同じ阿呆なら泥と炎のニシノ説

軽挙妄動のワタシが世の中の出来事や身の回りの出来事に対する喜怒哀楽異論反論正論暴論をぐだぐだ語り続けて5000回超

教育

上野千鶴子先生の東大入学式祝辞がなぜ

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 東京大の入学式で語った上野千鶴子名誉教授の祝辞が“話題”になっている。珍しい現象が起きているのは、東大名誉教授が東大入学式で新東大生に語った内容がインターネットなどを通じて無関係な人まで知ることになったせいだろう。

『毎日新聞』は報じず『朝日新聞』は報じた。『毎日』が単に上野祝辞を知らなかっただけならガックリだが(笑い)、知っていて報じなかったとしたら庶民の集まりである『毎日』らしい判断だと言える。一方で東大や高学歴が昔から大好きな『朝日』が報じたのは当然で、やっぱりね。

 さて。

 初めて読んだとき私は上野先生の祝辞をどちらの立場で受け止めるかなと考えた。受け止める立場が変わると感想が変わるのである。

<あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください>を「上から目線だ」とか「手を差し伸べられたくない」とか言っている痛い人がいるけれど、上野先生はそういう人を想定していない。悲鳴さえ上げることができない人たちがいることを念頭に置いている。

 何かに恵まれた人が率先して手を差し伸べる社会は健全ではないか。それは学歴でも職業でも収入でも健康でも時間でも体力でも知識でも何でもいい。自分のことしか考えない風潮に棹さすのが上野先生の狙いの1つだと私は読んだ。

 一方で、まぁ、これは入学式での“ご祝儀”だから目くじらを立てることではないのかもしれないが、違和感がないわけではない。車谷長吉さん風に言えば「インテリの猥談」なのである。社会の8〜9割は上野祝辞を知らないか知ったとしてもどうでもいいと思っている。

 違和感は祝辞の冒頭にあった。<激烈な競争を勝ち抜いて>である。私は東大ではないが、世間的にはその一人だったから自分を棚上げせずに言うのだが、単にペーパーテストができただけなのである。<激烈な競争を勝ち抜いて>難関と言われる大学に入っても、農作できんわマグロ釣りもできんわ戦闘機操縦もできんわ糞尿回収作業もできんわ下水道管理もできんわ大型トラックやバスの運転もできんわ家建てることもできんわ洋服作れんわ介護やったことないわ林業できんわ……。

 自分のできないことが多すぎてトホホと途方に暮れるしかないのである。世の中の皆さんにご迷惑をかけながら、お世話になって生きているのである。

 この視点が上野祝辞にはない。泥の中で死にかけた経験がなければ気づかないのかもしれないが、ひとこと「勘違いするなよ」と注意を促しておけばもっとよかった。

恩師伝さんのスダチを搾って

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 スダチのおいしい食べ方を見つけた。焼き魚に搾りかけるのが一般的だろう。最近は味噌汁に入れるという提案を地元がやっているけれど、要するに生産者側は用途を増やしたいわけだ。しかし邪道であるな味噌汁に入れるのは。何にでも搾りかければいいというものではない。

 私が見つけたのは水に搾って入れて飲む。これが最高。水か冷水をコップに入れ、そこに半分に切ったスダチを搾る。タネも入れていい。あとで吐き出せばいいのだ。2個搾ってもいい。酸っぱくない。爽やかである。

 とりわけランニングのあとの一杯は五臓六腑に染みわたる。横浜マラソン用に水筒にスダチ水を入れて行き、帰りに飲み干した。気のせいか(気のせいだが)回復が早かった。

 このスダチは徳島市立高の恩師伝さんが送ってくれた今年2回目のぶん。1回目にスダチ水を編み出し、そのうまさに気づいた私は伝さんに福島の梨をワイロに送って2回目のスダチをせしめたのであった。というか、そもそも恩師がスダチを先に送ってくださって不肖の教え子が慌てて福島の梨で返礼したというのが正しい事情なのだがそれではオモロないのでちょっと話を変えてみた。

 色の付いたビニール袋に入れて冷蔵庫で保管すると長持ちすると伝さんが教えてくれた。さすが生物の先生である。

 恩師の顔を見に帰省せんといかんなぁ。

早稲田大政経学部入試に数学が必須科目になった

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 落ちこぼれた算数・数学に対してフクザツな思いが私にはあるので、ここでまとめておこう。早稲田大の政治経済学部が入試科目に数学を必須科目にするそうな。このことを論評した3人の大学教授らは3人とも賛成していた=7月27日付『毎日新聞』朝刊(東京本社版)オピニオン面。

 当の政経学部学部長が必要性を主張するのは当たり前。数学が嫌いな私でも名前を存じ上げている岡部恒治・埼玉大名誉教授の<そもそも必修科目の数学1・Aなのに、入試にないからといって勉強してこないのがおかしい>はごもっとも。しかし<数学を避けて入学して経済学を学ぶなんて、絶対に無理だから>というなら、政経学部の政治学科と経済学科、国際政治経済学科のうち、政治学科は課さなくていいのではないか? どや!

 30年以上前から商学部は社会だったか国語だったかの代わりに数学で受験できる。数学で受験して入ったタテイシは「数学は簡単なので有利だった」と笑っていた。私立文系を受験する生徒は数学が苦手なのが多いはずで、だからこそ数学の試験問題は易しめなのかもしれない。と分かったとしても、私は数学で受験しなかったのは間違いない。なぜなら苦手意識がずーっとあったから。

 私はなぜ算数・数学が苦手なのだろう。そこが知りたくて、実は自分の子供で実験した。自分の子供なら失敗しても私の責任で済む。

 理数系ができるほうが絶対にいい。落ちこぼれたら私立文系に切り替えればいい。そう思ったので、子供3人を理系にけしかけてみたのである。その結果、3人とも理系に進んだ。1人(1浪)は数2・Bまで、残り2人(2浪)は数3・Cまでやった。

 これはどういうことなのか。やればできるのか? ということは私はやらなかったということなのか?

 私は高1の春から夏ごろにかけて本屋で数学の参考書を買い漁った。授業についていけなくなってきたので焦ったのである。寺田の『数学の鉄則』など片っ端から買って、最初の10ページくらいまで読んでは「何か違うなぁ」と別の参考書に手を伸ばした。こういう右往左往ではなく、何でもいいから1冊決めて、それをきっちり仕上げればよかったのか? 未だに分からない。

 以上、どうすれば数学ができるようになるのか分からないというお粗末な結論である。何のこっちゃだな。

 次は政経学部で数学必須になる影響を予言しておこう。

 これは簡単な話で、政経学部の受験者数が減る。受験料収入が減るので、大学経営には打撃だ。慶應大のようには寄付金が集まらない早稲田大は、そういうソロバンをはじくことができていないのではないか。算数・数学が苦手なのは当の政経学部なのかもしれない。

私は算数・数学がなぜできないか

私「ワシは中3のときの因数分解は100点やったんよ。東京数学研究会という組織の通信教育がよかったんかな」

次女「食塩水の濃度とか、10分後に時速100キロで追いかけてどこでおいつくかとか、そういう問題が苦手なんだったよね」

私「そうそう。小学4年の算数よ」

次女「どこで追いつくかというのは、追いついたところは距離が同じでしょ。そこから式を立てるんだけど」

私「なるほど。距離が同じか。追いついたんやけん、そりゃそうや。でも式が浮かばん」

次女「何でかなー」

私「因数分解は満点だったのに」

次女「ああそうか。あのね、数学には計算問題と考える問題があるのよ。で、お父さんは計算問題はできるんだ。公式を覚えて、あとは練習を積めば解けるのが計算問題。一方、考える問題ができないんだ」

私「なんで考える問題ができんのだろ」

次女「考えてないからでしょ」

私「……」

次女「……」

 ふたりそろって爆笑。

私「お前相変わらずワシに似て失礼やな。ワシの話、何も考えてないような内容か?」

次女「あまり真面目に聞いてないから分かんない」

私「……」

次女「……」

 ふたりそろって爆笑。

 しかし、的を射た指摘なのかもしれない。私が得意なのは英語や現代文、古文、社会などの暗記科目だ。これらの科目も考えることがないわけではない。しかし数学的な「考える」とは趣がちょっと異なる。

 引き続きこの問題をツイセキする。

義務教育で刑法を教えるべし

 18歳と17歳の少年たちが強盗殺人の容疑で逮捕された。85歳の女性の家に忍び込み、金目の物を盗もうとして見つかり、顔を見られたので殺したのである。

 少年3人は最初の「住居侵入と窃盗」の容疑が「住居侵入と強盗殺人」の容疑になった。「懲役10年以下」から「無期懲役又は死刑」に激変する。見つかったからといって居直ったら窃盗容疑から強盗容疑になり、殺したら殺人容疑になるのである。ちょっとした違いだが、罪は重くなる。

 法律の無知以前の問題ではあるけれど、刑法を知っていたら「待て待て殺したらワシらの人生も終わるぞ」と判断して、人命が奪われずに済んだかもしれない。こういうことを義務教育で教えておくべきではないか。道徳というかったるい科目ではなく「刑法」という科目がいい。そのほうが虞犯少年予備軍は興味を示す。

 犯罪者が減り、悲しい死に方を強いられる被害者が1人でも減る可能性があるなら、やらない理由はない。さしあたり小学生の英語の授業をやめて「つみとばつ」を入れればよろしい。

泰明小学校の問題はアルマーニではない

 服育というものがあっていい。行儀よくなるだろう。しかし、それは中学生くらいからでも遅くない。

 小学生の仕事は沼の中をびちゃびちゃ歩いてみたり、道路に花が咲いていたらかがんでのぞき込んでみたり、電柱によじ登ろうとしてみたり、泥をこねてダンゴを作ってみたり、傘を置いて雨に打たれてみたり、地面に座り込んで漫画本を読んでみたり、虫をつかまえてポケットに入れてみたりして、遊ぶことにある。にもかかわらず、ただかだ10万円程度の制服を子供に着せることで、そういう遊びを親がさせなくなるのは目に見えている。

 人生で最も泥だらけになって喜々と過ごししあわせを感じるのと、服が汚れるのを避けるのと、どっちが子供の心身の発育にいいかという教育的観点で判断すれば、校長が唱える服育は尚早なのである。

 たったの10万円程度の制服のために、子供の幸せな経験の機会を奪うことがあってはならない。

附属小に行かなくても(笑い)

 鳴門教育大附属小(徳島大附属小)は入学試験がある。この入試に対して不公平だとか入試をやめろとか何とか、奇妙な批判が時々上がるらしい。ハテナと私は首をかしげるわけである。理由は3つある。

 1つめの理由は、国立大附属は教育研究機関という位置づけの教育組織なので、そこに行かなくてもどうということはない。不公平だとか入試をやめろとか言う人は恐らく全体像が見えていない。

 附属小に行かなくても難関大に行く人は大勢いる。私がよく挙げる例だが、沖縄の西原町という田舎にある県立西原高という進学校ではない高校から東京大に合格した生徒がいた。昭和の終わりのころの話である。当時私は西原高の裏のアパートに住んでいたのでまたげた記憶があるからよーく覚えている。

 優秀な生徒はどこにいても東大でもケンブリッジ大でも合格するのである。したがって附属小の入試に落ちても悲しむ必要は全くないし、附属小に入っても喜ぶほどのことではない。

 2つめの理由は、子供を慶応幼稚舎に合格させて本人は慶応大卒の父親(確か三井系の会社に勤めている人だった)に取材で言われたことだが、履歴書に書くのは高校と大学の名前だけだということだ。就職する際に鳴門教育大附属小だろうが徳島市立助任小だろうがどーでもいいというわけだ。

 附属小に落ちてもそのあと勉強すれば東大でもハーバードでも行くことができる。本人の試験頭がよくて努力を続けることができる子供なら誰でも。

 3つめの理由は、試験を廃止したらかえって不公平になるではないか。定員を超える応募があれば試験をせざるを得ないし、附属小が教育研究の対象として一定の学力の子供を求めているのなら試験をするしかない。

 附属小に行っても行かなくても実際どうでもいいというアタリマエの結論である。

先生かくあれかし

 小学4年の時、クラスに片足の悪い子がいた。片目も不自由だった。背が低く、勉強はビリだった。背丈の合わないセーラー服、ひねくれた性格。そんなIが運動会の徒競走でビリを走っていた――。『向田邦子ふたたび』(文春文庫)に転載された「ゆでたまご」を私は何度読み返したことか。

 <もうほかの子供たちがゴールに入っているのに、一人だけ残って走っていました。走るというより、片足を引きずってよろけているといったほうが適切かもしれません。Iが走るのをやめようとした時、女の先生が飛び出しました>

 以下は省略するが、<女の先生が飛び出しました>に光景が浮かぶ。「女の先生が駆け出しました」では駄目だし、「女の先生が走り出しました」でも駄目、「女の先生がIに向かって行きました」でも駄目。ここは<飛び出しました>しかあり得ず、だから光景が鮮明に浮かび、こころ揺さぶられる。

「先生」と呼ばれるに値するのはこういう人だけだと私は思う。口幅ったいが、向田さんのこの「ゆでたまご」を読んですぐに姿が重なった「先生」が1人いる。私の教え子・沖縄の花ちゃんはこういう「先生」である。

大阪大の無謬性の神話

 全然違和感がないのはなぜだろう。大阪大が去年の2次試験で物理の問題に出題ミスと採点ミスを重ね、ネグろうとした件である。

 出題者は自分のコケンとチイに関わるので無視を決め込んだのだろう。受験生のことを考えずに保身に走ったのだから百たたきの刑に処してよろしい。

 私が知る限り、大学の入試問題出題者より予備校講師のほうが入試問題に詳しい。阪大は最初に駿台予備学校の物理講師が指摘した時に素直に認めていれば被害はまだ軽かったのに。逃げ切ることができるとでも思ったか。

 ここで思い出すのは駿台予備学校の現代文・藤田修一師である。夏期講習で「旺文社の解答は選択肢のA。學燈社の解答はB。でもね、正解はCだよ」などと言っていた。すごい!と藤田師を尊敬のまなざしで見つめながら不安がよぎった。これだけ正解が分かれる難問を、肝心の出題者が正解とする選択肢は藤田師が言う正解の選択肢と同じだろうか、と。藤田師ほどの能力がなければ、出題者は間違った選択肢を正解としてしまうのではないか、と。

 話を戻すと、隠そうとした阪大教授の名前は公表されるべきであろう。


 

集中力は誰でも持っている

 パソコンのキーボードをガシガシ叩いていると、iPhoneから流れていく音楽がいつの間にか聞こえなくなっていて、ふと我に返った途端に音楽が聞こえてくることがよくある。

 ラジオをつけたり音楽を聞いたりしながら勉強をしているといつの間にか音が聞こえなくなっていて、ふと我に返った途端に音が耳に入ってきた経験をした人は少なくないだろう。

 集中力の特集をしている雑誌をたまに見かけるが、何かに没頭したら自然に音が消えるというか聞こえなくなる経験は大勢が経験しているはずだ。そういう雑誌の特集ではたいていオリンピック選手や有名な人の集中力を紹介しているが、中距離マラソンのような大学受験生や社会人に必要な集中力と超短期決戦型とも言うべきオリンピック選手に必要な集中力は根本的に異なると私は推測する。 

 全く集中できない人は声を出せばいい。『毎日新聞』夕刊にずいぶん前に載っていた記事なのでうろ覚えなのだが、「確かに!」と合点がいったことがある。瞑想していると頭の中に雑念が生じるが、声を出したら雑念が消えた、雑念を消すために声を出すのだ、というような内容だった。藤原記者の記事である。黙っているから頭の中に雑念が生まれるわけで、歌を歌うとか声を出すとかすればそこに意識が行くから雑念が消えるという趣旨の記事は私の経験からも納得した。

 受験勉強をしていたとき私はほとんど声を出していた。英文を読むときも音読、政治経済を暗記するときも声を出し、現代文の参考書の解説も音読し、古文や漢文も音読し、という塩梅で、黙っているのは問題を解いているときだけだったはずだ。ついでに書いておくと、私は狭い部屋の中をうろうろ歩きながら音読していた。あのころからスタンディング・スタディ(私が今でっち上げた造語。立って勉強するという意味)の効果を薄々感づいていたのかもしれない。じっと座って勉強するなんてこと、私にはできない。

 というわけで話を戻すと、仕事でも声を出せばいいのだ。私は小さな雑用が一気に押し寄せたときなどは自然と小さな声を出している。「まずAをやって、それからBをやって、Cはそのあとで」という具合に。

『週刊金曜日』時代にワープロのキーボードをガシガシ叩いていたら、近くにいた元朝日新聞論説副主幹サマに「ニシノ君のワープロを打つ音がやかましくて新聞が読めない」と難癖をつけられたことがあった(笑い)。集中するということはなりふり構わぬ状態になるわけだ。今もガシガシ叩いて「やかましい」と呆れられることがあるのだが、そう言われると自分が集中していたと分かるからまんざらではない。

 50代半ばになり、いろいろな老化を感じるけれど、集中力はまだ衰えていないように思う。気のせいかもしれないが。

文章の良し悪しを判断できないセンセイ

 東京周辺で小学校受験が始まる。ジャックとかいう塾のセンセイが”評価”した難関校の志願書を見る機会があった。

 センセイは手放しで褒めているのだが、私の判断は全く違う。このセンセイは志願書の判断ができないのだなぁ。こんなヒトがセンセイを名乗って志願書の指導をしたら間違いなく受験生は落ちる。

 文章はまずネタ。徹底的にネタ。ネタが良くなければ、どれだけ飾り立てても文章が踊らない。ネタさえ良ければ文章が勝手に踊り出す。

 私がざっと見た限り、親がネタを必死に考えていない。自分が書きたいネタを書いていて、このネタが相手(受験校の先生)にどう読まれるかという想像ができていない。だから眠くなるネタを普通に書いている。これでは落ちる。誰が落ちても私には関係ないので別にいいのだが、子供がかわいそうだ。無責任な”指導”に対して私は猛烈に腹が立つ。

 合格させる商売をしているセンセイは死ぬ気でやれよ。いや、そもそも志願書の判断ができないヒトが死ぬ気でやっても何もならない。私に学びに来たら教えてあげよう。

『サウンドオブミュージック50周年記念盤』と「エーデルワイス」と川人昭夫先生

 
 徳島市立高1年の音楽の授業で確か最初に歌わされたのが「エーデルワイス」だったように思う。エネルギーあふれる若者(ワシね)には退屈極まり、なぜこんな地味な歌を英語で歌わされるのかと辟易した。

 音楽教師川人昭夫先生にやられたと気づくまでに20年近くかかった。映画『サウンドオブミュージック』を見て初めて「エーデルワイス」という歌の位置づけを知ったのである。やられたなー。やられたなー。川人先生にやられたなー。あのとき手紙の1通でも送っておけばよかった。あんなに若く亡くなるとは思いもしなかった。感動はすぐに伝えなければならないと思い知った痛恨の出来事である。

 映画を見たあと西欧を35日ほど回り、途中でザルツブルグに寄った。映画の舞台を見て回ると頭の中で「ドレミの歌」や「エーデルワイス」が流れ続けた。しかし現地では映画よりモーツァルトの生家のほうが人気が高かった。モーツァルトは偉大であるな。

 もちろんモーツァルトもいいけれど、『サウンドオブミュージック』も悪くない。50周年記念盤のCDがあるのでさっそく聴いた。川人先生を思い出す。おかげで今も英語で歌うことができる。

 このCDをかけて、「エーデルワイス」は一緒に英語で歌い、「ドレミの歌」に合わせて踊っている。

小学3年から英語をする意味があるのか

 愚民化教育が粛々と進んでいる印象を受ける。なぜに小学生から「聞く・話す」を中心にした英語を強いるのだ? 

 小学校でやっても中途半端に終わるのは目に見えているし、そもそも小学生の脳みそで理解できる程度の「聞く・話す」に価値は見当たらない。そんな無意味な時間を年に50コマも割くと、落ちこぼされる子供がもっと増える。

 英語を本気で習得させるなら、大学合格レベルの英語力を土台に積み上げていくほうが合理的だし早道だ。

 そんな時間を割くくらなら、本好きの子供を育てる読書の時間を新設するほうがいい。なぜなら一般的に学問に読書は欠かせないからである。

 日本語を的確に読み、日本語でじっくり考え、日本語でしっかり表現できる国民が大勢いると、権力側にとって何かマズイのだろうなぁ。

学校での福島っ子いじめは担任教師と校長の責任

 福島から避難した子供たちが転校先でいじめに遭っている。ふつふつとわき上がる悔しさをじっと抑えながら、ここに吐く。

 福島から転校してきた子供がいじめの対象になりやすいと報じられて何年も経つ。にもかかわらず未だに福島の子供がいじめに遭っているとすれば、それは担任教師と校長の責任である。

 私が教師なら「福島の子だな。いじめられないよう注意しよう」と思って目配りをして、万一いじめががあればいじめる側を烈火のごとく叱りつけ、クラスで子供たちに福島の苦難を伝え続ける。教師なら当たり前ではないか。それができない教師は一体何のために教師になったんだ?

 福島っ子に限る話ではない。いじめを阻止できない担任教師と校長は親が徹底的に締め上げていい。私に代理の権限を与えてもらえるなら、『いじめ撃退マニュアル』の筆者小寺さんと一緒にやるんだけどな(笑い)。こんなビジネス(?)なら私に向いているような気がする。

中学受験せんでええがな

 NHKの「クロイーズアップ現代+」が奇妙な現象を取り上げていた。

 いい公立小学校に子供を入れたがる親がいるそうな。そういう公立小学校は中学受験が当たり前の環境だから子供が刺激を受けて勉強するそうな。

 阿呆な私が言うのも何だが、阿呆な親やなぁ。

 私の周囲で東京大に進んだ人を見ると、子供のころサッカー少年だったり野山を駆け巡っていたりしている。何度も書くけれど、沖縄の西原町という田舎から東大に合格した子供もいる。

 いい公立小学校? 中学受験? そんなの関係ない♪ そんなの関係ない♪

 稼げる大人に育てると謳う塾に子供を任せる親が大勢いるそうな。そもそもそういう親が塾のカモネギになっていることに気づいていない。塾の教師が稼いでいないのに、子供に何を教えることができるのか。

 もう1つの違和感は「稼げる大人」という目標である。私は自分の子供に「お前は優秀なんやけん、能力を世の中に還元せんといかん。人を支えて助けんといかん」と言ってきた。いくら商売とはいえ「稼げる」を目標にする人間を育てるという塾に私は寒々としたものを感じるし、あまりに浅薄、余裕なさすぎ。稼ぐなら会社員になるより起業するほうがいい。そんなことは塾では学べない。

 阿呆の見本市という意味で面白い番組だった。

名著『いじめ撃退マニュアル』の復刊を


 

 いじめはなくならず、いじめが原因の自殺も止まらない。

 今こそこの本を復刊するべきだ。『いじめ撃退マニュアル』である。著者の小寺さんがご子息を守るために学校と戦い、その過程で習得した知識と技術を具体的に明かした名著である。

 何を捨てても守るべきは子供である。親が体を張って腑抜けの学校と戦うことで子供の命を守ることができる。髪の毛振り乱し、目を血走らせ、口から血を吐きながら、学校に殴り込みをかけていい。

 腑抜け学校に対する親の控えめな行動は何の解決ももたらさないばかりか、最悪我が子の死を招く。子供の代わりに身をなげうつことができるのが親である。「君のためなら死ねる」というセリフは梶原一騎原作『愛と誠』だが、「子供のためなら死ねる」のが親だ。

 鬼気迫る形相で血反吐まみれで学校になんぼでも突撃していいのである。

 そういう親の基本を本書は教えてくれる。

文科省も文科省なら早稲田も早稲田

 <文部科学省が2015年、早稲田大に再就職した元幹部(61)の「天下り」をあっせんした疑い>と『毎日新聞』は書く。

 私が書くとこうだな。「文部科学省の役人を教授として受け入れた早稲田大よ、何が在野だ恥を知れ」

 文科省の役人を受け入れることで漠然と何かいいことを期待したのだろう。これでは「スーパーグローバル大学」の指定だって実力なのか文科省のさじ加減なのか分からない。

 お上におべっかを使う大学だったとは。学の独立よどこ行った。

 文科省の尻に火が付いた。次は早稲田大だ。誰がどういういきさつで文科省役人を教授として迎えたのか。説明してもらおうではないか。

牧野剛さん死す

 
 藤田修一師から写真集が届いたその日の『毎日新聞』社会面に、牧野剛さんの訃報記事が載っていた。藤田師が駿台で現代文読解法を教授していたころ、牧野さんは河合塾で現代文を教えていた。嘘か誠か牧野さんは藤田師の読解法に批判的だったと当時聞いた。それで私は牧野さんの存在を意識した。

 その牧野さんが70歳で亡くなったのである。『現代文と格闘する』という名著を残して。格闘したのは現代文だけではなかった。記事にあるとおり、<名古屋五輪招致や愛知万博開催への反対運動に参加、参院選や愛知県知事選などに立候補したが、いずれも落選した>。格闘し続けた人生だったように見える。

 私が講義を受ける機会はなかったが、『現代文と格闘する』を次女は「すごくいい」と言っていた。

 合掌。

あの高校は東大京大早稲田慶應合格者が多いんじゃないか

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『サンデー毎日』で高校を丹念に見ていくと、ある高校名で目がとまった。

 さて、どこでしょう? こんな質問に対して答えが分かるわけがないので先に進む。

『サンデー毎日』によると、この高校の合格者数は以下の通りである。

 東京大5人、早稲田大39人、慶應義塾大4人。

 ちなみに私と柴門ふみさんと長尾朱美さんの母校・徳島市立高はこうだ。

 東京大2人、早稲田大3人、慶應義塾大4人。

 この高校は幸福の科学学園という。栃木県にあるらしい。少なくとも私の母校よりは頭がよさそうだ。京都大の合格者数を見てみると、幸福の科学学園が1人、そして幸福の科学関西(滋賀)というのがあってここからも1人。

 宗教団体である幸福の科学が今後どれだけ伸びるか、大学設立できるか、こういったことと幸福の科学の高校がどれだけ難関大進学者を出すかは無関係ではあるまい。来年どれくらい伸びるか楽しみだ。ってワタシは信者ではないので念のため。

駿台のエロい漢字問題集その3

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 さて問題になった『生きるセンター漢字・小説語句』(駿台文庫)である。朝のワイドショーでは駿台文庫の「回収する」というコメントを伝えていたが、丸善広島店には面出しでどかーんと置いてあった。この際売ってしまうぞという決意のような商魂を感じたのは錯覚だろうか。

 こちらは前著『生きる漢字・語彙力』からずいぶんパワーアップした。エロ系をざっと挙げておく。

 彼女のなだらかなキュウリョウをうっとりと眺めた(8ページ)

 彼女がリズミカルにシめ付けてきた(43ページ)

 ゆっくり奥までソウニュウしてください(51ページ)

 左手を軽くソえてね(同)

 きみのエキスをチュウシュツして飲み干したい(53ページ)

 彼女のユルやかなラインが僕をほっとさせる(100ページ)

 敏感なところは強くシゲキしちゃだめよ(131ページ)

 脱いだもののにおいを嗅ぐシュウカン(132ページ)

 きゃしゃな脚は、見てるぶんにはいいけどな(149ページ)

 息をのんで女子の着替えを見つめる(162ページ)

 おどおどしながらも、言われたように握ってみる(164ページ)

 彼女はきまり悪そうに、少し汚しちゃって……と言った(233ページ)

 全体に例文が面白い。度が過ぎてしまったのが上記のようなエロ系の例文である。女性へのワンパターンな視線を感じてしまうのだが、私が感じすぎか。あふーん。

 含蓄のある例文はある。こういうのを増やしてほしかった。

 葬式にて坊主がコジンを「いい人」に仕立て上げる(10ページ)

 成績がいいだけでイリョウの道に進むとか意味不明(26ページ)

 スウコウな理念とか、うさんくせ(113ページ)

 筆者は藤田修一師の跡を継いだ霜栄先生である。これほど注目を集めたのだから、次作に期待したい。


 

 

駿台のエロい漢字問題集その2

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 出張先のテレビを撮った。たぶんフジテレビの「特ダネ」だ。よく見ると間違いというか正確さを欠いたところが2カ所ある。

 まず、駿台予備校ではなく駿台予備学校である。私が高校生のころから「予備校」ではなく「予備学校」だった。

 エロい漢字問題集は駿台予備学校の出版物ではない。正確に言うと駿台文庫株式会社の本である。「駿台予備校の問題集が」ではなく「駿台講師の問題集が」や「駿台の問題集が」とでもしておくべきだった。

 この番組の制作者に駿台の卒業生がいなかったのかもしれない。

駿台のエロい漢字問題集その1

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 駿台予備学校の現代文講師が書いた漢字問題集がエロいと話題になっているので、出張先の広島の本屋に慌てて買いに走った。ブログのネタにするためである(阿呆やなぁ)。

 問題になっているのは『生きるセンター漢字・小説語句』なのに、慌てていたため『生きる漢字・語彙力』を廣文館金座街店で買ってしまった。クヤシイのでパラパラと見てみたところ、こっちもほんの少しだけある。

 例えば――。

 彼にシバられて自分が見えなくなってもよかったのよ(5ページ)

 誰もがセイギョできない欲望を持つんだ(6ページ)

 彼の体のことはジュクチしているから(69ページ)

 僕はその時、彼女にチジョクを与えたいとさえ思った(72ページ)

 講師の趣味なのだろう、例文は斜に構えたものがあり、面白い。私が大笑いしたのはこれ。

 ゲンメツだなんて、期待するほうが悪いのよ(68ページ)

 その昔、高校1年のイタイケなワタシは交際相手のりんごちゃんに「ゲンメツした」と言われてフラれたのであった。あの時「期待したお前が悪い」と反撃したとしても、「私の期待に応えられなかったあなたの限界ね」と一撃を食らっただろうなぁ。とほほ。

大学入試改革新テストが目論むもの

 学力の格差拡大とその結果生じる低学力層の増加、これが文部科学省の狙いではないか。

 大学入試改革新テストの案を新聞でちらりと見ただけだが、このような問題を課すと学力の低い子供はもっと落ちこぼされていくだろうし、全体に占めるその割合は増えるだろう。塾や予備校で小学生から浪人生まで見てきたので、落ちこぼされた子供たちの状況は肌感覚で分かっているつもりだ。

 そもそもこういう改革に関わっている人たちは頭で生きてきた人たちなので、自分たちの波長に合う頭のいい子供を引っ張り上げたいのだろう。改革と言いつつ、目論んでいるのは学力格差の拡大と冷酷な区別すなわち差別だと言わざるを得ない。何も考えない従順な国民つまり愚民化を進めてきた文部(科学)省らしい。

 もちろん優秀な子供はもっと優秀になってもらうほうがいい。優秀な子供が伸びる機会を奪うべきではない。だからといって、そういう子供に軸足を移すと落ちこぼしを大勢生むことになる。

 もう1つ文科省が狙っているのは偏差値の低い大学の淘汰だろう。倒産すればそのぶん補助金を減らせる。大きな格差をつけることで大学進学のやる気を失わせようという計算が見え隠れする。

 教育の世界は大きな転換点を迎えることになりそうだ。塾や予備校は息を吹き返すかもしれないが。

世知辛い教育現場と新聞記事

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 18782(いやなやつ)+18782(いやなやつ)=37564(みなごろし)

 オモロい語呂合わせだなぁ。こんなふうに語呂合わせができる数式はほかにないだろうか。私ならワクワクする。

 藤沢市立の小学4年の算数の授業で上記の語呂合わせを教えた先生(40歳)に対して、市教委は「不適切」と決めつけて、学校が保護者に謝罪する事態になっているそうな。今日付『毎日新聞』の神奈川県版が報じた。

 うーん。いじめや自殺を防ぐべき教育現場ではある。でもなぁ。謝罪するほどの話か? いじめや自殺を助長する話か? 市教委も学校も自己保身に走っていないか? 

 この程度のことで目くじら立てたり問題視したりする人の頭はイカレている。私が記者なら識者の論評を取材して先生を守る記事を書くところだが、残念なことにとっくの昔に記者を辞めた。

 伝わらないだろうけれど、先生頑張れと言っておく。

早稲田大学系属早稲田実業学校初等部が慶應義塾幼稚舎に勝てない理由

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 小学校受験の世界では慶應義塾幼稚舎の人気に比べると早稲田大学系属早稲田実業学校初等部の人気はそれほどでもない。その理由を小学校受験教室の老舗・麹町慶進会で取材した結果は名著『慶應幼稚舎合格バイブル』の2016年アップデート版に書くけれど、やっぱり創業者の差だなぁ。

 お札に登場するほどの福澤諭吉に対して、大隈重信は<佐賀出身人は言葉で人をひきつけ、それによって後輩が集まるが、その言には卓越した展望がない。思いつきが多い。安請負もある。大隈重信にその傾向があった>と松本清張「私観・昭和史論――明治官僚制の崩壊と先端技術」に書かれて形無しである。

 福澤諭吉と大隈重信の職業の違いゆえか性格の問題か先見の明の有無の差か残した著作の差か、そうしたもろもろが総合的に今日の状況に影響を及ぼしている。つまり早稲田大学系属早稲田実業学校初等科(どうでもいいけど長すぎないかこれ)が慶應義塾幼稚舎に勝てない理由と責任は大隈重信にあるわけだ。

 今後も受験の人気が逆転することはないだろう。

 

恩師のご子息には会えなかったけれど

 私の小学1〜2年の担任伊藤貞子先生が去年90歳で亡くなった。私はその小学校=大阪市東住吉区の矢田小(現在の矢田西小)=を2年の2学期に転出したが、伊藤先生との年賀状のやり取りだけは続けてきた。40年以上続けてきた計算だ。

 それなのに、何度も大阪市に行く機会があったのに、私は伊藤先生に会いに行く手間を惜しんでしまった。

 亡くなったらもう話せないではないか。

 遅ればせながらせめてご子息にごあいさつをと思い、大阪市平野区を21日訪ねた。出戸駅まで来るのはこれが最初で最後だろう。

 ところが。ご子息は不在だった。こういう訪問は予告しないので、仕方ない。でもご子息の配偶者がおられたのでごあいさつをしておいた。

「ふだん私はこの時間家にいないんですよ。今日は珍しく」

 そう言われ、私は伊藤先生を感じた。

私立文系学部の現実

 マッチをすった時点か、マッチの火が対象物に燃え移った時点か、燃え移って独立して燃え上がった時点か、などなど、どの時点で放火罪が成立するかという「放火罪における焼燬の概念」について、判例はすでに確立している。

 ところが、だ。私が取った刑法の教授は講義で持論を展開していた。どんな持論だったか完全に忘れたが、判例を無視した独自論だった。一般的にも法学部生にも何の役にも立たない。

 学年末の試験で教授は「放火罪における焼燬の概念」を問い、私は教授の説を支持すると熱く書き、優をもらった。番茶ならうまいが、これは茶番である。

 文系学部に真っ当な教師はもちろんいる。しかし、上記のような教師が「学問の自由」の保護の下、野放しになっている現実がある。

 私は法学部に6年在籍したが、伊藤塾で学んだ1年のほうが中身が濃い。大手予備校のように教師の質が客観的に問われることはなく、自由し放題。理系学部もデタラメ教師はいるようだが、文系学部ほどではないのではないか。 

 文部科学省が国立大に文系学部の“粛正”を通知した背景には、私立を含む文系の大学教育現場のこのような緩慢とした空気があるからではないか。

 6年もかかってやっとこさ卒業させてもらった落ちこぼれの私がエラソーなことを言う資格はないのだけれど。

文科省の狙いをさらに想像すると

 文部科学省が国立大に文系学部の“廃止”を迫る通知を出した意図をさらに想像した。

(1)東大や京大など一部の文系学部は存続する。旧帝大は別格だが、文科省がそう言うわけにはいかない。そこですべての国立大に通知して平等性を演出した

(2)安穏とした教師へのカンフル剤の意味を持つ

(3)企業へのメッセージ。つまり「文系学生よりも理系学生が役に立ちまっせ。採用よろしく」。文科省は国立大のみならずすべての公立大と私立大の文系学部にも影響を与えることができる

(4)高校時代のマドンナを奪ったあいつが文系学部で教授をしているので嫌がらせをしてやるという文科官僚の個人的な恨み

 意外に(4)のような背景があったりして。

大学に人文系学部は不要なのか

 哲学、文学、言語学、史学、人文地理学、文化人類学、法学、政治学、経済学、経営学、社会学、心理学、教育学……。国立大に対して文部科学省が通知して“滅亡”させようとしている学問がこれらである。

 文部科学省の通知に反発が起きている。法学部卒の私も反発を覚えないではない。しかし、文部科学省のイイタイコトが分からないではない。

 私がすぐに浮かぶのが塩谷先生である。東大医学部を卒業し、フルブライト留学などなどを経て北里大名誉教授というご経歴の人に接する機会があった。

 この塩谷先生が古今東西の書物に通じた博覧強記の人なのである。専門内外のブログを書いておられるし、ジャーナリズムの本をいただいた時には降参するしかないと思った。

 医学の分野の知識と経験を積み重ねただけではなく、文系の分野にも造詣が深いとなると、単なる文系の私は1ミリも勝てない。裸足で逃げ出すしかないのである。

 また例えば、日産の技術者である友人は早稲田の理工学部時代にドストエフスキーなどを読み終えている。理系の専門知識を習得したうえで文系にまで守備範囲を広げている人は少なくないのだった。一方、文系人間は理系分野に入っていけない。英語と国語、社会で大学受験をした私のような私立文系は理数系の素養が完璧に欠落しているので、どうにもならない。

 私は文系の危機を感じてきたので、文部科学省に100パーセントの反発をすることができない。

 孫正義さんは「多変量解析ができない幹部はやめてもらう」や「回帰分析をしないやつの話は一切聞かない」などと言っていたそうだが、私にはチンプンカンプンあじゃぱーガチョーンと誤魔化すしかない。念のために理系の大学生2人に聞くと、1人は両方知っていた。もう1人は「多変量解析は知らないけれど、回帰分析は中学レベルでしょ」と言う。そうか中学生レベルか。ということは私は小学生以下か。

 というわけで、人文系学部はよほどの努力をしないと、理系と肩を並べてやっていくことができない。そういう時代が来ているのであり、世の中がそういう目で見るということを知っておく必要がある。


 

錦織圭選手の才能を開花させたコーチの指導法

 錦織圭選手の才能を開花させたコーチのマイケル・チャンさんの指導法の1つが、ひたすら打ち返す練習である。これは13日付のこのブログで書いた話に通じる。

 バドミントンもテニスも勝つためには「打ち返す」に尽きる。最も重要なこの行為を反復練習したことが錦織選手に大きな効果を招いたのではないか。

 中学英語なら学校の教科書の本文を丸暗記するまで音読することだろ。これは身に覚えがある。

 自分がやっていることの中で最も大事なことは何なのか、それを反復練習することで優れた力がつくに違いない。うーんマンダム。

間違いだらけのバドミントン練習法は全ての運動の練習法と勉強法に通ずって題名が長いな

 薫風スポーツの顔である美濃さんにバドミントンの練習法を聞くと、今まで断片的に頭に入っていた情報がすべてつながった。

 美濃さんは言う。

「バドミントン、シャトルが平均して何回行き来するか知ってます? たったの5回ですよ。ということは2回で終わることもあるんです」

「私が教えた子がある大会で優勝して、インタビューにこう言っていました。『相手が勝手にシャトルを落としてくれた。私はシャトルを打ち返しただけ』」

「勝つためにはシャトルを打つ練習だけでいいんです。何で運動場を走らせたり、ダッシュさせたり、バドミントンと無関係な動きをさせるんですか」

「体幹トレーニングは宗教みたいなもので、あれをやってもバドミントンは強くなりません。人の何倍もシャトルを打って頂点に立ってもうほかに練習方法がないというトップ選手がやるならまだしも、普通の人はシャトルを打つ回数と時間が少なすぎます」

「トップ選手のとおりにやったら体を壊しかねません」

「イースタンでもウエスタンでもいいんです。自分に合うスタイルでやるのが一番。型にはめてはいけない」

 このような指摘はランニングにも勉強にも通じる。例えば、元早稲田の駅伝選手・金哲彦さんは前傾姿勢を勧めているが、私はそんな姿勢で長距離を走れない。前傾姿勢で走るなら短距離だろうと思ったが、短距離の選手はたいてい胸を反らせて力走している。勉強面で言えば、英語の実力をつけたい人が数学の勉強をしても意味がない。東大に楽々合格した人の数学の勉強法が、算数落ちこぼれの私に役立つわけがない。

 世の中に蔓延する間違いだらけの練習法を鵜呑みにしてそのまま取り入れるのは蛮行に近いのである。美濃さんにはバドミントンの伝道師になってもらおう。 

新テスト導入で偏差値の高い生徒がますます有利

 論文や面接などを使った新テストをセンター試験のあと導入するそうな。

 受験生が最も気になることを書いておこう。偏差値の高い生徒は試験内容が変わっても偏差値の高さは変わらない。しわ寄せが行くのは偏差値が上位ではない生徒たちだ。私が見てきた限りではあるが、ほとんどの場合ペーパー試験の成績と論文や面接の成績は比例する。

 あくまでも一般的な話だが、偏差値が高い子供は頭の中が理路整然としているので、論文や面接は高得点をたたき出せる。一方、落ちこぼされてきた子供は頭の中が熱帯雨林状態だから、論文や面接で自分の意見をまとめるのは得意ではない。

 では一体何のために面接をするのか。某医科大は面接をしていても、明らかにおかしい学生を入学させてしまっているし、別の大学の医学部名誉教授は「面接で判断できない」と言っていた。

 新テストの導入で、従来の偏差値秀才とそれ以外の生徒の点数の差はさらに広がるだろう。偏差値秀才の集まりである文部科学省は偏差値の高い人間をさらに高く遇したいに違いない。

 知識偏重型だろうが課題解決型だろうが、試験を何回実施しようが、上位の子供以外は苦労する。

 教育現場も親も危機感を持つほうがいい。

小学1年の時の担任の伊藤貞子先生死す

 ああ。来た。ため息が漏れた。はがきの差出人が「伊藤」なのだ。

 私の小学1年の時の担任だった伊藤貞子先生が90歳で10月に亡くなっていた。今年の年賀状をいただいていなかったので、もしかするとと気になっていたのだが、やっぱり。

 私は大阪市東住吉区の矢田小(現在の矢田西小)1期生である。今から45年ほど前に遡る。年賀状を40年以上交わしてきた計算だ。

 今も忘れられない伊藤先生の言葉が2つある。

「黒板を一生懸命に見ていればどこかに100点と書いてある」

 本当に100点の文字が見えてくると勘違いした当時の(今もか)私は阿呆だが、おかげで黒板をきちんと見る習慣がついた。

 もう1つ、これは幼心ながら染みた。おぼろげながらこんな話だった。

「私の子供は柔道をしていて、ケガをしたのに、親を心配させまいとして我慢して、死んでしまった。みんなは痛い時や苦しい時は必ず親に話すように」

 当時伊藤先生は44歳前後。クラス集合写真を見ると、何となく、本当に何となくだが、少し沈んだような表情に見える。お子さんを亡くした悲しみが垣間見えるような気がする。

 伊藤先生のこの言葉を守り、私は体調の不調があれば必ず親に伝える子供になった。もともと我慢弱い性格だったのだろうが、「親に伝えなければ」という意識を持たせてくれたのは伊藤先生である。

 伊藤先生が亡くなったことを知らせるはがきの文章を読むと、お子さんも教師かもしれない。大阪市のご在住である。会いに行ってみよう。

 とはいえ、本当に悔やむ。大阪に行く機会や通過することは何度もあったのに。伊藤先生に会っておきたいと何度も思っていたのに。先生不孝をしてしまった自分を呪う。

あまり意味のない学力テスト順位

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 学力テストで都道府県が競う意味がないことが分かったのは、沖縄県の小学生の算数Aが去年の最下位から6位に急浮上したからである。沖縄県は秋田県にノウハウを学んだ。で、上がった。

 では、ほかの都道府県が同じように秋田県にノウハウを学べば沖縄県はどうなるだろう。

 秋田県の真似をして順位が簡単に上がるような学力テスト自体に問題がある。阿呆くさいと思って距離を置いている都道府県のほうが賢明である。

 競争をやめよと言っているのではない。そんな簡単に成績が急上昇する学力テストは明確な指標にならないと言っているのであーる。

悔しい

 え? まさか。え? え? うそでしょ?! 岸和田市立光陽中2年の時の担任・東伸洋先生を訪ねて奈良市に来たのに。

 今年の年賀状には「結構真面目に生きています」と添え書きしてあったのに。奈良に移住して歴史や文化を楽しんでおられたのに。

 東先生に気づかいをさせたくないので事前連絡をしないで訪ねた。外出中だったり旅行中だったりしなければいいのだがと思っていたのだが、これだけは完全に想定外だった。

 私が週刊金曜日編集部に入ったころ、奥さんとともに激励会を開いてくれた。直筆の絵とメッセージを添えて私の子供たちに高価な絵本を折に触れて送ってくれた。その東先生に遅ればせながらお礼をしようと思ったのに。

 私の子供たちに絵本を何冊も送ってくれた理由を、2カ月前に69歳で亡くなった東先生の仏壇の前で奥さんが初めて教えてくれた。

「自分の教育は教え子だけで終わるものではない。教え子のお子さんもしっかり育ってようやく自分の教育が完結する。いつもこう言っていたんです。それで絵本を送っていました」

 口元の震えを必死に抑える。

 半年前に来ていればこんなことにならなかったのに。1年前に立ち寄れば東先生とたっぷり話せたのに。悔しくて悔しくて、口元がまた震えだす。

 東先生は「大仏様の膝のところにいるから」と言っていたという。それなら行かなければ。今から行けば間に合う。小雨を蹴散らし東大寺に走る。

 穏やかな表情の大仏様が私を待っていた。 


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東大生に学んではいけない

 東大生に学ぶナントカ学習法のような本をいくつか見かけた。そんな本を喜んで買ってしまう人は本当に地頭のいい東大生を知らないのだろう。真似をするとやけどをする。いや、真似さえできないだろう。

 東大や難関医学部に現役で合格する人たちは地頭のデキが根本的に違う。例えば、
「授業を聞いていれば分かるからノートは不要」
「本を3回も読めば頭に入る」
「寝る前にベッドの上で授業内容を思い出せば頭に定着する」
 と言っている。

 100人だか1000人だかに1人くらいこういう頭の持ち主がいる。そんな人の勉強法を聞いて真似できるのは、同じ程度に地頭がいい人だけである。

 世の中のいろいろな発言は、その“文脈”を考えて理解しなければならない。東大生本もそういうことである。

ブックスマートとストリートスマート

 米フロリダ歴20年の岡部さんから聞いた話第5弾。

 米国にはブックスマート(booksmart)とストリートスマート(streetsmart)という対称的な言葉がある。前者は日本語なら偏差値秀才に該当する。「勉強はできるけど……」という語感だ。後者は「勉強はできないけれど、世渡りは上手」という意味である。

 日本は未だに前者が威張っているようだが、米国は違う。その背景として、車の修理や水道の修理、電気工、クーラーの設置や修理などのレイバー(労働者)あるいはハンディマン(手に技術がある人)が重用される社会にある。

 米国ではいろいろなものの故障が多いらしく、彼らがいないと成り立たない。賃金がけっこう高いので十分に食っていけるのである。

 修理から戻ってきたのに直っていなかったことが多々あるというマイナス面さえ目をつぶればけっこう健全な社会である。

 

学校が謝るべきではない

 長崎の被ばく者で語り部の男性に、修学旅行で来ていた横浜市の公立中3年の男子生徒5人が、「死に損ない」などと暴言を吐いたという。で、校長先生が謝罪した。

 校長先生の謝罪は立場上やむを得ないとは思う。しかし、これは明らかに家庭の問題である。本来は生徒の親が土下座して謝罪する話である。まぁ、そういう親は事態を理解できていないだろうが。

 そもそも何でも学校の責任にしてはいけない。家庭環境に恵まれていない子供が突飛な行動に走るのは誰だって知っている。責任の所在を曖昧にするのはもうやめよう。

恩師徳島より来るまた楽しからずや

 徳島市立高の3年時の担任・伝さんが東京に来たのでお会いした。30年以上のお付き合いである。

 きのう電話がかかってきて「あした東京に行くんじゃ。忙しいんだろ」。「いえいえ、ヒマです」ということで駆けつけた。

 市高時代の私は受験に必要な科目の授業は出席し、不要な授業は欠席するか堂々と内職するか教師をおちょくって気分転換するかしていたが、伝さんはおおらかに見守ってくださった。器が大きいのである。

 今日聞いた話では漫画家・柴門ふみさんも教えていたという。「確か常三島に家があったはずじゃ。お茶大に行って漫画家と結婚したんじゃ」と詳しい。

 御年76。ますますお元気でと不肖の教え子は珍しく真面目な気持ちで祈る。

例外事例を普遍化してはいけない『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』

『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』という本が売れている。こういう事例はごくまれにある。ただし、あくまでも例外である。だから珍しい。だから本になる。それで飛びつく読者がいる(笑い)。飛びつくのはいいが、普遍性を感じてはいけない。

 この子の頭の中に相応の知識の根っこがあったのは間違いない。塾の先生が上手に栽培したから、一気に開花しただけの話である。あくまでも例外でしかない。

 褒めて自信を与えて伸ばすと本書は言うけれど、あくまでも本人に相応の知識の蓄積があっての話だ。

 私は浪人生相手に英語や現代文などを予備校で教えていたことがあるし、塾で小学生や中学生に算数や国語、英語を教えたこともあるので、まるで普遍性があるかのように教育を書くこういう本には鼻白む。1年で偏差値が40も上がる子供が果たして何人いるだろうか。

 高校生を見て「この子が中学生からやり直すことができれば」と残念に思い、中学生を見て「小学生からやり直すことができれば」と嘆息し、小学生を見て「幼稚園のころからやり直すことができれば」と悔しがった経験が私にはある。付け焼き刃が通じるほど甘くない。

 この子はまれに見る例外でしかない。この本もそういう位置づけで読むのが正しい。20日付『中国新聞』の書評欄は共同通信の配信記事に「褒めて伸ばす感動実話」と見出しをつけているが、褒めて伸びるならみんな伸びている。

 

 
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