同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

福島

福島から発信するウネリウネラの『らくがき』

 書き手は元朝日新聞記者の夫妻である。夫の初任地と最終勤務地が福島で、家族揃って福島に移り住み、出版社を立ち上げた。その1冊目が2人で執筆したこの本である。

 私の福島時代にお世話になった読売新聞の先輩記者のフェイスブック投稿で知り、「夫婦そろって朝日を辞めたの?! 何とまぁ。思い切ったことをしたなぁ」と驚き、直接メールして、送ってもらったのがこの本である。Amazonでも買うことができるようになったようだ。しかしAmazonに引かれる手数料を考えると直接連絡して買うほうがいいように思うのだがどうだろう。というわけで、直接買う人用にチラシを添えておく。

 本書ではふたりが朝日を辞めた《やむにやまれぬ事情》などには全く触れていない。記念すべき最初の本なのである。無粋な話は後日。いい判断だと思う。

 私が引き込まれたのは、家族が東北の自然の中で過ごす様子だ。ぶどうをたらくふ食べ、残ったぶどうでジャムをつくる。野菜の収穫の手伝い。ザリガニ釣り。

《首都圏から福島に引っ越してきて半年、だんだん手を動かすことが増えたような気がする。いや、自分からなるべく手を動かそうとしている》

 いいなぁ。羨ましい。都会で暮らしていると土や水に触れる機会が激減する。人間を頭でっかちにしてしまう都会暮らしに疑問を持ってきた私(もともと田舎者)は激しく共感する。

 ウネリウネラの住所を見たところ、私が福島時代に住んでいた場所のすぐ近くではないか。おお。ウネリウネラの窓から吾妻山は見えるだろうか。

 この本のカバーのこの紙質、私はもしかすると一番好きかもしれない。温かみが伝わってくる紙質なのである。本書の紙の色(クリーム色)は優しい感じが心地いい。装丁も営業も含めて何から何までウネリウネラが手がけたその手の温かみのようなものが、ひとつひとつからにじみ出ていて、ウネリウネラが今後出版してゆく本が楽しみだ。


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無農薬の玄米を買う

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 ふだん玄米を好んで食べるのは栄養の豊富さと歯応えのよさが理由だが、残留農薬だけは問題だった。玄米食べたし命は惜ししというと大袈裟だが、農薬を体内に入れたい人はいないだろう。

 思い立って、「玄米」や「無農薬」で検索したところ、あったあった。しかもアイガモの栽培米だ。さらにはわが福島県の会津若松市の農家ではないか。もう言うことなし。すぐに2キロを注文した。

 今までインターネットで検索しなかった不明を恥じるしかない。

 すとう農産。興味がある人はどうぞ。


 
 

 

 

追悼・石原健太郎さん

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 あー。声が出た。あの石原さんが亡くなった。福島選出の元国会議員で、私の福島時代の思い出深い人物の1人だ。

 国連平和維持活動(PKO)協力法案に反対して自民党の離党を表明したのは1992(平成4)年6月22日。その日県政記者会に来て「国際貢献について私と自民党の考えには大きな隔たりがある」と切り出した。会見の最中に自民党県連職員が来て外に連れ出そうとするなど、全国ニュースに発展した。

 デスクに「インタビューしろ」と言われ、「マジかよ」と思ったが早朝に某所で見つけて一緒に新幹線に乗った。突然の厚かましいお願いにもかかわらず誠実に応じてくださった。JRの車掌さんの理解も得て、東京に着くまでの間じっくり話を聞くことができた。

 福島に戻って福島版に記事を書いた。その記事を今読み返しても石原さんの生き方に魅力を感じる。権力や地位に恋々としない政治家だった。

《自民党より日本国の進路の方が大切だと思う。私は自民党員の前に、日本国民だから……》

《事務所から県庁に記者会見に行こうとする私を、長男(地元秘書)がドアに立ちふさがり泣き顔で行かせまいとした。でも、息子のために政治家をやっているのではないから》

 ウィキペディアで興味深いのは《慶應義塾大学法学部卒業後は日本勧業銀行に入行するが、1年足らずで退職。北海道大学農学部研修生になり、福島県福島市荒井に入植して酪農業を営んだ》の記述だ。牧場をしていたことは知っていたが、当時の私はそこに関心がなかったから質問が浮かばなかった。今なら「それはなぜですか?」「これはなぜですか?」とたくさんの質問が浮かぶのに。

 あのとき石原さんは54歳。今の私とさほど変わらない。この年齢になると見えて来る光景がある。石原さんにも見えていたのかもしれない。

 今日付の『毎日新聞』(東京本社版)は淡々と。
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 石原健太郎さん 82歳(いしはら・けんたろう=元衆院議員)5日、内臓疾患のため死去。葬儀は9日午後1時、福島市八木田神明5の1のJAホールまごころ。自宅は福島市荒井中町裏35の5。喪主は長男信市郎(しんいちろう)さん。

 80年の衆院選で新自由クラブから出馬し、旧福島1区で初当選。衆院議員を3期、参院議員を2期務め、03年に政界引退した。自民党や自由党にも所属した。
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 いっぽう『福島民友新聞』はさすが。大事なところを書き抜く。
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 自民党参院議員時代に通産政務次官を務めた一方、1993年には国連平和維持活動(PKO)法案を強行採決する姿勢に反対して議員辞職した。また自由党衆院議員時代に務めた国会等移転特別委員長としても、期限を切った移転先候補地絞り込みができない国会情勢を批判して委員長を辞任するなど、政治家としての信念を貫いた。自由、民主両党が合併した2003年に引退した。
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 確かに《政治家としての信念を貫いた》のだろうが、実はもっと大きな、根本的なもの、生き方というか、自分が生きている理由というか、自分の魂を貫いた人と言うべきだろう。福島に行く機会があれば弔問したい。

 どうやら私は清廉潔白な人に魅力を感じるようだ。私が腹黒だからだな。


 

食うぞ福島の米!

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 福島の米を買った。健康ヲタクなのでもちろん玄米である。

 先日行ったふくしま館(東京の日本橋と神田の間にある)で見つけて、ピンと来た。ピンと来るのが遅すぎるのだが、それはさておき。

 3年半過ごした福島に何もできない私がかろうじてできることがあるとするとこの程度なのだが、何もしないよりはいいだろう。福島駅前の沖縄料理店パイナップルハウスに毎週食べに行くわけにはいかないもんね。

 玄米を炊いて、お椀で小分けにしてラップして、熱が取れたら冷凍庫に。食べる時はレンジでチンするだけ。玄米なので栄養価は高い。

 というわけで、食うぞ福島の米。

「福島事故」という表現は極めて不快

 NHKのニュースを見ていたら、世耕経済産業大臣が「福島事故」と言っていた。福島事故?

 福島県にある原子力発電所がメルトダウンという恐ろしい大事故を起こしたのだから「福島原発事故」だろう。よりによって経済産業大臣が「原発」を省略してはいかんだろ。

 福島が事故を起こしたかのような「福島事故」の表現はあり得ない。桜田さんの失言とは比べられない悪質さを私は感じる。

 私が知らないだけで以前から「福島事故」と言ってきたのだろうか。その場で記者は誰も咎めなかったのだろうか。福島は「福島事故」と言われることを認めているのだろうか。

 なぜ問題にならないのか。不思議である。
 

日本橋ふくしま館で福島の物を買う

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 2011年以降、年に1回くらいは福島に行ったけれど、年に1回ではなぁと思っていたとき通りかかったのが東京・日本橋にある福島のアンテナショップである。

 以前東京駅前にあった店が移ったのだ。広くなったような。

 物色して3点買った。でもって次回買う物を見つけた。福島の玄米である。ふだん近くのスーパーで買っているのだが、残念ながら福島の米ではない。福島の米を食べたいなぁ玄米を食べたいなぁと思っていた私にはビンゴなのである。

 いま自宅の冷蔵庫に置いてある玄米を食べ尽くしたら、福島の玄米を買おうっと。私にできる福島の応援はこの程度なのだ。

安寿と厨子王の出発地は福島市の弁天山だって?!

 私は無知の塊なので「知らなかった」と驚くのに疲れるほど驚いてきた。これは何億回目の驚きだろう。単位は億ではなく兆かもしれない。

 <福島市内の弁天山は安寿と厨子王一行の旅のはじまりの場所で、そこには線量計が据え付けられていました>という一文を『図書』(岩波書店)5月号掲載の姜信子さん「<ひとり出ていく ララ あすの旅>――越境、あるいはいわゆるアナキズム」に見つけてひっくり返りそうになったのである。

 弁天山、聞いたことあるけどどこだっけ。iPadで調べてみると渡利にある小さな山ではないか。あの辺りに警察の古い官舎があって、福島署を担当していたころ何度も通ったが、山には興味がなかった。まさかそんな山だったとは。福島の人には常識なのだろうか。

 安寿と厨子王の舞台と知っていたら県版に何か書いただろうに、当時はそんなこと全く知らなかったのがクヤシイ。いま福島支局勤務になれば、もっともっとネタを掘り起こすことができただろうになぁ。

 けっこう楽しく充実した3年半だったとは思うが、あとからあとから福島のことを知るにつけ、福島の深さにシビれ、福島でやり残したことの多さに天を仰ぐのである。

智恵子の部屋に入る

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 智恵子が没したのは光太郎が55歳のころで、ということは今の私の年代か。ああ、道理で、だからか、最近読み直した『智恵子抄』がやけにしみじみ伝わってきたのは。

 この詩集を私に教えてくれたのは高校時代につき合ったりんごちゃんで、おそらく彼女は光太郎の愛の深さにこころ動かされたのだろう。私もそんなものだろうと読み直すまでは思い込んでいた。しかし、違う。

 智恵子が智恵子でなくなってからも、光太郎だけを見た。ゼームス坂にいても智恵子には光太郎しか見えていなかった。その邪気のない振る舞いに光太郎が抱えたであろう思いの交錯を私は想像できるような気がするなぁ。

 智恵子を光太郎がどれほど愛おしく思ったことか。この詩集は光太郎の智恵子への愛ではなく、智恵子の光太郎への愛が記されていることにわたしゃ55歳近くになってようやく気づいた。敗戦後に光太郎が今の花巻で粗末な暮らしをしたのは戦争賛美の反省だけではないんじゃないか。

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 というわけで、智恵子の生家である。年に2回ほんの数日だけ開放する。解放日は年間10日もない。大勢が連日入ると家屋の傷みが激しくなる心配があるからだ。2階にあった智恵子の部屋に入ることもできる。上の写真の手前と右奥が智恵子の部屋だったらしいが、左奥は家族の部屋だったので、手前の部屋は通り道だった可能性があり、ということは右奥の部屋が智恵子の部屋と言えるのではないか。ここには光太郎が来たことがあるそうな。1階の説明板には「智恵子」ではなく「智恵子さん」。地元ならではの親しみが「さん」に込められている。

「男に愛されてナンボ」という眠くなるような姿勢ではなく「男を愛してナンボ」と思っていたに違いない智恵子さんは年月を超えて素敵な女性である。

福島雑カン

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 東京電力福島第一原発が引き起こした大事故のせいで福島は取り返しのつかない被害を受けた。そんな福島の人の声をテレビで見聞きして私のこころに沈み込んだ声を記録しておく。

「こちらは被害を受けた側なのに、あれこれと国にお願いしないといけないのはおかしい」

「避難指示を解除しても、ここに戻ってこられない。昔のように田畑をやっても誰が福島の農産物を買ってくれますか」

「避難指示区域を減らして、国は被害を少なくしようとしているのではないか」

 およそこんな趣旨だった。福島の田舎で普通の地道な暮らしをしてきた人たちがこの7年の歳月の中で抱いた疑問なのである。福島の声を誰が受け止めているのだろう。そもそも受け止めている人はいるのだろうか。

 もちろん福島県民と言ってもいろいろだ。避難先の東京で連れてきた子供をほったらかして遊びほうけ、妊娠してしまった独身女性検査技師もいる。女性が勤める医療機関が怒るのは分からないではない。「福島」を十把一絡げにすると玉石混交になるとは思う。でもなー。この女性が福島を離れずに済んでいればそんな騒ぎにならなかったのではないかとも思いたいわけよ私は。

 3.11の前後には集中して福島が取り上げられる。テレビでは観光地やうまいものの紹介をしていた。3.11の前後だけではなく、通年やってほしいぞ。

 大西泰斗先生が教えているNHK教育の「しごとの基礎英語」は12月放送分で大内宿や鶴ヶ城、喜多方ラーメンなど福島を舞台にした。見ならってほしい。

 加害者である東京電力は本社を全部福島に持っていけばいい。避難指示区域にでも置けばいい。これでも原発を推進する自民党は党本部を避難指示区域に建てる東電本社の隣に立てればいい。

 そこで農作業をして、収穫したものを食べろ。そうすれば必死のパッチで福島を取り戻そうとするだろう。

追悼・園木宏志毎日新聞福島支局長

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 毎日新聞東京本社での2週間の研修を終え、福島支局を訪ねた私を待っていたのが支局のドアの内側に張ってあった「熱烈歓迎! 新同人」だった。園木宏志支局長の文字である。

 一緒に福島県に赴任した同期の憲ちゃんと私が社報に書いた自己紹介を切り抜いて張りつけた「熱烈歓迎!」はうれしかった。

 以来2年ほど厳しくも温かい指導を受けた。園木支局長は目に魅力があり、人を射すくめるときの鋭い目と破顔したときの愛らしい目の落差が、本人は無自覚だろうがとんでもないほど人垂らしなのだった。

 社会人野球の関係者が「おっかねぇ支局長だねぇ」と私に声をかけてきたことがあり、大きくうなずいた記憶がある。

 確かにおっかない支局長だった。私が全く回っていない福島県警本部長を回ってネタを仕入れているのだから、当時の県警担当には深刻だった(笑い)。数え切れないくらい叱られた。

 夜中の3時ごろ支局から私に叱責の電話をかけ、泊まり番の西尾記者がさすがに止めたという話を後日西尾記者から聞き、「あのとき電話が数回鳴ったのは支局長だったのか」と震えたこともある(笑い)。

 しかし、おっかないだけではなかった。

 社長が福島市に来たのに支局に立ち寄らないのはどういうことだと怒って、どういうふうに交渉したのか知らないが、連れてきた。

 今では珍しくない新聞カラー写真だが、県版レベルで積極的に進めたのは毎日新聞社で園木支局長が嚆矢ではないか。

 支局長が担当する県版の連載は、福島県内で必ず取材して書いていた。頭で書くなと範を示した。

 当時の支局には泊まりがあり、園木支局長は必ず「今日は誰だ」と確認した。記者1年目の8月、私が泊まり番だった夜、大災害が起きた。台風13号がもたらした豪雨で大倉川の橋が流されて橋を渡っていた車も流された、一部地域が孤立している、などのニュースをつけっぱなしのNHKが報じ、慌てて県警などに片っ端から電話を入れている支局(2階)に血相を変えて3階(支局長住宅)から飛び込んできた。

「支局員全員を集めろ」と指示し、集まった支局員に配置を示し、泊まり番の私には「電話帳を見て、現地周辺の人に電話をかけろ。車が流された様子の目撃者を探せ」と言うのだ。

 時計の針は午前2時か3時を回っていたはずだ。躊躇する私に、「こういう夜は誰も寝てない。かけろ」と言って支局のソファに寝転んだ。支局長に指示されたらやるしかないのである。

 どれだけ電話をかけたことか。確かに誰も寝ていなかった。少しして「見た」という人につながった。「いま警察に話しているところです」。警察も動いているのだった。

 たどたどしく質問する私に、ソファで寝転がっていた園木支局長が追加質問を投げてきた。そのまま夕刊向けの原稿を書き、ゲラをチェックし、昼間の記憶が全くないのだが、ずっと支局にいて休みなしで朝刊向け原稿をチェックしたはずだ。夜の8時か9時ごろに支局員全員が戻ってきて、今回の取材に関する支局会をしているときに私はコックリコックリ。そんな私を見て園木支局長は早々に散会した。

 園木支局長が泊まり番を毎晩確認していたのは意味があったのだと今なら分かる。4年生記者なら安心して任せることができる。しかし駆け出し西野の泊まり番の夜は園木支局長自身が事件事故の警戒をそれとなくしていたのではないか。だからあの夜血相を変えて飛び込んできたのではないか。

 アントニオ猪木が会津で狙われて入院したとき、当時の会津若松通信部の山本記者に「猪木の独占取材をしろ」と無理難題を命じていた。それは締切時間まであきらめるなという意味があったのだろうと今なら分かる。

 福島支局の警察担当の2年間、私は背広を着なかった。完全に普段着で仕事をした。しかし園木支局長は何も言わなかった。園木支局長が都庁担当時代にお酒を飲んで回って特ダネを取っていたそうで、「お前は酒を飲んで仕事をしていいと先輩に言われたから、酔っ払って取材して回ったもんだ」と話してくれたことがある。その経験から記者は自由にさせるのが一番だと思っていたのかも知れない。

 地方部長に出世した園木さんが、そのあと福島支局からサンデー毎日編集部に異動した私に「仕事はどうだ?」と聞いてきたことがある。「面白いです」と答えた私にものすごくうれしそうな笑顔を見せた――。





 園木さんが亡くなった。広島出張から戻って、たまった新聞を読んでいたら、社会面に訃報が出ていて、「ああ」と声が出た。ステージ4の末期がんだと聞いていたから来年の年賀状大丈夫かなと思っていたところだったので、驚きというより「来たか」と受け止めた。

 葬式には当時の福島支局員の大半が駆けつけた。みんな頭に白いものがずいぶん増えた。あれから約30年だもんね。あのころ園木さんは40代後半だったようで、今の私より若いのだった。

 最近よくテレビで見かける横綱審議委員会委員長(元社長)や毎日新聞OBの鳥越俊太郎さんの顔もあった。

 喪主のあいさつで、園木さんが昔から「やんちゃ」だったこと、のちに誰かから「イケイケおじさん」などと呼ばれていたと知った。確かに(笑い)。

 数年前、JR横浜駅の地下通路で偶然お目にかかった際、お茶に誘ってくださったのに私は取材に向かっていて、ゆっくり話すことができなかった。去年だったか福島会をしたときにお目にかかったけれど、あのとき横浜でお茶をご一緒していれば。

 支局長は死なないものだと思っていた。ましてややんちゃでイケイケの園木さんががんに負けるとは思いたくなかった。

 享年76。イケイケおじさんだからって、何もそんなに早く逝かなくても。

『ふくしま手帳』を買う

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 来年使う手帳はもう買ったのだが、アマゾンで『ふくしま手帳』というのを見つけたので買ってしまった。福島市の日進堂印刷所という会社が出している。メイド・イン・フクシマだ。

 帯に「予定がなくても寂しくない」だって。まぁねぇ。福島に住んでいたら確かにそうかもなぁ。

 福島愛を感じさせる手帳だ。1ページ1週間カレンダー形式で、そこに何らかの福島関連の情報を毎日分載せている。例えば11月9日は<野口英世が三ツ和村(現・猪苗代町)に生まれる(1876年)/梅沢富美男が福島市に生まれる(1950年) CODE for AIZUが開発した、会津若松市の雪に埋もれた消火栓の位置を特定するアプリがある>と盛りだくさん。11月4日は<俳優西田敏行が郡山市に生まれる(1947年)>と記されているし、11月3日は<県内初のエレベーターお目見え。福島市の「福島ビルジング」落成(1927年)>と取材に役立ちそうな情報もある。2月20日の<中島村の中学3年生の修学旅行の渡航先はマレーシア>という超ローカルな話題も。

 57市町村のお勧めスイーツをまとめたカラー印刷の折りたたみを見ていると、「私の時代にこれを持っていたら遠方の取材が楽しくなったなぁ」とワクワクしてきた。裏面は県の地図で、檜枝岐村は行ってないなぁ、智恵子記念館が載ってるぞ、などと見入ってしまう。

 情報がたっぷりで1080円は安い。

 

 

ドキュメンタリー映画『「知事抹殺」の真実』と検察ファッショ

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 一般的に記者は検察に対する無謬性の神話を抱いている。検察が起訴すれば、そういう前提で取材してしまう。取材合戦になるので、検察が描いた物語に沿って情報を得ようと動く。検察は間違っているのではないかと考える余裕はない。万一そんな報道をしたら、ただでさえ難関の検察から完全に閉め出されるという不安を無意識に抱いている。このような構造が冤罪を生む原因の1つではないか。

 ドキュメンタリー映画『「知事抹殺」の真実』を見終えて想像したのは、佐藤栄佐久さん逮捕時に私が福島県政や警察の担当記者だったらどうするだろうか、ということだった。検察に対する無謬性の神話を壊すことなど考えもせず、検察に追従したに違いない。冤罪に加担するわけで、それは前述したように構造上避けがたい。しかし、冤罪を生んでしまったら責任を負う。その責任をどう果たすか。

 佐藤栄佐久さんは私の福島県政担当時代の知事で、正直に言うと当時の私は佐藤知事に全く興味がなかった。もともと私は権力から距離を置く癖があるうえ、東北の知事が集まった会議の場で佐藤知事の発言に面白みがなかったので、「佐藤知事もその辺の政治家と同じだろう」という先入観と誤解をしていたのである。

 そんな佐藤知事が2006(平成18)年に収賄容疑で逮捕されたことは知っていたが、それ以上興味を持っていなかった。木村守江に続いて佐藤栄佐久か、という程度の貧しい“理解”しかしていなかった。

 このドキュメンタリー映画が福島で頻繁に上映され、高い評価を集めているらしいと知り、ようやく東京で上映されたので見に行き、自分の不明を深く恥じた。

 思えば佐藤優さんも検察の犠牲になった。JR東労組の友人小黒さんもそうだ。やりたい放題の検察ファッショがあることを知る。これが第一歩だろう。福島の報道機関はその後どう自己検証しているのか。頬被りを決め込んでいるとしたら検察のポチだよなぁ。

 1つ驚いたことがある。佐藤知事が収賄容疑で逮捕される端緒になった雑誌が『AERA』なのだ。記事を書いたのはあの長谷川熈さんである。徹底的な取材で批判記事を書く記者で、長谷川さんが1989(平成元)年ごろ福島市で小さな講演会をしたとき私は聞きに行ったことがある。その長谷川さんがミスリードした可能性があるわけで、長谷川さんはどう片を付けるのか。ジャーナリストならこれまた頬被りを決め込んでいる場合ではない(だから下村満子が映画を推薦しているのか?)。

 福島県民以外は佐藤栄佐久さんに興味を持つのは難しいかもしれない。しかし、日本の検察ファッショがどういうものか、その一端を知るために必見のドキュメンタリー映画である。

感情に走った今村復興大臣の負け

 ユーチューブで見た限り、今村復興大臣が記者のぶしつけな質問に対して感情に走ってしまい、引っかけ質問に乗ってしまった。

 この記者の質問が的を射ているとは私は思わない。自主避難者に対して国が責任を持つべきなのかどうか、私は100パーセントの肯定をできない。今村さんは記者の質問に共感を示しながら、線引きの難しさに対する迷いや悩みを吐露すればよかった。

 記者から「無責任」と言われてカチンと来たのは大臣として愚かというほかない。しかし、記者にはぶしつけな質問を続ける権利がある。記者はそれを行使したに過ぎない。

 要するに中身のない記者会見であった。

五輪会場になりそうな福島あづま球場は

 汗と涙とセイシュンの福島県営あづま球場である。

 私は野球に全く興味がない。ところが記者1年生の大きな仕事の1つが高校野球なのだ。毎日新聞社の場合これに社会人野球が加わる。都市対抗野球だの何だのと野球取材ばかりの時期がある。

 最初の取材は社会人野球だった。先輩の西尾さんと一緒に行った。記者席で見ながら振球犠盗失残併を記録していく。試合が山場を迎えそうな気配を察するや西尾さんはキヤノンのカメラを持って鉄砲玉のように記者席を飛び出し、バックネット裏に走って行ってカメラを構えながら振球犠盗失残併。

 すごい動きやなぁー。フットワークええなぁー。感心していたら、あしたからこれをお前一人がやるんだと言われてげげげのげ。

 振球犠盗失残併を私がやるのか。

 社会人野球は半分以上が草野球のような試合で、両チームに点数が入りまくる。一瞬気を抜いた瞬間に走者が次々にホームイン。これ何よ? 悪夢が私の目の前で何度繰り広げられたことか。

 振球犠盗失残併を正確に記録できない。写真を上手に写せない。戦評を書けない。三重苦である。

 1試合ごとに原稿や振球犠盗失残併を球場記者室からファクスで支局に送るのだが、厳しいデスクから「振球犠盗失残併と戦評が合ってない!」と電話で怒鳴られ、合ってないと言われても私も分からんがなと涙がちょちょぎれている間に次の試合がどんどん進んで全く状況がつかめなくなり……。1日に5試合取材したこともあった。

 敗残兵のように支局に上がると、デスクに「原稿めちゃくちゃ!」と叱られ、息つく間もなく21時ごろ本社の校閲から悪魔の問い合わせ電話がかかってくる。振球犠盗失残併の計算と戦評が合わないと言うのだ。

 こんな時間に。知るかそんなこと。ワシに聞くな。もうええやんけ。そのまま新聞出そ。誰もそこまで読まんわい。

 「渡辺さんなら分かるかも」。西尾さんに言われて社会人野球が三度の飯より好きな渡辺さんのご自宅に電話する。当時は携帯なんかなかった。試合の状況を聞くと、たちどころに「あのときは捕手が2塁に悪送球してその間に……」などと正確に再現してくれるのだった。私の代わりに戦評を書いてくれたらいいのに。

 そのうちシャッターチャンスを感じてカメラを持って飛び出すまでに“成長”したが、あれを成長と言えるのか未だに私は分からない。 

 そんな県営あづま球場が東京五輪の野球・ソフトボール会場になりそうだという。振球犠盗失残併で苦しむことがない今だからこそ、しみじみ懐かしい。

福島の自主避難者をどう見れば良いのか分からない

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 欺瞞に満ちた、あるいは愚劣というべきか、腐臭を放つというべきか、姑息というべきか。。

 東京電力福島第一原発の事故に関して優れた調査報道をしていることで知られる日野行介記者の「記者の目」を『毎日新聞』朝刊(東京本社版)で読んだ。臭いものに蓋をする政府の相次ぐ動きである。私は福島で3年半暮らした元県民だからだろう、腹の奥から憤りがこみ上げてきて、鈍い痛みがはらわたに広がる。

 ただ、1つだけよく分からない、判断できない話がある。自主避難者の扱いである。政府は自主避難者を支援しない姿勢を示しているという。

 自主避難者といってもさまざまだろう。避難指示が出た場所の隣接地に住んでいる人が自主避難する場合もあれば、避難指示地域から遠く離れた場所に住む人がそれでも心配になって自主避難をする場合もあるだろう。後者を支援対象にするとなると、自主避難しなかった人との間で不公平が生じるのではないか。

 日野記者は自主避難者を支援しない政府の姿勢に否定的である。ここが私にはどうにもよく分からない。ほかの欺瞞については全て納得できるだけに、私に見えていないものが何かあるのかも知れないと思ってしまうのだが、それでもやっぱり分からない。

 私はいま福島に何ができるわけでもない。単なる傍観者でしかない自分に苛立つこともあり、福島報道に対して積極的に関わってこなかった。そうしたことで私が掘ってしまった溝が、自主避難者問題を理解できなくしているのかもしれない。遅ればせながら日野さんの本から始めよう。

学校での福島っ子いじめは担任教師と校長の責任

 福島から避難した子供たちが転校先でいじめに遭っている。ふつふつとわき上がる悔しさをじっと抑えながら、ここに吐く。

 福島から転校してきた子供がいじめの対象になりやすいと報じられて何年も経つ。にもかかわらず未だに福島の子供がいじめに遭っているとすれば、それは担任教師と校長の責任である。

 私が教師なら「福島の子だな。いじめられないよう注意しよう」と思って目配りをして、万一いじめががあればいじめる側を烈火のごとく叱りつけ、クラスで子供たちに福島の苦難を伝え続ける。教師なら当たり前ではないか。それができない教師は一体何のために教師になったんだ?

 福島っ子に限る話ではない。いじめを阻止できない担任教師と校長は親が徹底的に締め上げていい。私に代理の権限を与えてもらえるなら、『いじめ撃退マニュアル』の筆者小寺さんと一緒にやるんだけどな(笑い)。こんなビジネス(?)なら私に向いているような気がする。

必読の『30代記者たちが出会った戦争』

 気になる本だった。共同通信社会部が配信した記事をまとめた本である。岩波ジュニア新書として出版された。

 ガダルカナルからインパール、サイパン島、レイテ沖、ルソン島、重慶、そしてシベリアと太平洋戦争を語る上で欠かせない激戦地の戦争体験を若い記者が取材した。広島や沖縄を外したのはほかの多数の著作があるからだろう。

 若い記者が戦争体験を取材する意味は小さくない。戦争を知っている世代には当たり前のことが、知らない世代には当たり前ではなく、そのぶんかみ砕いて説明しなければならない。これがいいのである。

 最後に吉田裕一橋大教授インタビューを持ってきたので安定感が増した。力作である。

 共同通信のデスクは福ちゃん。驚いた。私の福島時代のよき同業他社仲間である。いい仕事をしているなぁ。

福島県産トマトを私は食べる

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 コンビニの軒先のトマトを見ると「福島県産」の文字が。おお。素晴らしい。

 福島産の野菜やくだものに私は愛着がある。

 福島産の農産物の価格は未だに安い。福島の友人が悲しそうに言っていた。クヤシイ。私にできることは、福島産を見つけたら買う。これだけである。

 微力だなぁ。

 でも、敢えて考え方を変えてみよう。こんなにうまいトマトが安価で食える。なんとしあわせなことか。

参院選の結果は想定の範囲内

 このブログのどこかで書いておいたように、与党が圧勝した。まぁ、こんなものだろう。大勢を占める層の有権者には最初から期待していないので、この結果には全く驚かない。

 しかし有権者に判断力がないとは思わない。有権者が本気で怒ると結果は変わる。今回は2選挙区で顕著だった。

 沖縄選挙区は、宮城県生まれで沖縄の男性と結婚したので姓が変わったに過ぎない自民党の島尻安伊子沖縄北方担当相が落選した。これまでの沖縄の選挙を見る限り妥当である。島尻さんは沖縄の気持ちより自民党の方針を優先したから有権者に見限られただけの話だ。そもそも沖縄担当相の器の人ではなかった。

 福島選挙区で自民党の岩城光英法相が落選したのは福島原発の終息や補償に関する県民の意思表示だろう。

 どちらも現職の大臣で、それが2人も落選するのだから、安倍さんは安穏としていられないはずなのだが、自民党が圧勝したからにやけている。そういう人なのだな。

福島・葛尾村の思い出

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 福島・葛尾村には1989(平成元)年9月に取材に行った。当時の松本村長(何と今も村長をやっておられる)らに取材して「交通死亡事故9000日」の背景を『毎日新聞』福島版で記事にした。

 長崎や沖縄の離島ではこれを上回る町村がある。しかし同村は最後に発生した死亡事故の日を把握しているので、起算日の明確なゼロ記録としては日本一なのであった。

 記事にこう書いてある。

<松本村長は「村の人はみんな顔見知り。狭い道路ではお互いに道を譲り合うし、道路をすれ違うときは車のスピードを落としてあいさつする。これがゼロ日数を延ばしているんです」と胸を張る>

 いい村でしょ。

 取材の日、高い青空が頭上に広がり、何とも気持ちがよかった。のどかで、静かで、穏やかな空気の中で私はこころを解放した。取材で訪ねたのはこの時だけだが、あまりにも気持ちがよくて、そのことと高い青空は忘れられない。 

 それだけに東京電力福島第1原発事故に伴う避難指示などで受けた葛尾村の様子は気になっていて、しかし関東で暮らす私が何をできるわけでもないので黙って見守るしかなく、今回ようやく避難指示がほぼ解除されたという報道を見て、あらためてあの日を思い出した。

 何も手助けできなくて、本当に申し訳ない。
 

こちら毎日新聞福島支局

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 1989(平成元)年毎日新聞社入社の私が福島支局1年生の時の上司や先輩たちと久しぶりに集まった。福島会である。

 怖い園木支局長は相変わらず鋭い眼光を保ち、恐ろしい椎名デスクは相変わらず風格がある。出来の悪い私は雷を落とされ続けたのに、顔を見るとうれしさと懐かしさがこみ上げる。私にとって両親のような存在なのだ。

 アントニオ猪木が講演中に暴漢に襲われた1989年10月14日。入院先は警察のガードが堅い。病室の前に警察官が見張っている状況だった。にもかかわらず「そこを突破してコメントを取れ」と園木支局長は無茶を言い(笑い)、会津若松通信部の山本さんは手を尽くした。

 自民党県連を二分する1988年の激しい県知事選。佐藤栄佐久さんが勝つと読んでずっと追いかけた唯一の記者が行友さんだ。知事選紙面は『毎日』の圧勝だった。私が本社に異動するさい佐藤知事にあいさつに行ったら、「行友さんは元気にしてる?」と聞かれたほどだから、佐藤知事にとって最も印象に残っている記者なのである。

 福島時代から異動希望に「バンコク支局」と書き、それを本当に実現してアジア総局長になった西尾さんは、私の記者初日に昼飯をごちそうしてくれた先輩である。当時の支局のエースで今は局長に出世している岩沢さんに「雪山遭難の取材で、車の中で西尾と夜を明かしたんだけど、俺は寒くて眠れないのに西尾はグーグー寝てた。あの神経はどうなってんだ」とかつて言わしめた西尾さんの頭には白いものが増えた。

 県警時代はいつも地元紙の『福島民報』に抜かれまくった。県警キャップ野島さんと私は図書館汚職の取材合戦で後手に回り、ある日の午後、椎名デスクからレストランに呼び出された。椎名デスクは周囲を気にせずひとしきり私たちを怒鳴り、「さぁ食え!」。激しい叱責に私たちはヘロヘロになっている。胸が詰まって食えんがな(涙)。しかし、私たち県警コンビは阿呆ではない。1回だけだが抜いたことがある。福島署の八巻副署長に「珍しい」と褒められた(苦笑い)。そういえばあのころから野島さんはベトナムが好きだった。毎日新聞社内で随一のベトナム専門家である。

 椎名デスクと電話で口論になって受話器を壁に投げつけた澤さんは仕事で欠席。「現地に飛べ」と指示を受けたにもかかわらず、効率を考えてこっそり自宅に戻って電話取材をした知能派ケンちゃんも欠席。反原発で一貫し、全舷で園木支局長と衝突して宿を飛び出した柴田大先輩も欠席。ジャニーズ事務所のタレントのような甘いマスクの高橋さんは大阪本社勤務で来ることができず。つかみどころのない佐藤さんは今回の件で幹事の野島さんが電話をかけても相変わらずつかまらなかった。

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 こうして振り返ると、すさまじく個性ある人たちが毎日新聞福島支局に集まっていた。記者を放し飼いにしながら、きっちり束ねたのは園木支局長と椎名デスクの手腕である。

 その園木支局長は県警も県庁も記者以上によく回るのでわれわれ記者には“困りもの”だった。しかし支局員の異動希望先をかなえる人だった。椎名デスクは電話で警察官相手に怒鳴りあげ、相手を半泣きにさせた。私も電話で叱責されて県警記者クラブで涙を落としたことがある。それほど怖かった。西尾さんは「怒鳴られて、頭の中が真っ白になって、取材に急いだら高速道で140キロ出してしまって、止まれという警察の指示を無視して走り続けて……」というすさまじい体験(笑い)を明かした。

 駆け出し記者時代は目の前の仕事にいっぱいいっぱいで気づかなかったけれど、あの人たちがいた毎日新聞福島支局はめちゃくちゃ面白い職場だったんだなぁ。

 ふるさとは遠きにありて思うもの――。

3・11雑カン

「忘れない」とNHKがしきりに言っているけれど、私は忘れたことはない。私が立派だからではなく、福島で3年半暮らしたことがあるからだろう。知人の顔が何人も浮かぶ。だから、忘れられるわけがない。たぶん毎日1回は福島を思ってきた。

 とはいえ、私にできることはきわめて限られている。機会を見て福島で途中下車して沖縄料理店パイナップルハウスでたらふく食べることや知り合いのくだもの農家からくだものを買うこと、スーパーで優先的に福島産の食材を買うこと、うーん、この程度しかできていない。あとは寄付をすることと新聞報道を読んでこころを寄せる傍観者の役割を務めるくらいだ。

 人口が減る一方の福島への引っ越しを考え、福島の人に相談したことがあるけれど、仕事の面で難しかった。

 福島をはじめとする被災地の人と違ってのんきな生活をしている私でさえ、「3・11」は3月11日だけではない。毎日が「3・11」なのである。

「キャリブレーションしてるかどうかもわからない計測器の表示でそんなこと言われてもねえ」と匿名で書いてくる人は同じ人類か

 このニシノ説で12月13日にこう書いた。

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 東京にいると福島のことが見えない。福島にいても分からないことがあると知人は言う。

 この知人が浜通りを車で走っていたら、線量計が大変な数値を示したという。

「慌てて窓を閉めたけど、それでどうなるものでもないんだよね」

 平気で「アンダーコントロール」と嘘をついた安倍さんにとってはどうでもいいことなのだろうなぁ。「そこ、原発ちゃうし」とか言うかもしれないなぁ。
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 すると、コメントが届いた。もちろん匿名である。

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キャリブレーションしてるかどうかもわからない計測器の表示でそんなこと言われてもねえ。
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 この人にとって福島は他人事なのだろう。福島で実際に暮らし、線量計が川の近くで線量計がはね上がって驚いた福島の知人ならこの匿名さんに対してモゴモゴと口ごもりながらこう言うだろう。

「福島で暮らしていない人にそんなこと言われてもねぇ」  

福島の汚染は続く

 東京にいると福島のことが見えない。福島にいても分からないことがあると知人は言う。

 この知人が浜通りを車で走っていたら、線量計が大変な数値を示したという。

「慌てて窓を閉めたけど、それでどうなるものでもないんだよね」

 平気で「アンダーコントロール」と嘘をついた安倍さんにとってはどうでもいいことなのだろうなぁ。「そこ、原発ちゃうし」とか言うかもしれないなぁ。

オックスフォード大に入学した女性に激励されるの巻

 沖縄料理が日本一うまい福島市の「パイナップルハウス」で隣に座った女性がオックスフォード大に入学したと聞き、英語の勉強法を尋ねた。

 勉強量が多さが近道だったと言う。

「私なんか、テキストを何回音読しても頭に残らないんですよ」

 悩みをこぼすおんぼろオヤジのワシ。

「ポロッと出てくるようになるものですよ」

 笑顔で励ましてくれる気鋭の彼女。

 よし。音読を続けるとするか。

福島市水道局に「あーあ」

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「ふくしまの水」がモンドセレクションで金賞を受賞したそうな。

 税金の無駄遣いである。地元報道機関は批判しただろうか。

 福島の水は安全だと主張するための行為だろう。しかし、詐欺まがいのモンドにしがみつくことに疑問の声はなかったのか。

 大阪市の水道水が受賞したから福島もってか?  そんなしょーもないことをしている場合か?

ハワイに移住した福島人が直面した真珠湾攻撃

 真珠湾攻撃が始まった ――1941年12月7日 ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後 真珠湾攻撃の日が来るたびに思い出すのは、取材に応じてくださったハワイ在住の福島人の皆さんである。取材のあと年賀状のやり取りなどをしてきたけれど、残念ながら全員の消息が途絶えた。

 皆さんが取材に全面協力してくださったおかげで記録を残すことができたし、12日ほどではあったけれど最も学んだのは私だった。取材者はどこまで話を聞いても他人であり、どれだけ寄り添いたいと願っても限界がある。

 戦争が始まると罪のない人が巻き込まれてゆく。国家の力学に流されたり押しつぶされてたりしていった人たちの機微を取材当時20代後半だった私はどれだけ自分に引き寄せることができただろうか。こんなふうに顧みるのは、それなりにいろいろな経験を積んできた証拠か。

 取材に協力してくださった全ての人に感謝を込めて。

 最近のイスラム教徒への迫害が真珠湾攻撃後の日本人と重なる。いや、こんな目に遭ってきたのは日本人やイスラム教徒だけではない。


真珠湾攻撃が始まった ――1941年12月7日 ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

福島四方山話

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 福島支局時代の三席で、今は某支局長をしているSさんと福島時代を振り返り、政治家の話になった。

 一人は天野光晴さん。天野さんは1990年の衆院議員総選挙で当選確実の報道をされたあと、得票が逆転されて落選した人である。

 あのとき天野選挙事務所に詰めていたのは私だった。当確の報を受けて万歳三唱する天野さんを撮影したが、その写真が翌日の新聞に載ることはなかった。テレビが当確の競争を激化させる中での誤報だった。NHKまで誤報したと記憶する。他社が当確を出す中で、その流れに抗うのはよほどの精神力が必要だ。

 もう一人は佐藤栄作知事である。Sさんは言う。「俺が知る佐藤知事はお金に潔癖な人だ。お金のニオイがする人を近寄らせなかった」。優れた兄の名声を利用して逮捕された事例は最近の野球賭博にもある。

 このほか、相馬野馬追いで某県議がSさんに嘆願したことなど、“時効”になった実話を持ち寄れば、『福島のB面歴史』みたいな本を出せるのではないか。

    

  

 
 

 

 

   

真珠湾攻撃の日にしのぶ

 真珠湾攻撃の日を意識する人は少ないのかもしれない。私は数少ない1人のようだ。

 真珠湾攻撃50年の節目の年、毎日新聞福島支局の記者だった私はハワイ在住の福島人を訪ね、苦難の歴史をたどり、福島版に連載を書いた経験があるからだ。

 わずか10日の取材だったが、初めての海外取材だったので緊張と興奮が大きく、取材に応じてくださった人たちを時々思い出す。ましてや今日は朝からずっと思い出していた。

 取材に応じてくださった方々の大半が鬼籍に入られた。あらためてご冥福をお祈りし、聞かせていただいた歴史を後世に伝えようと思う。

 福島版の連載はサイトにまとめてある。取材者の義務だと私は思う。

真珠湾攻撃が始まった ――1941年12月7日 ハワイに住む福島県出身者の戦中・戦後

汚染水を抜き取れない福島第1原発2号機の報道が小さすぎる

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 報道側が慣れてしまって、あるいは何度か見通しが報じられてきたこともあって、記事の価値を矮小化してしまっていないか。

 東京電力福島第1原発2号機のトレンチにたまった汚染水の完全除去を東電は断念したという節目の記事である。要するに依然としてコントロールできていないのだ。にもかかわらず扱いがあまりにも小さい。1面を占めたのが衆院解散の記事だった巡り合わせの悪さがあるだろうが、重要性はこちらが圧倒的に大きい。

 なお念のため、衆院を解散した安倍さんは「コントロール下にある」と国際社会で大ウソをついた張本人である。

福島からの年賀状

 駆け出し記者時代を過ごしたのが福島だったので、福島の人との年賀状のやりとりがけっこうある。その中から声を紹介しておきたい。

・原発事故で福島はなかなか復興できません。もどかしいです

・私の家は除染が終了しました。体温より暑い中、黙々と除染していただきました。本当にありがたく思っています

・原発誘致に関する公文書は意識的に破棄されたのではないか

 福島時代のデスクで今は岩手県にいる大先輩記者は「震災から三年の今年も荒れ野の浜を歩きます」と記者魂あふれる決意を示された。

 東京にいると原発問題も大震災も「過去」の話なのだが、福島は今も苦悩している。雪が溶けたら福島にまた行かなければ。

頑張れ福島の梨

fukushima きたー! 福島市の大内果樹園から梨の案内が届いた。あの忌まわしい原発事故以来、大内果樹園からの案内が一切途絶えた。それが復活したのだ。嬉しいなぁ。

 大内さんは私が毎日新聞福島支局時代に取材でお世話になった1人だ。以来ずうっと年賀状を交わしてきた。当時から農薬などには人一倍気を使っていただけに、この間の悔しさはどれほどだっただろう。

 今回は放射性物質測定結果報告書が添えられている。セシウム134も137も「検出せず」である。おーし。買うぞー。

あなたの旅がふくしまの、元気です

fukushima


 JR福島駅の新幹線ホームで撮った垂れ幕である。

 あなたの旅がふくしまの、元気です。

 文字通り読むと、かなり意図的にテンを置いたのだろう。「元気」を強調している。

 テンがなければこうなる。

 あなたの旅がふくしまの元気です。

 すらすらと流れてあっという間の読み終わる。テンがないから引っかからない。

 でも、垂れ幕の文は違う。テンがあるので、ここで一呼吸置くことを読み手は求められる。「あなたの旅がふくしまの」まで一気に読ませて、テンがあるので一呼吸置いて、それから気合いを入れて「元気です」と読ませたいのだろう。福島を旅行してくれれば福島は何と何と元気をもらえるんです、という訴えである。

 というわけで、仙台に用事があった私は18日と19日の2日続けて福島で降りた。

ビッグデータの信頼性?

 インターネット上に出ている言葉を分析して選挙やビジネスに活かすサービスが始まっている。ビッグデータと呼ぶそうだが、私は「ウドの大木」と呼ぶ。

 1992年夏の参院選福島選挙区の担当だった私は、事前予測を誤り、投開票日の出口調査の読みを誤った経験がある。各社そろって間違ったから仕方ない、では成長がない。

 投開票日の午後、落選濃厚と私たち報道側が見ていた自民党現職議員の選挙事務所を訪ねた。秘書さんが「出口調査は何時ごろやったの?」と聞いてきたので、確か「昼前後です」とか何とか答えた。

 すると秘書さんは大笑いするのだ。

「うちの支持者はみんな高齢者だから朝一番に投票に行ってるんだ」

 そういえば議員は当時80歳だかの高齢だった。

 秘書さんの予言通り、高齢批判をはね返して鈴木議員が当選した。高齢批判に高齢者が反撃したと言える。当たり前だが、昼ごろの出口調査に高齢者のデータは全く反映されていなかった。私が調査対象と結果の関係を明確に自覚したのはこの時である。

 さてビッグデータである。書き込んでいる人の中で実際に投票所に行くのは何割だろう。

 ビッグデータが米国の大統領選で活用されたことを根拠に日本でも有効活用できるという趣旨のことを、それで利益を上げる関係者が言っているのだろうが、米大統領選のあの盛り上がりがない日本でビッグデータを信仰するのはほどほどにするほうがいい。

【補足】
 畏友稲垣の指摘で、私の文章の結論に欠陥があると気づいたので慌てて補足しておこう。

 早い話、ビッグデータビッグデータと大騒ぎしても、例えば私の両親(昭和10年生まれと14年生まれ)は徹底したアナログ人間なので、ビッグデータに情報はほとんどない、ということである。しかし、投票にはきっちり出かける世代だ。この世代の情報が大きく欠けているビッグデータを選挙で使う場合は、支持者の層と照らし合わせて有用性を検討する必要がある。そうしないと、参院選福島選挙区で私たち報道側が予測を誤った過程と同じことを繰り返す。

涙の昼飯

 福島支局時代の思い出の1つは、汚職事件で抜かれまくったことだ。「お食事券」と聞いて「汚職事件」という文字が浮かぶくらいヘトヘトになった。

 ある日、県警キャップの野島さんと私は椎名デスクに呼び出された。昼飯どき、パセオ通りのこぎれいな店の2階だったと思う。

 他社に抜かれ続けている私たちに対して椎名デスクは情熱を込めて爆発的なハッパをかけてくれた。そばに雷が落ちたような大迫力で、私たちへっぽこ県警担当は震え上がった。すさまじいお説教が続く。

 目の前に昼飯が運ばれているのだが、食べることができる状況ではない。

 大目玉のあと椎名デスクは昼飯を指して相変わらず厳しい声でこう言うのだ。

「ほら。食べろ!」

 食べろと言われても、叱責で胸がつかえて食べられない(涙と笑い)。

 近年の上司は部下に嫌われたくないとかで叱らないと聞く。そんなことでは組織の力が落ちてゆくのに。愛情のある叱責は部下の力を伸ばす。愛情がなくて単に恐ろしい叱責であっても、部下は叱られたくないから頑張ってその結果力が伸びる。

 私たちはいい上司に恵まれた。

福島で

 駆け出し記者時代を過ごした福島に行ってきた。

「関東で大震災が起きたら、福島のことは忘れられてしまうよねぇ」

 JR福島駅前にある沖縄料理屋のマスターが何気なくぽつりと言った言葉が胸に刺さった。

 ただでさえ富士山噴火や南海トラフ巨大地震などの話題が出ている。関東で暮らし、徳島に実家を抱えている私の目はついついこの手の話題に向かう。

 福島を忘れているわけではない。お客さんはいるし、友人も知人もいるし。でも、マスターに言われて気づいた。私の今の状態は福島を忘れているのと変わらないのではないかと。

 どうすればいいのか分からない。今できることとして、福島のことを折に触れてここで書いていくことにしよう。というわけで、さっそく「福島」という分野を新設した。
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