同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

疑問

「中秋の名月」はいつまでか

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 月を見上げるより、お金が落ちていないかと下を見て歩く私が、そうだそうだ中秋の名月を見ておこうと思って21日の21時前に南の空を見たらいい塩梅に見えた。iPhoneで撮ったのがこの写真だ。

 翌22日の朝5時20分に外に出たら、西の空に月が見えた。中秋の名月を2度味わうことができて何だか得をした気分である。と思った直後に疑問が浮かぶ。この月も「中秋の名月」なのだろうか。いったいどこからどこまでが「中秋の名月」なのか。

 国立天文台のサイトは《2021年の中秋の名月は、9月21日です。「中秋の名月」とは、太陰太陽暦の8月15日の夜に見える月のことを指します》と記す。ということは、22日早朝に見た月は「中秋の名月」ではない、ということになる、のか。もっといえば22日の0時0分0秒になった瞬間に「中秋の名月」ではなくなるのか。

「中秋の名月」という見方は平安時代に中国から伝わったそうだ。日本と中国北京の時差は1時間。ということは、日本の22日0時59分59秒の月は中国では21日の23時59分59秒の月である。日本では「中秋の名月」ではないが、中国ではギリギリ「中秋の名月」なのか。うーん、分からん。


 

五輪観戦を楽しみにしていた人の怒り?

 五輪の中止(延期含む。補償あり)派の私なので、それみたことかの感染急拡大と4回目の東京緊急事態宣言である。

 緊急事態宣言によって無観客開催になりそうだという報道の中に、チケットを手に入れている人の「腹が立ちます」という声がある。うーん。そこか? そこを言うか? それを報じるか?  

 感染急拡大に伴う緊急事態宣言で死ぬ思いをしている人たちがいるのに、そんな人の「腹が立ちます」って何だ? もちろん「腹が立ちます」自由はある。いろんな立場の人がいるから、そこはそれぞれの思いがあっていい。

 しかし、私なら敢えてそこは報じない。「腹が立ちます」の人を守るためにも。

さすまたは難しいのか

 鉄パイプを振り回す上半身裸男を捕らえようとした神奈川県警警察官の1人がさすまたを持っていた。どう使うかと期待して見ていたところ、鉄パイプ男の足元に転んでしまった。

 なぜに? 

 さすまたを持っていながら、なぜに接近戦になって、しかも転んだのか。市民に映像をバッチリ撮影されてその映像をテレビ各社が放送したからさぞかし肩身の狭い思いをしているだろうが、なぜさすまたを活用できなかったのか知りたい。

 対象者の背後から盾で押し倒すワザに違和感はなかったが、初めて知った警察の逮捕ワザは「倒れた対象者の足を持ち上げる」だった。そこまでやるんだなぁ。

 で、さすまたは? それなりの接近戦を強いられるので、捕捉できないと逆に命取りになるのではないかという疑問を持っているので、なぜに失敗したかを知りたい。


 

  

『朝日』近藤康太郎さんのコラム再び

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《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と書く近藤さんは高給取りの朝日新聞記者である。社会的地位も賃金も非常に高い朝日新聞社を辞めてから言うべきセリフだと気付いていないのだろうなぁ。本物の百姓・猟師に失礼だと思わないのだろうなぁ。「百姓」という『朝日』でも不快語と指定されているはずの単語を意図して使うあざとさにも気付いていないのだろうなぁ。自分の小賢しさに気づいていないとしたら書き手としては致命的である。

《文才は確かにあったけれど、人間としては尊敬出来なかったな》という自分への評価を紹介して、《人物眼は、ある》とおどけてみせたが、文才は否定していない(笑い)。どんな文才なのか、私には分からない。自分を持ち上げる誰が書いたか分からない文章を新聞に紹介するのが果たして文才なのだろうか。朝日新聞記者のくせに、それを読者が分かっている場所で、恥ずかしげもなく《わたしはど田舎の百姓・猟師であるからして》と嫌らしい書き方をするのが文才なのだろうか。まさかと思うが《であるからして》が文才なのか。だとすると、文才の定義を私は全面的に変えなければならない。

 新聞社に勤めて高給をもらいながら自社の新聞に書くコラムは非常に難しい。私がブログに地味に書き綴る自分を落とすネタや下ネタは新聞に書くネタではない。記者より知識も経験も豊富な読者が多いから中途半端なネタなら失笑を買う。そこで取材したネタに落ち着く。無難なのである。もちろん書き方で差がつくけれど。

 近藤さんのこのコラムは確か6月5日付け朝刊だったと思うが、他社の記者にも文章の書き方を教えているという話だった。自分の技術を抱え込むのではなく後輩や同業者に広めていこう、親切にしよう、という姿勢はいい。しかし、自分のことを例に挙げるのはどうだろう。恥ずかしくないのだろうなぁ。《百姓》だから我田引水はお手の物なのかな。私なら他人に親切にしている人を探してきて紹介するけどね。

 

箱根駅伝アンカー逮捕への疑問

 箱根駅伝を走った大学生(21歳)が18歳未満の少女と性交したとして東京都青少年健全育成条例違反(反倫理的な性交等)などの疑いで逮捕された。大学生は「18歳と思っていた」と供述しているそうな。

 SNSで出会ったそうで、私が若いころにSNSがあれば私だって同じことをしていた可能性は十分ある。若い男の性欲は暴れ馬なのである。乗ったことはない。あくまでもイメージね。ヒヒン。

 50や60のおっさんが同じことをしたらアウトだし同情の余地は全くない。しかし21歳の元気な若者である。私は深く同情する。彼が箱根駅伝など関係のない普通の大学生なら全国に報じられることなどなかっただろう。

 金銭の授受はなかったそうだから、純粋な(純粋な?)性欲の処理である。有名税にしては重すぎないか。

 私が大学生のころそんな条例はなかったから、女子高生とセックスしても何の問題もなかった。それだけになおさら今回の逮捕と実名報道は解せない。

 胸を張ってきれいごとを言うことのできる男が一体どれだけいるだろうか。


ワクチン接種は薬剤師の仕事から遠い

 なんで薬剤師が出てきたのかワケが分からない。新型コロナワクチンの打ち手が足りないということで薬剤師が挙がっているというのだ。

 注射を打ったことのない人間に打たせるのか? 無謀と言うほかない。

 薬剤師より適役はいくらでもいる。すでに試行されてるように、まず歯医者だ。歯ぐきに注射を打つことができるのである。私など想像するだけで卒倒する。その辺の医者より能力が高いのではないか。

 次は獣医師である。動物相手に注射を打ったり採血したりしているので、経験豊富と言える。

 さらに検査技師を忘れてはならない。注射は打つことができないが、採血はしている。そのそも注射器を持ったことのない薬剤師より圧倒的に信頼できる。

 というわけで、薬剤師は本業をやってもらえばいい。温度管理を失敗してワクチンを駄目にしてしまう事例が発生しているが、薬剤師が管理していればこんなことにはならないはずだ。大病院ではダブルチェックやトリプルチェックをしているようなので、ワクチンも複数で管理する態勢を取らせよう。

 基本は適材適所である。

無理のある言い訳

 高齢者優先なのに新型コロナワクチンを茨城県城里町の町長(42歳)や兵庫県神河町の町長(62歳)が受けた。

 スギ薬局の会長夫婦も抜け駆けしようと横車を押して発覚、謝罪に追い込まれた。

 何と言うか、こういう時に育ちの悪さが出るように見える。お里が知れるというやつである。逆に言えば生命力がある。船が沈むとなれば、こういう人は他人を蹴落としても生き残ろうとするだろう。

 私はスギ薬局で買い物をしてきたが、今後一切買わない。私ひとりの不買運動である。河野太郎さんではないが、ごまめの歯ぎしりである。

 上記の自治体の選挙権がないので何もできないが、次回の選挙結果を見る楽しみはできた。

 さて。こういう情けない人たちを見るたびに思い出すのが船長である。船長と言っても船が沈むときに最後まで残るという条件がつく。裏を取っていないので実際はどうなのか分からないがブータンの若い国王は「最後に接種する」と言っているとか。

 組織のトップに立つ資格のない人たちがトップに立つ組織は不幸だな。

 当たり前のことを当たり前に書いてしまった。オモロない。

 

 

東京・江東区医師会のワクチン接種混乱の愚

 新型コロナワクチン接種を東京・江東区の医師会で受ける医療従事者に混乱が生じている。

 2回目の接種は1回目の接種のちょうど3週間後がいいと言われているのに、その2回目の接種の予約が3週間後以降でないと確保できない人が出ているのだ。2日ズレのほか6日ズレの人までいる。

 何でそうなるのか? 6日もズレた接種で効果はあるのか?

 1回目の接種のときにその場で2回目の接種の予約を受ければ済むのに、翌朝9時からネットで申し込むしかない。

 何でそうなるのか?

 朝の9時ちょうどにネットにログインすると、1回目の接種をしたことが反映されておらず、2回目の予約ができない。

 何でそうなるのか?

 アレルギー症状などがある医療従事者は希望すれば総合病院で接種することができ、前もって2回分まとめて予約できる。さらに言えば江戸川区などは一般の人でも2回分まとめて予約できる。

 医療従事者を対象とした医師会でさえこれである。地域差や組織差の運不運があるようだ。先が思いやられる。

 なお、江東区で接種を申し込むための電話がつながらず、1日に300回近くかけ続けてようやく予約できた人がいる。江東区の人はタイヘンだ。


 

 

まずくないのかTBS?

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 5月10日のTBS「あさチャン!」のクイズ、まずくないのか?

 母とパパで家族という図式である。父親か母親のどちらかと暮らしている子供にとっては心痛む設問のはずで、あるいは同性婚で子育てをしている家族にとっても。

 こういうことに繊細になっている時代にこの設問は無神経と言うべきではないのか。しかしその後どこも問題にしていないようだ。もともと問題ないのか、私が過敏なのか、視聴率が低い番組だから見逃されたのか。

 よく分からないが、TBSがこれではまずかろう。というわけで記録しておく。

「医療崩壊」は病院の外で起きている

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 医療現場が危機だとか極限状態だとか報じられているが、大阪では入院できない人が10人以上自宅で亡くなっているのに「医療崩壊」ではないのか。医療を受けることができずに亡くなる人が出ているのに「医療崩壊」と言わないとしたら、「医療崩壊」という言葉は欺瞞である。

 病院が「もう受け入れる余裕がない」と新規の患者を断っていれば、その病院では表面上は「医療崩壊」は起きていないことになる。しかし入院できず医療を受けることができずに死ぬ人がいるまさしくそこを見れば、「医療崩壊」は病院の外で起きている。

 必要な人に必要な医療が受けられない状態を「医療崩壊」とすべきである。



 
 

自分に酔った都知事が「人流」と言うのは勝手にどうぞだが

「人流」という表現に違和感を持つ人が一定数いて、ほっとする。私の把握が正しければ東京都知事が言い出した。都知事のことだ、「じんりゅうって言い方をする私、かっこいいわん」と自賛して酔っているのだろう。

 それをあろうことかNHKが使い、新聞も使い、私は「この阿呆どもめ」と毒づかざるを得ない。特にNHK。目の不自由な人が「じんりゅう」という音を聞いて「人の流れ」だと分かると思うか?

 知事が使おうが誰が使おうが、明らかに変な言葉は“訳する”のが報道機関の仕事の1つではないか。垂れ流しなら小学生でもできる。これでは誇りも脳みそもない。

 正気に戻って「人の流れ」と言い換える報道機関がいずれ出てくるだろう。それがどの社なのか、ヒマではないので注目しないが、さっさとしなさい。

森さんの脳みそは撤回できない

 これが国内の行事だったら、ここまで大きくならなかったかもしれない。今回はオリンピックである。このような問題に鋭敏に反応する海外が黙っているわけがない。国内の問題ではなく、日本人はこの問題をどうするのかと世界から問われているのである。

 時代についていくことができていない森さんが世界規模の行事の先頭に立つのは無理だった。いくら調整能力があるとか余人を持って代えがたいとか政治家が言っても、政治家が信用されていないのだから説得力がない。

 発言を撤回しても、その脳みそは撤回できない。森さんの孫娘が道理をもっておじいちゃんを諫め、説得していることだろう。ここは孫娘さんに期待したい。


 

なぜそんな場所に引っ越すのか?

 新型コロナ騒動の影響で、都会から少し離れた場所に引っ越す人が増えているそうな。私は30年前から「都会から少し離れたところ」に住んでいるので何を今さら(笑い)。

 しかし、である。都会から少し離れたところでも、住んでいい場所と住むべきではない場所がある。私なら例えば小田原や熱海、三浦半島、千葉県の太平洋側には絶対に引っ越さない。なぜに好き好んでそんなところに引っ越すのか理解できない。

 大地震が来るのは間違いない。富士山はいつ噴火しても不思議ではない。そうなったときの被害を想像すると、被害想定区域からできるだけ早く脱出すべきではないか。もちろん持ち家やマンションは売る。「傾いたこのマンション、どうすんの?」という事態を想像すれば分かるだろうに。

 最悪の場合売ることも建て直すこともできない家やマンションが数多く出てくるわけで、逃げるなら早いほうがいい。なのにそういう場所に引っ越してきたり、家やマンションを買ったりするのは無謀というか無知というか命知らずというか。いったい何なのだろう。不思議でならない。

 

新型コロナウイルス騒動のあとに来る世界

 アフターコロナだとか元には戻ることができないとか刺激的な話が出回っているけれど、そうかなぁ。もちろん不要なもの(毎日の通勤など)はほんの少し減るかもしれないが、ほとんど元に戻ると私は見ている。

 人間は人間に会い、話し、一緒に飯を食い、口角泡を飛ばして議論し、抱き合い、一緒に踊り、一緒に笑い、一緒に泣き、というこれまでの営みがどれだけ楽しくて大事で根本的なものであるか、ということに気づく。

 遠方の取引先とズームで会議をすることが基準にはならない。新型コロナ騒動が落ち着けば、かつてのように新幹線に乗り、飛行機に乗り、会いに行く。会わないと見えないことがいっぱいあるからだ。

「会うっていいよね」「やっぱり会わないと駄目だよね」と言葉を交わす日が来る。新型コロナ騒動が人類に気づかせたのは「人間は会うことが大事」というごく当たり前のことだというのが私の予想である。

菅さんと蓮舫さんの発信力

 蓮舫さんが菅さんの発信力に「言葉が伝わらない」とイチャモンをつけた。菅さんは「失礼じゃないですか」と反論したが、怒髪天を衝く勢いではない。あれが菅さんの表現方法なのだろう。

 裏で官僚の人事に首を突っこんでいろいろ動かしてきた政治家が表に出てきたのだから、公の場で「言葉が伝わらない」のは無理もない。センエツながら私が菅さんに助言するとすれば「長く語ってみなさい」ということかな。揚げ足を取られまいと身構えて短く済ませるのではなく、長い時間語ってみる努力をしてみてはどうだろう。

 そもそも、である。すらすらと熱く長く語れば言葉が伝わるというものでもない。その典型例が蓮舫さんではないか。蓮舫さんには大事な何かが欠けている。

 言葉を伝えるのはそれほど簡単なものではないし、言葉だけで伝わるものでもない、という大前提に立って菅さんも蓮舫さんもガンバリなさい。




 

 

新型コロナ騒動での自粛はうーん

 悩ましい。私は答えを出せないでいる。「不要不急の外出を控えるべきだ」と言われれば「そうだなぁ」と思うし、「飲食店が潰れてしまう」と聞けば「せめて私の顔を知ってくれている店には行かなければ」と思うし。

 菅首相や石破さん、徳島県知事、長野市長らがこれまでやり玉に挙がってきた。まぁ、批判されるのは仕方ない。しかし、彼らの会食がどこかの飲食店にお金を落としているわけで。ほかの飲食店から「それは不公平だ」という批判が出るのも当然だが、うーん。

 濃淡の両極端に走るのではなく、例えば頭からビニール袋のようなものをかぶって会食するとか、ビニールシートで天井から床まで完全に1人ずつに仕切られた席を店が用意するとか、1人で黙って食べるならOKとか、「それならいいね」という方法があるのではないか。

 零細自営業の私には飲食店の窮状はひとごとではない。そういうわけで、私の顔を知ってくれている店には行かなければ。





 

日本学術会議の問題に世間が関心を示さないのは

 日本学術会議の新会員6人の任命拒否問題について、「世間がわれわれに加勢しない」とか「回り回って自分たちの問題になり得るのに」とかいうぼやきが聞こえるのだが、世間に住む私に言わせるとそれは違う。

 学術会議に所属するような人たちは世間の先頭に立つ人たちであり、世間で起きる理不尽と闘ってくれる人たち、というのが世間(私)の持つ印象なのである。例えればウルトラセブンなのだ(ウルトラマンでもいいぞ)。ウルトラセブンが怪獣に負けているからといって丸腰の私たち一般市民が前に出て怪獣と闘うのはちと勘弁していただきたい。

 学術会議に所属するような人たちはそういう期待を背負っているのである。こういう人たちは理不尽と闘うことが自分の仕事に直結していて、あとで論文を書いたり本を出したりできる。この点が世間の私とは全く異なるところだ。私が学術会議の問題に関わっても仕事とつながらない。そもそも自分の目の前の生活以外を気にかける余裕も知識も体力も時間もない。任命拒否された6人を応援したくても世間が何もできないのはそういうことだ。世間が冷たいのでは決してない。

 学術会議に限らない。報道機関も同じである。ウルトラセブン(ウルトラマンでもい、あ、しつこい?)なのだから。そこを自覚して、跋扈する“怪獣”を退治してほしい。


 

寝床の毛布は

 寒がりなので去年だったかおととしだったか、ものすごく温かいと絶賛されている毛布を買った。

 確かに温かい。掛け布団などいらないくらい温かい。というより熱かった。

 気がつけば毛布を蹴飛ばしていて、薄いタオルケット1枚で震えている。体は冷え冷え。風邪を引くといけないのでまた毛布をかぶって寝るのだが、寒くて目が覚めるとまたいつの間にか毛布を蹴飛ばしているの繰り返し。

 マンション暮らしのおかげで室温がそれほど下がらない。ありがたいことではあるのだが、この環境で温かい毛布をかぶると、毛布の中も体内も熱がこもってしまう。

 夏は冷房をかけて室温を下げて布団にくるまって寝るほうがいいという理屈と同じなのだろう。冬の温かすぎる寝具はかえってよくないとこの年齢になって知ったことにも驚く。


 

メールアドレスを考えるというか

 メールアドレスにはいくつかの条件がある。

 まず短ければ短いほどいい。長いメールアドレスをこちらが打ち込まなければならないことがあり、甚だ迷惑である。@以下も短ければ短いほどいい。

 次にガキっぽさは返上するほうがいい。たまにあるのよ。例えばpokochandaisuki@みたいなのが。私は性格が悪いので、メールアドレスを見て「そうか、ぽこちゃん大好きか。死ね」と鼻で笑う。ちと恥ずかしい。仕事で使う場合は最低と言っていいだろう。恥ずかしいことに気づいていないとしたら非常に恥ずかしい。

 3つめは、えーっと、ない。上の2つを守れば問題ない。

 なお私はhero@というのを最初から使ってきた。これを説明するとき「ヒーローのhero」と言わず、「ヘロインのヘロです」と言っているのは恥ずかしさを隠すためである。

河井案里さんを捉えたNHKの映像

 さすがというべきか、無駄遣いというべきか、相変わらず金に糸目をつけないなというべきか。テレビは映像がないと仕事にならないので気持ちは分かる。分かるのだが、何かもやもやが残るのはなぜだ。

 河井案里さんが東京拘置所から保釈される映像をNHKが21時のニュースで流した。案里さんに向かって左から、正面から、そして右から、それぞれ撮った映像を順番に何度か報じたのは、NHKのどや顔か、はたまたカメラクルーへのねぎらいか。いったい何人現場に出したんだ?

 NHKはすごいなぁ。いい意味でもそうでない意味でも。案里さんは精神面が不安定のようだから、万一に備えてここで映像を押さえておかなければという読みがあったかもしれないが、それにしても。

権力側に付け入る隙を与えるNHKは「ガッテン!」か?

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 総務省の有識者会議でNHKがテレビ設置の届け出義務を課すよう提案した。これが実現したらNHKは国民を敵に回し、権力側にさらにすり寄らざるを得なくなるであろう。記者や制作者ら個人個人が頑張っても組織全体は痛手を負う。

 膨れる営業経費を抑えるための提案だそうだが、その前にNHKがやるべきことがある。

 まず、NHKが最初から映らないテレビの推進である。私はNHK好きだが、世の中にはNHKを必要としない人が大勢いる。恐らく人口の半分くらいは必要としていない。

 次が職員の賃金体系の明示だ。営業経費を抑える前に、その賃金を抑えてはどうだ? 明示すれば日本中からの批判が殺到するだろう。「上級国民」と後ろ指を指されるのは火を見るよりも明らかだ。それでも火の粉を浴びながら進む覚悟があるのならどうぞ。

テレビ朝日開局60周年記念番組の「24 JAPAN」の哀しみ

 米ドラマ「24」の第1シーズン(全24話)にのめり込み、数日で見終えてしまったことがあり、以来第2シーズン以下には近寄らない。中毒性の強さに気づき、怖じ気づいたのだった。

 テレビ朝日が開局60周年記念番組として「24」の日本版を制作した。名づけて「24 JAPAN」。第1話を見てたまげた。心臓が止まるかと思った。

 あらすじも舞台装置もカメラ割りも音楽もほぼ同じ。米国の俳優が演じていたのを日本の俳優が日本語で演じているだけで、あとはほとんど代わり映えしない。小粒感が拭えない。

 テレビ朝日が開局60周年記念番組と銘打ったのがコピードラマだったことに私は驚愕した。コピーしたものをまたコピーしていくと文字が読みにくくなったりして劣化する。コピーとはそういうものなのである。それを60周年記念でやるか普通?

 テレビ朝日のドラマ制作者に誇りがあれば「ワシがオリジナルをつくる」と反対するだろうに、反対しなかったのか? ドラマの視聴率が軒並み落ちているので制作者は減点を恐れて手を挙げなかったのか? 視聴率が伸び悩んでも米ドラマのせいにすればいいと計算したのか? 蜜月時代を築いた石原プロモーションがもはや使えないから万事休したのか?

 コピードラマを流すくらいなら本家本元の「24」をそのまま放送すればいい。こっちが圧倒的に面白いのだから。 

車をどんどんバックさせた嫌がらせは

 車をどんどんバックさせて、後ろの車を運転していた女性に意味不明の難癖をつける人の映像をテレビで見た。最近こういう事案が増えているように感じてしまったが、いや、違う。恐らく昔からあったに違いない。ドライブレコーダーの普及が映像として記録できるようになった効果だろう。

 それにしても、である。車をバックさせた嫌がらせをした人の奇妙な言動を見る限り、何かご病気を抱えているとしか思えない。そこに触れないテレビ番組はずるいなぁ。


 

  

誕生日の公開が基本になっているのは怖いな

 誕生日おめでとうございますと連絡してきた人がいた。残念ながら男である。私は生年月日を非公開にしているつもりだったので驚いた。

 何で知ってるの?

 友人が言うには、LINEに出ていたそうな。

 なにそれ? フェイスブックはずいぶん前に非公開に設定し直した。LINEで生年月日を入力した記憶は全くないのだが、慌ててLINEの中を見て生年月日を非公開に設定し直した。

 IDやパスワードと同じように、登録サイトのログインなどで生年月日が問われることがある。ということは、生年月日をネット上に出すことはIDやパスワードに近い情報を悪意を持つ人を含む不特定多数に対して無防備に公開するのに似ているのではないかと最近思い至った。

 フェイスブックもLINEもほかの何かも、生年月日は原則非公開にして、公開の危険性を本人にしっかり確認したうえで、本人が自分の意思でもって手動で公開する、という仕組みがいいな。

そこにいなくてもそこにいると嘘をつくことができるフェイスブックの位置情報って長いな

 フェイスブックの位置情報は自由自在に嘘をつくことができると聞き、さっそく試してみた。東京都内にいるのに、まずはロンドン、その数秒後にニューヨーク、さらにその数秒後に高野山と瞬間移動できるフェイスブックの位置情報は一体何のためにあるのか分からない。

 嘘をつくことができるので、嘘をつかない私はフェイスブックの位置情報を使わない。という嘘をつく。

 旅行をした気分になるわけではないが、想像の翼を広げるひとときにはなったかもしれない。

りんご便乗値上げしてないか?

 りんごの値段が上がっている。少し前に1個250〜300円ほどだった津軽りんごが、同じような大きさに売れ具合で400円ほど。

 平塚駅周辺のスーパー3店舗がまるで示し合わせたかのように。東京・高田馬場のスーパーは300円だからまだ良心的か。

 野菜の値段が上がっているのに合わせてどさくさ紛れで値上げしてない? 

亡くなった人の顔に白い布をかける理由

 買っていた山羊が死んで顔にバンダナをかけたという話をしたのが知人の住職で、かねてから疑問だったことを聞いた。

 何で亡くなった人の顔に白い布をかけるの?

 理由の1つは「蠅が止まって蛆がわくのを防ぐため」だった。衛生上の理由があったとは知らなかった。そういえば目の縁辺りに止まりそうだもんなぁ。

 あと1つか2つ教えてくれたのに忘れてしまった。もう一回聞いてみなければ。

 私が死んでも坊主不要戒名不要墓不要生ゴミで出せと弟子3人に厳重に申し伝えてあるのだが、この住職になら読経くらいはお願いしていいかもなーと最近思うようになった。同じ年齢だからあちらが先に逝く可能性があるか。いくら女性のほうが長生きだとしても。


 

京都ALS安楽死事件でまた

 東京都内の容疑者の自宅に京都府警が乗り込んで連行する映像をNHKが撮っていたのだからすごい。

 さて。問題はここから。

 逮捕された医者の1人は元厚生労働省の技官。恐らくこの男だろう、『京都新聞』サイトによると《「高齢者は見るからにゾンビ」などとネットに仮名で投稿し、高齢者への医療は社会資源の無駄、寝たきり高齢者はどこかに棄てるべきと優生思想的な主張を繰り返し、安楽死法制化にたびたび言及していた》。

 神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設やまゆり園で入所者19人が殺害され、入所者と職員26人が重軽傷を負った凄惨な事件とつながる。

 高齢者がゾンビなら、私の両親はまさしくゾンビであり、70代は死に損ない、60代はゴミ、50代後半の私はカスということにでもなるか。という具合にどんどん広がると「20代以上は死ね」という風潮になってもおかしくない。

 高齢者や障害者らを大事にできない社会が致命的なのは、その考えが拡大するとほかの人間も大事にしない社会をつくってしまう危険性があるからだ。成功だの成長だの効率だの右肩上がりだのを後生大事にしてしまう社会はそれに従えない人間を切り捨てることにつながりうる危うさを内包する。自分は切り捨てられる側ではないと思い込んでいるらしい人が無神経な発言をフェイスブックに時々載せていて、予備軍の広さを感じる。

 ネット上では早くも今回の犯罪者を尊敬するという投稿が出回っている。こんな社会を私は認めない。

「大金を預けてあるスイスの銀行から連絡は来たか?」と期待させるようなことを言ってボケたあと何年も寝たきりになって意識のないまま亡くなったひい婆さんなど犯罪者にとっては「ゾンビ」そのものだろう。こんなひい婆さんなど捨てろと犯罪者は言うのである。

 やまゆり園事件の犯人はやまゆり園で勤めていたときに同僚たちとの話から入所者は世の中に不要だという考えを芽生えさせた。ということは、もしかしてこの容疑者が勤めた厚生労働省も省内でそういう見方をしていた官僚がほかにもいたのではないか。

 人間社会の根幹に関わる重大な問題なのだが、官僚や報道機関や学者らが選良意識を持っているとしたら、今回の問題を真正面から捉えることができないだろうし、ひとごとで終わってしまう。

 ALSが問題なのではない。安楽死が問題なのでもない。役に立たない人間は捨てればいいというおぞましい優生思想を持つ人間がなぜ生まれたのか、なのである。

 強制収容所行きの列車を走らせてなるものか。

レジ袋は必要

 近所のセブンイレブンの女性店員さんとは顔なじみで、たまに雑談する。

女性店員さん「レジ袋、必要ですか」

私「ください。一番大きなやつ」

「5円です」

「5円でも10円でもいいんです。一番大きいやつでないと。だってレジ袋ってゴミを詰めるのに使うでしょ」

「そうそう。大きなゴミ袋にゴミを直接入れると見た目が汚いし」

「ね。レジ袋にゴミを詰めて、それを大きなゴミ袋にまとめて入れて、生ゴミの日に出しますもんね。中途半端な大きさのレジ袋は役に立たないんです」

「結局レジ袋の費用をこれまでは店が持っていたのをお客さんに押しつけたかっこうですね」





浴室に長い髪の毛が1本

 広島市の定宿は(1)セブンイレブンが隣にあるので便利、(2)レンタサイクルがあるので助かる、(3)てらにし珈琲国泰寺店が近いのでありがたい、の3点で気に入っている。

 気に入らないのはラップ音がすることだ。夜中に目覚めなければ何も聞こえない。何も聞こえなければ全く怖くない。それなら夜中に目が覚めなければいい。ということで軽い睡眠剤を飲むことにしている。

 で、今月も泊まったのだが、3泊目の朝、変なものを浴室で見つけた。長い髪の毛が1本。一瞬私のかなと思って頭に手をやったが、1週間ほど前に散髪して坊主頭である。

 誰のだ? 

 怖いからこれ以上深く追及しないコトにする。私は掃除不要の札をドアに張ってあるので、外部から掃除の人が入室することはあり得ない。今回はバキッという大きな音が昼間も聞こえたが、何か関係があるのだろうか?

 怖いので、おしまい。  

 

言わずもがなの朝日新聞編集局長補佐

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『大学教授が、「研究だけ」していると思ったら、大間違いだ! 「不人気学科教授」奮闘記』の書評を7月11日付『朝日新聞』読書面で読み、最後の段落で「あーあ」と引いてしまった。

《受験エリートが就職後も開花するとは限らない。大学で受けたはずの訓練で、型通りの成功体験から脱皮できたか否かが、その分かれ目と思えてくる。大学合格は最終目標ではない。教授の奮闘から高校と大学の意義も考えさせられた》

 4つの文のうちの最初の3つの文に私は引っかかった。

 書いたのは朝日の編集局長補佐。間違いなく「受験エリート」だった人である。朝日新聞社が最難関就職先の1つだった時代に入社したはずで、編集局長補佐にまで出世しているのだから「就職後も開花」したと言える。そういう人が言わずもがなのお説教をしてしまった。これを傲慢とか高慢とか偉そうにとか上から目線とか自慢とか人は言う。

 朝日の編集局長補佐ともあろう人が衣の下から鎧がちらつく文章を書いてしまった。この上から目線は朝日社内に蔓延していて誰も問題に気づかないのではないか。

 受験エリートなどではないつもりの私も実は例外ではなく、こういう文章を書いたことが絶対にあるはずで、本当に戒めなければならない。自戒させる名文ではあったな。


 

マスクリンチの時代に

 マスクが嫌いだし右に倣うのがいやなので必要な場所以外ではマスクをしない私は、同じようにマスクをしていない人を見かけると同類かなと一瞬期待してしまうのだが、先日見たテレビではその大半が「マスクを忘れた」と言っていた。なーんだ。

 そんなある日のこと。東京・品川の人通りの少ない通りをマスクを手にぶら下げて歩いていたところ、私を追い抜いていった女性も同じようにマスクを手にぶら下げていた。「マスクは持ってますよ。忘れたわけではありません。でも、ここでは必要ないでしょ」と主張するかのように。

「僕ら、気が合うと思いませんか」

 追いかけていって声をかけようと思ったが、変質者に思われたくないので我慢した。 

 以上前置き。

 それにしても、だ。今のマスク状況でいいのだろうか。

 アベノマスクなどアリバイとしてしか使えないのに、総理大臣が率先してつけているものだからだろう、厚生労働省は「ガーゼや布のマスクは効果がない」と言わない。車に一人乗っている人が律儀にマスクをつけていたり、四方八方に人がいない場所でマスクをつけているこれまた律儀な人がいたりして、熱中症で倒れる人が出てくるまで「王様は裸だ」と誰も言わないのだろうなぁ。

 筋の通らないデタラメな状況がいつまで続くのだろう。国を憂えるのは時間の無駄なので、マスクを手に持って歩く女性を今度見かけたら声をかけてみよう。話が合いそうな気がする(笑い)。

オンライン飲み会は無理という話

 飲む人が言っていた。「ズーム飲み会は無理」と。

「隣の人と話せないでしょ」

 確かに。ズームは誰か1人が話して、残りの人はそれを聞く。発言者はいつも1人に限られる。会議用にはいい。

 これを飲み会で使うとなると2〜3人なら問題ない。しかし人数が増えれば増えるほど無理が生じる。隣の席の人と話す、という小回りがきかない。

 飲み会にせよ集会にせよ、小さな輪でしか人間関係を縮める芽は生まれないのではないか。いいかもと思った相手を誘って二人きりでデートするのと同じだな。

東京の地下鉄で徳島の吊り広告を見たが

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 東京の地下鉄・銀座線で見つけて「おおー!」と声を上げてしまった。阿波踊りなのである。よく見ると徳島県の広告だ。ポスターの右下に小さく「VS東京」と恥ずかしそうに書いてあったので分かった。

 これ、何のために作ったのだろう。税金をどれくらい投じたのだろう。何が言いたいのだろう。私にはどうも分からない。

 このポスターに反応するのは徳島出身者かゆかりのある人くらいだろう。ということは、関東在住の徳島関係者に郷愁をそそらせてUターンさせるのが狙いか?

「コロナ後」と言うけれど

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 新型コロナウイルスの騒動が収まらないのは医学的に解明されていないからであって、ワクチンができたりしてインフルエンザ並みになれば落ち着く。それなのに「コロナ前には戻れない」などと言っている人がいて私は首をかしげてしまう。

 例えば《ソーシャルディスタンスは新しい生活習慣になりそうだ》と法政大学総長が書いていたけれど、新しい生活習慣では決してなく、一時的な約束事というのが妥当だろう。そのそもソーシャルディスタンスだなんて(笑い)。距離と日本語で言えば簡潔で済むものを。

 医学的に解決されれば距離は元通りになるだろうし、マスクだってしなくなるだろう。これらは確かに「新しい」けれど「一時的」だというのが私の見立てだ。

 英国のジョンソン首相が新型コロナウィルス感染から回復したあと「社会は存在する」とサッチャーさん時代からの流れをひっくり返す発言をしたけれど、これなどコロナ前に戻ったとも言うことができるわけで。

 ズームなどのオンライン会議はそもそもインターネット時代の技術の1つだから今に始まった話ではない。アルビントフラーが『第3の波』で予言して30年も経っているし。こういうのを無視して「コロナ前には戻れない」と言うのはあまりにド近眼過ぎて。

 哲学者のハラリさんは新型コロナ騒動を機に国家が個人の管理に乗り出すと警鐘を鳴らしているけれど、イスラエルという環境が大きすぎる。ビッグブラザーはすでに中国や北朝鮮に生息しているのにね。

 地方への移住が増えるだの何だのという報道も見たけれど、私が知る限り、1990(平成2)年の毎日新聞福島面新年企画「新ふくしま人」は都会から福島県内に移住してきた人たちを取り上げたもので、そのころから「若者ばか者よそ者」が地方を変えるなどともてはやされていたことを多くの人が忘れているのではないか。

 昭和の終わりごろ訪ねた竹富島に若い元カメラマンが移住していた。彼は東京でお金をバカスカ稼いだもののそれに疑問を持ったので仕事を置き、自分を見つめ直すために移住してきたというようなことを語っていた。その数年後にバブル経済が崩壊した。

 世の中が少しずつ変わっているのはごく当たり前で、日本で言えば明治時代ごろから分かりやすい姿で続いているわけで、そういう蕩々とした流れを無視して「新型コロナ」で「前」と「後」に区切るのは暴力だし、新型コロナの影響があったにせよ過去に似たような出来事がすでに起きていることを知らずにニュースにしてしまうのも恥ずかしい。医者でさえ意見が分かれる新型コロナウイルスについての発言も井戸端会議ならいざ知らず。

 だからこそ、信頼できる発言者がはっきり浮かび上がってくるのだが。


 

 

テレビ番組は演出がつきものなのに

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 テレビ番組を見た人たちがその内容を本気にしてSNSで批判し、それがきっかけで若い女性が死に追いやられた。痛ましい。

 SNS時代ならではの事件だろうけれど、問題はそこではない。テレビ番組の見方が問題なのである。民放のこの手の番組は創作であることを中学生くらいまでの間に知るべきである。明石家さんまが女性たちと話す『恋のから騒ぎ』(だっけ?)にしても盛っているなぁと、受けてなんぼの世界やなと、そういう見方を普通すると思うのだが、真面目に見てしまう人が一定数いるのである。

 そこを広く知らせるべきではないか。あの手の番組は創作だと。

 書いていて思いだした。『週刊金曜日』編集部にどこか外国のテレビ局が来てカメラを回した。編集というのは実に地味な仕事で、動きがない。彼らは明らかに困っていた。たまたま近くにいた私はサオちゃんに声をかけ、進行表だか何だかを一緒に見ながら打ち合わせをしてみせた。カメラがわれわれをすぐに捉えて、カメラの機械音が聞こえてきた。これで少しは動きがある映像を撮れたかなと思いながらも、カメラが寄ってくるものだから笑いをこらえるために不相応な必死の顔になってしまった。

 このようにカメラが回っていると人間はサービスしてしまうのである。

 私が『太陽にほえろ!』が死ぬほど好きだったのに警察官にならなかったのは、「テレビはつくりもん」という目で見ていたからである。でも、竜雷太演じるゴリさんには心底憧れたぞ。

 話がそれた。

 テレビは演出がつきものだ。私とサオちゃんがどこかの外国人のために打ち合わせをしてあげたのも自主的な演出なのである。そういうことを常識として知らないといけない。

UFOを認めたくないから新語?

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 米国防総省が公開したUFOの映像について、4月29日付『毎日新聞』(東京本社版)は国際面で奇妙な見出しで報じた。

 UFOか「謎の空中現象」撮影

 私は2回首をかしげた。

 1つは「UFOか」と断言を避けたところ。そもそもUFOは英語で“Unidentified Flying Object”つまり文字通り「未確認飛行物体」である。「UFOか」ではなく「UFOだ」となぜ断じない? 記事では《米国防総省は27日、海軍が撮影した「謎の空中現象」として3種類の映像を公開した》と「謎の空中現象」の出典が米国防総省だと明示してはあるけれど、UFOと何が違うんだよ? 権威筋の言うとおりに書けば問題ないという思考停止責任逃れがみっともない。

 もう1つが「謎の空中現象」という言い方。もしかして原文があるのか。検索したところ、米国防総省がこの映像を"Unidentified Aerial Phenomena”と表現しているのだった。私が“unidentified”を訳したら「未確認」にする。『毎日』はなぜか「謎の」と訳した。江戸川乱歩かっちゅうの。そこまでして混迷を深める必要があるか? 私には謎だなぁ。

 ちなみに朝日新聞サイトの見出しは《米国防総省が「UFO映像」を公開》とし、記事ではUAPに触れていない。

 読売新聞サイトは《UFO!? 米国防総省が映像を公開》とし、記事で「航空現象」と訳した。

 産経新聞サイトの見出しは《米軍、UFO撮影に成功か 「謎の現象」映像公開》だが、記事の中に「謎の現象」の由来が書かれていない。不親切だ。

 共同通信サイトは《米軍がUFO撮影に成功? 過去2回の「謎の現象」映像公開 》という見出しで、ここに至って先ほどの疑問が解決した。どうやら『毎日』と『産経』は共同電を参考にした可能性が高い。自信を持ってUFOと言い切ることがなぜできない? 

 報道の王道を行く英BBCサイトは“Pentagon releases UFO videos for the record”とUFOを使っている。だよね。

 それにしても、米国防総省である。映像をどう見ても「空中を飛行する未確認の物体」すなわちUFOである。なぜに認めない? "Unidentified Aerial Phenomena”という新語をひねり出してまでUFOを認めないのはなぜだ?

 今まで使ってきたUFOと新顔のUAPの違いはどこにあるのか? なぜにそこまで慎重になっているのか? 

 この飛行物体が「わしらがUFOやでー」と叫んでくれたら話は早いのだが。


30メートル級津波を軽んじる行政と

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 岩手と北海道を最大30メートル級の津波が襲うという。

 それを報じた21日付『毎日新聞』夕刊(東京本社版)1面の図がこの写真だ。大変なことである。逃げようがない。巨大な防波堤を作ってきたが、役に立つとは思えない。

 もっと分からないのは住民の不安を煽るとして岩手県の浸水想定水域を内閣府が明かさなかったことだ。岩手県が「明かさないで」と頼んだのではないか。どっちでもいいが、住民の生命を無視した情報非公開である。誰が非公開の責任者なのかはっきりさせてもらおう。

 津波で大きな被害を受けた地域の人が復興に向けて地元で一生懸命にやっているので言えなかったが、これはもう言うしかない。そこに住むな、と。引っ越せ、と。あんたが死ぬのは勝手だが、子供や孫を死なせていいのか、と。

 私が言ったところで何の効果もない。法律を整備して、財産を保障して、引っ越しさせる旗振りを担うのが行政の役割である。

 大きな津波を引き起こす巨大地震の発生頻度は低いが切迫状況にあるという。もたもたするな。住民の生命や大切な人の生命を守るのなら、それしかない。

 巨大な防波堤はそもそも建設すべきではなかった。イソップの「牛とカエル」を自然相手にやることの愚かさと無駄遣いに、いい加減気づけ。

 巨大地震の発生が切迫していて30メートル級の津波の可能性が公開されても、行政の引っ越し支援があっても、それでもその該当地にとどまり、実際に亡くなったとしても、今度は誰も悲しまない。しかし、そんなことがあってはいけない。同じ人間として、これは言い続けなければならない。

合格率が25パーセント以上ある司法試験の今後

 司法試験の合格率が25パーセントもあると聞いて今検索してみたところ、2019年は34パーセントだったって。いやもうびっくり。

 ワタシは2回受けたことがある。合格率1パーセントの時代。だからというわけではないが落ちた。単に阿呆だったに過ぎない。

 法学部の図書館には1回だけ友人に連れていかれた。「どうせ西野は法学部の図書館を使うことは1回もないだろうから、勉強のために見せてやる」とか何とか言われて。その友人はのちに司法試験に合格するのだが、法学部図書館には主のような学生たちが席を占拠していた。風呂おけにタオル、シャンプーなどを詰め込んだ洗面道具を机の下に置いていた光景は何となく覚えている。

 下手をすると人生を棒に振る若者たちを何とかしようという思いや司法制度へのいろいろな思惑があって、司法試験はずいぶん変わった。その結果が34パーセントの合格率だ。

 ここからはワタシの予測である。34パーセントも合格する試験になると、まず東大京大の賢い連中が受験しなくなる。彼らは難関だから受験して資格を取る連中だからだ。東大理科三類に進んだ学生の一定数が医師国家試験を受けないのは、理科三類が日本最難関だから周囲の勧めもあって受けて入っただけであり、別に医者になりたいわけではないからという奇天烈な才能が一定数いるせいだ。

 これと同じで、難関でない司法試験は東大京大クラスには全く魅力がない。「落ちたくせに偉そうに」と批判されるのをカクゴで言うが、25パーセントや34パーセントではワタシでも受けない。こうして東大京大トップ層の司法試験受験生が激減していく。ワタシのような賑やかしも受験しなくなる。そのあとの司法試験はどうなるのか。

 法治国家で法曹のレベルを下げることは国家の危機を招くので、また難易度を上げることになるだろう。かつての1パーセント時代に戻す時期ではないか。それでなくても日本人は訴訟を好まない。法曹人口はそれほど必要ではない。

 日本医師会は圧力団体として機能しているから司法試験の凋落を見て「うちの業界はそんなことさせんけんね」と思っているに違いない。法曹はまとまっていないからあちらこちらから手を伸ばされる。組織の弱さがこんにちの合格率を招いたと言っていいのではないか。



 

コロナ対策で誰も話題にしないけれど(笑い)

 新型コロナウイルス対策で小中高校や大学が卒業式や入学式をやめたり延期したり始業を遅らせたりする中で、しずかーに普通に営業している教育機関がある。大勢の若者がぎゅうぎゅうになって毎日何時間も座るのはどこか? みんな忘れているのだろうか?

 答えは予備校。駿台と河合塾、代ゼミのサイトを見たけれど、普通にやっている(笑い)。数百人収容の教室に浪人生がぎっしり詰まるし、おしゃべりをするなと命じても難しいだろう(特に代ゼミね)。これから何度も実施される模擬試験も似たような環境である。密度は大変高い。

 首都圏の彼らは満員電車に揺られて校舎に着く。感染拡大の巣になる可能性は十分ある。

 どうする? 


 
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