同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

疑問

誕生日の公開が基本になっているのは怖いな

 誕生日おめでとうございますと連絡してきた人がいた。残念ながら男である。私は生年月日を非公開にしているつもりだったので驚いた。

 何で知ってるの?

 友人が言うには、LINEに出ていたそうな。

 なにそれ? フェイスブックはずいぶん前に非公開に設定し直した。LINEで生年月日を入力した記憶は全くないのだが、慌ててLINEの中を見て生年月日を非公開に設定し直した。

 IDやパスワードと同じように、登録サイトのログインなどで生年月日が問われることがある。ということは、生年月日をネット上に出すことはIDやパスワードに近い情報を悪意を持つ人を含む不特定多数に対して無防備に公開するのに似ているのではないかと最近思い至った。

 フェイスブックもLINEもほかの何かも、生年月日は原則非公開にして、公開の危険性を本人にしっかり確認したうえで、本人が自分の意思でもって手動で公開する、という仕組みがいいな。

そこにいなくてもそこにいると嘘をつくことができるフェイスブックの位置情報って長いな

 フェイスブックの位置情報は自由自在に嘘をつくことができると聞き、さっそく試してみた。東京都内にいるのに、まずはロンドン、その数秒後にニューヨーク、さらにその数秒後に高野山と瞬間移動できるフェイスブックの位置情報は一体何のためにあるのか分からない。

 嘘をつくことができるので、嘘をつかない私はフェイスブックの位置情報を使わない。という嘘をつく。

 旅行をした気分になるわけではないが、想像の翼を広げるひとときにはなったかもしれない。

りんご便乗値上げしてないか?

 りんごの値段が上がっている。少し前に1個250〜300円ほどだった津軽りんごが、同じような大きさに売れ具合で400円ほど。

 平塚駅周辺のスーパー3店舗がまるで示し合わせたかのように。東京・高田馬場のスーパーは300円だからまだ良心的か。

 野菜の値段が上がっているのに合わせてどさくさ紛れで値上げしてない? 

亡くなった人の顔に白い布をかける理由

 買っていた山羊が死んで顔にバンダナをかけたという話をしたのが知人の住職で、かねてから疑問だったことを聞いた。

 何で亡くなった人の顔に白い布をかけるの?

 理由の1つは「蠅が止まって蛆がわくのを防ぐため」だった。衛生上の理由があったとは知らなかった。そういえば目の縁辺りに止まりそうだもんなぁ。

 あと1つか2つ教えてくれたのに忘れてしまった。もう一回聞いてみなければ。

 私が死んでも坊主不要戒名不要墓不要生ゴミで出せと弟子3人に厳重に申し伝えてあるのだが、この住職になら読経くらいはお願いしていいかもなーと最近思うようになった。同じ年齢だからあちらが先に逝く可能性があるか。いくら女性のほうが長生きだとしても。


 

京都ALS安楽死事件でまた

 東京都内の容疑者の自宅に京都府警が乗り込んで連行する映像をNHKが撮っていたのだからすごい。

 さて。問題はここから。

 逮捕された医者の1人は元厚生労働省の技官。恐らくこの男だろう、『京都新聞』サイトによると《「高齢者は見るからにゾンビ」などとネットに仮名で投稿し、高齢者への医療は社会資源の無駄、寝たきり高齢者はどこかに棄てるべきと優生思想的な主張を繰り返し、安楽死法制化にたびたび言及していた》。

 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設やまゆり園で入所者19人が殺害され、入所者と職員26人が重軽傷を負った凄惨な事件とつながる。

 高齢者がゾンビなら、私の両親はまさしくゾンビであり、70代は死に損ない、60代はゴミ、50代後半の私はカスということにでもなるか。という具合にどんどん広がると「20代以上は死ね」という風潮になってもおかしくない。

 高齢者や障害者らを大事にできない社会が致命的なのは、その考えが拡大するとほかの人間も大事にしない社会をつくってしまう危険性があるからだ。成功だの成長だの効率だの右肩上がりだのを後生大事にしてしまう社会はそれに従えない人間を切り捨てることにつながりうる危うさを内包する。自分は切り捨てられる側ではないと思い込んでいるらしい人が無神経な発言をフェイスブックに時々載せていて、予備軍の広さを感じる。

 ネット上では早くも今回の犯罪者を尊敬するという投稿が出回っている。こんな社会を私は認めない。

「大金を預けてあるスイスの銀行から連絡は来たか?」と期待させるようなことを言ってボケたあと何年も寝たきりになって意識のないまま亡くなったひい婆さんなど犯罪者にとっては「ゾンビ」そのものだろう。こんなひい婆さんなど捨てろと犯罪者は言うのである。

 やまゆり園事件の犯人はやまゆり園で勤めていたときに同僚たちとの話から入所者は世の中に不要だという考えを芽生えさせた。ということは、もしかしてこの容疑者が勤めた厚生労働省も省内でそういう見方をしていた官僚がほかにもいたのではないか。

 人間社会の根幹に関わる重大な問題なのだが、官僚や報道機関や学者らが選良意識を持っているとしたら、今回の問題を真正面から捉えることができないだろうし、ひとごとで終わってしまう。

 ALSが問題なのではない。安楽死が問題なのでもない。役に立たない人間は捨てればいいというおぞましい優生思想を持つ人間がなぜ生まれたのか、なのである。

 強制収容所行きの列車を走らせてなるものか。

レジ袋は必要

 近所のセブンイレブンの女性店員さんとは顔なじみで、たまに雑談する。

女性店員さん「レジ袋、必要ですか」

私「ください。一番大きなやつ」

「5円です」

「5円でも10円でもいいんです。一番大きいやつでないと。だってレジ袋ってゴミを詰めるのに使うでしょ」

「そうそう。大きなゴミ袋にゴミを直接入れると見た目が汚いし」

「ね。レジ袋にゴミを詰めて、それを大きなゴミ袋にまとめて入れて、生ゴミの日に出しますもんね。中途半端な大きさのレジ袋は役に立たないんです」

「結局レジ袋の費用をこれまでは店が持っていたのをお客さんに押しつけたかっこうですね」





浴室に長い髪の毛が1本

 広島市の定宿は(1)セブンイレブンが隣にあるので便利、(2)レンタサイクルがあるので助かる、(3)てらにし珈琲国泰寺店が近いのでありがたい、の3点で気に入っている。

 気に入らないのはラップ音がすることだ。夜中に目覚めなければ何も聞こえない。何も聞こえなければ全く怖くない。それなら夜中に目が覚めなければいい。ということで軽い睡眠剤を飲むことにしている。

 で、今月も泊まったのだが、3泊目の朝、変なものを浴室で見つけた。長い髪の毛が1本。一瞬私のかなと思って頭に手をやったが、1週間ほど前に散髪して坊主頭である。

 誰のだ? 

 怖いからこれ以上深く追及しないコトにする。私は掃除不要の札をドアに張ってあるので、外部から掃除の人が入室することはあり得ない。今回はバキッという大きな音が昼間も聞こえたが、何か関係があるのだろうか?

 怖いので、おしまい。  

 

言わずもがなの朝日新聞編集局長補佐

IMG_3756

『大学教授が、「研究だけ」していると思ったら、大間違いだ! 「不人気学科教授」奮闘記』の書評を7月11日付『朝日新聞』読書面で読み、最後の段落で「あーあ」と引いてしまった。

《受験エリートが就職後も開花するとは限らない。大学で受けたはずの訓練で、型通りの成功体験から脱皮できたか否かが、その分かれ目と思えてくる。大学合格は最終目標ではない。教授の奮闘から高校と大学の意義も考えさせられた》

 4つの文のうちの最初の3つの文に私は引っかかった。

 書いたのは朝日の編集局長補佐。間違いなく「受験エリート」だった人である。朝日新聞社が最難関就職先の1つだった時代に入社したはずで、編集局長補佐にまで出世しているのだから「就職後も開花」したと言える。そういう人が言わずもがなのお説教をしてしまった。これを傲慢とか高慢とか偉そうにとか上から目線とか自慢とか人は言う。

 朝日の編集局長補佐ともあろう人が衣の下から鎧がちらつく文章を書いてしまった。この上から目線は朝日社内に蔓延していて誰も問題に気づかないのではないか。

 受験エリートなどではないつもりの私も実は例外ではなく、こういう文章を書いたことが絶対にあるはずで、本当に戒めなければならない。自戒させる名文ではあったな。


 

マスクリンチの時代に

 マスクが嫌いだし右に倣うのがいやなので必要な場所以外ではマスクをしない私は、同じようにマスクをしていない人を見かけると同類かなと一瞬期待してしまうのだが、先日見たテレビではその大半が「マスクを忘れた」と言っていた。なーんだ。

 そんなある日のこと。東京・品川の人通りの少ない通りをマスクを手にぶら下げて歩いていたところ、私を追い抜いていった女性も同じようにマスクを手にぶら下げていた。「マスクは持ってますよ。忘れたわけではありません。でも、ここでは必要ないでしょ」と主張するかのように。

「僕ら、気が合うと思いませんか」

 追いかけていって声をかけようと思ったが、変質者に思われたくないので我慢した。 

 以上前置き。

 それにしても、だ。今のマスク状況でいいのだろうか。

 アベノマスクなどアリバイとしてしか使えないのに、総理大臣が率先してつけているものだからだろう、厚生労働省は「ガーゼや布のマスクは効果がない」と言わない。車に一人乗っている人が律儀にマスクをつけていたり、四方八方に人がいない場所でマスクをつけているこれまた律儀な人がいたりして、熱中症で倒れる人が出てくるまで「王様は裸だ」と誰も言わないのだろうなぁ。

 筋の通らないデタラメな状況がいつまで続くのだろう。国を憂えるのは時間の無駄なので、マスクを手に持って歩く女性を今度見かけたら声をかけてみよう。話が合いそうな気がする(笑い)。

オンライン飲み会は無理という話

 飲む人が言っていた。「ズーム飲み会は無理」と。

「隣の人と話せないでしょ」

 確かに。ズームは誰か1人が話して、残りの人はそれを聞く。発言者はいつも1人に限られる。会議用にはいい。

 これを飲み会で使うとなると2〜3人なら問題ない。しかし人数が増えれば増えるほど無理が生じる。隣の席の人と話す、という小回りがきかない。

 飲み会にせよ集会にせよ、小さな輪でしか人間関係を縮める芽は生まれないのではないか。いいかもと思った相手を誘って二人きりでデートするのと同じだな。

東京の地下鉄で徳島の吊り広告を見たが

IMG_3730

 東京の地下鉄・銀座線で見つけて「おおー!」と声を上げてしまった。阿波踊りなのである。よく見ると徳島県の広告だ。ポスターの右下に小さく「VS東京」と恥ずかしそうに書いてあったので分かった。

 これ、何のために作ったのだろう。税金をどれくらい投じたのだろう。何が言いたいのだろう。私にはどうも分からない。

 このポスターに反応するのは徳島出身者かゆかりのある人くらいだろう。ということは、関東在住の徳島関係者に郷愁をそそらせてUターンさせるのが狙いか?

「コロナ後」と言うけれど

IMG_3693

 新型コロナウイルスの騒動が収まらないのは医学的に解明されていないからであって、ワクチンができたりしてインフルエンザ並みになれば落ち着く。それなのに「コロナ前には戻れない」などと言っている人がいて私は首をかしげてしまう。

 例えば《ソーシャルディスタンスは新しい生活習慣になりそうだ》と法政大学総長が書いていたけれど、新しい生活習慣では決してなく、一時的な約束事というのが妥当だろう。そのそもソーシャルディスタンスだなんて(笑い)。距離と日本語で言えば簡潔で済むものを。

 医学的に解決されれば距離は元通りになるだろうし、マスクだってしなくなるだろう。これらは確かに「新しい」けれど「一時的」だというのが私の見立てだ。

 英国のジョンソン首相が新型コロナウィルス感染から回復したあと「社会は存在する」とサッチャーさん時代からの流れをひっくり返す発言をしたけれど、これなどコロナ前に戻ったとも言うことができるわけで。

 ズームなどのオンライン会議はそもそもインターネット時代の技術の1つだから今に始まった話ではない。アルビントフラーが『第3の波』で予言して30年も経っているし。こういうのを無視して「コロナ前には戻れない」と言うのはあまりにド近眼過ぎて。

 哲学者のハラリさんは新型コロナ騒動を機に国家が個人の管理に乗り出すと警鐘を鳴らしているけれど、イスラエルという環境が大きすぎる。ビッグブラザーはすでに中国や北朝鮮に生息しているのにね。

 地方への移住が増えるだの何だのという報道も見たけれど、私が知る限り、1990(平成2)年の毎日新聞福島面新年企画「新ふくしま人」は都会から福島県内に移住してきた人たちを取り上げたもので、そのころから「若者ばか者よそ者」が地方を変えるなどともてはやされていたことを多くの人が忘れているのではないか。

 昭和の終わりごろ訪ねた竹富島に若い元カメラマンが移住していた。彼は東京でお金をバカスカ稼いだもののそれに疑問を持ったので仕事を置き、自分を見つめ直すために移住してきたというようなことを語っていた。その数年後にバブル経済が崩壊した。

 世の中が少しずつ変わっているのはごく当たり前で、日本で言えば明治時代ごろから分かりやすい姿で続いているわけで、そういう蕩々とした流れを無視して「新型コロナ」で「前」と「後」に区切るのは暴力だし、新型コロナの影響があったにせよ過去に似たような出来事がすでに起きていることを知らずにニュースにしてしまうのも恥ずかしい。医者でさえ意見が分かれる新型コロナウイルスについての発言も井戸端会議ならいざ知らず。

 だからこそ、信頼できる発言者がはっきり浮かび上がってくるのだが。


 

 

テレビ番組は演出がつきものなのに

IMG_3683

 テレビ番組を見た人たちがその内容を本気にしてSNSで批判し、それがきっかけで若い女性が死に追いやられた。痛ましい。

 SNS時代ならではの事件だろうけれど、問題はそこではない。テレビ番組の見方が問題なのである。民放のこの手の番組は創作であることを中学生くらいまでの間に知るべきである。明石家さんまが女性たちと話す『恋のから騒ぎ』(だっけ?)にしても盛っているなぁと、受けてなんぼの世界やなと、そういう見方を普通すると思うのだが、真面目に見てしまう人が一定数いるのである。

 そこを広く知らせるべきではないか。あの手の番組は創作だと。

 書いていて思いだした。『週刊金曜日』編集部にどこか外国のテレビ局が来てカメラを回した。編集というのは実に地味な仕事で、動きがない。彼らは明らかに困っていた。たまたま近くにいた私はサオちゃんに声をかけ、進行表だか何だかを一緒に見ながら打ち合わせをしてみせた。カメラがわれわれをすぐに捉えて、カメラの機械音が聞こえてきた。これで少しは動きがある映像を撮れたかなと思いながらも、カメラが寄ってくるものだから笑いをこらえるために不相応な必死の顔になってしまった。

 このようにカメラが回っていると人間はサービスしてしまうのである。

 私が『太陽にほえろ!』が死ぬほど好きだったのに警察官にならなかったのは、「テレビはつくりもん」という目で見ていたからである。でも、竜雷太演じるゴリさんには心底憧れたぞ。

 話がそれた。

 テレビは演出がつきものだ。私とサオちゃんがどこかの外国人のために打ち合わせをしてあげたのも自主的な演出なのである。そういうことを常識として知らないといけない。

UFOを認めたくないから新語?

IMG_3577
 米国防総省が公開したUFOの映像について、4月29日付『毎日新聞』(東京本社版)は国際面で奇妙な見出しで報じた。

 UFOか「謎の空中現象」撮影

 私は2回首をかしげた。

 1つは「UFOか」と断言を避けたところ。そもそもUFOは英語で“Unidentified Flying Object”つまり文字通り「未確認飛行物体」である。「UFOか」ではなく「UFOだ」となぜ断じない? 記事では《米国防総省は27日、海軍が撮影した「謎の空中現象」として3種類の映像を公開した》と「謎の空中現象」の出典が米国防総省だと明示してはあるけれど、UFOと何が違うんだよ? 権威筋の言うとおりに書けば問題ないという思考停止責任逃れがみっともない。

 もう1つが「謎の空中現象」という言い方。もしかして原文があるのか。検索したところ、米国防総省がこの映像を"Unidentified Aerial Phenomena”と表現しているのだった。私が“unidentified”を訳したら「未確認」にする。『毎日』はなぜか「謎の」と訳した。江戸川乱歩かっちゅうの。そこまでして混迷を深める必要があるか? 私には謎だなぁ。

 ちなみに朝日新聞サイトの見出しは《米国防総省が「UFO映像」を公開》とし、記事ではUAPに触れていない。

 読売新聞サイトは《UFO!? 米国防総省が映像を公開》とし、記事で「航空現象」と訳した。

 産経新聞サイトの見出しは《米軍、UFO撮影に成功か 「謎の現象」映像公開》だが、記事の中に「謎の現象」の由来が書かれていない。不親切だ。

 共同通信サイトは《米軍がUFO撮影に成功? 過去2回の「謎の現象」映像公開 》という見出しで、ここに至って先ほどの疑問が解決した。どうやら『毎日』と『産経』は共同電を参考にした可能性が高い。自信を持ってUFOと言い切ることがなぜできない? 

 報道の王道を行く英BBCサイトは“Pentagon releases UFO videos for the record”とUFOを使っている。だよね。

 それにしても、米国防総省である。映像をどう見ても「空中を飛行する未確認の物体」すなわちUFOである。なぜに認めない? "Unidentified Aerial Phenomena”という新語をひねり出してまでUFOを認めないのはなぜだ?

 今まで使ってきたUFOと新顔のUAPの違いはどこにあるのか? なぜにそこまで慎重になっているのか? 

 この飛行物体が「わしらがUFOやでー」と叫んでくれたら話は早いのだが。


30メートル級津波を軽んじる行政と

IMG_3539

 岩手と北海道を最大30メートル級の津波が襲うという。

 それを報じた21日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)1面の図がこの写真だ。大変なことである。逃げようがない。巨大な防波堤を作ってきたが、役に立つとは思えない。

 もっと分からないのは住民の不安を煽るとして岩手県の浸水想定水域を内閣府が明かさなかったことだ。岩手県が「明かさないで」と頼んだのではないか。どっちでもいいが、住民の生命を無視した情報非公開である。誰が非公開の責任者なのかはっきりさせてもらおう。

 津波で大きな被害を受けた地域の人が復興に向けて地元で一生懸命にやっているので言えなかったが、これはもう言うしかない。そこに住むな、と。引っ越せ、と。あんたが死ぬのは勝手だが、子供や孫を死なせていいのか、と。

 私が言ったところで何の効果もない。法律を整備して、財産を保障して、引っ越しさせる旗振りを担うのが行政の役割である。

 大きな津波を引き起こす巨大地震の発生頻度は低いが切迫状況にあるという。もたもたするな。住民の生命や大切な人の生命を守るのなら、それしかない。

 巨大な防波堤はそもそも建設すべきではなかった。イソップの「牛とカエル」を自然相手にやることの愚かさと無駄遣いに、いい加減気づけ。

 巨大地震の発生が切迫していて30メートル級の津波の可能性が公開されても、行政の引っ越し支援があっても、それでもその該当地にとどまり、実際に亡くなったとしても、今度は誰も悲しまない。しかし、そんなことがあってはいけない。同じ人間として、これは言い続けなければならない。

合格率が25パーセント以上ある司法試験の今後

 司法試験の合格率が25パーセントもあると聞いて今検索してみたところ、2019年は34パーセントだったって。いやもうびっくり。

 ワタシは2回受けたことがある。合格率1パーセントの時代。だからというわけではないが落ちた。単に阿呆だったに過ぎない。

 法学部の図書館には1回だけ友人に連れていかれた。「どうせ西野は法学部の図書館を使うことは1回もないだろうから、勉強のために見せてやる」とか何とか言われて。その友人はのちに司法試験に合格するのだが、法学部図書館には主のような学生たちが席を占拠していた。風呂おけにタオル、シャンプーなどを詰め込んだ洗面道具を机の下に置いていた光景は何となく覚えている。

 下手をすると人生を棒に振る若者たちを何とかしようという思いや司法制度へのいろいろな思惑があって、司法試験はずいぶん変わった。その結果が34パーセントの合格率だ。

 ここからはワタシの予測である。34パーセントも合格する試験になると、まず東大京大の賢い連中が受験しなくなる。彼らは難関だから受験して資格を取る連中だからだ。東大理科三類に進んだ学生の一定数が医師国家試験を受けないのは、理科三類が日本最難関だから周囲の勧めもあって受けて入っただけであり、別に医者になりたいわけではないからという奇天烈な才能が一定数いるせいだ。

 これと同じで、難関でない司法試験は東大京大クラスには全く魅力がない。「落ちたくせに偉そうに」と批判されるのをカクゴで言うが、25パーセントや34パーセントではワタシでも受けない。こうして東大京大トップ層の司法試験受験生が激減していく。ワタシのような賑やかしも受験しなくなる。そのあとの司法試験はどうなるのか。

 法治国家で法曹のレベルを下げることは国家の危機を招くので、また難易度を上げることになるだろう。かつての1パーセント時代に戻す時期ではないか。それでなくても日本人は訴訟を好まない。法曹人口はそれほど必要ではない。

 日本医師会は圧力団体として機能しているから司法試験の凋落を見て「うちの業界はそんなことさせんけんね」と思っているに違いない。法曹はまとまっていないからあちらこちらから手を伸ばされる。組織の弱さがこんにちの合格率を招いたと言っていいのではないか。



 

コロナ対策で誰も話題にしないけれど(笑い)

 新型コロナウイルス対策で小中高校や大学が卒業式や入学式をやめたり延期したり始業を遅らせたりする中で、しずかーに普通に営業している教育機関がある。大勢の若者がぎゅうぎゅうになって毎日何時間も座るのはどこか? みんな忘れているのだろうか?

 答えは予備校。駿台と河合塾、代ゼミのサイトを見たけれど、普通にやっている(笑い)。数百人収容の教室に浪人生がぎっしり詰まるし、おしゃべりをするなと命じても難しいだろう(特に代ゼミね)。これから何度も実施される模擬試験も似たような環境である。密度は大変高い。

 首都圏の彼らは満員電車に揺られて校舎に着く。感染拡大の巣になる可能性は十分ある。

 どうする? 


 

ちぐはぐ(笑い)

IMG_3452

 東京・日本橋の雑居ビルで見かけた看板には、日本語で店の名前が記され、該当する店には「TAX FREE」と。

 日本人には「TAX FREE」は関係ない。関係があるのは外国人旅行者だろう。で、外国人旅行者が「TAX FREE」を読むことができても、店の名前は日本語だぞ。何の店なのか分からんわけで、それなのにひとつひとつ店を覗くだろうか。

 責任者出てこーい!(人生幸朗師匠ふうに)


 

自分で自分の首を絞める飲食店もあれば人出の多い店や場所もあり

IMG_3439

 あーびっくりした。この掲示を入り口に掲げているのは家電量販店や本屋ではないからだ。東京駅前・八重洲にある奄美・鹿児島・沖縄料理の店なのである。

 ほんまかいな。冗談ではないのだろうなぁ。

 店の中でどうやって食べるんだろう。マスクをしたままでは食えんで。だったらマスクいらんやんけ。

 まさかひとくち食べるたびにマスクをつけたり外したりさせるつもり? 

 新型コロナウイルスの感染で自粛の空気に包まれる週末の都内を見て回った限りだが、新宿と浅草の某所(両方飲食系)は若い女性が大勢集まっていた。特に新宿の某所は換気の悪い空間に200人くらいの若い女性が数時間にわたって群がっていた。濃密接触なんぼのもんじゃという勢いだ。

 何だこれは。廃業の危機に直面する飲食店ばかりではないのだ。知恵と工夫があればワンサカお客さんが寄ってくるのである。これ以上具体的には書かない。私が足で稼いだ情報やけんね。

 有楽町のビックカメラはけっこう人が来ていたし、交通会館にも大勢の人がいた。午前中こそいつもの5割程度かなと思えた浅草寺の参道は午後になると若者を中心に7割〜8割程度の人出になっていた。


 

 

医者はエリート???

IMG_3447

 東大の偏差値より地方の国公立大医学部の医学部の偏差値が高いというのは何か間違っている。私の大学時代、地方の国公立大医学部より東大京大などの偏差値が高かった。真っ当な時代だったと思う。

 いま医学部を目指す学生は、医者になって楽をしたいという志望動機が多いように見える。そういう連中に健康や命を預けたくない。

 私立大学を含めて医学部で人を育てるために莫大な税金が投入される。国民の支えと期待を託される仕事なのである。そういう点で医者は全員公務員であっていいと私はかねてから思ってきた。日本医師会が猛反発するだろうが、医療は公務に近い。従って医者は公務員でいい。いま自由診療で儲けている医者はその大半に課税していい。

 例えば年収800万円くらい。あるいは1000万円。これ以上は全部税金で持って行かれる仕組みでいい。首都圏在住者は公務員の官舎をあてがう程度の余禄を与えよう。

 そうなったとき、それでも医学部を目指す、医者を目指す、という人が必ず一定数いるはずで、そういう人に健康と命を預けたい。

『アエラ』3月2日号の特集は、「時給換算で100円くらいで働いている体感」や「24時間365日勤務、48時間連続勤務は当たり前です」「重労働」「嫌な思いをすることも多く、給料に見合っていない」などの医者の声が載っていて、こういう声がもっと広がるべきだな。

 何度か書いていることだが、米ドラマ『ER』の第1シーズン第1話は象徴的なテーマだった。すなわちグリーン先生がお金も時間もたっぷりの病院への転職をやめ、薄給で仕事に追われる病院に残る話である。

 そういう人が信頼を得るのは医者に限らない。


 

 

頭隠して尻隠さずか

IMG_3401

《書いて伝えることの重さにこだわりたい》という結びの一文。イイタイコトはよく分かるし、気持ちもよく分かる。3月4日付『毎日新聞』朝刊(東京本社版)「記者の目」の「前線で考える新聞の興亡」である。

 でもね。それ、あなたの仕事だから。それで世間水準を上回る給料をもらっているじゃないか。世の中いろんな人がいろんな仕事をしている。それなのに、新聞記者が自分の会社の紙面でいちいち胸を張ることの奇妙さになぜ気がつかない?

 この「記者の目」で書いていないことに私の目は向くわけよ。

 莫大な退職金を払って100人だか200人だか希望退職を募った言論機関ってどう思う? 経営責任を取らない経営陣を放置している新聞社の記者って信用できる? 首相会見の馴れ合いがネットで話題になっているのにひとことも書かない政治部って頬被りして逃げてない? あまりにもつまらないコラムの数々をいつまで載せるんだ? 降版を早めたことは読者に伝えないの? 夕刊の手抜きを始めたことも読者に伝えないの? 

 こんな我田引水自己満足の記事をもう載せるなよ。紙価が下がるだけだ。


  

悪書追放(笑い)

IMG_3385

 こんなのが未だにあるとは。広島・JR海田市駅前で見つけた。ツッコミどころが満載で、悲しい(笑い)。

「悪書など見まい見せまい買わせまい」という奇妙な標語をつくったのが女性なら納得する部分がほんの少しあるけれど、「あんたの旦那も見たことあるでよ」「あんたの彼氏も見よるで」と耳元でささやいてあげたい。男がつくったのなら「お前は見たことないんか!」「見たいと思わんのか!」と聞いてみたい。

 いやそもそも、ここにエロ本をわざわざ入れるだろうか。仮にエロ本をここに入れようとしたら、通りがかりの貴婦人にこう思われるわけだ。

「あの人はいやらしい本をお持ちなんだわ。なんて穢らわしいのっ! キーーーッ」

 その貴婦人が実際はどれだけいやらしい行為が好きであっても自分は棚に上げて眉をひそめるに違いない。そんな危険を冒してエロ本をここまで持ってくるだろうか。駅前だぞ。

 なお、私にとっての悪書は数学の教科書である。あるいは買って読んだけれど私には役に立たなかった数学の参考書の数々である。科学の教科書も悪書だった。そういえば全巻そろえた本多勝一さんの『貧困なる精神』は全部捨てたけど、あれも悪書の一種だな。

 大学時代に持っていたエロ本は理工学部の友人にプレゼントして喜ばれた。捨てるくらいなら友人にあげるのが男の友情というものだ。

 思い出したことがある。福島県政を担当していたころだから1992(平成4)年のことだ。本屋でえげつないエロ本が売られていて、それを問題視する人たちがいた。

 県の何課だったか、取材で回っていたとき、彼らは私にエロ本を開いて示し、「こんなにひどい内容なんですよ」と顔を歪めて訴えた。いやがる女性を犯すような構図のエロ本だったと記憶する。

 神がかったように真剣にチェックしている県職員を見て、私は激しい違和感に襲われた。一部の本屋に置いてあるエロ本を規制することの効果が私には全く分からなかった。モグラ叩きにもならない。人間が普通に持つ性欲に向き合いもせず、見せなければいいというその場しのぎを真面目にやっている姿を笑っていいのか疑問を呈するべきか一瞬悩んだ。

 その後たまたま県職員向けの社内報みたいなものに何か書けというリクエストを受け、特にネタがなかったので、そのことを書いた。今ならもう少しやんわり書くだろうが、当時20代後半の私は手加減を知らなかった(笑い)。原稿の書き直しを求められることなく、そのまま載った。よくぞ載せたなと感心する。

 書かれた課は猛反発したようだ(当たり前)。広報広聴課から「次号で反論が出ます」と告げられ、面白いことになってきたとワクワクした。福島面で徹底討論企画をしよう。こう思っていた矢先、『サンデー毎日』への異動の内示が出た。

 悪書追放の箱を見て福島時代を思い出したのは「小手先」つながりだろう。今の時代インターネットにはもっと露骨な膨大な映像が漂っている。映像だから動くし声も聞こえる。単なるエロ雑誌より表現が豊かなのである。それが無料なのだからエロ本なんかに目くじらを立ててもね。

 ネットに漂うエロ動画を福島県職員ならどうする? 本屋に並ぶエロ本なら撤去を求めれば済むけれど、ネットに対してはどうしようもないだろう。小手先の限界なのである。そこでどれだけ頑張っても、抜け道は山のようにある。竹槍でB29を落とそうとするような、猛火に包まれた1万戸があるにもかかわらず目の前で燃える新聞の束にコップで水をかけるような、著しい勘違いが当時のエロ本叩きだった。

 悪書追放箱はスミソニアン博物館にでも寄贈すればいい。

このオチは駄目でしょう朝日新聞論説委員吉岡桂子さん

IMG_3372

 私は『朝日新聞』の「多事奏論」のファンである。しかし2月22日付朝刊(東京本社版)の「隠される情報 声をあげなければウソは続く」はいただけない。編集委員・吉岡桂子さんのイイタイコトに賛成だし、全く異論はない。

 ところが、である。《私は声をあげるひとりでありたい》という結びの一文は最低だと言わざるを得ない。

 私の分類では「決意表明」に入る。この手の決意表明は特に報道業界で時々見かける奇妙な鼻息である。

 それ、あなたの仕事でしょ。《声をあげる》のは、会社からお金をもらってやっている仕事でしょ。やって当たり前でしょ。

 駆け出しの記者が「記者の使命」とか何とか息んで書く気持ちは分からないではない。しかし業界の外から一読者として読むと異様なのである。「それ、あんたの仕事やんけ」と言いたくなるのである。

 この手の決意表明は取り扱い要注意だと各社の新聞用語集に載せておくほうがいいね。

アマゾンのドメインで送ってきた偽メール

IMG_3369


 こんなメールが来た。

・・・・・・・・・・
 クレジットカードでのご入金頂き、誠にありがとうございます。

処理日
2020年2月21日 3:40:25 JST
購入額
262,622 円 (税別)
お支払い方法
クレジットカード

Amazon Pay注文番号
P49-8808070-4851554
販売事業者お問い合わせ先
Apple Store
info@apple.com

販売事業者ご注文番号
5-90332575
・・・・・・・・・・

 ニセモノだろうと思って、返信にして相手のメールアドレスを見たところ、アマゾンのドメインである。え? ほんものなのか?

 アマゾンに電話をかけて聞いてみたところ、偽メールだと言う。しかし、アマゾンのドメインでメールが来たのはどういうわけだ? アマゾンからは明快な答えがなかったので、分からんのだろう。

 今までは変なメールは返信にしてそのドメインを見ることで偽メールかどうか判断できたのに、ドメインからなりすましができるのなら引っかかる可能性がある。油断ならんなぁ。



確かに「意味のない質問」で

 辻元清美さんの罵詈雑言は軽く、「意味のない質問だ」とやじった安倍総理もまた軽い。安倍さんのやじを鬼の首を取ったように騒ぐ辻元さんは見苦しく。何か証拠を見つけて安倍さんを追及するならまだしも。

 辻元さんが言葉遊びの瞬発力に優れているのは認めるが、お遊びの域を出ない。追及するなら証拠を出して迫らないと。それが追及の基本ではないか。安倍さんのキンタマを握っていないのに声高に批判を繰り返すだけでは説得力はない。彼女がよく頑張っているとは逆立ちしても思わない。

 軽薄な扇動はうんざりだ。だからといって安倍ちゃんがいいとは思っていないが。

 

福島県警ヘリは「墜落」したのか「不時着」したのか?

IMG_3353
 テレビニュースを見て「あー」と声が出た。福島県警ヘリが畑に転がっている映像である。30年前に福島にいたころ上空でよく見かけた県警ヘリの後継機だろうが、あのヘリも確か「あづま」だった。

 民放は「墜落」と報じた。そのあとのNHKの昼のニュースも確か「墜落」としたが、そのあとのニュースでは「不時着」と報じた。『毎日新聞』夕刊(東京本社版)4版は「墜落」とし、翌日の朝刊は「不時着」と書いた。

『広辞苑』第7版によると、墜落は《高い所からおちること。「飛行機が―する」》。不時着は《航空機が、飛行中故障または燃料の欠乏などのため航続不能となり、予定しない時、予定しない地点に降りること。不時着陸》というのが語釈だ。

『新明解』第5版は、墜落を《航空機や高所に居た人などが、バランスを失って空中を落下すること。[――事故]》、不時着を《航空機が、故障その他の事故により、初めに予定した以外の地点や時刻に着陸すること》と語釈をした。

 どちらの辞書も「墜落」は物理的な落下とし、「不時着」は理由と結果の因果関係まで言及している。しかし、どれだけ読んでも具体的な違いが分からないし、実際航空機事故の場合は例えば「日航ジャンボ機墜落」などと「墜落」を用いてきた。

 手持ちの共同通信の『記者ハンドブック』第13版には単語すら載っていない。書き分けを前提とした単語ではないか、誰も考えたことがなかったか。私は後者だと思う(笑い)。

 ここで敢えて2つの単語の差異を現実から探すと、「不時着」には生存者がいる場合を指すのではないかという感じがする。いや、そうなるいと「日航ジャンボ機墜落」だって4人の生存者がいたから、生存者で線引きするわけにはいかない。

 あらためて新聞の写真をよく見る。機体は散り散りになってはいない。ローターは折れているけれど、ヘリの原型をとどめていると言っていいだろう。とすれば、「墜落」と「不時着」の分水嶺は機体の状態か。

 今後の『広辞苑』に期待しよう。

人間の性は善なりか

 
IMG_3352

 かんぽ生命のデタラメ悪質販売問題は終わりが見えない。きれいごとは何とでも言えるし、何もかんぽ生命に限った話ではない。

 私に言えることがあるとすると1つか。

 それは、人間は弱い生き物である、ということだ。おなかを空かせた一文なしの私の前にソーキそばが出されて周囲に誰もいなければ、私は食い逃げをするであろう。半径100キロメートルに国仲涼子ちゃんと私しかいなければ、私は迫り続けるであろう。一文なしの私の目の前に1億円が落ちていて周囲に誰もいなければこっそり持ち帰るであろう。

 私だけが弱いのかもしれないし、私だけではないかもしれない。性善説や性悪説があるけれど、私は性弱説を唱えよう。性弱説の始祖の地位は私がもらった。

 念のためにネットで「性弱説」で検索したら、出るわ出るわ。何だ、大勢が似たようなことを思いつくんだな。『朝日新聞』の「天声人語」でも性弱説という単語をとっくに使っているからもう終わっている。


 

誰のせいでもありゃしない?

 東京・品川のいつものセブンイレブンでチョコレートとコーヒーのラージサイズを買った。レジでお金を払い、コーヒーカップを受け取ったのだが、カップが小さいつまり普通サイズではないかと感じた。

 コーヒーマシンの横にいた女性スタッフにカップを見せて、聞いてみた。
「これ、大きなサイズですか?」

 女性スタッフはカップを持って一瞬眺め回し、太鼓判を押した。
「そうです」

 お墨付きをもらった。それでも私は不審である。大きさが違うように感じてならない。女性スタッフが認めたのだから仕方ない。首をかしげながらカップをコーヒーマシンに置き、ラージサイズのボタンを押す。

 コーヒーはカップになみなみと注がれ、あふれる手前で止まった。そらみたことか。このカップは普通サイズではないか。

 隣でコーヒーを入れていた男性が私を不正の目で見る。要するに、普通サイズをレジで注文して、コーヒーマシンでラージサイズを入れているというわけだ。確かそんな阿呆なことをして見つかった自衛官が最近いたなぁ。

 でも私は違う。レジで「キリマンジャロの大きいやつ」と言ってお金を払っている。

 こぼれないように作業場に持ち帰り、クシャクシャにしてポケットに入れていたレシートを見てみた。そこには「レギュラー」の文字が。

 つまり私は100円で150円のコーヒーを持って帰ってしまったのだ。買ったのがコーヒーだけなら金額で誤解がすぐに分かるのだが、今回はチョコを買ったばかりに私の暗算能力を超えてしまった。

 さて。この問題を解決するためにはどこまで遡るべきなのだろう。


 

 

河合議員夫妻の記者会見の時間

 事務所に広島地検が家宅捜索に入った夜、河合議員夫妻が個別に会見に応じたのだが、その時間が不可解というか、意図的に見えた。

 地検は午前中。会見は22時過ぎ。

 これ、会見が遅すぎないか。そこで「ははーん」と思った。

 私の邪推はこうだ。地元広島の『中国新聞』の早版の締切時間が22時(私の完全な推測)をやり過ごして、NHKの21時のニュースの時間帯を避けて、当日の報道をできるだけ減らそうと狙ったのである。

 邪推ではあるものの、核心を突いているとヒソカに思っている。私が相談を受けたら「会見は23時に設定しましょう」と耳打ちするもんね。だから同じ手の内だなと思ったわけ。

 河合議員夫妻の報道は翌朝から一斉に始まったから、夜遅くの会見がどれだけ効果を上げたかは別問題だが。

10キロおじさんは病気では?

 世の中の困った人をテレビが面白おかしく取り上げるけれど、病気ではないかと思うことが時々ある。血相変えて近所の人にイヤガラセをしていたオババとか、最近の10キロおじさんとか、どう見ても変ではないか。

 10キロおじさんは私には痴呆に見える。私は医者ではないので何の診断をする知識も技術もないのだが、言っていることがおかしいかどうかくらいは何となく何となく感じる。

 精神科医に取り上げていいかどうか意見を聞いてからテレビ放送の可否を考えているのだろうか。それくらい慎重であっていい。

 

選ばれなかった『日本経済新聞』のなぜだ

 選ばれると不名誉だが、選ばれないのもちとクヤシイ。ゴーンさんの会見を日本の報道会社が見るとこんな感じだろうか。

 選ばれたのが『テレビ東京』というのは納得だ。あの会社はジャーナリズムなどないもんな。次に『小学館』というのは正直よく分からない。『週刊ポスト』がへつらってきたのだろうか。まぁ、ジャーナリズム体質は弱い会社だからな。

 しかし一番分からないのが『朝日新聞』だ。「ゴーン被告、レバノンに逃亡」という見出しでも分かるように報道は厳しかったし、バリバリのジャーナリズム体質なのになぜ。

 一方、歯噛みしたのが『日本経済新聞』だろう(笑い)。「ゴーン元会長、無断出国」という見出しは『朝日』に比べるとゴーンさんに180度甘い。それなのに、子会社の『テレビ東京』が選ばれて何でうちが選ばれなかったのかと憤まんやるかたない思いになっているはず。「日本の経済ならうちが一番」という自負もあるだろう。それだけに外野としては面白いのだが。


 

『天声人語』は和歌が分からん

IMG_3322
 人工知能(AI)が俳句を作っていることを紹介して《成長が楽しみでならない》という陳腐な結びをしたのが1月4日付『朝日新聞』の「天声人語」だった。この結びを読んでがっかりしたのは、俳句や和歌(短歌)への底の浅い視座が見えたからだ。

 AIが作った俳句(やたぶん三十一文字)に(も)好感を寄せるこの姿勢はダッチワイフを抱いて射精するのに近い。

 性癖はいろいろあっていいけれど、恋愛や性交は人間相手にしたい。私はね。目の前にダッチワイフを置かれても興味は湧かない。なぜなら人間ではないからだ。

 俳句や短歌が面白いのは、技巧に凝ったり架空の話を作ったりしながらも作者の素顔がほんの一瞬見え隠れするからではないか。先日読み終えた池澤夏樹編集の『日本文学全集』第2巻のどこかでも誰かがそういうことを書いていた。

 AIが技巧に凝った俳句を作れば人間のにおいをさせることができるだろう。人間が作ったのかAIが作ったのか判断できないだろう。しかし、なのである。私はダッチワイフを抱きたくない。俳句を製造するAIの成長が楽しみとも思わない。そこに生身の人間がいないからだ。

 ダッチワイフではなくアニメのキャラクターでも私には同じ。人間が生む感情にしか私の感情は動かない。

日経VS朝日毎日読売産経東京

IMG_3316
 どうもよく分からない。ゴーンさんの肩書きである。『日本経済新聞』だけが4日付朝刊でも「元会長」としている。他紙は「前会長」だ。

「元」と「前」の違いなど読者にはどうでもいい話だろう。しかし、これを間違えると普通は死ぬほど怒られるところだし、位置づけもずいぶん変わってくるから、私は気になる。『日経』は「前」を「元」に含む表記ルールなのだろうか。


 

新幹線の荷物の置き方に異議アリ

IMG_3296
 外国人旅行客(インバウンドとかいう阿呆な言い方を私はしない)はひかりとこだまを格安で乗ることができるので、始発駅以外から乗ると大変な事態になる。すなわち、棚が大型スーツケースでいっぱいで、私の小型スーツケースとリュックを置く隙間がないのである。

 と同時に、小型や中型のスーツケースの置き方にも問題がある。私は縦に置くのだが、ほとんどの人は横に置く。横に置くとほかの人のスーツケースを置く空間が減ることが分からないようだ。

 上の写真は珍しいので撮った。縦に置いたスーツケースが3個並び(これは私が推奨する置き方)、手前のスーツケースが横置き(配慮ができない人の置き方)。通常はこの横置きのスーツケースがぎゅうぎゅう詰めに並んでいるので私はいつもがっかりする。

 スーツケースの置き方をJRが指導するしかない。私がこんなところでぼやく前に気づけよJR。

元農水相事務次官の長男殺人と『子供たちの復讐』

IMG_3272

 元農水相事務次官が長男を殺した事件の報道を見聞きしてすぐに浮かんだのが『子どもたちの復讐』(朝日新聞社、1986年)だった。

「開成高校生殺人事件」(1977年)と「祖母殺し高校生自殺事件」(1979年)を上下巻でまとめた本多勝一さんのこの単行本を私は今も持っている。下巻には祖母を殺して自殺した早稲田高等学院高校のAが書いた遺書が載っていて(文庫本化されたときは削除されていた)、「学歴」だの「エリート」だのに対して異様に負荷のかかる家庭環境や青年になった男に対して家族が距離の取り方を誤ると人間の人格を破綻させうると知った。

 元農水相事務次官の殺人事件はお嬢さんの自殺という衝撃的な話が裁判で出てきたこともあり、何となく世間の同情を誘った。

 しかし、それでいいのだろうか。長男が適応障害になったという理由で事件の幕を下ろすのではなく、何がどうなってなぜ間違ったのかを報じる記者はいないのか。本多さんが取材したころと違って今はプライバシー保護がやかましく言われるけれど、元事務次官に同情する前に殺された長男に同情を寄せるのが筋ではないか。似たような惨劇を何度も繰り返さないよう、家庭で何が起きてきたのかを共有する価値はあると私は思うのだが。

合意の有無は「薮の中」だが

 元TBS記者の会見を見る限り、私は“合意”があったのではいかと思う。女性が酔っていたのでその記憶が飛んでいるのではないかと思う。芥川龍之介ではないが真相は「薮の中」と言わざるを得ない。

 問題は合意の有無ではない。

 問題その1。就職活動中の女性を元TBS記者は気に入ったのである。だから寿司屋に誘ったのである。これが男性だったら寿司屋に誘っただろうか。

 問題その2。酔いつぶれた女性をホテルの同じ部屋に連れ込むのは私の感覚では絶対にあり得ない。客観的に申し開きできないではないか。李下に冠を正さず。自分の身を守る基本なのに。

 問題その3。TBSへの就職の相談に来た女性のTBSへの熱意を元TBS記者は自分に気があると勘違いした。その気持ちは分からないではないが、男が陥る勘違いの典型例だ。

 元TBS記者が女性を真正面から口説いていれば、女性から拒否されるなどしただろう。

 飲まずに口説け。


 

 

 

“改革”すればいいというものではない大学入試

IMG_3270

 大学入試センター試験の出題内容を変えることで英語の聞く読む話す書くの4能力を云々という話や国語と数学の記述式の採点をアルバイトにさせる話などで生徒を混乱させた。

 偏差値(ここでは旺文社のイメージ)が55以下の子供たちは振り回されるだけで、この“改革”は落ちこぼしをさらに増やす。成績が伸びない子供たちを塾や予備校で教えてきたので、そういう子供たちがさらに自信をなくす姿が見える。

 どうしてもやりたいのなら、この“改革”に賛同する国公立大が2次試験で科せばいい。私立もやりたければやればいい。教員が採点するのだから答案について複数の教員が採点することもできるだろう。

 学校の成績が真ん中から下の子供たちを切り捨てる“改革”のどこが改革なのか。“改革”したがる人の目にはそういう子供たちが見えていないのではないか。


 

「人情」ねぇ

IMG_3248

 人情商店街と自称する感覚が私にはこっ恥ずかしい。第三者が「あの人は人情がある」などと言うならまだしも、自称する商店街やそれを持ち上げて伝えるテレビは、見てはいけないものを見てしまったような恥ずかしさがある。

 例えば芸人が「人情マツモト」などと名乗ったらギャグだと受け止められるだろう。企業名に「松下人情企画株式会社」なんてのがあったら人はやはり笑うのではないか。履歴書で自分の長所欄に「人情家」「人情深い」などと記したら落とされるだろう。商店街なら「人情」をつけていいという理屈はない。

 人間にとって人情がとても大事な要素であるのは間違いない。しかし「人情」の二文字は取り扱い方を誤ると間抜けたことになる。私が非情だからこんなことを思うのだろうけど。

沢木耕太郎さんご乱心?

IMG_3244

 あの沢木耕太郎さんが11月24日付『日本経済新聞』に「午後の異邦人」と題するエッセイを書いていて、それをノンフィクション作家・中原一歩さんが目に涙を溜めて抗議している=12月2日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)文化面「このごろ通信」。

 何でも田園調布に向かうバスの外国人の多さを見て《非白人に対する警戒心と防衛本能のようなものが発動されているように感じられるのだ》とし、《バスに残っていた二人の日本人が途中の停留所で降り、運転手がバックミラーでちらりと車内を見る。すると、そこには外国人しか乗っていないことに気づき、愕然とする……》でエッセイを締めくくったそうな。

 中原さんは《最後の「愕然」という言葉に、沢木さん、それはないよと、憤慨してしまった》と記す。

「愕然」の意味は『広辞苑第7版』によると《ひどくおどろくさま》、『新明解第5版』によると《意外な知らせを受けて(事実を知って)ひどく驚く様子》だ。これだけを見ると、沢木さんの「愕然」に違和はない。

 しかし『深夜特急』という名著を記した沢木さんの表現だからこそ中原さんは驚いたのである。つまり、かつて異邦人だった沢木さんなら日本で見かける異邦人に対してただ驚くという反応以外の反応があってしかるべきではないか、ということだろう。日本に来た外国人に対する温かい目が全く感じられない、ということでもあるだろう。

 原文を読んでいないので(『日経』を探して読めよ)これ以上踏み込めないが、沢木さんが言葉足らずだったのか年老いたのか。いずれにしても、沢木さんの不十分な表現を取り上げた中原さんの感覚が素晴らしい。こういうコラムを書くことができる社員記者がなぜいないのだろうか。高給を食むと動きが鈍るのかもしれないな。

『毎日新聞』で沢木さんに取材を申し込むなどして追究すれば面白い記事になりそうだ。

120歳まで生きたくないな

「医者が考案した長寿味噌汁」とか何とかいうような本があって、何の証拠もないのによくまぁこんな題名を許したなぁとアキレス腱。最近は「120歳まで生きるロングブレス」とか何とかいうような本が化粧直しをして再登場している。

 どこまで長生きしたいのだろうと私は首をかしげる。

 長生きして何かいいことがあるだろうか。親が死ぬのは順番だからいいけれど、友人が死ぬ。配偶者が死ぬ。子供が死ぬ。孫が死ぬ。長生きしたために逆縁に遭ってしまった人を私は何人か見ていて、その心中を察するにあまりある。

 みんなでお手々つないで長寿というわけにはいかない。自分だけが長生きしたら地獄ではないか。そこまで考えた上で長生きしたいかどうか考えるほうがいい。
読者のお言葉
月別分類
略歴

ニシノ説論者

ニシノ書店