差と友情」を描いた作品だ。これといったヤマ場のない淡々とした内容なのに2時間飽きさせないのは、「身分差と恋愛」を描いた『ローマの休日』と同様に「身分差と友情」が表現手法の王道だからである。

 ところで、宣伝文句に<英国史上最も内気な国王ジョージ6世>とある。これは明らかに間違いだ。単に「内気」なのではない。映画で詳細は明かされなかったが、ジョージ6世はこころに深い傷を負っている。それが原因で吃音になったのだ。当時は精神治療が発展していなかったからやむを得ないとはいえ、現代の宣伝文句で「内気」はないだろう。

『3丁目の夕日』に暗闇なし

『3丁目の夕日』がウケた理由は1つである。すなわち、めちゃくちゃ分かりやすい。

 制作者側の独りよがりがない。あらゆる場面が説明的である。1つの場面を100人が見たら100人とも同じ感想を述べるだろう。それくらい分かりやすい。

 分かりやすい映画は質が低いかというとそうではない。分かりやすさは表現者が守るべき基本である。 

新藤兼人監督映画『裸の島』

 遅ればせながら新藤兼人監督の出世作『裸の島』を見た。わずか90分ほどの作品なのにイイタイコトが端的に伝わってくる。人間の地味な勤労を描いたところがモスクワで評価されたのは当然だろう。

 全編ほぼ無音で余計な説明が全くない。『3丁目の夕日』の死角のない雄弁さと正反対だ。台詞も説明もないので、想像の翼を広げていろいろな解釈をしてしまう。

 言葉で勝負するなら映画は本に勝てない。映像で勝負するなら映画は本に勝てるはずだと新藤監督は考えたのかもしれない。事実勝った。

 言葉派(単なるおしゃべり)の私は映像の威力を初めて知った。
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