同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて3300回

国語力

ATOK連動の『広辞苑』は便利!

 イイタイコトは題名で書いた。以上ッ。

 というのも芸がないので、少々書いておく。正直な話こんなに便利だとは思っていなかった。こんなことならもっと昔から導入しておくべきだった。

『広辞苑』や『新明解』などの辞書を普段積み上げてある。原稿を書くときや見直すときなどに辞書を引く。

 ペラペラと引くのがいいのである。というのは強がりだった。文字を打ってファンクションキーとエンドキーを押したら即座に『広辞苑』の該当箇所がパソコン画面に出てくる。時間の節約になるだけではない。参照する機会がかなり増えた。

 ATOKと連動するほかの辞書も入れようかな。


 

「きちんとした文章」を書けなかった日経BP社メルマガ

 自戒を込めて揚げ足取りをしておく。

 日経BP社の本を紹介するメルマガ「日経BPブックニュース」(1月30日配信)の見出しは「きちんとした文章を書くための3つの基本」だった。興味が湧いてどれどれと本文を見たところ、紹介されていたのは『きちんとした文書とメール 完全速習ガイド』だった(笑い)。

「文章」と「文書」は重なるところはあるけれど同一のものではない。単なる写し間違いか打ち間違いなのだが、そもそもメルマガの見出しにした「きちんとした文章」とは何なのか。

 ここから話が少し飛ぶ。

「言葉が大事だ」や「日本は言霊の国だ」などと言われているが、言葉は表層に浮かび上がってきた意思疎通手段の1つでしかない。その根っこにある意思疎通基本OS(感受性や判断力、語彙、思考、論理的に考える能力、伝える相手との関係などなどの多さ少なさ浅さ深さ右寄り左寄りなどなどを私はまとめてざっくりこう呼ぶ)の影響を受ける。

 この意思疎通基本OSの底深くから言葉を発する人がまれにいる。「あ、この人深いな」という程度までは分かるのだが、私の意思疎通基本OSは浅いのでその相手と同じ深さで言葉を受け止めるのは難しいし、同じ深さで相手に言葉を返すこともできない。

 例えば芥川の『薮の中』を読んで感応するところが人によって異なるのはこういう事情なのである。学校教育で磨くことがほんの少しできるとしても、残念なことにほんの少しなのである。この溝をすっかり埋める方法はないと私はあきらめているが、溝に橋を架ける方法はある。深い人が相手の浅さに合わせるのである。浅いところにいる人は自分の浅さに気がつかないけれど、深いところにいる人は気づく。したがって、深いところにいる人が相手に合わせて調整するのである。

 浅瀬で阿波踊りをやっているような私には深い人から積極的に橋を架けてもらわないと話が通じない。というわけでヨロシクねー。って誰に向かって言っているんだ? 
 

「自己責任」という言葉の危険性

IMG_2518
 手持ちの『広辞苑第5版』などに載っていない自己責任。由来は何だろうと思っていたところにいい記事が出た。10月28日付『毎日新聞』(東京本社版)2面である。

 記事によると、リスクのある金融商品に投資する消費者に対して1980年代後半に使われたという。英語のresponsibilityが自己責任と訳されたそうで、語感がずいぶん違ってしまった。

 戒めの経済用語が他人の行動の批判や自分を追い詰める際に用いられるようになったわけで、言葉は生き物だから今後の広がりを警戒してしまう。例えば「成績が悪いのは自己責任だ」などと使われたら、家庭や学校の責任が棚上げされる。私は塾や予備校で偏差値の低い子供を見てきたので、常々そういう子供たちを基準に世の中を見る傾向があるのだが、私が見た限り、子供たちが勉強ができなかったのは決して自己責任ではなかった。家庭の状況があったし、学校の無責任があった。そういう外的要因に翻弄されていた子供に「自己責任」を突きつける時代が早晩来る。

 あるいはまた、速度の出し過ぎで交通事故を起こして障害を負った人や亡くなった人にまで「自己責任」を押しつける日が来る。肺がんになった喫煙者に対しても、アル中患者にも、露出度の高い衣服を着ていた女性が強姦されても、戸締まりを忘れた家に強盗が入っても、「自己責任」という言葉が襲いかかって当事者の口を封じる日が来る。そういう恐ろしさがある。

 記事の中で江川紹子さんが「迷惑をかけないことをよしとする日本人の精神性が強まっているようだ」と喝破したように、あらゆることに対して迷惑をかけないようにしなければと人を萎縮させてしまう恐ろしさがある。社会保障や福祉に救いを求めることができる人がその手を引っ込めてしまうことにつながりうる。

 少し前までは「自業自得」という言葉を世の中は使っていた。しかし「業」という漢字の響きゆえか全体に語感が強いからか、使うのにためらいがあったように感じる。

 自己責任は使わないほうがいい。使う場合は自己責任で(という蛇足のオチは真面目な原稿に書かないほうがいいのだが、われながらオモシロいので自己責任で書いておく)。

「嘆きのボイン」が教えてくれたこと

 最近なぜかよく口ずさむ「嘆きのボイン」。1969(昭和44)年12月の発売だそうだから当時の私は6歳。大阪市東住吉区矢田に住んでいた。ゲラゲラ笑いながら歌っていた記憶がある。意味は分かっていないのだが、この年ごろの男はウンコやおしっこ、ボインなどの単語に大笑いする。

 さすがに55歳にもなるとこの程度で笑うことはもうない。しかし、歌えば歌うほどうまい歌詞だと感心する。

 特に最初の2句が秀逸だ。

 ♪ボインは赤ちゃんが吸うためにあるんやで。お父ちゃんのもんと違うんやで♪

 この2句の順番を入れ替えるとこうなる。

 ♪ボインはお父ちゃんのもんと違うんやで。赤ちゃんが吸うためにあるんやで♪

 全っ然オモロない。

 なぜ全っ然オモロないのか。

 本来の歌詞は1句目に正論が出る。この正論を前提に2句目でツッコミを入れて、前提となっている正論を間髪を入れず崩しにかかるわけだ。聞き手は、おおそう来たかと。公には言いにくいけれど、確かにそういう用途(用途?)もあるなと。純粋な赤ちゃんを想像させたあとに不純なお父ちゃんの姿を想像させるこの対比が笑いを招く。

 順番を入れ替えると、1句目にツッコミが入ってしまう。ツッコミの前提が分からないから「何の話だ?」と次の歌詞を待つ状態になる。そこに2句目の正論が来るから、ああそういうことね、謎が解けた、確かにねと納得してしまう。これではあまり笑えない。

「嘆きのボイン」は奥が深い。
 

「善戦」「圧勝」の恣意

IMG_2336

 自民党総裁選で負けた石破さんの闘いぶりを一部報道は「善戦」とした。沖縄県知事選で買ったデニーさんを一部報道は「圧勝」とした。

 デニーさんが勝ったのは弔い選挙だったからであって、もし翁長さんが現職で出馬していたら果たして同じ結果だったかどうか。翁長さんが闘病中「亡くなれば弔い選挙で勝てるのに」という声があったほどだ。

 弔い選挙でデニーさん圧勝が最初から予想できたから、敗れた佐喜眞さんはそれこそ「善戦」したと言える。

 定義が不明確だから何とでも使える曖昧な表現。その使い方で報道側の思いが見え隠れするのだが、そういう情緒的な話ではなく、冷静な分析を知りたいもんだぞ。

下手の激励黙るに似たり

P1210874

 北海道震度7の地震を知り、私が書いているメルマガで北海道の読者に気の利いたことを書こうかと一瞬思った。しかし、死者が出ているので控えた。ご遺族がメルマガを読むとは思えないが、全くの第三者の私が発する言葉はあまりにも空しい。下手をすると失礼に響く。敢えて何も触れないという選択をした。

 一番いいのは道在住の友人知人に「こちらから何か送るものありませんか」と聞くことだろう。次はボランティア活動で駆けつけることだな。しかし、仕事をしていると北海道までボランティア活動に行くのはなかなか難しい。妥当な組織を見つけてせめて寄付するのが3番目の策か。

 知人がフェイスブックで共有していた旭川市の会社の活動は参考になる。以下、転載する。

・・・・・・・・・・
9月6日 8:27

マルマサよりご報告です。

旭川近隣に住んでいる皆様へ
大袈裟で必要ないかもしれませんが、9時頃からお水を無料配布、トイレの貸し出しをします。
必要な方はお湯も無料配布。
ポリタンク持参でお水好きなだけ持ち帰ってください。
お店の水道と、ガスは無事です。

必要な方には、可能な限り商品の販売もします。
街中のコンビニから、徐々に商品が無くなってきました。

後から僕を偽善だなんだと、いくら責めて頂いても構いません。
3.11の震災を経験した店主が言えることは、自分だけは大丈夫、すぐに電気もつくだろうという考えは捨てたほうが無難です。
まずはライフラインの確保を。
車で来る方は十分運転に注意しつきてください
電気がつくか、もう必要がないと判断した場合に終了します。
よろしくお願いします。

マルマサ
住所:北海道旭川市一条通五丁目タカラ市場左
電話:
・・・・・・・・・・

 こういう情報を提供できる人や会社、組織ならどんどん発信するべきだが、そうではない場合何を言っても的外れになる可能性が高い。少なくとも緊急事態を脱して、現地の人から「負けないぞ」などと声が上がるまでは、私は何も言うことができない。

 札幌で暮らす私の家族関係者計3人は無傷だ。私が北海道で暮らしているわけでもない。しょせんひとごとなのである。気楽な立場なのである。こんな私が発する言葉などろくでもないと十分予想できる。お気の毒も大変ですねも祈っていますも頑張ってくださいも明けない夜はないも、口が裂けても言うまい。言えば言うほど現地の人と離れてしまうような気がする。

 冒頭の写真は9月7日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)社会面掲載だ。写真説明は<土砂崩れ現場から家族が見つかり悲しむ親族ら>と記す。このご家族にかける言葉を発する自信が私にはない。私は弱虫なのだが、黙っていてよかったとひそかに思っている。

 

広島市平和宣言と長崎平和宣言を比べる

P1160929
 罰当たりかもしれないが、広島市平和宣言と長崎平和宣言を読み比べてみた。どちらも格調高い。内容も似てはいる。しかし長崎平和宣言が一頭地抜きん出る。読み手(聞き手)の魂に揺さぶりをかけてくる。批判が為政者の胸を突く。福島への目配せも忘れない。西暦を先に記す表記は世界に向けて発信する意思の表れだろう。

 長崎平和宣言に関わる中心に芥川賞作家がいるからこそと言えるだろう。芥川賞作家が練りに練り、理知の上に情念を燃やして書いたらこうなるのだ。しかし同じ芥川賞作家でも石原慎太郎さんには書けまいな。 



 広島市平和宣言

 73年前、今日と同じ月曜日の朝。広島には真夏の太陽が照りつけ、いつも通りの一日が始まろうとしていました。皆さん、あなたや大切な家族がそこにいたらと想像しながら聞いてください。8時15分、目もくらむ一瞬の閃光。摂氏100万度を超える火の球からの強烈な放射線と熱線、そして猛烈な爆風。立ち昇ったきのこ雲の下で何の罪もない多くの命が奪われ、街は破壊し尽くされました。「熱いよう!痛いよう!」潰(つぶ)れた家の下から母親に助けを求め叫ぶ子どもの声。「水を、水を下さい!」息絶え絶えの呻(うめ)き声、唸(うな)り声。人が焦げる臭気の中、赤い肉をむき出しにして亡霊のごとくさまよう人々。随所で降った黒い雨。脳裏に焼きついた地獄絵図と放射線障害は、生き延びた被爆者の心身を蝕(むしば)み続け、今なお苦悩の根源となっています。

 世界にいまだ1万4千発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器が炸裂(さくれつ)したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。

 被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全て死滅し、美しい地球は廃墟と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい。」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。

 昨年、核兵器禁止条約の成立に貢献したICANがノーベル平和賞を受賞し、被爆者の思いが世界に広まりつつあります。その一方で、今世界では自国第一主義が台頭し、核兵器の近代化が進められるなど、各国間に東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況にあります。

 同じく20歳だった別の被爆者は訴えます。「あのような惨事が二度と世界に起こらないことを願う。過去の事だとして忘却や風化させてしまうことがあっては絶対にならない。人類の英知を傾けることで地球が平和に満ちた場所となることを切に願う。」人類は歴史を忘れ、あるいは直視することを止めたとき、再び重大な過ちを犯してしまいます。だからこそ私たちは「ヒロシマ」を「継続」して語り伝えなければなりません。核兵器の廃絶に向けた取組が、各国の為政者の「理性」に基づく行動によって「継続」するようにしなければなりません。

 核抑止や核の傘という考え方は、核兵器の破壊力を誇示し、相手国に恐怖を与えることによって世界の秩序を維持しようとするものであり、長期にわたる世界の安全を保障するには、極めて不安定で危険極まりないものです。為政者は、このことを心に刻んだ上で、NPT(核不拡散条約)に義務づけられた核軍縮を誠実に履行し、さらに、核兵器禁止条約を核兵器のない世界への一里塚とするための取組を進めていただきたい。

 私たち市民社会は、朝鮮半島の緊張緩和が今後も対話によって平和裏に進むことを心から希望しています。為政者が勇気を持って行動するために、市民社会は多様性を尊重しながら互いに信頼関係を醸成し、核兵器の廃絶を人類共通の価値観にしていかなければなりません。世界の7,600を超える都市で構成する平和首長会議は、そのための環境づくりに力を注ぎます。

 日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。

 本日、私たちは思いを新たに、原爆犠牲者の御霊に衷心より哀悼の誠を捧げ、被爆地長崎、そして世界の人々と共に、核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを誓います。



平成30年(2018年)8月6日

広島市長 松井 一實





長崎平和宣言

 73年前の今日、8月9日午前11時2分。真夏の空に炸裂(さくれつ)した一発の原子爆弾により、長崎の街は無残な姿に変わり果てました。人も動物も草も木も、生きとし生けるものすべてが焼き尽くされ、廃虚と化した街にはおびただしい数の死体が散乱し、川には水を求めて力尽きたたくさんの死体が浮き沈みしながら河口にまで達しました。15万人が死傷し、なんとか生き延びた人々も心と体に深い傷を負い、今も放射線の後障害に苦しみ続けています。

 原爆は、人間が人間らしく生きる尊厳を容赦なく奪い去る残酷な兵器なのです。

 1946年、創設されたばかりの国際連合は、核兵器など大量破壊兵器の廃絶を国連総会決議第1号としました。同じ年に公布された日本国憲法は、平和主義を揺るぎない柱の一つに据えました。広島・長崎が体験した原爆の惨禍とそれをもたらした戦争を、二度と繰り返さないという強い決意を示し、その実現を未来に託したのです。

 昨年、この決意を実現しようと訴え続けた国々と被爆者をはじめとする多くの人々の努力が実り、国連で核兵器禁止条約が採択されました。そして、条約の採択に大きな貢献をした核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞しました。この二つの出来事は、地球上の多くの人々が、核兵器のない世界の実現を求め続けている証(あかし)です。

 しかし、第2次世界大戦終結から73年がたった今も、世界には1万4450発の核弾頭が存在しています。しかも、核兵器は必要だと平然と主張し、核兵器を使って軍事力を強化しようとする動きが再び強まっていることに、被爆地は強い懸念を持っています。

 核兵器を持つ国々と核の傘に依存している国々のリーダーに訴えます。国連総会決議第1号で核兵器の廃絶を目標とした決意を忘れないでください。そして50年前に核不拡散条約(NPT)で交わした「核軍縮に誠実に取り組む」という世界との約束を果たしてください。人類がもう一度被爆者を生む過ちを犯してしまう前に、核兵器に頼らない安全保障政策に転換することを強く求めます。

 そして世界の皆さん、核兵器禁止条約が一日も早く発効するよう、自分の国の政府と国会に条約の署名と批准を求めてください。

 日本政府は、核兵器禁止条約に署名しない立場をとっています。それに対して今、300を超える地方議会が条約の署名と批准を求める声を上げています。日本政府には、唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約に賛同し、世界を非核化に導く道義的責任を果たすことを求めます。

 今、朝鮮半島では非核化と平和に向けた新しい動きが生まれつつあります。南北首脳による「板門店宣言」や初めての米朝首脳会談を起点として、粘り強い外交によって、後戻りすることのない非核化が実現することを、被爆地は大きな期待を持って見守っています。日本政府には、この絶好の機会を生かし、日本と朝鮮半島全体を非核化する「北東アジア非核兵器地帯」の実現に向けた努力を求めます。

 長崎の核兵器廃絶運動を長年牽引(けんいん)してきた二人の被爆者が、昨年、相次いで亡くなりました。その一人の土山秀夫さんは、核兵器に頼ろうとする国々のリーダーに対し、こう述べています。「あなた方が核兵器を所有し、またこれから保有しようとすることは、何の自慢にもならない。それどころか恥ずべき人道に対する犯罪の加担者となりかねないことを知るべきである」。もう一人の被爆者、谷口稜曄さんはこう述べました。「核兵器と人類は共存できないのです。こんな苦しみは、もう私たちだけでたくさんです。人間が人間として生きていくためには、地球上に一発たりとも核兵器を残してはなりません」

 二人は、戦争や被爆の体験がない人たちが道を間違えてしまうことを強く心配していました。二人がいなくなった今、改めて「戦争をしない」という日本国憲法に込められた思いを次世代に引き継がなければならないと思います。

 平和な世界の実現に向けて、私たち一人ひとりに出来ることはたくさんあります。

 被爆地を訪れ、核兵器の怖さと歴史を知ることはその一つです。自分のまちの戦争体験を聴くことも大切なことです。体験は共有できなくても、平和への思いは共有できます。

 長崎で生まれた核兵器廃絶一万人署名活動は、高校生たちの発案で始まりました。若い世代の発想と行動力は新しい活動を生み出す力を持っています。

 折り鶴を折って被爆地に送り続けている人もいます。文化や風習の異なる国の人たちと交流することで、相互理解を深めることも平和につながります。自分の好きな音楽やスポーツを通して平和への思いを表現することもできます。市民社会こそ平和を生む基盤です。「戦争の文化」ではなく「平和の文化」を、市民社会の力で世界中に広げていきましょう。

 東日本大震災の原発事故から7年が経過した今も、放射線の影響は福島の皆さんを苦しめ続けています。長崎は、復興に向け努力されている福島の皆さんを引き続き応援していきます。

 被爆者の平均年齢は82歳を超えました。日本政府には、今なお原爆の後障害に苦しむ被爆者のさらなる援護の充実とともに、今も被爆者と認定されていない「被爆体験者」の一日も早い救済を求めます。

 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界と恒久平和の実現のため、世界の皆さんとともに力を尽くし続けることをここに宣言します。

 2018年(平成30年)8月9日 長崎市長 田上富久


ようやく要約に対する異論が出た

『「言葉にできる」は武器になる』(梅田悟司・日本経済新聞出版)への違和感や良書を3000字に要約するビジネスへの疑問を記した武田砂鉄さんの連載「わかりやすさの罪(3)要約という行為」を『一冊の本』(朝日新聞出版)3月号で読んで、うーんとうなってしまった。

 言葉はそんなに簡単なもんじゃないなと思うことがよくある。日本語を交わしていて、相手は「お互いに理解し合えている」と感じているらしいのに対して、私は「こりゃ通じてないな」と感じて口をつぐむ、なんてことがままある。生まれも育ちも環境も残り時間も家庭環境も趣味も性癖も好きな小説家も余暇の使い方も好みのコーヒーの味も異なっているのだからそもそも合うわけがないという諦念を私は抱える。

 この一方でズレを最大限減らしてシンプルに伝えることの重要性を感じることもある。3000字で要約される良書には迷惑な話だろうが、ビジネスとして見た場合それはアリだ。面白いサービスが始まったなと思った記憶がある。3000字で良書を読んだつもりになることができる人と良書を買って全ページを自分の目で読まなければ納得できない人の間には乗り越えることができない溝が横たわるのだが、その人にとっては読まないよりましではないか。必要だから3000字良書を買って読むわけで、その人にはそれでいいのである。映画の予告編を見て満足できる人がいるとしたらきっと友達になることができるだろうし、3000字で良書を読みたい人が意外に篤志家だったり慈善活動に熱心だったり数万人の従業員を雇用する大企業の経営者だったりして読書よりもそちらの活動に時間をかけている可能性がないわけではないだろうから、3000字良書が絶対的に否定されるものではない。

 言葉で分かりやすく表現することは大事だけれど、言葉にできないものが強烈な武器になると私は最近思っている。言葉は全能の神ではない。

 ……と文字を駆使して、一銭にもならない駄文を書いているのは私の単なる衝動である。何でもいいから書かないと死んでしまいそうになる。それだけの言葉でしかない。

「障碍」と「障害」

P1180181

 知らなかった。

「障害」はもともと「障碍」と書かれていたところ、「碍」が表外字になったので「害」を充てた。ところが「害」の印象が悪いので「障碍」に戻したい、でも依然として表外字だから「障がい」と書かれることが多い。

 ところがところが、「害」には「非情に大事な土地」や「交通の要所」など積極的な意味がある一方、「碍」は「妨げ」という意味しかない。

 以上は『本の旅人』11月号(角川書店)掲載の「角川新字源改訂新版刊行記念編纂者鼎談」による。

 私は「障害」を使い続けているが、それはこういう経過を知っているからではなく、小手先で文字面だけ変える自分が嫌だからで、しかし当事者がどう受け止めるかという迷いもあって内心ふらふらしてきた。変遷を知ると、さて、どれを使うかますます悩ましい。

『新字源』は持っていて、たまに引くのだが、こういう発見をしたことはまだない。引く回数が足りないな。

初出の単語の位置が変

 本文34行目に突然「革命軍」という単語がカギカッコなしで出てきた。で、次の段落でその説明があった。これはいただけない。

・・・・・・・・・・
 住民たちは、2人がよく自転車競技用のウエアを着て青いスポーツサイクルで外出する姿を見かけていた。スポーツサイクルは、革命軍が連絡役との接触やアジト周辺の警戒に使う移動手段だ。職務質問されにくく、警察の追尾も振り切りやすいとされている。住人の50代女性は「会えばあいさつするし、どこにでもいる普通のおじさんだった」と驚く。

 捜査関係者によると、2人は中核派の非公然部隊「革命軍」のメンバーとみられている。革命軍は「強固な思想性」を持った活動家から選抜された“精鋭”で、2〜3人のグループで活動。以前はテロやゲリラ作戦を担っていたが、現在は大坂被告の支援が主任務になっていたとされる。2人も20〜30年にわたり名前や身分を偽る地下生活を送ってきたとみられる。
・・・・・・・・・・

 『毎日新聞』東京本社版11月28日付朝刊29面掲載の渋谷暴動事件に関する記事である。私がざっくり見た限りでも、「中核派の非公然部隊『革命軍』」という記述を前文に入れるか本文1段落目の最後に入れるか工夫できたのに。

 初出の単語の扱いについて支局時代にデスクに指導された記憶がある。支局レベルで習う基本だと思ってきたのだが、基本が変わったのかな。少なくとも私は最初に「革命軍」が出てきたところでうろたえた。説明を見落としたかと思って記事を遡ったぞよ。

 関係詞を連発して受験生を試す大学受験向き英文ではないのだから、前から読んで意味が理解できる日本語を書くべきだと私は思うわけである。

国語辞典の面白さを知る『国語辞典のゆくえ』


 『広辞苑』の第7版が出るので本書を買ったわけではない。でも、『広辞苑』を買う前に読む価値がある。『NHKカルチャーラジオ 文学の世界 国語辞典のゆくえ』(飯間浩明・NHK出版)だ。

 特に参考になった記述が2つあった。

 1つは各国語辞典の個性を説明したところだ。

 歴史主義と現代主義という軸で分けると、『広辞苑』は日本語の歴史全体の中で言葉を捉える。『岩波国語辞典』は明治以来の日本語を視野に入れている。『新明解国語辞典』もそれに近い。一方『三省堂国語辞典』や『明鏡国語辞典』は現代の意味を追究している。『大辞林』と『大辞泉』も現代語重視の傾向にある。

 理想主義と現実主義という軸で分類すると、『岩波』と『明鏡』は言葉の揺れに厳しい。一方『三省堂』や『広辞苑』はありのままを受け入れるそうな。その割には『広辞苑』第7版は「ググる」を見送ったそうだから、やっぱり石頭だなぁ。

 私は『新明解』と『広辞苑』を買ってきたが、『三国』と『岩波』にも魅力を感じてしまった。買うか。

 もう1つは<2017年1月に、これまで紙版だけで刊行されていたある優れた国語辞典が、スマートフォンのアプリになりました。この講座で宣伝するのは不適切なので、書名は伏せますが、その辞書は紙版では5万円近くしたのが、アプリ版では8千円もしない激安価格で購入できるようになりました>という記述である。

 App Storeで調べてみると、該当するのは『精選版 日本国語大辞典』だ。小学館が2006年に刊行した全3巻の大辞典。App Storeでは星が4.5もついていて、各コメントはどれも大歓迎の意を表明している。おお。これを買わないという我慢は私にはできない。

政見放送で自民党は

P1170485

 別にどうでもいい話なのだが、自民党ともあろう組織がと驚いたので記録しておく。

 三原じゅん子が政敵を「耳障りのいい政策」と批判した。誰でも間違いはあるし、私もけっこう間違うし、自民党支持ではないので、「このタコめ」とは言わない。しかし、間違いやすい表現の代表格のようなところでそのとおり間違い、2人ともしれっとしているのは笑えた。

 政見放送ならシナリオがあるはずで、それを何人も何度も何度も目を通したはずで、にもかかわらずなぜ「耳障りのいい政策」という間違いが出たのか、不思議でならない。本番で三原じゅん子が間違えたのなら彼女を人前に出してはいけないということだし、事前チェックで誰も気づかなかったとしたら自民党の担当諸氏はお粗末君の集まりだということだ。 

文章の良し悪しを判断できないセンセイ

 東京周辺で小学校受験が始まる。ジャックとかいう塾のセンセイが”評価”した難関校の志願書を見る機会があった。

 センセイは手放しで褒めているのだが、私の判断は全く違う。このセンセイは志願書の判断ができないのだなぁ。こんなヒトがセンセイを名乗って志願書の指導をしたら間違いなく受験生は落ちる。

 文章はまずネタ。徹底的にネタ。ネタが良くなければ、どれだけ飾り立てても文章が踊らない。ネタさえ良ければ文章が勝手に踊り出す。

 私がざっと見た限り、親がネタを必死に考えていない。自分が書きたいネタを書いていて、このネタが相手(受験校の先生)にどう読まれるかという想像ができていない。だから眠くなるネタを普通に書いている。これでは落ちる。誰が落ちても私には関係ないので別にいいのだが、子供がかわいそうだ。無責任な”指導”に対して私は猛烈に腹が立つ。

 合格させる商売をしているセンセイは死ぬ気でやれよ。いや、そもそも志願書の判断ができないヒトが死ぬ気でやっても何もならない。私に学びに来たら教えてあげよう。

年俸を慮る

 読み方を書け。

 正解は「ねんぽうをおもんぱかる」。

 フェイスブック上で友人たちが「慮る」の読み方について投稿しあっているのを見て思い出した。年俸を「ねんぼう」と発音していた友人がいて、彼女に「それ、間違ってないか」と一度確かめたいと思いながらその機会をなくしていたのである。

『週刊金曜日』編集部の仲間で、聡明な人だったから、もしかして私のほうが間違っているのかもしれないと謙虚になっていた。たまに思い出しては沈み、また思い出しては沈みを繰り返してきた「年俸」の読み方を手元の『広辞苑 第五版』と『新明解 第五版』でいま確認したところ、やっぱり「ねんぽう」だった。

 ほっ。

記事中で自分を「記者は」と書くな

 年端のいかない子供が自分のことを「ケースケは」などと言うものだが、新聞記事の中で記者が自分のことを「記者は」と書くのは幼稚なのか。客観性を持ち得ないし落ち着きが悪いし誤読を生むのでやめなさい。

 映画監督が原稿で自分のことを「監督は」と書くか? 弁護士が著書の中で自分のことを「弁護士は」と書くか? 会社員がブログで自分のことを「会社員は」と書くか? 予備校講師が参考書の中で自分のことを「講師は」や「先生は」と書くか?

 『毎日新聞』夕刊のコラムを読んでいると時々出てくる「記者は」を見るたびに、誰のことだっけと私は一瞬戸惑う。


長倉洋海『いのる』

 年齢のせいか、自然に祈っていることが増えた。手を合わせるのではなく、こころの中で祈っている。

 先輩が前立腺がんの疑いで検査入院すると知ったとき。知人のお連れ合いが亡くなったと知ったとき。友人のお嬢さんが亡くなったと知ったとき。楽しそうにしゃべっている女の子たちを見たとき。人を助けようとして命を落とした人についての報道を見たとき。戦争で子供を亡くした親の悲しみをテレビで見たとき。大震災で子供を亡くした親の苦しみを新聞やテレビで感じたとき。言葉では表現できないくらいの感謝の気持ちを抱いたとき。勤務は9時からなのにマンションの管理員さんが朝の6時半には来ていると知ったとき。善意を感じたとき。

 古今東西で人は祈ってきた。私が祈るのもその中の1つであり、何も不思議ではない。

 挙げてみて気づいた。どうしようもないくらいうれしいときも、どうしようもないくらい悲しいときも祈るのであるな。共通するのは、言葉が追いつかない状況にあることだ。どんなに言葉を重ねてもうまく表現できないとき、無理に陳腐でありきたりな言葉を出して中途半端な表現をするではなく、言葉を殺して祈るのではないか。

 言葉で表現できないことが実はたくさんある。


 

厳密な読点を打ってますか?

 暗闇の2号機原子炉建屋に、総合重機大手IHIや、関連企業などの作業員ら26人が集まった=2月27日付『毎日新聞』朝刊(東京本社版)1面

 うーん。分からない。「総合重機大手IHIや、」に「、」が必要なのか。

 この一文を単純化するとこうなる。筆者が言いたいのはこれだけだろう。

 AやBなどの作業員ら26人が集まった

 A=総合重機大手IHI

 B=関連企業

 であれば、読点は不要というか、誤読を誘うので、あってはならない。よほどAを強調したいとしても別の書き方をすべきだ。

 ここで読点が絶対に必要な場合、一文の意味はこうなる。

 暗闇の2号機原子炉建屋に、総合重機大手IHIの人(作業員ではない)が何人か分からないけれど集まって、このほかに関連企業などの作業員ら26人が集まった。

 私が読んだ限りではここまでの意味は含まれていない。

 読点は呼吸を考えて打つなどと昔教わった記憶があるけれど、違う。

 1面頭の記事でこれだ。本多勝一『日本語の作文技術』(朝日文庫)を毎日新聞記者の必読書に指定してはどうだろうか。

自分向けのお年玉は『全訳漢辞海第四版』


 ようやく手に入れた。自分のためのお年玉である。『毎日新聞』の書評を読んで買うと決めていた『全訳漢辞海第四版』(三省堂)である。

『新字源改訂版』(角川書店)を持っているけれど本書を買ったのは荒川洋治さんの書評の力である。<漢文用例すべてについて日本語訳と書き下(くだ)し文を付けたこと(漢和では初めて)>で私は本書に恋した。

 これで私の阿呆が少しは改善されるなら3000円は安すぎる。

数字表記なんとかせよ

 共同通信社の新聞用字用語集『記者ハンドブック』を引きながら文章を書くことがある。数字の扱いが難しいというかややこしいというか、混乱が生じる。読者だって「何で洋数字と和数字が出てるんだ」と疑問を抱くのではないか。

 縦書きの新聞記事の場合、全て和数字に統一していいのではないか。例えば「二〇一七年」や「戦後七〇年」という書き方が妥当ではないか。確か本多勝一さんがこの書き方をしていて、私は妥当だと認めている(ちょっと上から目線だな)。そもそも洋数字を入れることで節約できる字数はどの程度なのか。

 洋数字と和数字が同じ記事の中にまざる不自然さを解消すべきである。

変な日本語の新聞広告を出す前に私に相談しなさい。有料だけどね

P1130415

 かつてお手伝いをしていた会社の広告が今日付『読売新聞』に載っていた。でも文書に違和感がある。そのころの同僚ハマさんとフェイスブックでつながっているので、彼向けに少し書いておこう。

 まず冒頭。

 ひとは365日、毎日少しづつ歳を重ねていきます。

「づつ」ではなく「ずつ」と書くこと。「綴りを間違うなんて」と思われるだけ損だぞよ。

 5段落目。ここは2つ指摘しておく。

「いつまでも健康に、楽しく、私らしくいたい」
 皆様おひとりお一人の「理想の自分」を守るため。

 上の文と下の文のつながりが分かりにくい。主語が分からないからである。全体にポエジーなのが失敗を招いた。でもって、「おひとりお一人」ではなく「お一人おひとり」と書くのが妥当だな。

 広告会社がついていながらこれかい。文章のアドバイスくらいしてやれよ『読売新聞』。

NHKの日本語能力

P1120614

 広島出張中に宿のテレビで見たNHK。「単独インタ」って何?

 インターハイ?

 インターネット?

 インターナショナル?

 インターン?

 インタ−コンチネンタル?

「取材」と言うとやや上から目線の語感が少し感じられるから「インタビュー」という単語を使いたかったのだろうけれど、インタはないでインタは。思わず私は「キンタ負けるな」と歌い出してしもうたがな。NHKが単語を変に切ったせいだな。

ら抜き言葉

P1080157

 広島市内の飲み屋の張り紙に「ら抜き言葉」を見つけた。ら抜き言葉を使う人が初の多数派を占めるという新聞記事が出た9月22日の午後に見つけたのでタイミングがいい。

 私は話し言葉と書き言葉で変えている。前者の場合「見れる」と言う。後者の場合「見ることができる」と書く。話し言葉で「見ることができる」と声に出すと長すぎる。舌がもつれるキケンがある。文字なら読み手のペースで読めばいいから多少長くてもいい。

 こう考えてきた。今さっきまでは。しかし、「カープ中継見れます」の張り紙を見て考えを変えざるを得ない。一瞬で読み手に伝えるべき短文であるべき張り紙が「カープ中継見ることができます」では長すぎてお客さんは店の前を通り過ぎてしまう。ここは張り紙通り「カープ中継見れます」が単刀直入でいい。目に飛び込んでくるからお客さんへのアピール度は大きい。

 などとグダグダ書いているわけだが、米原万里さんに叱られそうだ。「言葉は使う人みんなの財産」や「みんなが使う言葉が、正しくなくても認められてゆく」という柔軟な考え方の人だからである。あんなにステキな女性に喝破されたら私は宗旨替えするしかなさそうだ。

気になってしまう言葉の書き方

P1000373

 別にどうでもいい。しかし気になってしまった。広島市のアストラムラインの某駅(駅名を隠しているのではなく、単に忘れただけ)の男性用便所にあった張り紙である。

 私が気になるのは「紙ガムなど」。本多勝一式に正確に書くなら「紙やガムなど」である。名詞と名詞を並べる助詞をなぜ省く。漢字とカタカナだからくっつけても区別できると思ったのかもしれない。私にとってはそういう問題ではないのだが、これ以上書くと私が変な人に見てしまうので、これでおしまい。

「無料テスト」って何やねん

IMG_1669

 こういうのを見つけるとうれしい。ブログのネタになるからだ。平塚共済病院の近くにある塾の張り紙である。

 無料テスト
    対策ゼミ

「無料テスト」って何だろう。ゲンカクな私は引っかかるわけである。まず「有料テスト」があって、対抗的位置に「無料テスト」があるのかな、と。自分で書いていて意味が分からん。

 私ならこう書く。

 テスト対策
    無料ゼミ

 定期テスト対策のゼミを無料でやってますよとPRしたいはずで、「無料」を強調したいばかりに冒頭に置いてしまったのだろう。気持ちは分かるが、誤読を招く(笑い)。

 形容単語は被形容単語の直前に置くに限る。

 

文章で悩むところ

 野口悠紀雄先生は<文章を書く作業で最も難しいのは、文章の最小単位を適切に結合し、全体として説得力のある論述に仕上げてゆくことです>と『話すだけで書ける究極の文章法』(講談社)で指摘している。私が悶絶するのもここである。執筆業者が早死にする理由はここにありそうだ。

 流れがよくないと書き手が思った文章は、読み手にはチンプンカンプンだろう。そこで、一文一文の並べる順番や段落の並べる順番をあーでもないこーでもないと動かしてみる。あるいは論理の不足を補ってみる。文章のパズルをしているような感じとでも言おうか。

 これがピタリとはまらないと文章の流れが悪い。書き手は気持ちが悪い。読み手はもっと気持ちが悪い。

 駿台予備学校の藤田修一師は「前の文の論理を次の文が受けて、それをさらに次の文が受けて流れていく。最後にたどり着くのが筆者のイイタイコト」と言っていた。文章の流れを語っていたのである。

 適切な位置に一文一文が整然と並ぶと書き手は「できた!」と分かる。いや、逆だな。「できた!」と思った文章は結果として一文一文が適切な位置に並んでいるのである。


 

 

 

『「編集手帳」の文章術』よりも


 コラムを書く人には役に立つ内容があるけれど、この本より『名文どろぼう』や『名セリフどろぼう』がいいかもしれない――とワタシごときがエラソーに書いて申し訳ない。筆者は『読売新聞』論説委員で1面コラム「編集手帳」を長年書き続けている竹内政明さんである。

 どんな文章術かと興味を抱いて読んでみた。本書の一番目に出てきた<【第一戒】「ダ」文を用いるなかれ>に期待しすぎたのかもしれない。竹内さんは文末を「……だ」で締めないという。その論理を知りたかったのだが、<テンポの良さが曲者>とか音読した際に<調べを裁ち切る>とか、永井荷風が『断腸亭日乗』で広告文のダ文を嫌っているとか、うーん、私には響かなかった。

 耳で聞いて分かる言葉を使うことを意識しているようだが、「パソコンを立ち上げる」ではなく「パソコンを起動させる」と書いているという辺りに私は混乱してしまう。「きどう」という音を聞いた過半数の人の頭に「起動」が浮かぶだろうか。私は「軌道」が浮かぶ。耳で聞いて分かる言葉を使うのなら「パソコンの電源を入れる」が分かりやすいと思うのだがどうだろう。

 竹内さんは恵迪寮の出身だそうで、それに対しては大いに憧れるのだけれど、本書は筆者個人の感覚に依る内容が多いので、北海道つながりで本多勝一さんの『日本語の作文技術』はやっぱり名著だと書いて、この駄文を締めるのダ。

文章の長さについて

 新潮社の季刊誌『考える人』のメルマガを読んで痛感した。自分のイイタイコトを丁寧に書いていくと、文章がそれなりの長さになるということを。しかし、丁寧に書いてある文章は、どんなに長くても、ゆっくりと静かに私の頭に入ってきて、静かに深く沈んでゆく。

 10分で書いた文章は読み手の頭に10分で沈み、2時間かけて書いた文章は読み手の頭に2時間かけて沈む、のではないだろうか。10分で沈んだ文章は10分であっさり消えるように思う。

 そういえば昔、旺文社の大学受験ラジオ講座で英語の松山正男先生が「こころの中の10センチのところから発した言葉は相手のこころの10センチのところに届く」と言っていた。これに似ている。言葉は文字であれ音声であれ、発したように相手に届くということなのかもしれない。

 さて。ここで問題が起きている。最近の私は時間が足りない。好きで書いているブログだが、短時間でさっさと書くようにしている。そんな文章は粗く不十分だ。

 活字業界から離れた私に「文字を書きたい。文章で表現したい」という禁断症状が襲ってきた。当時の仕事先で塩谷信幸北里大名誉教授が縦横無限にブログを書いているのを見て、「ああ、私も文字を書く!」と飛びついたのがブログを始めたきっかけだ。

 空気を吸うのと同じように文字を書くことで私のこころの安寧が保たれるのである。生命維持装置と言っていい。それなのに、仕事に追われているという理由で、短文で済ませるようになってしまった。

 ああわれ(檀)一雄の鬼才なく 谷崎(潤一郎)土門(拳)の熱なくも パソコン抱きて石に書く……というふうに逝きたいものである。

痛い誤字

P1300188
 小学生が習う漢字を大人や出版社が間違うと「阿呆」と認定してよかろう。

 4月15日付『毎日新聞』朝刊(東京本社版)3面の広告である。文響社しっかりせい。毎日新聞社も気づいてやれよ。

 なお、広告は書籍で、題名を『「賢い子」に育てる究極のコツ』という。ウソのようなホントの話である。

「追及」を追及する

 たまたま見た「JBpress」というサイトの会社案内ページにこう記されている。

<WEB経済メディア『JBpress』の編集には、日経ビジネス、時事通信、中央公論から豊富な経験と人脈を持つメンバーが参加し、ビジネスパーソンの知性を満足させる上質なコンテンツの提供を追及しています>

 引っかかったワタシ。うーん。別にいいんだけどね。でもなぁ。「ついきゅう」と言っても主に「追及」と「追求」と「追究」の3つがあって、それぞれ意味が異なるから気をつける必要がある、ということを知らないのだろうか。この文の流れで「追及」はないだろう。あるのか?

<知性を満足させる上質なコンテンツ>と謳うのは自由だ。ただし、その前に、どの言葉を使うかという判断が欠かせないでしょ普通。

 校正・校閲がないのだろう。でも、<知性を満足させる上質なコンテンツ>と言うのならここにお金をかけないと。

『読売新聞』の誤字

P1260303

 小学3年生レベルの計算ができない私がエラソーなことを言う資格はない。だからフツーに指摘しておく。

 今日付『読売新聞ひろしま県民情報』という別刷を何気なく見ていたら、目に飛び込んできた。

 エラソーに言うつもりは全然ないのだけれど、この誤字はやってはいかんでしょう。文字を扱う仕事をしている人が気をつける基本の「き」だもんね。

先手必勝の名言

IMG_1172


 金沢市内の店の張り紙。カウンターからよく見える位置にあった。

 これぞ先手必勝である。



日本語の乱れという以前の話

P1250333

 目くじら立てる話ではないのでどうでもいいのだが、日本語の一部否定と全面否定の違いが分かっていない。

 写真はどこかのテレビ局のテロップである。慌てて撮ったのでどこの局の何と言う番組か私は分からない。分からないけれど、これが間違いであることはすぐに分かったので撮った。前置きが長いな。年を食ったせいか。年を取ると小便も長くなる(←はよ先に進まんかい!)。

 全員に届かない ← 100人いたら100人全員に届かない、という意味である。

 全員には届かない ←  100人いたら何人か届かない人がいる、という意味である。

 テレビは後者の意味で報じた。にもかかわらず前者のテロップを出した。これでは正確な情報が視聴者全員には届かない。

日本の言葉には順序がある

P1250216

 一瞬読んで「?」となり、1回読み返して「ああ」と合点がいった。宿泊中の宿のテレビに出たテロップである。

 女性と公務中に密会

 伊藤和夫師のようなことを言うけれど、私の頭の中は「女性と」の文字で女性が浮かび、次に「公務中に」の文字を見て「女性と公務中に」って何じゃらほいと混乱する。

 女性と公務中に……密会? 誰と密会したの? 

 英語も日本語も前から読んでそのまま頭に入るのが適切な順序である。この場合は、こうするべきだった。

 公務中に女性と密会

 どこのテレビ局のどの番組か分からないが、本多勝一さんの『日本語の作文技術』(朝日文庫)を読むことを強くオススメする。

打ち間違いで気づく「おやじギャグ」の真実

「おやじギャグ」と打ったつもりが「親自虐」と出た。前者は「おやじぎゃぐ」、後者は「おやじぎゃく」。最後の「ぐ」と「く」が違うだけ。しかし、ここに真実が隠されていた。おやじギャグは親の自虐なのである。

 かわいそうに。ってワシのことだな。

NHKはゼロが苦手?

P1240836
 NHKが期待通りの間違いをしてくれるからこうしてネタにできるわけで、うっしっしっ。

 NHK教育テレビの「100分de名著」がダーウィンの『進化論』を取り上げた第1回である。出張先で見ていたらうっしっしっ。

 見た瞬間に間違いに気づく人はワタシと同じ文字オタ君です。

 ヒントは「漢数字と洋数字が混同している」。

 漢数字の「三」や「四」のあとのゼロをNHKは洋数字の「0」にしてしまった。「三」や「四」という漢数字を使っているのだから本来ゼロも漢数字の「〇」にして「三〇」や「四〇」と表示しなければ一貫性がない。

 音引き(ー)と横棒(―)も混同しやすい。NHKさんご注意を。


【特別な謝辞】
 上の記述の中でワタシは<洋数字の「3」や「4」>と最初書いておりました。NHK画面は写真のとおり漢数字の「三や「四」であるにもかかわらず。鋭く指摘してくれた畏友稲垣に深く感謝です。NHKも感謝しなさい。

新聞紙その横文字が必要か

P1230430
 私は英語が得意だった(過去形だが)。この私が「デフォルト」にピンと来ない。ということは、大勢いるはずだ、「デフォルトって何よ」と首をかしげる人が。

『毎日新聞』の表記はこうである。

 デフォルト(債務不履行)

『朝日新聞』と『読売新聞』はこうだ。

 債務不履行(デフォルト)

 NHKは一貫して「債務不履行」と言っている。

「債務不履行」の5文字を読めば、民法に不案内な人でも意味を類推できるだろう。「デフォルト」からは何の推測もできない。

 垂れ幕を「バナー」と表記した『中国新聞』にもあきれ返ったことがある。

 偶然とはいえ今日付の『毎日』の「仲畑流万能川柳」にデフォルト表記を笑うかのような一句が載っている。

 評論家その横文字が必要か(東京 新橋裏通り)

 私が本歌取りをすればこうなる。

 新聞紙その横文字が必要か

短い梅雨の晴れ間

 NHK広島放送局の天気予報で見たのが「短い梅雨の晴れ間」という文字(テロップ)である。

 私なら「梅雨の短い晴れ間」と書く。NHKが示したとおりでは「短い梅雨」と読んでしまう恐れがあるからだ。梅雨が短いか長いか、終わってみないと分からない。

 私たち日本人は「晴れ間」という文字を最後に見て「短い晴れ間」と置き換える。この置き換えは日本語に慣れているから自然にできるだけで、日本語を学んでいる外国人は一瞬躊躇するだろう。こんなことを考えるのは先日ハノイで日本語を学ぶ若者たちを見てきたせいかもしれない。

「短い」が2文字と簡潔で、間に挟まれた「梅雨の」が3文字なので、「短い」がどこにかかるか判断しやすい。しかし「過去30年で最も短い」となってしまったら「梅雨」にかける人が続出するはずだ。

 こんな場合どう表記すればいいか本多勝一さんは『日本語の作文技術』で解説している。NHK読むべし。


 

テンの打ち方が変

 世の中の大勢には何の影響もない。私の単なるツッコミというかネタである。でも気になるので挙げておこう。広島県内で見つけた掲示板である。

P1230307
 2字目の「、」の位置が気持ち悪い。そもそも「、」は不要だ。「当マンション」が正しい。「、」を置かれると、私の頭の中では「とう……まんしょん」と声が流れる。「……」の空白が私には落ち着けない。

 テンの位置はけっこう重要である。新聞記事でさえ変な位置にテンを打っていたりする。ここはやっぱり本多勝一さんの『日本語の作文技術』だな。私ほどこの本を何度も賞賛している人は少ないはずで、このことを知ったら本多さんは「あの西野が」と喜ぶか「あの西野め」と苦虫をかみつぶしたような表情をするか、後者だな。それでも褒める私の器の大きさよ(←自分で言うな)。


 

「リスク」への違和感

 安保法案を議論する際に「リスク」という言葉が飛び交っている。「リスク」という音の響きがずいぶん軽く感じるのは私が疑り深いせいだろうか。

「危険」あるいはもっと具体的に「人が死ぬ恐れ」などと表現するほうが分かりやすいし重みが増す。リスクを連発する政治家には日本語を使うクスリを飲ませたいものだ。

寸鉄人を刺す

 ひるがえって安倍。信念が招いた混乱に鈍感では新時代に移れまい。少なくとも、反戦平和の理想を鼻で笑うような高飛車は改めたほうがいい。

 何度読み返しても胸がすく。特に最後の一文にはほれぼれする。言葉に魂が宿っている。6日付『毎日新聞』(東京本社版)の名物政治コラム「風知草」である。筆者の山田孝男さんは福島支局のデスクをしていたことがあるのだが、残念ながら私の勤務時期とズレていて、お目にかかったことはない。

 実は私の生命保険を担当してくれた女性(福島市在住)が心酔していた。この女性と電話で話した際に山田さんの話になり、高潔な人格に魅了されたと絶賛した。ほかにも何人か同じような感想を漏らす人がいたので、私は山田さんに興味津々なのである。

 コラム「風知草」は右でも左でもないところがいい。だからこそ左右から信頼される。その山田さんが刻んだ寸鉄は果たして安倍首相の頭に届いただろうか。
読者のお言葉
月別分類
略歴

ニシノ説論者

ニシノ書店